2 ☆
今回誠次と波沢が出席するオーギュスト魔法大学は、旭川の市街地からは少し離れた山間部に、ひっそりと建っているそうだ。セレモニーに出席するわけではあるが、そこで行う一切の行事は全て波沢が率先して行うと言うので、誠次はよく言えばお手伝い、悪く言えばただのお飾りではあった。
ちなみにイルベスタ魔法学園はヴィザリウス、アルゲイルと同じように都会である札幌の中心地に建てられ、そこには長谷川と相村が向かっているのだろう。
二日間のスケジュールのうち、初日の今日は移動日でありフリーで、開校セレモニー本番は明日と言うことになる。
(そもそもセレモニーって、なにをするの?)
ラーメンが入った丼からもくもくと出ている白い湯気を目の前に、香月詩音が首を傾げていた。
誠次、香月、波沢は現在、旭川某所のラーメン店にて、テーブル席に座っていた。驚くことに、窓の外の道路にはすでに新雪がくるぶしの高さまで積もっている。地元の人の話では、つい先日雪が降ったそうだ。
「まあ、香月が思うようなあんまり楽しいものじゃないと思うな 雰囲気は弁論会みたいなもので、硬いものだろうし」
誠次はラーメンを食べながら、横にいる香月に向けて答えてやる。
向かいに座り、右手にレンゲ、左手に箸を持って上品にラーメンを食べている波沢も、何の会話か悟ったのかうんと頷いていた。
「面白そうなのは大学の最新設備見学くらいかも。後は、偉い人の話を聞くとかぐらいかな」
「そう言えば、祝辞の言葉はもう用意できているんでしょうか?」
「うん。桐野先輩と一緒に考えたの。でも……い……今更だけど、かなり緊張しそう……」
ラーメンを食べる手をピタリと止め、波沢は「う……」と尻込みしてしまっているようだ。
「お、俺が代わりにやりましょうか?」
誠次自身、あまり得意ではない分野であったので、語気はないものだ。
それでも、気持ちだけでも嬉しかったのか、波沢は軽く微笑み、
「ありがとう天瀬くん。緊張は誰だってするもの、私が頑張らないと」
「無理だけはしないでください」
「ええ。それに、こう見えて私は優等生なんだから」
手の甲で頬杖をつき、波沢は少し意地悪な笑みを浮かべていた。何が伝えたいのかは、それでもはっきりと分かってしまう。
「そ、そうでしたね」
誠次は思わず苦笑して、何かをはぐらかすようにラーメンのスープを素早く口に運んでいた。
そして、そんな二人の様子をカウンター席越しの厨房から見つめていたのは、このラーメン店の若い弟子の男であった。
「し、師匠っ!」
「バカ野郎! 喋ってる暇あるんならスープ見とけ!」
「は、はいッ! で、ですが師匠! 俺たちのラーメンがッ! なにも無い空中に伸びて……なにもない空間に消えていってますっ!」
誠次たちが座る席を凝視し、弟子の男が上ずった声を出す。思えば、初めから怪しかったのだ。最初の注文を承ったときに、どう見ても若い高校生のカップルにしか見えないにも関わらず、ラーメンを三杯頼んだのだ。当たり前だが、ラーメンは放置しておけば、麺が伸びてしまう。よって二人ならば二つだけ頼むというのが筋であろう。
そんな奇妙なお客さんの、ツンツン茶髪の男の横に置かれているラーメンが、理由もなくどんどん減っているのだ。魔法、なのか……!?
「師匠! やっぱりあのお客さんおかしいです! 俺が確かめてきます!」
弟子の男が捩じり鉢巻きを締め、カウンターから出ようとする。
「バカ野郎! 確かめてる暇あるんならスープ見とけ!」
「は、はいッ! スイマセンしたっ!」
だが、師匠の一喝がそれを止めていた。
そして、波沢も波沢で、美味しいラーメンのスープを口に含みつつ、目の前の一つ下の後輩の行動をじっと見ている。
「ラーメンは美味いか? 香月」
誠次は時より、波沢からすると何もないように見える空間に向け、声をかけている。
「ああ。バターが入っているんだ」
……。
「美味いか……。それは良かった」
周りを気にせずにニコリと笑顔を見せている誠次に、
(傍から見ると、かなりシュールかも……)
波沢は思わず苦笑してしまっていた。
或いは、状況を知らない者から見るとかなり痛い奴である。そして、やはりそんな事をもう気にしてはいない様子の誠次はその後も、《インビジブル》を使用している香月と話していた。
(まあ、少し面白いかも……)
不思議と、そんな彼を目の前にしても恥ずかしくない自分がいる。
波沢もそんなちょっと特殊な後輩の姿を、微笑ましく眺めているのであった。
誠次たちが次にやって来たところは、北海道はおろか日本全国でも有名な旭川にある動物園であった。動物が好きだという波沢の希望でもある。
「わあ、水族館もあるみたいだよ、天瀬くん! 香月さんも!」
受付にて電子デバイスに転送されたパンフレットを端末で浮かび上がらせ、波沢は楽しそうに呟く。一つ上のはずが、無邪気に微笑むその姿は、まるで同い年のようだ。
(凄い……。動物たちがまるで目の前にいるみたい)
レヴァテインを両手で持ち、誠次の横を歩く香月が目を見開いていた。動物たちは一見、檻の無い園内に放し飼いされているようである。ところが動物たちの生息域には透明な高位防御魔法の結界が張られているようであり、動物に直接触れることは出来ない。ちなみに防御魔法が張られているか張られていないかの境界線は、雪がちょうど綺麗な断面を見せて積もっているか積もっていないかでわかるものだ。
「そういえば香月。《インビジブル》ずっとやりっぱなしで辛くはないのか?」
家族連れやカップルで賑わう動物園内を歩きつつ、誠次は香月に訊いた。
(辛かったらやっていないわ)
動物たちを興味津々に眺めつつ、香月は平然と答える。
「《インビジブル》なんてまだ授業で習っていないし、同年代でもやってる人は見たことないのに、本当にすごいわ」
(……)
先輩に褒められたことが嬉しかったのかどうなのかは分からないが、波沢の呟きを聞いた香月はまんざらでもなさそうに目を細めていた。
「あれ、今なんだか空間がブレて香月さんが見えた気が……」
「動揺しているのか……?」
触れ合える場所で動物と触れ合ったり、餌をあげたり。誠次は波沢と香月二人と一緒に、日本最大級の動物園にて時間を過ごした。
そして、次に三人がやって来たのは、水族館だった。
「今度は水が宙に浮いているみたいだ。凄いな……」
原理的には、形成魔法と物体浮遊の汎用魔法を組み合わせた複合型の応用だろう。プールで見たパレードの泡と同じような感じであった。
一方で香月は、少しだけ薄暗い場所に浮かぶ水の前に立ち、じっくりと何かを見ているようだ。
「何見てるんだ?」
波沢と共に、誠次は香月の後ろから宙に浮かぶ水を覗く。
(クラゲ……)
ぼうっとしている光の中、そこには何匹かの白いクラゲがぷかぷかと泳いでいた。暗い海をイメージした、クラゲの水である。クラゲはとても小さくくりくりしていて、可愛らしかった。
「クラゲね。漢字だと、海の月って書いて海月って言うんだよ」
「詳しいですね、波沢先輩」
優等生らしい発言に、誠次が波沢の顔を見て声を掛けると、目と目が合った波沢は少し恥ずかしそうに微笑んでいた。
「子供の頃は、海の生き物の図鑑とかよく見てたし。動物がなんでも好きだったの」
一方で説明を聞いた香月は無言であるが頷いてから、紫色の視線をクラゲの水に向けたまま。
(良い名前ね。見た目は……ふわふわしてる)
「良い名前……? ああでも、そんな見た目に反して触手には毒があるんだ。海で見つけても触っちゃだめだぞ?」
(誰かさんみたいね)
「いや、うーん……それは、違うと思うぞ……」
本当は一瞬だけそう思ってしまっていた誠次は、誤魔化すように後髪をかいて言っていた。どことなく、香月の髪が海月っぽい気もしていた事も、折り込みで。
その後も香月は、色々な種類の魚を見ては感想を述べていた。周りのお客さんからすれば、大きな剣を抱いた少女が魚を鑑賞しているなど、思いもしないことだろう。よって今の誠次の状態は場所が場所だけに、やはり波沢と二人っきりでのデートをしているように見られる。
「俺はここにいるけど、あまり遠くに行くなよ。人も多いし、迷子になりそうだからな」
(ええ、わかっているわ)
館内のベンチに座り、誠次は香月に声を掛けていた。
「天瀬くん、なんだか香月さんのお父さんみたいだよ?」
くすくすと笑いながら、波沢が誠次の横に座る。いつの間にか買って来てくれたのか、温かいお茶の入ったチューブを一つ、こちらに差し出してくれつつだ。
「よく言われますけど、複雑です……。一応同い年なんだけどな……」
この口調のせいだろうか、と自分なりに分析しつつ、誠次はとほほとお茶を飲んでいた。幼いころから八ノ夜の影響を受けていたので、今更どうすることもできないし、どうすることもしようとはしないが。
「お父さん、か……。大切な存在だよ」
魚を一匹一匹ちゃんと記憶するように水族館内を歩いている香月を見つめ、波沢は呟いていた。
「波沢先輩……」
春の戦いの後保健室での会話で知ったが、波沢の父親は゛捕食者゛によってすでにこの世にはいない。ほんの少しだけしんみりとしてしまった場の空気を払ったのは、波沢の微笑みだった。
「大丈夫。お姉ちゃんも結局天瀬くんに助けられちゃったわけだし、まだまだと言ったところね」
やはり、妹にも優等生なりにプライドがあるようで、波沢香織は少しだけ口角を上げている。
そんな先輩に黒目の視線を向けた誠次は、チューブから口を離し、
「波沢先輩、なんて言うか、本当に丸くなられましたよね」
「……太った、って言いたいの?」
慌てて自分のわき腹や頬っぺたを抓る波沢。ジト目ながらも忙しそうに両手を動かすその仕草はどこかお茶目である。
「い、いやそういう意味ではなく……。性格が、です」
「それなら良かったわ。クラスメイトからも、それはよく言われるの。ちょうどあなたと出会った日から、ね。そう考えると私、一学年生の頃は本当に酷かったね……」
腫れ物にでも触るように、波沢はこめかみに手を添えている。誠次はそんな波沢を見て、思わず吹き出してしまった。
「も、もう……笑わないでよ……」
「ご、ごめんなさい。思わず、中学校の時の俺を思い出してしまって」
自分と違う意見を持つ人と出会い、今までの自分の考えを改めてみる。その点では、波沢と自分は同じなんだなと、感じていた。
「そう言えば、中学校の時は天瀬くんどうだったの? やっぱり女の子にモテたでしょ?」
「やっぱりって……逆ですよ。全然でしたよ」
「まさか。聞かせて欲しいな」
お互いに赤裸々な過去話をしているうちに、時間は過ぎていく。かつて退学や謝罪を賭けて戦った間柄だと言う事は、今の二人からは微塵も感じられない。家族連れやカップルで賑わう魔法を用いた水族館の中、笑顔の二人の会話は途切れることなく弾んでいた。
※
――東京都内。
「……」
日本の国政を司る議員閣僚が一斉に集結したその白の外装の官舎は、都会の街中に平然と建っていた。外装こそ普通のマンションのようではあるが、明らかにその内部には、休日の都会の喧騒と切り離された静寂の雰囲気が、漂っていた。
中央が空いた楕円形の机の周りに、各省庁の大臣たちが着席している。その顔色はどれも揃って、険しいものだ。
「いい加減にしてほしいですな、魔法執行省本城直正大臣」
随分とご丁寧な挨拶は、充分な嫌味も混ぜてあるものだ。
机を挟んで聞こえたしゃがれ声の言葉に、オールバックで固めた髪の下の硬い表情を、本城直正はぴくりと動かせる。
魔法が生まれてから一〇年後である、二〇六〇年に一度、日本の閣僚、各省庁は大きな変革をなし崩し的に行った。その一つである国防省大臣、辻川一郎。スーツを着るには少し大変そうな肥えた腹回りに、しゃがれた声が特徴的な、日本の国政を担う大臣の一人である。
「いい加減とは、一体何でしょうかな?」
魔法執行省大臣と、国防省大臣のやり取りを、この場にいる他の大臣たちも注意深く聞いている。この場においての最優先議題が、この二人の会話の根底にある以上、集中するのは当然であった。
「とぼけないでくださいよ。貴方だって分かっていることのはずだ。何よりもこの国の国益を守るためには、魔法の力が必要なんです。古い時代の銃火器ではなく、絶大な魔法の力が」
肌色がちらちらと見える頭皮をかき、辻川はにやにやと笑う。
「゛魔法生の徴兵゛。兵役ですよ、兵役。いい加減認めてくれたらどうなんでしょうか? この場の皆さんもそう思いますよねぇ?」
辻川が周囲を見渡せば、何とも言えない表情をした数名の大臣たちが、ゆっくりと頷いたり俯いたり。辻川はそれに気を使うことなく、再び本城の方に視線を戻す。
本城は、
「前にも言ったはずです、辻川大臣。政府を運営する私たちが学生たちの将来を作らねばなりません」
それがこの世で戦う力を持たないはずの、大人の役割のはずだ。
「古い時代の考え方だ。実に下らない」
だが、本城の言葉を、辻川は一蹴していた。
「いいですか? それではこの世は通用しませんよ。諸外国に習い、この国も今すぐ゛魔法軍゛を作るべきなのですよ!」
「特殊魔法治安維持組織がある。旧暦の過ちを繰り返すおつもりか?」
本城が辻川に対して落ち着いた口調で言うが、辻川は失笑し、机を片手で叩いていた。
「最近の奴らの失態続きと言ったら、目も当てらない。そうでしょう? 特殊魔法治安維持組織の最高権限を持っておられる、大内国家保安委員長?」
ちらりと辻川が目線を向けた先にいる、眼鏡を掛けた男性委員長、大内は、少し神経質そうな顔をしかめていた。
「わ、私は……何も悪くありません! 全て、下の責任です!」
「……!?」
内心で舌打ちをしてしまいたい衝動を抑え込んだ本城は、ほくそ笑んでいる辻川を恨めしく睨んだ。
「どうにも本城大臣。貴方は自分の娘を守る為だけに魔法生を守っているようにしか、私には見えませんけれど?」
「自分の娘一人を守ろうとしないで、誰が国民全員を守れると思うのか、逆に聞かせてほしいものですな」
昂って来た身体の血をどうにか鎮めつつ、本城は冷静を務めていた。
「大事なのは将来ではなく今ですよ! 今! 私たちの身の安全が最優先です。これ以上この国の発展を失速させないためにも! 魔法生を使うのです!」
「辻川……貴様……!」
「……」
思わず本城が声を荒げたが、他の大臣たちは大した反応を示せずに、状況を見守るだけだ。半場投げやりな空気が、流れていたのだ。
今日も特に実りの無い会議は、こうして幕を閉じていた。
気味が悪いほど生温かく、絡みつくような空気が流れる部屋を後にした本城は、一人の女性と共に官舎の通路を歩いていた。
「お疲れ様です……本城大臣」
黒スーツに青髪の若い女性、特殊魔法治安維持組織第七分隊所属の波沢茜だった。
本城はネクタイを少し緩めながら、ふうと息をついていた。
「見苦しい姿を見せたな茜君。怪我はもう大丈夫なのか?」
「もう大丈夫であります。お気遣い感謝します。怪我の方は、同隊所属の影塚広の方が酷かったので……」
いつも以上に硬い口調である茜の声音には、少しの口惜しさが滲んでいた。あの日の戦いの時、香月詩音と名乗った少女の治癒魔法がもしもなかったのなら、命の危機でもあったと医者は言う。
「……特殊魔法治安維持組織の失態が続いているのは、自覚しているつもりであります……」
「こんなご時世だ。構わない。……しかし上があれでは、さぞかし局長も草臥れている事だろう」
「……は。どちらにせよ進退窮まったりであります。世論は辻川大臣のような強硬派を支持している声の方が、多いんですから」
官舎の警備任務としてこの場にいる茜は、現状の自分に満足はしていない様子であった。
「妹さんは優秀な魔法生だと噂に聞く。波沢家の華麗なる血統、と言うべきかな」
「光栄であります。しかし、香織も私から見ればまだまだと言ったところでしょう。感情の処理能力や実戦経験など――」
姉としてのプライドか、茜は少しだけ勇んで言っていた。
「そうでありました、本城大臣」
茜はそこで、何やら思い出したようだ。
「どうした?」
「今回私は、特務を預かっております。なんでも、局長から――」
周囲の目を気にしつつ、潜めた声で茜は話し始めた。
そして、官舎を出て行った本城直正と波沢茜の背中を、遠く離れた窓から忌々しげに眺めていたのは、辻川一郎だ。
「本城直正……。何より大事なのは、未来ではなく今なのですよ、今。私たちさえ良ければ、それで良いじゃないですか」
それがさも当然のごとく、口元を歪め、呟く。このまま事が運べば、もうすぐ全てが自分の思いのままとなるところなのだ。本城は理想と現実のギャップの鎖に絡ませれば、実質、残りの障害はただ一つ――。
「――辻川先生。準備は、全て整いました」
影から聞こえた男の声に、振り向いた辻川の視線の先。青白く、細長い日本の全国地図が、ホログラム映像にて立体的に浮かんでいる。
ぼんやりと浮かんでいる日本全土を、辻川は優しく撫でるように、指を這わせ、持ち上げていき――、
「さて。簡単な、塗り絵のお時間です。雪のようにまっさらな白を、濃い赤に染めるだけのね……」
北緯四五度線へ向けられた、容赦のない殺意。
日本最北端の地を握りつぶし、辻川はほくそ笑む。
辻川の手の接触を受けたホログラムの日本地図はばらばらとなり、歪な形へと変形していった。




