10
誠次がやって来て、本城と一緒に米係の方へ行った時の事を、香月詩音は思い出していた。風呂上がりで首元にタオルを回し、少し湿った白い髪が乾くのを待つ。
慣れない浴衣だったが、着てみれば案外心地よい。そして、この場にいられることもまた。
人の喧騒は苦手な為、コテージの廊下を一人ぽつんと散歩するように、香月は歩いていた。
「篠上さんも本城さんも……私と、仲良くなりたいって……」
こんな、魔法以外何一つ得意とは言えやしない自分と……?
志藤も帳も、嫌な顔一つとしてすることなく、自分を加えて飯盒炊爨を楽しんでいた。
「ここに来れて、いられて、良かった……」
ほんのりと頬を赤く染めながら、思わず口ずさんでいた。誰も周りにいないから、言える事だ。
なによりも、誠次と桜庭がいなかったら、こうはならなかったのだろう。二人の笑顔が頭に浮かび、温かい気持ちになれる。
「……?」
そんな香月の前に、一人の人影が、立ち塞がっていた。その男から発せられた声はどこまでも冷たく、また、温かい思い出を一瞬のうちに掠め取って行くようであった。
「――お久しぶりです、詩音さん。お迎えにあがりました」
※
「なあ志藤。俺には分からない……どうにも分からないんだ……」
コテージの大広間に敷かれたベッドの上、誠次は若干湿っている髪をかきながら、唸っていた。
端末が示す時刻は、午後八時過ぎ。山の中は都会とは違って光も無く、小窓から見える外はまっ暗闇だ。――雲から途切れ途切れ見える月の明かりだけが、唯一の光である。
「だから、風呂でのぼせたんだって……」
目の前であぐらをかいて座る志藤の説明に、誠次は納得できないでいた。
私服姿で寝ていたはずなのだが、どう言うわけか浴衣に着替えているのだ。周りの生徒も全員浴衣だったのはだったのだが。
「そもそも風呂に入った記憶が全く無いんだ」
誠次は訝しげに周囲をきょろきょろしながら、言った。
「そ、それはだな天瀬……。深いようで深くない理由があるようでないようで……」
志藤は何故か返答に困っている様子だ。
「のぼせたとしても、記憶障害を引き起こすレベルまでのものだったのか? それ相当危険じゃないか!?」
「落ち着けって! ま、まあ、覚えてないのは覚えてないので幸せかもな……」
歯切れ悪く、頬をポリポリとかきながら志藤は言う。
「? 幸せなのか?」
「あ……あぁ……」
誠次の言葉に、なぜか顔面蒼白の様相を見せる志藤。顔を落とし、腕を組んでいる。
「っ……やめだやめだ! この話はもう終わりだ!」
髪をくしゃくしゃとかいて、志藤は声を荒げていた。
「あ、ああ。……わからん」
夜の八時だが、他の男子生徒はほぼ全員起きている。電子タブレットでテレビを見ている生徒や、友人と談笑する生徒。
「帳はどうしたんだ?」
「ああ。アイツはゲーセン行ってる。館内散歩してたら見つけたんだ」
ニュースで、現在の子供の平均就寝時間は午後十時頃と聴いた事がある。これは昔に比べると随分と早くなったらしい。夜間の外出が出来なくなり、室内での行動のみに制限されてしまったので、やれることが少なくなったことが理由か。
誠次はしばらく志藤と談笑し、時間を過ごしていた。
「うし。だいぶ腹も減ったし、ゲーセンの帷攫って、飯食い行こうぜ」
志藤が立ち上がり、浴衣の帯を締め直しながら言う。やはり家柄故か、浴衣の着方はちゃんとしていた。
夕食だが、好きな時間にコテージのフードコートで食べることができる。昼食のカレー作りと比べれば凄まじい手抜きだが、疲れている身には関係なかった。
「そう言えば、志藤は行かなかったのか? ゲームコーナー」
誠次も立ち上がりつつ、志藤に訊いてみた。好きそうなイメージがあるのだが。
「行かない行かない。俺だったら金はもっと有意義なことに使うよなー」
目を閉じ、はにかんでいかにも得意そうに、志藤は言う。
「志藤。なんかそれ虚しいな」
「悪かったな! ったくさっさと行こうぜ」
変なところで、志藤は合理的な思考の持ち主であった。
クラスメイトたちが談笑している大広間を出る。ふすまを締めてコテージのフードコートへ向かおうとしたその時だった。
「天瀬! 志藤!」
突然、篠上の声がした。
「篠上……?」
何事かと見てみれば、篠上が一人でこちらに向かって走って来ていた。
篠上は浴衣姿だった。鮮やかな赤い髪と相反する、青白色の浴衣は同じはずだが、どこか気品を感じる。――綺麗だった。
艶やかな印象もつかの間、篠上は誠次の目の前で立ち止まると、大きく肩で息をしていた。おおよそ、切羽詰まった様子だ。
「落ち着けよ。どうしたんだ?」
冷静に志藤が応対する。
「う、うん……!」
志藤の言葉に篠上は軽く頷き、大きく息を吸う。
「ごめん志藤。天瀬と二人っきりにさせて」
真剣な表情そのままで、篠上は志藤に告げる。
「はあ?」
志藤は眉間にしわを寄せていた。
「えっ」
誠次も誠次で一瞬だけどきりとしていたが、篠上の様子から察するに、その手のイベント事では無いことが分かっていた。
志藤は誠次を見てから、面白くなさそうに髪をかき、
「フードコートで待ってるから、早くしろよ」
志藤は仕方ないと言わんばかりに両手を上げ、この場を後にした。
「どうしたんだ?」
「これ、見て」
間を置かず誠次は、篠上によって何かを眼前まで差し出されていた。
篠上が右手に握っていたのは、今時珍しいレトロな封筒であった。
【天瀬誠次君へ 必ず 一人で見るように なるべく急いだ方が良い】
手書きの黒文字で、裏側にそう書かれていた。
「なんだ……?」
受け取った封筒を思わず落としてしまいそうになりつつ、誠次は篠上が持って来た封筒を開けた。
また八ノ夜からの悪戯だろうと、誠次は思ってはいたが。
「どうして篠上のところに俺のが……?」
「分からないわ……」
赤いショートポニーテールを左右に大きく振り、困惑する篠上。
篠上から渡された封筒に入っていたのは、綺麗に折りたたまれた一通の便箋だった。
一応一人で見るようにと注意があったので、誠次は篠上の前から下がりつつ、便箋を開く。
そして、横文字で書かれていた文に目を通すと、誠次は自分の心臓がどくんと動いたのを確かに自覚した。
【――香月詩音を誘拐した】
その一行から始まっていた文面に、黒文字の無機質さが風雲急を告げる。
便箋の先で、こちらの表情を見た篠上が「どうしたの?」と、尋ねてきていた。
紙を握る手に自然と力が入り、誠次は生唾を飲みながら全文を見る。
「……八ノ夜理事長から……だ」
手紙を読み終わった誠次は、どうにか適当にはぐらかしていた。
「それがなんで私のところに……? 気になるから見せてよ」
安心したようにほっと息をつき、篠上が苦笑しながら手を差し出して来る。
――見せるわけには、いかない。
「腹減ったな。夜飯を食いに行こう」
誠次は大袈裟な仕草で、ポケットの無い浴衣であることをアピールし、
「財布取りに大部屋に戻らないと。届けてくれてありがとう篠上」
有無を言わせず、誠次は篠上に背を向けた。
「え……ちょっと天瀬?」
「男子だらけの部屋に入るのか?」
すぐさま追いかけてこようとした篠上に、誠次は笑いかける。
案の定、篠上は顔を真っ赤にして立ち止まり、「最低!」などと言ってぎゃあぎゃあと喚きだした。
「心配してるのよ!? 急にそんな冷めた態度なんて、おかしい!」
「……やっぱり優しいな、ありがとう」
これ以上ここに留まっているとボロが出そうで、誠次は切り捨て言葉として何の気なく言っていた。
「うあ……っ!?」
怒鳴っていた篠上は一転して、沈黙していたが。
篠上に背を向けて、誠次は歩き出す。――無論、財布を取るために大部屋に戻るわけでは無い。
「――香月、待ってろ……!」
角を曲がったその直後、誠次はわき目もふらずに走り出していた。
大部屋に戻った誠次は、談笑している様子の同級生たちと、敷かれた布団の間を進み、自分の荷物が纏められているところまで帰って来た。
外出する為に、まずはソックスを履き、そして――。
「どうやって持っていくか……」
誠次は、枕元に置いてある剣を見つめて呟く。
他クラスの同級生にしてみれば剣など、普段目にかからない代物なので、いまだ少なくない視線が浴びせられている。
誠次は嘆息しつつ、もう一度便箋を広げて見た。
【香月詩音を誘拐した】 【彼女は今外にいる】 【剣を持ってコテージの外へ出ろ】 【事を教師には知らせるな】
――云々と、書いてある。これは八ノ夜が書いたものではないのは、すぐに分かった。あの人は間違っても、人を夜の外に行かせようなどとはしないはずだ。
「注文が多い……!」
こういう時に香月が居てくれれば、剣を《インビジブル》で平然と持ち出せたが、本人は――。最悪の結末を否定するように、誠次は首を横に振っていた。振った先に見えたのは、小窓の先から覗ける、夜の外の光景。
(本当にそこにいるのか?)
わいわいと盛り上がっている周囲の中、誠次は息を呑む。
浴衣姿のまま、誠次は剣に手を伸ばす。この人目の多さではどうしても目立ってしまうが、躊躇はしていられない。
見られることを観念した誠次が、剣に手を触れた瞬間だった。
「――くあああああ~っ! お前ら~っ!」
奇声を上げながら、大部屋のふすまを開けたのは林だった。着崩れた浴衣に、片手にはビール瓶。顔はかなり赤く、目が半開きだ。
「林先生!?」
「1-Aの担任教師か?」
大部屋の男子生徒たちは、突然の酔っ払い担任の登場に、呆気に取られていた。
「林先生!? ――感謝します!」
誠次も驚いてはいたが、すぐに剣を引っ張り、部屋の隅のふすまのところまで走る。部屋の隅の方に敷かれた布団にいる生徒たちは、ほとんどが既に寝ている同級生だ。
「くそう……っ。俺の何が悪いんだ……!」
背中の方からは、ヒックと林がしゃっくりをしている。
随分と酒癖が悪いようで、踏ん張る足もおぼつかないほど林は酔っている。
「お前らまくら投げだコンチクショウ! 俺対お前ら全員だ! かかって来いやーっ!」
「林先生落ち着いて下さい! 先生の勝ち目がまったくありません!」
小野寺らしき男子生徒の中性的な声がしたのを聞き流し、誠次はふすまを開けて通路まで出ていた。
置いてあるスリッパでは無く、持参したシューズに素早く履き替えた後、誠次は走ろうとしたが。
「うわ!」「きゃあ!」
゛とても゛柔らかい感触にぶつかり、誠次は尻から倒れてしまった。倒れたところが絨毯だったので、痛くは無かったが、
「篠上!? まだいたのか!?」
目の前で倒れているのは、゛やはり゛篠上綾奈だった。
「え、う、うん……」
誠次と篠上はお互いに向き合うようにして倒れていた。
しかし誠次はすぐさま立ち上がり、「すまない」と言って篠上に手を伸ばす。
「あ、あのっ。昼とさっきのこと……謝るから……」
篠上は誠次の手をとり、立ち上がった。
「なんのことだよ!? 気にしてないって――!」
落ち着いていない篠上の視線が、思わず苛立ってしまった誠次の右手に注がれたのは、すぐのことだった。
「なんで……剣――」
はっとなった誠次は、無駄だと分かっても右手に握った剣を背中に隠す動作をしていた。
「――! お願いだ、誰にも言わないでくれ!」
一方的に言いつけると、誠次は困惑している篠上にまた背を向けた。
胸元で両手を握り締めていた篠上の身体が、小さく震えているようには見えた――。
「なんで剣持ってるのよ……っ!」
篠上はむすっとして――。
コテージの大広間。
コテージの従業員はこの時間になるとおらず、電源も魚が泳ぐ水槽や自動販売機以外のものは全て消され、薄暗くなっていた。登山終了直後、帳と荷物を取りに来た場所も、今ではしんと静まり返っている。
豪華なシャンデリアの下。
大広間の中央まで走って来た誠次は、いったん呼吸を落ち着かせる。
「来たぞ!」
険しい表情そのままで、誠次は暗闇に声をかける。
「――こんばんは。天瀬誠次くん」
聴き慣れない挨拶だった。
水槽の淡い光の奥から、ぬるりと影が一つ、動いていた。
続いてコツコツと足音がし、誠次は男の声が聴こえた方へ身体を向け、身構えていた。
「こんばんは。今ではすっかり聞かなくなった、昔では当たり前の挨拶です。外で使うなんてもっての他ですね」
月の光が影を照らせば、その怪しい存在感を露にしてくれた。
開いているのか分からないほど細い目、背丈は高くスマートなモデルのような体型だが、そこに接し易そうな隙は無い。ワイシャツにフォーマルなコートを羽織っており、まるで女性のように長く艶がある髪を後ろで、一本に束ねている。 そんな男は誠次を見て、ニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
「律儀に剣を送ったのはお前か?」
剣を握る手に力を込め、険しい顔つきで誠次は問う。
「私からのささやかなプレゼントです。誰かを演じるのは楽しいですね。気に入って頂けましたか?」
「貴様……! 八ノ夜理事長に何をした!?」
八ノ夜に対する誠次の思いは、特別だった。
誠次は男の目の前まで一気に接近し、誠次は素早い足蹴りを繰り出す。
「おや」
足で風を裂く音が、聞こえたが――。
「なに!?」
誠次の攻撃を、男は踊るようにかわしつつ、「いきなりは怖いですね」と、余裕そうに言っていた。
「!? かわされた!?」
すぐさま体勢を立て直した誠次だが、男の方から反撃は無く――、
「落ち着いてください天瀬くん。ヴィザリウス魔法学園の理事長さんは海外出張中ですよ。゛我々゛の目的は彼女じゃない」
「……っ」
至近距離で誠次は男を睨む。
追撃の手を出そうとはしたが、直撃すると思っていた先制攻撃がかわされた以上、無駄だと悟った。
「……怖い目だ。理事長の名前を出した瞬間、我を忘れた様子でしたよ?」
「……っ!」
男はほくそ笑みと、押し黙る誠次の横を平然と素通る。少なくとも、男の言った通りだった。
束ねた細い黒髪の毛先が、誠次の顔の横を通り過ぎ、
「そう言えば自己紹介がまだでしたね。奥羽正一郎。私の名前です」
紳士のように奥羽は、誠次に頭をぺこりと下げた。
しかし、顔を上げた瞬間。
「――我々は国際テロリスト、レーヴネメシス。失われた夜を取り戻す為に、戦う者たちだ」
切れ長の目の奥から、鋭い光が覗いていた。




