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「何だと? それは本当か!?」
「ええ……」
椅子から身体を浮かして驚愕する林に、佐伯は残念そうに肩を落としている。談話室での会話は続いていたが、その内容は、林にとって芳しいものではなかった。
「朝霞刃生の取り調べが、出来ない?」
「正確には、特殊魔法治安維持組織から朝霞を取り調べる権限が剥奪された、と言った感じでしょうかね……。大内委員長からの命です。おかげで手に入ると思っていたレ―ヴネメシスに関する情報は、ゼロですよ……」
「でも、もう一人の、戸賀とか言った坊主はどうなんだ?」
「そちらの権限は剥奪されてはいません。ですが、彼もテロの被害者であって、内部情報までは詳しくは知らないとのことです」
「収穫はほぼゼロ、ってわけか……」
「はい……」
林と同様、佐伯も悔しそうに視線を落としていた。二人の男の間で流れるのは、どこまでも重たい空気である。
「……」
会話をじっくりと聞き、沈黙を決めているのは、ヴィザリウス魔法学園の校長である柳敏也である。そのカウンターの傍らには、林も佐伯も見知らぬ黒猫が。なぜこんなところに? と場違いな気も林はしたが、相手は気まぐれな猫である。それに会話の内容が内容なため、そこまで気にする事もなかった。
「同級生も、ずいぶんと減りました……」
コーヒーを口に含み、それを静かに呑み込んだ佐伯は呟く。
「それはお互い様だ。失われた夜生まれなんてありがたい称号を貰った奴も、最近じゃ珍しいもんだ」
「真実に近づこうとする奴ほど、寿命が縮む……」
「?」
佐伯の言葉に、林が微かに反応する。
佐伯は伏せていた顔を上げ、
「特殊魔法治安維持組織の中で噂の、一種の都市伝説ですよ。゛捕食者゛の事に関して深入りし過ぎると、いつの間にかにひょっこりいなくなってしまう。忠実に任務に従っていれば、長生きできるってね」
「ひぇー。おっかねぇの」
ずずっとコーヒーを啜りながら、林は苦い表情を浮かべていた。
これには少し申し訳無さそうな笑みを浮かべていたのは、佐伯だった。話題を変えるためにも、
「結婚はいいものですよ、マサ先輩」
学生時代の呼び名で、突然そんな事を佐伯は言っていた。
隣に座る林は、思わず呑んでいたコーヒーを少し噴き出してしまった。
「と、突然なんだよ。そっちは明美とは上手くいってそうだな……」
林は狼狽し、話題を変える。重苦しかった談話室の空気に、少しだけ、本来あるべき和やかな雰囲気が戻って来た。黒猫も、どこか穏やかそうに尻尾を伸ばしている。
「マサ先輩のお陰じゃないですか。ここの学生時代、マサ先輩が俺と明美の事をやたら、仲良いな、とかお前ら夫婦みたいだな、とか茶化してきたせいですよ」
良くも悪くも、と佐伯は笑っている。
「あーそういや、そうだな……」
一つ下の後輩カップルの、恋のキューピット的な役割を果たしていたのだ。
思い出した林はぽりぽりと、無精髭が生えている頬をかいていた。何だろうか、この既視感は……。
「子供も生まれて、守るべきものが増えた。マサ先輩はどうなんです?」
「俺はまだいいや。やるべきことが多すぎるし、俺の生徒たちで十分だ」
佐伯の左手の薬指で光る指輪を眺め、林は薄く笑っていた。
「あいつ等ときたら、危なっかしくて見てられねぇぜ。その分、俺が身体張んなきゃな」
机の上に載せた自身の右手を見据え、林は言う。
「天瀬誠次くんか……。夏に彼と会いましたよ。可哀想ですが、魔法が使えない、はぶれ者です……」
「その言い方はよしといてやれ。それでも剣術士、クラスメイトを必死で守るんだと」
「……そうですか。まるで昔の――」
「止せって」
佐伯が言おうとした言葉を遮り、林は焦げ茶色の目で真正面をじっと見据えていた。
そんな学生時代の先輩を見つめる後輩は、しかし意を決して口を開いていた。
「まだ、優奈先輩の事を引きづっているんですか」
「……よくある話ってやつさ。……もう、清々したさ」
本当はピクリと動いてしまった瞼を誤魔化すように、林はわざと細い目をして、言っていた。村本優奈。学生時代の、同級生の女子だ。今はもう、この世にはいない。
「……申し訳ありません」
佐伯は深く頭を下げる。
「なんでお前が謝る。悪いのは俺だった。だからこそ、俺は剣術士には期待してるんだ。俺の二の舞はやらせはしねぇよ」
「しかし……そのために私を呼んでいただいたのに……その結果が先の件で申し訳ないのです……。一応、三人の男は特殊魔法治安維持組織で預かりますが……」
期待はしないでください、と佐伯は目で訴えてくる。
「大内委員長か……。俺はあいつが嫌いだ」
げぇっと苦い顔をしつつだったが、お構いなく言い放った林に、
「にゃーお」
「お、なんだにゃんこ? お前もそう思うのか?」
「まったくです……」
黒猫がタイミングよく長い尻尾を立てて声を出し、林と佐伯は苦笑していた。
「メーデイアで朝霞に言われてしまった言葉が、最近よく思い浮ぶんです。何のために私たち特殊魔法治安維持組織は戦うのだろうか、って。……今は、局長を信じて命令に従うだけですが」
佐伯は机上に握りこぶしを作って、呻いていた。
「相変わらず局長さんってのは、姿を見せないのな? テレビでも見たことがないぜ」
「特殊魔法治安維持組織の守秘義務ですので」
「別にいいけどよ。ま、めげるなよ」
林は肩を竦めてから、佐伯の筋肉質な肩をぽんと叩いてやる。
「ええ。まだまだ若い奴には負けられませんて。今度は家で飲みましょう。近いうちに誘います。明美も子供も見せたいですし」
「おう。家汚しに行ってやるぜ」
「それはご勘弁を……」
かっかっかと笑う林に、佐伯は苦笑していた。十数年前と変わらないような、談話室でのやり取り。変わったのは年をとった事と、大切だった女性の存在が、跡形も無く亡くなった事ぐらいだろうか。捕縛した三人組の引渡しという当初の予定が、そのひと時はもう少しだけ続いた。
林と佐伯が去った後、夜の静寂が包む談話室にて。一人ぽつんと残る柳と、一匹の黒猫が。
「優奈さん。林先生の初恋の女の子、ですかね。私の記憶ではとても優しくて可愛らしい女の子だったね」
「にゃーお」
微笑む柳が、誰にでもなく黒猫に話しかける。
黒猫はむくりと立ち上がると、全身を使って大きく伸びをし、カウンターの奥の戸棚を、青い猫目で見つめていた。戸棚にあるのは酒類で、当然生徒は飲む事は出来ないが、教職員が今日のような休日に、利用する用だ。
柳がそれに、気づく。
「? いやいや、゛その姿で飲んだら駄目でしょう゛」
それともなんですかな、と柳はしわの寄った口角を軽く持ち上げ、
「佐伯くんの幸せそうな会話を聞いて嫉妬してしまい、やけ酒ですかな? さては、゛ずっと一緒だった年下の男の子´にまったく相手にされない、とか」
「しゃーっ!」
「図星でしたかな? おぉ、どうどう」
柳のお小言に、黒猫は全身の毛を逆立てて、抗議しているようであった。
にっこりと笑顔の柳は、黒猫が勝手に居座るカウンター席から歩き出し、
「なに、彼らならきっと大丈夫ですよ。少なくとも、私が生きているうちに、きっと良い未来を見せてくれるはずです。それまで私も、おちおち老衰するわけにはいきませんよ」
「にゃーお」
入室禁止の張り紙を剥がし、ヴィザリウス魔法学園の談話室に、いつもの和やかな明るさが戻る。それは決して、ただ照明が点いただけではないはずであると、ヴィザリウス魔法学園の校長である、柳は思っていた。
佐伯を先に返した林は、魔法学園の男子寮棟の廊下を、一人で歩いていた。ポケットに手を突っ込み、休日を思い思いに過ごす生徒の手本にはとてもなり得なそうな姿だ。
しかし、いつもの軽薄そうな表情の影では、東京の夜景が映える窓を見つめ、胸の内で過去の自分を思い出している。
(見てるか優奈……。昔の俺らと変わっちゃいない……。一見平和に見える、この変な世の中も)
本城千尋を狙った、謎の三人組。特殊魔法治安維持の決して表立つことはない、裏側。腐敗と言ってしまってもいいか。そして、それを操る政府。それらが今、パズルのピースのごとく林の頭の中でバラバラに崩れては、しかし正しいフレームの中に収まっていく。
「ん?」
しばし歩いていたところで、何やら様子がおかしい自分のクラスの生徒がいた。魔法の才は平凡、座学は中の下。ザ、平凡の志藤颯介だ。
志藤は一人で、何やら考えているようにぶつぶつと呟きながら、廊下を歩いていた。やがて二人は、すれ違う。
「こんな時間に何してるんだ? 残念青春男」
志藤は林に気づかなかった様であり、林がにやと笑いながら声をかけてやる。
「ざ、残念青春男!? も、もしかしてそれって俺の事っスか……林先生。……こんばんわっス」
ビックリ仰天した後はどこか悲しそうな表情で、志藤は軽く頭を下げてくる。
林はそれに気づかないフリをしてやり、明るく声を掛け続ける。
「あたぼーよ。んで、何してるんだ? 残念青春男」
「繰り返さないで欲しいっス……。いや、ちょっと考え事と言うか……林先生と佐伯さんとの会話を、聞いちまったって言うか……」
「? なんつった?」
後半が蚊の飛ぶ音のように小声過ぎて、林には聞こえなかった。
「ま、いいか。よしちょっと付き合え。飲むぞ」
林は志藤の肩に腕を豪快に回すと、なんと再び談話室に向けて歩き出した。
志藤は慌てながら、
「いや飲めねーっスよ!?」
「何だ、お前のやんちゃしてそうな見た目なら酒ぐらい飲めると思ったんだがな。ま、いいから飲むぞ」
やはりしんみりした空気と言うのは、自分の性には合わない。
「いや自分のクラスの生徒に酒を勧めないで欲しいんスけど!?」
「付き合わねーと、成績下げるぞコラ。英語」
「全然関係ない科目っスか!?」
休日なのに一仕事終えた後だ。――゛彼女゛もきっと許してくれるだろう。林はそう思って、嫌がる志藤を攫って行った。
※
北海道旭川市のホテル。
風呂から上がった誠次と香月詩音と波沢香織はホテル内のレストランで夕食を済ませ、三人そろって部屋へと戻って来たところだった。
時刻は午後一〇時三〇分過ぎほど。若くも無ければ、眠っている人が大半を締める時間帯だ。
「やっぱり、ベッド二つしかないね……」
波沢が室内を見渡して、そわそわと言っている。
誠次も同じく、まだ湿り気を帯びている髪を揺らし、どきどきと。すぐそばにいる白い浴衣姿の二人の女子。変に意識するなと言う方が、年頃故無理な事だ。
部屋はやはり二人用であり、当然ベッドも波沢の言う通り、横に隙間を作って並んだ二つだけだ。
「お、俺は椅子で寝ますから、お気遣いなく……」
「そ、それじゃあ天瀬くんに悪いよ……。あっ、私と詩音ちゃんが一緒のベッドで寝ればいいんだよ!」
「それは……恥ずかしい、です」
ぼそりと、香月が言う。
「うん……恥ずかしいのは私も……」
「……」
「……」
そして無言になる、三人。こういう時に無言の間と言うのが、一番怖いと知ったのは、今の誠次である。
そして、最初は余裕そうに振る舞っていた香月も、実際に本番になるとその重大性に気づき始めたのか、意識してしまっているようである。
「分かりました。じゃあジャンケンで決めましょう! それなら、公平のはずです!」
日本古来よりし伝わる、伝統にして天下の手段である。誠次が勇んで右手を突き出す。
「え……」
その時、香月が何やら悟ったように誠次を見つめたが、誠次は頷くだけだ。香月もまた、誠次の真意を悟ったのか、波沢に悟られぬように頷いていた。
「そうだね。じゃあベッドを賭けての真剣勝負! いくよ!」
浴衣の袖をまくり、波沢もやる気を出したようだ。
――結果。
「香月さんと私で、勝っちゃった……」
「負け、た……」
見事チョキを出した誠次は、ストレート負けを喫していた。レヴァテインを所持してからのジャンケンの勝率がかなり悪くなっているのは、ご愛敬である。
最後まで波沢は申し訳なさそうにしていたが、香月がさっさと片方のベッドに居座ったのを見て、最終的に諦めていた。――誠次からすれば、香月のファインプレイである。ジャンケンの時を、含めて。
「ありがとう天瀬くん……」
「男なんですから、お構いなく」
レヴァテインを肩にかけ、誠次はソファに座りながら、ベッド上の波沢に言う。
ベッドの上にて女の子座りをしている波沢の顔は赤く、どこかそわそわしているようだ。
「寝顔とか、見ない……?」
「特殊すぎる性癖にも程があるでしょう……。見ませんから、安心してください……」
「まあ、天瀬くんなら安心だけど……」
(やっぱり……複雑だな……)
女性からそういう風に見られないという事だろうか……。と、誠次は小さく肩を竦めていた。
「ありがとう天瀬くん。明日は、一緒に頑張ろうね?」
「はい! 日本で待望の魔法大学ですからね」
いずれにせよ、日本の魔法技術が進む事になるのだろう。それは誠次の、波沢の夢である゛捕食者゛をこの魔法世界から滅ぼすことに、一つ繋がる事になるはずだ。その点でも、誠次は明日の開校記念セレモニーが、楽しみであった。
「それじゃあ、おやすみ天瀬くん……」
「おやすみなさい、波沢先輩……」
しっとりとした空気のまま、布団をかけ横になった波沢を見届け、誠次もまたソファに深く座り込む。
香月はベッドの上に座り、何か考え事をしているように自分の右手を見つめていた。
「どうしたんだ香月? 明日は早いから、早く寝とけよ?」
誠次が声を掛けると、香月は顔を上げる。
「……ええ」
香月が何か、言い辛そうにもじもじとしている。
誠次は首を傾げながらも、自分も寝ようかと首をソファの背もたれに預けようとしたところだった。
「?」
目覚ましの為、ソファ前のテーブルの上に置いておいた電子タブレットにまたしても着信がある事に、気づく。ランプの色から、今度はメールのようだ。またなにか緊急の連絡かもしれない、向こうで何か情報が手に入ったのかも、と思った誠次の手は自然と、電子タブレットを起動していた。ベッドの上の香月も、誠次の行動をじっと見つめている。
「今度は志藤からのメールだ」
内容は――。
「……っ」
「天瀬くん?」
香月が首を傾げて、こちらを見つめる。
志藤からの内容を確認した誠次は、すぐに立ち上がっていた。そして、そのまま香月の目の前まで歩み寄る。
「眠れないなら香月。一緒に外の景色を見ないか?」
「え?」
「ほら」
誠次が、ベッドの上に座っている香月に、右手を差し伸べる。
香月は終始不思議そうな面持ちだったが、誠次の手を握り、ベッドから立ち上がった。
誠次はそのまま香月を連れ、室内のカーテンを静かに開けた。
「あ……」
「志藤からの情報だ」
二人の目に映って来たのは、黄色い燐光を放つ満月だった。夜空に瞬く星空の中、雲ひとつとして被らない、綺麗な満月。自然豊かな北海道の空にて、それはまるで手に取れそうなほど大きく、輝いていた。
誠次の手元に来た、志藤からのメール。内容は写真付きで、おそらく酒を飲んで赤い顔をした林先生に肩を掴まれ、涙目で談話室のカウンター席に座っている志藤の様子であった。
【助けてくれ(泣)】
の文字と共に送られてきた談話室の写真の背景には、窓から見える満月と、それを眺める一匹の猫の姿があったのだ。相変わらずの苦労人、志藤颯介に対してはご愁傷さまとしか言えなかったが。
「ここら辺は空気も澄んでいて、綺麗だろ?」
誠次は傍に寄り添うようにして立つ香月に、囁く。香月のアメジスト色の目は、黄色い満月をくっきりと映し、輝いているようにして見えた。
「ええ……とても」
「良かった。香月ってこう言うの、うるさいと思ったからな」
「失礼ね。私はプラネタリウムが納得できないと言っただけよ。あれは人が作った作りものだから」
香月はすらっと、言う。
「す、すまない……。でも、やっぱり難しいな……」
ひょっとすると、自分はまだまだ香月の事をなんら理解していないのではないのか? 誠次はそう思いながら、まだ若干湿っている後ろ髪をかいていた。
香月はそんな誠次を見つめてから、少しだけ、微笑んでいるようではあった。
「でも、東京の私の家だと、絶対にこんな綺麗な夜空は見えないわ。一人だと……尚更ね。……それだけは、言える」
「ああ。やっぱり、空気が澄んでいるだろう」
誠次は再び月を見上げ、そんな事を言っていた。
「……そう言う意味じゃなくて……」
「? 違うのか?」
「……鈍感ね」
「す、すまない……。女性の気持ちって言うのは、俺からすればまだ少し分かり辛いんだ……。期待には応えたいけど……」
「天瀬くんらしいわ」
香月はぼそりと言うと、誠次の右手を自分から握ってくる。
これにはドキッとした誠次だったが、表情には出さずに済んだ。
「いつか、窓も開けて直で見てみたいな……」
゛捕食者゛がいなくなった世界ならば、可能なはずだ。
「……゛いつも´ありがとう、天瀬……くん……」
――それは、誠次からすればなんの脈略も無かった、香月からの感謝の言葉だった。
「え?」
慌てて香月の横顔を見てみるが、香月はいつもの無表情を維持している。
「香……月……」
だが、誠次は口角を上げて、再び月明かりの眩しい夜空を見上げた。右手を握る香月の手の握力が、いつになく強かったのを、肌と肌とで感じていたからだ。その手にはやはり、テロリストの道具なんかではない、一人の人間としての当たり前の温かさが、あった。
「おやすみ、香月」
「おやすみなさい、天瀬くん」
「……」
一方で月の明かりを背に、波沢は安心したようにすやすやと寝息を立てているようだ。
そして夜は更けていく。
明日への、大勢の人の期待と不安を胸に――。




