6 ☆
しゃかしゃかと、白い泡が泡立つ音と、髪を洗う音が耳元で聞こえている。かぽーん。おけがタイルの上に置かれる音は、なんだか呑気なものだ。
「あ、あの、波沢、先輩……」
「ん? なーに、香月さん?」
「髪を洗うのは、自分で、できますから……」
温い湿気が立ち込めるここはホテルの女性用大浴場。夜の時間は閉鎖されている露天風呂こそドアから閉まっているが、タイル張りの豪華な内装の室内大浴場であった。
香月詩音は、壁に取り付けられたシャワー前のバスチェアにちょこんと座っていた。
そして後ろではまた同じ格好で、一つ上の先輩魔法生である波沢香織が膝立ちで香月の髪を丁寧に洗っている。
「同じルームメイトの子とよくやらない? 髪の洗いっこ」
「し、しません……。ルームメイトの人とは、あまり話しませんから」
「そっか……。莉緒ちゃんとは違う部屋なのね」
香月はどうしたものかと、真正面をまじまじと見つめていた。加工が施されているのか、湿気を帯びても一切曇らないガラスには、波沢の手によって洗われていく自身の銀髪が。
天を見上げれば、映像技術によって出力された夜景が広がっており、まるで外の大浴場にいるようだった。
林間学校で篠上に言われた通り、一度作られた壁がそう簡単に取り払われるわけもない。それでも、1-Aのみんなからは少しづつ良くしてもらっていることは分かる。ルームメイトとの会話は、少しは増えてきたところでもある。
「わーこが触りたくなるのも、ちょっと分かるかも」
わーことは、新幹線の時にいた緑髪の女性先輩のことだろう。あの日以降、少しだけわーこ先輩が苦手となっている香月であり、その表情が微かに強張る。
それを見た波沢はくすりと微笑みながらも、香月の髪を手で梳くようにして、洗っていく。
「えーっと……」
波沢が次の会話を探しているようだ。
気まずい。のは、香月も波沢も思っている事だろう。
「……明日、晴れると、いいですね……」
ぼそりと、少しだけ頬を赤くしながら、そんな事を言ってみる香月。
「!? そ、そうね! 雪を溶かす勢いがいいかな!」
「っ、い、痛い……」
「ご、ごめんなさい! つい力を入れてしまって……」
「いえ……」
再び、しーんと静まり返ってしまった二人。それでも、波沢が気を使ってくれていることは、今の香月には分かった。思えば、こちらが北海道まで強引について来たと言っていい。それなのに波沢は嫌な顔一つとして見せず、こうして変則的な旅路を許容してくれているのだ。
「ありがとうございます、波沢先輩」
だから香月は、頭を少し下げていた。
「……っ。……ふふ」
鏡に映る波沢は最初こそぽかんとしていたが、次にはまんざらでもなさそうに、微笑んでいた。
「後輩からありがとうと言われちゃうのは、初めてかも。……少し、嬉しい、かな」
泡立った香月の銀髪を水で洗い流しながら、波沢は呟く。
「それに、お礼を言うのは私の方こそかも」
「え?」
水を浴びて透けそうなバスタオルを片手に握ったまま、波沢は立ち上がっている。青い毛先から、綺麗な雫が一滴、二滴と落ちていく。
「天瀬くんと二人っきりだったら、それはそれで私がどうしていいか分からなかったと思うし……。それに、香月さんのお陰で天瀬くんの別の一面も見れて、良かったわ」
「別の一面?」
「香月さんにとても優しいところ。あなたの事を大事にしているんだなって」
そう言う波沢に、自然と香月はついて行った。自分にはないと思う魅力的な後姿を凝視するわけにもいかず、視線を逸らしながら。
二人がやって来たのは、オーソドックスであるが、広い湯船だ。秋の季節と言うことで、月夜の下では紅葉が舞っている映像が、そこにはあった。
「天瀬くんは、どうして私に優しくしてくれるんでしょうか……。どうして私の事が、大事なんでしょうか……? ……私には、それがよくわからないんです……」
どこか落ち込んだように視線を落とす香月。
「え……」
タオルを頭に巻いている波沢は、またしても驚いている。
「そ、それはやっぱり、香月さんの事が好きだから、じゃあないかな……」
白い湯気が優しく包み込む頬を微かに赤く染め、波沢は自信なさげにだが言っていた。
「じゃあ、波沢先輩は、天瀬くんの事が好きですか?」
「はいっ!?」
とうとう変な声を、波沢は出してしまった。周囲の、同じくバスタオル姿の母娘が何事かと波沢を見つめており、波沢は思わず、湯に口をつけ潜水し始めた。
そんなに変な事を訊いてしまったのだろうかと、普段は見せないうなじを出している香月は、その首を傾げていた。
「私の周りにいる女の子はみんな、天瀬くんの事が好きですから」
「そ、それって凄いわね……」
頭に巻いたタオルからはみ出した青髪を落ち着きなく触りながら、波沢は苦笑していた。
しかし、香月の目は真剣に波沢をじっと見つめていた。
「そ、そうね。別に異性としてじゃなくて、人としてなら……好き、かな……」
ありがち過ぎた逃げ台詞だった。
「……」
どこか、後悔するようなため息をついていた今の波沢の心情を察するほどには、香月はまだ至らなかった。
香月は、自身の白い肌にお湯を掛けながら、
「私は、天瀬くんの事を大事な存在だと思っています」
「……うん。他人をそう思えるのは良い事よ」
「でも、それを上手く言葉にできなくて……」
「……香月さんって、意外と不器用なのね? 魔法は器用なのに」
あごから水滴を垂らし、波沢が指摘する。不覚にも、弁論会で自分が誠次に言ったことが重なり、香月は微かに動揺していた。
「ありがとう」
波沢が突然、またしても感謝の言葉を述べている。
「……え?」
「さっき私が香月さんにそう言われると、とても嬉しかったわ。だから同じような事を天瀬くんにも言ってみるとか。きっと天瀬くん、喜ぶと思うけどな。私よりずっと長いこといるはずだから、その分ね」
「あ……」
思えば、ちゃんとした日頃のお礼は言っていなかった気がする。香月はハッとなり、今までの誠次との日々を思い浮かべていた。今夜あたり、試しに言ってみようかと、思う香月であった。
「波沢先輩は、なにか悩みとかありませんか?」
お湯をじっくりと身体全体で感じるように目を瞑っていた波沢に、香月は訊いていた。
「あら、相談に乗ってくれるの?」
「ええ。私で良ければ……お礼に」
「ありがと」
波沢は嬉しそうににこりと、笑ってくれた。
「私の事で申し訳ないんだけど、十月の末に生徒会総選挙があるのは、知ってるよね?」
自身の腕にお湯を掛けながら、どこか遠い目をして、波沢は話し出した。
「ええはい」
「弁論会のお陰かどうかは分からないけど、同級生たちの中で生徒会に入りたいって人が大勢いるの」
「大勢の人が立候補することは兵頭先輩も望んでいたし、良い事だと思います」
「ええそうよね……。でも、生徒会長になりたがる人はいないの……。やっぱり、全校生徒の一番上に立つって言う事が、プレッシャーなのかもね」
「そうだと思います」
香月は波沢の意見に頷いていた。
「……それでなんだけど、周りのみんなは私を生徒会長に勧めたがるの」
そのことは、新幹線での先輩同士の会話より、香月も知っていた。その時に波沢が否定的な意思を示していたのも。
しかし、香月は――、
「波沢先輩が生徒会長……。……私は良いと思います」
「もう……。香月さんもそう言うのね」
再び恥ずかしそうにぶくぶくと潜水し始めた波沢。
香月は再び、またなにかおかしい事でも言ってしまったのだろうかと、少しだけ不安になっていた。だから、フォローの意味でこう言い返す。
「春に天瀬くんと戦った時も、この学園を思っての事だったからだと、思います」
「そんな……。私は、勘違いで……」
ううんと、香月は首を横に振る。
「だとしても、この学園の事を思っての行動だったことに変わりはないと思いますから……」
少なくとも、何も考えてはいない先輩ではないのだろう。香月はそう思って、自身の意見を述べていた。
果たして、のぼせそうになるほど湯船に浸かっていたのだろうか。波沢の頬は、真っ赤に染まっているようであった。
「少しだけ、自信がついた気がする。ありがとう香月さん」
「そ、そう言ってもらえると、嬉しいです」
どうやら、まだまだお互い風呂に浸かる事が出来そうだ。広い湯船は、全身をマッサージされているようで、気持ちが良い。少しお茶目な一つ上の先輩との裸のお付き合いは、この後もしばし続いていた。
香月と波沢が女性用の大浴場にいるのと、同時刻。
天瀬誠次は一人、男性用大浴場にいた。周りに男性客はいるので厳密には一人ではないが、ある意味一人ではあったのだ。
「なにさ……今頃香月と波沢先輩は、二人で楽しく女湯で洗いっこか……」
風呂と言うのは不思議なもので、溜まりに溜まった言葉が次々とあふれ出るものだった。誠次はシャンプーを泡立て、濡れた髪をくしゃくしゃと。
「別に良いさ……! ああ、向こうは間違っちゃいない……!」
一番熱い温度に設定したシャワーを、乱暴に浴びる誠次。目から涙が滝のように出ているようではある。
「でも、せめて何か気遣いの言葉くらいかけてくれてもいいじゃないか……っ! だいたい香月なんか、いつも俺には無表情で、素っ気なくて、何考えてるか分からなくて……!」
ぶつぶつと文句を垂れながら、がしがしと強引に髪を洗っていく誠次。
「いや、香月らしいと言えば香月らしいし、別にお礼とかの為にやってるわけじゃないけどさ。……けどさ……!」
横で同じく髪を洗っていた中年男性が「若いのに随分と苦労してるんだなぁ……」と誠次を見てしみじみ呟いている。
「よろしければ、背中流してやろうかい?」
「え?」
そんな隣の中年男性が、苦笑しながら誠次に話しかけてきた。
「お願いします」
一期一会だ。人相の良い顔に、誠次もまた口角を上げ、応えていた。
「若いのに、随分と疲れが溜まっているようだね……。僕はもういい歳だけど、同じような感じなんだ……」
苦労人染みた自嘲するような笑みを見せる、中年男性。
「お一人でリフレッシュですか?」
「妻と娘が一緒に来ている。娘は最近じゃパパの洗濯物を一緒に洗濯機に入れないで、とか言っちゃう年頃でね」
「なるほど。思春期と言うか、難しい年頃ですね」
「そうなんだよ……。ん。いや、君もそうだろう……?」
「親はいつだって大切な存在です。それが変わる事はありません」
「そ、そうか……。いや、随分と大人だねぇ……」
「はは。俺なんて、まだまだ未熟ですよ」
「若いのにそこまで言われてしまうなんて。これは、僕も負けていられなくなってきたなぁ」
そうして誠次と中年男性は、熟年サラリーマンと思われるような、随分とオヤジ臭いやり取りを繰り広げているのであった。
「親子、なのか……?」
「随分と切ない会話してるなぁ……」
「闇が深そうだな……」
周りの男たちは、変則的な組み合わせであると言えよう二人の姿を見て、何事かと首を傾げていたが。
「じゃあ君はどんな悩みなんだい?」
「えーと……。親しい異性との、微妙な関係についてです……」
「あー分かるよ。その年ならではの難しい問題だね――」
「ええ、それはもう――!」
その後、風呂上がりの牛乳早飲み対決を一緒に行うに至るまで、誠次と見知らぬおっさんの仲は深まった。毎度、これでいいのだろうかと思う次第である、誠次であった。
※
ちょうどその頃、札幌のホテルでは。
「うぅぅ……っ!」
「猫のように唸るなって……。まぁさすがにこれは俺もびっくりしたけどさ……」
「びっくりじゃ済まないでしょうがーっ!」
相村がバスタオルを握る手に、力を込める。空いている左手はぼかぼかと、困り顔の長谷川の背中を叩いているところだ。
二人がいるのは混浴用のプライベート浴場。白い湯気が立ち込める室内温泉の湯船の中にも、外のシャワー場にも、相村と長谷川以外の人っ子一人としていない。生々しい言い方をすればつまりは今、女子高生と男子高生が二人っきりで裸の付き合いをしているのである。
「バカバカバカーっ!」
「痛いからよせって。だって仕方ないだろ? 部屋のシャワーが故障してて水しか出ないし、代わりの部屋は無いし。大浴場は運悪くタイルの張替え中だったんだし」
「運悪いどころか今時の漫画でもそんな偶然ないわよ!?」
「そこでホテルのオーナーさんが、頭を下げて俺たちにこの高級そうな浴場を貸し切りにしてくれたんだ。さすがにホテルのオーナーに頭下げられちゃ、断れないだろ? お互い風呂にはちゃんと入りたいんだし」
うんうんと頷いて、長谷川は納得しろと伝えてくる。入る時間帯を別にすればいい話ではあったかもしれないが、そうするととてもじゃないが貸し切りの時間に間に合わない。どう言うわけか貸し切り時間の短さは、ホテル側の゛配慮´であるとのこと。
「それに、俺は遠慮するって言ったのに……」
短めのベージュの髪を少し湿らせ、長谷川は後ろにいるであろう相村に向けて、言う。
「だ、だって……。それだと翔ちゃんが可哀想だと思って……」
「それは……あり、がとう……」
「……っ」
お互いに赤面し、何も言えなくなる。状況が状況であるのだ。
「こっち見たら……《ライトニング》で電殺するからね?」
「電殺!? よりにもよって雷属性かよ! 風呂だから逃げ道が無いってば!」
「振り向くなーっ!」
自衛の為、慌てて振り向こうとした長谷川を、相村がすんでのところで抑える。ほんの少しだけ二人の間で生じていた、妙に良さげな雰囲気は、これで崩れていた。毎度、この二人はこんな感じである。
※
同時刻、ヴィザリウス魔法学園の談話室。普段は生徒たちで賑わう談話室の照明は、今日この夜に限っては、少しだけ薄暗い照明へと変わっている。二つある出入り口には『生徒利用並びに入室禁止』と書かれた張り紙が掲示されている。
そして談話室、室内。
「――お久しぶりです、マサ先輩」
低声の男声が、静かな部屋の中で響いていた。
「おーう。久しぶりだな、剛」
グラスを布巾で磨く柳の前、カウンター席に座っている林政俊は、学生時代の後輩を迎えていた。
「少し痩せました? 時代は進んだとはいえ、煙草は止められた方が身体に良いですよ」
精悍な顔立ちと、屈強な身体つきの、特殊魔法治安維持組織第七班分隊長佐伯剛。白いワイシャツに緩めたネクタイ姿だったが、それを補って余りある風格は、あった。
「皆同じこと言うのな……」
やれやれと、肩を竦める林。
「随分と派手にやったみたいですね」
「その事なんだが……」
林の横に自然と、佐伯は座る。佐伯の前に、これまた自然と、柳がコーヒーを出していた。
そんな談話室の片隅には、呑気そうにあくびをしている一匹の黒猫の姿があった。




