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雨が本格的に降り始め、窓を無数の水滴が流れている。東京の駅前、喫茶店の中。エプロン姿の香月は、髪を動きやすいポニーテールにして(束ね方は篠上に教わった)束ね、せっせと業務へと勤しんでいた。
基本的に接客のスキルは及第点以下なので、本人の希望もあり、香月は袋詰めや掃除、陳列物の整備を率先して行う。それでも声を掛けられる事も多々あり、その時は努めて接客に応じていた。
「この時期、思いの他忙しいんですね……」
クリスマスやバレンタインが忙しい事は覚悟していたが、新学期が始まる直前のこの春休みの時期に、喫茶店が混むとは思いもしておらず、香月は共に働く南野に、ふうと息をついて言っていた。
「ほら、うちってケーキとか贈り物とかにも力入れてるじゃん? 新生活へ旅立つ人たちへ、素敵な贈り物をプレゼント、ってのが多いらしいんだよね」
「そう言う事なんですか……」
「いやよくお客さんが結構嬉しそうに話してくれるんだけど……」
「私、必要最低限の接客態度しかしませんので……」
「それ、接客業失格ー」
少しばかり申し訳なさそうにする香月に、南野は苦笑交じりにツッコむ。
南野はお会計の時に、にっこりとした満面の笑顔でお客さんと会話をしていたりする。桜庭やクリシュティナも、接客業として最低限の笑顔をレジに立っている時は振り撒いている。
一方で、香月にはそれらがどうしても出来ない。稀にお客さんから業務と関係ない話をされても、気味の悪い……ぎこちない笑みを返すのがやっとだった。
「コツとか、何かありますか……?」
進んで話したいわけではないが、愛想が悪いとお店に迷惑を掛けるわけにもいかず。
まるで三日月の形のように纏まったポニーテールを傾け、香月は南野に質問する。
「うーん……」
南野は顎に手を添え、やがて閃いたようにぽんと手を叩く。
「とりあえず、相手が何言ってるかよく分かんないけど笑ってみる!?」
「……ある意味、それは最低では……」
「……うん、そうだよね……ごめん真似しないでそんな目で見ないで……」
アメジスト色の眼差しをじっと向ける香月に、南野はおっかなびっくりに言っていた。
「まあ、新たな居場所へ行く人たちを見守るのだよ、私たちでさ」
まるで庭を眺めながらお茶を啜るおばちゃんのような言い草をする南野であった。雨なのに、ほっこりとした日差しが降り注いでいるようだ。
「新生活……新しい居場所ですか」
あと数日で、ヴィザリウス魔法学園の新学期が始まる。自分も二学年生へと進級するのだ。クラス替えは無いから友だちたちと離れる心配がないので、不安らしい不安も感じなかった。すなわち自分は、周りに恵まれたのだろうと、しみじみ感じる。
「彼氏さんには、アメリカに行く前に何か贈り物をしたんですか?」
私と同じく……と思わず言いかけた口を噤み、香月は行儀よく身体の前で両手を組んだまま、南野に訊く。
南野には、遠距離恋愛をしている高校生時代からの彼氏がいる。一ノ瀬隼人と言い、現在はアメリカのキルケ―魔法大学に在籍しているそうだ。彼は故郷である日本を離れ、今は新たな地であるアメリカで生活しているのだろう。
「それが聞いて! 空港でギリギリ渡せたの! クッキーとペンダント! マジでなんかのドラマっぽくてさ――!」
「二人とも。お話は休憩時間にお願いできるかしら?」
「「ご、ごめんなさいっ」」
興奮した様子の南野だったが、他の店員のお叱りを受け、香月共々頭を下げていた。
店内のBGMが同じバンドでリピートループ再生され、今度はしみじみとしたバラード調の曲となる。それは外の雨の雰囲気に良く馴染んでしまう、少し悲しくて、儚いメロディーであった。
「あと、二階の汚い犬、どうにかしてくれない? 邪魔なんだけど」
店員は親指を二階へ向け、ため息混じりに言う。
「邪魔って……」
「……っ」
帰る場所を失ってしまった者へ対する、あまりにも厳しい言葉だ。
これには南野と香月も眉を寄せるが、店員は素知らぬ顔で行ってしまう。どうしたら良いのか、今の二人には思い浮かばなかった。
※
「どう言う事ですか!?」
国際魔法教会本部控室に、誠次の大声が響く。
「レヴァテイン・弐を持った職員と、連絡がつかず、行方不明……」
百合もベッドから立ち上がり、そんな事実を告げて来た国際魔法教会の男性職員を、芳しくない面持ちで見つめる。
「はい。現在、我々も全力で捜索しております。天瀬誠次様には、室内での待機をお願いします」
「待機だなんて……。俺にも探させてください!」
誠次が食い下がるが、
「立ち入り禁止の場所が多々ございますので。それは許可できません」
職員はあくまで感情を覗かせず、事務的に誠次の行動に釘を刺してくる。
「許可できないって……」
理不尽を噛み締め、誠次は愕然とする。
「ご安心を天瀬誠次様。魔剣は我々が責任をもって捜索いたしますので」
職員は告げることを告げ終えると、淡々とした印象のまま、部屋を出て行ってしまう。
「まさか……こんな事になるとは……」
ご安心など出来ず、誠次は部屋の中をうろうろと歩き回った後、片手で頭を抱える、
マンハッタンの時刻は正午を過ぎて大分経ち、もうすぐ夕方になろうとしている。
「弱ったわね……。忘れ物をしたまま日本に帰るわけにもいかないし」
「はい……」
ルーナとクリシュティナが戻って来次第、セントラルパーク付近のホテルに向かうつもりだったが、思わぬ足止めを喰らいそうであった。そもそもレヴァテイン・弐は戻って来るのか。異国の地でかりそめの安心を求めようにも、それは無理な話であった。
「せめて、この軟禁状態から少しでも外の様子を知ることが出来れば……」
ご丁寧にも閉め切られたカーテン窓を、誠次が恨みがましく睨んで言っていると、
「……そうだわ。私、ちょっと゛イケないこと゛思い付いちゃったんだけど、良いかしら?」
くすりと微笑み、百合が誠次に囁く。
「いけない事?」
「ええそうよ。おおよそ先生失格みたいなこと、今からしちゃおっかなって」
言いながら、百合はすでに立ち上がっている。百合らしく、自由気ままに、相手を弄ぶように。
百合の甘い言葉に誘われるように、誠次は自然と立ち上がる。なにも、こちらもただここでじっと待っているだけにはいかない。ルーナとクリシュティナが自由になった今、そろそろ被っていた羊の革を剥いでも、良い頃合いだろう。多くの人の期待を胸に、剣術士の証である剣を失ったまま大人しくしていられるほど、百合と同じく゛良い子゛ではない。
「立っちゃったわね? 誠次くん、先生と一緒に悪い事しちゃう気?」
誠次は微笑んで、肩を軽く回す。
「乗ります。日本から来た日本人らしく、ただぺこぺこ頭を下げる優等生を演じ続けているのも、肩が懲りますからね。……たまにはハメを外すのも、悪くはないと思います」
「あら意外ね。堅苦しいほど真面目な男の子だって思ってたんだけど?」
よく言われることに、誠次はくすりと笑う。
「そうでもないですよ。真面目は真面目でも、馬鹿真面目、ですからね。誰かを守る為に夜の外に飛び出したり、女の人の前で無理にでも格好つけたり。とんでもない事、やる時もありますよ」
――そうした結果が今に繋がっていると言うのであれば、やった甲斐はあるものだ。例え強がりだと、彼に言われたとしても……自分の正義を信じるだけだ。
まるで何かを誤魔化すように、にやと笑う誠次の黒い瞳を見つめた百合は、ほんの一瞬だけ、呆気に取られたような表情を見せたが、
「……うふふ。なんだか今の誠次くんの顔を見てると、身体がぞくぞくしちゃうわ。ここは自由の国。じゃあ私たちらしく、自由気ままにやらせてもらうわね」
次には、まるで日本にいる時のような、いくらか楽しげな様子のヴィザリウス魔法学園の教師星野百合が、右手を持ち上げ、とある魔法を発動した。
百合の目の前で、真剣な表情を見せる誠次の首に巻かれた大事な赤いマフラーが、誠次の決意と意思を肯定するかのように、静かに熱を伝えて来る。
※
国際魔法教会本部の通路にて、老王は片膝をつく。
「ごほっ、ごほ……っ」
「ヴァレエフ様!?」
側近が駆け寄り、止まらない咳を溢していた国際魔法教会最高指導者、ヴァレエフ・アレクサンドルは漆黒の杖をついて立ち上がる。
「長くは、ないか……」
「弱気にならないでください。゛捕食者゛無き平和な世界の為にも、世界には貴方様の偉大な力が必要なのです」
「分かっている……。しかし、この不自由な人の身がもう持たぬな……」
皺が寄った自身の左手を虚しく見つめ、ヴァレエフは呟く。悲しい事に、杖を使っても全身の震えは実感できてしまう。
「次の世代の為にも。急がねば、な……」
自らが立ち上げた国際魔法教会の理念の実現の為に、世界の人々の願いの為にも、ヴァレエフは残り短い命を燃やしていた。
「――ヴァレエフ様っ!」
大理石の床を走り、駆け寄って来る切迫した様子の職員。
「何事だ」
すぐに顔立ちを険しいものへと変えたヴァレエフは、表情を顰める。この時マンハッタンで起きていた出来事が、魔術師の王の耳に届いたのであった。
※
引き金を引いたのは、魔法が使えずに迫害を受けて来た大人たちであった。マンハッタン各地で同時に起きた銃の発砲が、彼らにとって抑圧されて来た反動の解放の発端となる。
「――魔術師を殺せ!」
「――魔法の光が見えたら撃て!」
「――子供も容赦するな!」
銃を持ち、武装した隔離された人々たちが各地で蜂起し、街を破壊するように暴動を起こし始める。アメリカのパトカーの赤と青のサイレンが各所で鳴り響き、たちまち警察官との武力衝突が始まった。
『こちら152。市民からの銃撃を受けた! 場所は11アベニュー!』
『121! 市民が自動小銃を所持している! 言動から魔術師を狙っているようだ!』
セントラルと呼ばれる、マンハッタン各地に散らばった警察官たちへ指令を送る、警察所本部。そこではマンハッタン各地から無線が一斉に届き、職員が対応に追われていた。
「何事だ?」
菓子パンを片手に、偉そうなバッジを付けた警察官が、オペレーターの女性の座る椅子の隣へ立つ。
女性オペレーターはホログラムを両手でタッチスライドしつつ、一人に対し、複数の警察官たちの相手をする。
『こちら109! 仲間が撃たれた! 増援が必要だ! 負傷者多数!』
「マンハッタン全域で、暴徒が発砲をしているそうです……!」
「銃だと? ロサンゼルス軍縮で銃は全面禁止のはずだ。連中はどこから掘り起こした?」
すでにアメリカ全土でも過去の遺産となっていた兵器の再来に、セントラルも動揺と混乱に包まれていた。
犯罪が起きた個所が赤く点滅する映像の地図も、ニューヨーク州全土が真っ赤に染まりあがるほどにまでなっている。
「近隣州の警察にも増援要請をしろ。このままでは、合衆国全域に暴動が広がる」
「は、はい!」
マンハッタン市街地では、市民を巻き込む激しい武力衝突が、各地で起こっていた。
「我々の自由の国を取り戻すんだ!」
「魔術師どもを許すな!」
車を挟んで銃を乱射してくる暴徒たちに、
「数が多すぎる!」
「アイツら、魔法が怖くないのか……!?」
何かの執念すら感じさせる暴徒たちが放つ銃撃に、一人、また一人と訓練を受けた警察官たちが撃たれていく。その都度、治癒魔法を味方に施すが、これでは確実に追い詰められていくだけだった。
銃撃を受けた車が爆発をし、市民たちが混乱し、逃げ惑う。警察官たちはそれらの保護も率先して行っていた。
「暴徒の詳細は!?」
「目標は魔術師を殺す事だ! 魔法式を展開した奴を見境なく撃っている!」
銃痕だらけとなったパトカーの影に隠れながら、警察官同士の切羽詰まった会話。これでは迂闊に魔法の発動も出来なかった。
「捨て身の特攻としか思えないが……連中、どこかに向かってないか?」
「あんな狂ってる連中に目的地があるって言うのか……? だとしたら墓だろ! あんな奴らは、魔法世界に必要ないんだ!」
「――魔術師だ! 殺せ!」
反対側の道路からも、大勢の銃を持った暴徒が迫って来て、警察官たちはやむなく攻撃魔法を発動する。
「早いところ破壊魔法の使用許可が欲しい! そうすれば、暴徒共も一網打尽に出来るんだが!」
手数で勝る暴徒たちに、マンハッタンの警察たちは苦戦を強いられていた。
※
マンハッタン各地で一斉に起きた暴動は、イースト川沿いに建つ国際魔法教会本部にもすぐにその知らせが届いた。
「隔離された人々が各地で暴動か」
自分がここにいたのは偶然と言うべきか、それとも必然だったと言うべきか。本部にいたヴァレエフは、早速、総会議場へ赴き、対応にあたる。
巨大な神の銅像が立つ総会議場には、すでに何名かの国際魔法教会幹部がおり、ヴァレエフが来るや立ち上がり、頭を下げていた。
表は純白。裏は漆黒のマントを翻し、ヴァレエフは中央の席に座る。
「状況はどうなっている?」
「マンハッタン各地で起きた反魔術師を掲げる暴動は、大勢の魔術師の被害者を出しながら、拡大していっている様子です。今までの散発的な暴動とは違い、今回は連中の武装状況を見て、組織的な暴動と思われます」
「組織……あるいは何者かが裏で糸を引いている可能性があると?」
「連中は銃による武装を行っております。すでにここ国際魔法教会本部にも、大多数の避難民が押し寄せています」
「……そうか。避難民は拒むな。受け入れろ」
杖を両手に握り、ヴァレエフは溜息を溢す。
「虚しいものだ。人がかつて平和を願い、世界各国が手放した忌むべき兵器を、人が破壊を願い、再びその手に宿して力とするとは……」
「ヴァレエフ様……」
国際魔法教会幹部が、ヴァレエフを一目見て、息を呑む。
誠次と話したときは優しかった表情はどこか遠くへ消え失せ、今は冷酷無慈悲に、魔法世界に生きる人々の頂点に立つ王としての険しい表情であった。
「至急、ホワイトハウスへ入電を。我々国際魔法教会は……魔術師は魔法の力をもって、暴徒と化した隔離された人々と対抗。必要であれば、破壊魔法の使用許可を出す。一刻も早く、魔術師たちを守るために、この暴動は我々が責任をもって食い止めなければならない」
「では抵抗する暴徒たちは?」
「……」
ヴァレエフは青くぎらついた視線を、周囲の魔術師たちへ向ける。白くぶ厚い髭に囲まれた口を動かした時、表情に迷いの色や、優しさは残っていなかった。
「魔法世界の為――皆殺せ」
「なんだか、本部が騒がしいですね……」
同時刻。控室に戻ろうとしていたクリシュティナが、本部内の職員が慌ただしく走り回っている光景を眺め、呟いている。電子タブレットも預けている為、外部の情報が一切入ってこないのだ。
「隔離された人々(アイソレーションズ)がどうとか言っているな……」
腰まである銀髪を左右に振るルーナも、少しばかり不安気な様子を見せている。
国際魔法教会本部で命を受け、暴徒狩りに乗り出した魔術師たちの実力は、圧倒的であった。
「《シェルプロト》!」
「破壊魔法を発動する。直線上にいる味方は、避難しろ。《ルーチェランチャ》」
イタリア製の破壊魔法。それは国際魔法教会本部までに至る道路を埋め尽くすばかりの、大きな光の槍となり、銃で立ち向かう隔離された人々へと放たれる。人のみを浄化する恐ろしい光の槍は、直線状にいた暴徒たちを瞬く間に消滅させた。
「数だけは多いな……。しかし、魔法の前では貴様らの抵抗など無意味だと言う事を、思い知らせてやる」
「化け物が! ふざけるな!」
「やがて世界は完全な魔術師のみの魔法世界となる。そうなった世界に、貴様らは必要ない。生きられていただけで感謝するべきものを……!」
「お前たちなんかが生まれて来なければ俺たちは自由だった! ゛捕食者゛なんかもお前らが生まれたから出て来たんじゃねえのか!?」
両者の溝は深く大きく、もはや修繕不可能なところまで来ているようだった。
一瞬の隙を見せてしまった、国際魔法教会幹部の頭部に、赤黒い線を描いた穴が開く。頭部に被弾した国際魔法教会幹部は、即死であった。
「っ。――《ダインスレイヴ》!」
仲間の死を間近で見たミハイルは、躊躇することなく、破壊魔法を発動。円形の魔法式から無数に浮かんだ、幾つもの禍々しい形をした魔剣を、暴徒たちへ向け放つ。
車の影に隠れようが、ビルの角に隠れようが。ミハイルが放った魔剣は急旋回を繰り返し、もれなく人間の胴体や頭部に突き刺さる。まるで、生き血を探して彷徨う亡霊の刃のように。
「国際魔法教会の魔術師か!? 助かった!」
苦戦していた警察官たちが、国際魔法教会の魔術師たちを見て、一斉に歓喜する。
「俺たちの自由の為に!」
「諦めるな! 魔術師を追い出せ!」
それでも数を増やし続ける暴徒たちの群れは膨れ上がり、魔術師たちへ向け銃を乱射し続ける。
「《プロト》。……あれは?」
冷静に銃弾を防いでいたミハイルの視線の先で、一人の国際魔法教会の職員が、混乱するマンハッタン市街を、スーツ姿で隠れながら走っている。その男性職員が両手に持つ黒い袋に、ミハイルは見覚えがあった。
「あれは……剣術士が本部で背負っていた物……。レーヴァテインか!?」
「ミハイル!?」
仲間である国際魔法教会幹部が、走り出していたミハイルの背に向け叫ぶ。
「セントラルパーク方面は危険だ! 暴徒たちの数も多く、味方も少ない! いくらお前ほどの魔術師でも一人では危険だ!」
「オルテギュア滅亡の日に比べれば、造作もございません。すぐに戻ります」
ミハイルは冷静に言い放つと、踵を返し、戦火の真っ只中へと向かう。
レーヴァテインを持つ男性職員は怯えた様子で悲鳴をあげながらも、ビルが崩れた瓦礫の向こう側へと見えなくなってしまう。
(何をやっている剣術士っ! 俺の代わりに姫と妹を……クリシュティナを守るのだろう……!?)
内に秘めた思いを、伝えられない歯痒い気持ちを噛み殺し、ミハイルは単身、戦場の中の男性職員を追い掛ける。向かう先に黒煙を纏って聳え立つのは、マンハッタンに建てられた、キルケー魔法大学であった。
それがあるセントラルパーク付近にまで、暴徒たちは迫って来ていた。
「今治療します!」
セントラルパーク内部の敷地にある、キルケー魔法大学の中庭で、桐野が治癒魔法を発動する。彼女以外にも、キルケー魔法大学にいた学生たちは、次々と運ばれて来る負傷者たちの治療にあたっていた。緊急時の避難場所に指定されているのもあるが、ここは魔術師たちにとっての城でもあった。
「また負傷者だ!」
運ばれて来たのは、白髪を生やした老人だった。
「こいつは魔術師じゃない! 後回しだ!」
英語での悲鳴や叫び声が響く中、桐野も一心不乱に対応する。
「怪我人にそんな事は関係ないはずです!」
「こいつを治療してなんになる!? 体内魔素も限りがある! 魔術師の治療が最優先だ!」
「貴方たちがやらないのであれば、私がやります!」
「っ。勝手にしろ」
桐野がしゃがみ、治癒魔法を発動する。
「すまない……異国の人……」
老人は攻撃魔法の直撃を受けたのか、腹部が服ごと切り裂かれているようで、なみなみと流血していた。
「構いません……」
桐野は顔にこびり付いた血を拭う事もせず、真剣な表情だった。
今も大学のすぐ外では、大規模な武力衝突が行われているようだ。爆発音や銃声。そして、魔法式の完成と発動を告げる甲高い音。その両者が重なった結果、間違いなく流れるのは、街を埋め尽くすほどの赤い血だ。
「数が多すぎる! このままじゃ、大学構内にも暴徒がなだれ込むぞ!?」
防衛に当たっている魔術師たちが、徐々に押され始めているようだった。
「き、きりりー……」
黒煙と灰に包まれつつある中、沢田が桐野の傍で胸に手を添え、泣きだしそうになっている。見れば多くの日本人学生も、ここにはいた。
混乱の場では、どうしても人種同士の固まりは生まれてしまう。元生徒会副会長としても、桐野はこの場の日本人リーダー的な役割となっていた。
「落ち着いて下さい沢田さん。ヴィザリウス魔法学園で学んだ通り、慌てては駄目です。もしも目の前に脅威が来たら、落ち着いて防御魔法を。いいですね?」
「う、うん……」
「私たちはヴィザリウス魔法学園でしっかりと魔法を学んで卒業したんです。誇りを持ってください!」
多くのヴィザリウス魔法学園からの入学者もいるここでは、桐野や沢田以外にも防衛や人命救助活動に参加している日本人魔術師がいた。
※
ヴァレエフら国際魔法教会の重鎮たちがいる国際魔法教会本部の総会議場にも、報道映像によりマンハッタン市街の様子が入って来た。
「どうしてこうなった……。この世の地獄だ……」
ビルから黒煙や赤い炎が至る所で昇り、カメラがズームするたびに映る市街の細かな様子は凄惨を極め、誰かがうわ言のように呟く。今もまた、暴徒が放った銃弾により魔術師が倒れ、今度は魔術師が放った魔法により、暴徒が倒れていく。
「まるで、失われた夜の日の再来ではないか……」
当時を映像資料でしか見た事がないであろう、幹部たち。しかしヴァレエフだけは、違った。
「過ちを、ましてや゛捕食者゛ではなく人同士で、繰り返すというのか……」
当時を回想する青い瞳に、杖を掴んでいる両手が自然と震え、またヴァレエフが呟いた言葉にも、幹部たちは動揺をする。
「収束の目処は立たず……。かつてない規模の暴徒たちの連動した動きを見るに、マンハッタンの中でも二つの施設を狙っているものとみられます」
眼鏡を掛けた国際魔法教会幹部が、ヴァレエフと幹部たちを挟んで総会議場の中央に立ち、マンハッタン市街の地図をホログラムで浮かばせる。
「一つはここ、国際魔法教会本部。魔法世界の象徴であるこの建物を占領する思惑かと」
幹部の説明と共に、暴徒たちの侵攻ルートに線が引かれていく。点滅する線は、イースト川沿いの国際魔法教会本部へ向け、西南北から伸びて来ている。一方で、東からに侵攻はないようだった。
「東。ブルックリン方面からの暴徒はいないのですか?」
女性幹部の言葉に、説明をしていた幹部は「はい」と頷く。
「ブルックリンからの侵攻ルートはただ一つ。イースト川水中の真夜中の王の通り道を通る他ありません。あそこは政府がいち早く隔壁封鎖しました。魔法を持たぬ連中では、突破は不可能でしょう」
「ではそちらは安全だな」
東にあるキングス・ミッドナイト・トンネルを通れば、国際魔法教会本部は目と鼻の先である。しかしそこはすでに封鎖されており、国際魔法教会は西南北へ戦力を集中させていた。
「特に攻勢の激しい南へは、ミハイル・ラン・ヴェーチェルを始めとした精鋭の魔術師たちへ守備に当たらせています。確かに暴徒の数は多いですが、所詮は烏合の衆。我々には魔法の絶対的な力があります。殲滅は時間の問題でしょう」
それに、と眼鏡を光らせた幹部はほくそ笑む。
「いずれにせよ此度の暴動、夜には収まりましょう。゛捕食者゛の前には連中は無力です」
「確かにな」
ヴァレエフも肯定する。
「もう一つの目的地ですが、こちらの侵攻ルートを見るに、セントラルパークへ向かっているものかと推測できます。狙いは間違いなく、キルケー魔法大学」
新たな矢印が浮かび上がり、そこへは東西南北の方向から包囲するように、終着点となっている広大な敷地へ向かっていた。
「こちらでは主に現地の警察官と、キルケ―魔法大学の学生たちが防衛に当たっています。避難民も多く抱えているようです。戦力を見れば、手薄はあちらかと」
いかがいたしますか? と幹部の問うような視線が、ヴァレエフへと向けられる。
総会議場の全員とも、ヴァレエフの一挙手一投足に注目していた。
「国際魔法教会本部の防衛が第一です。迂闊に限りある戦力を回して、分散させるわけにもいかない。キルケー魔法大学はこのまま囮にするのが一番かと」
幹部の誰かが言った非情な言葉に、
「正気ですか!? 暴徒がキルケー魔法大学の魔術師に何をするか分かりません!」
「夜まで耐えれば良いだけの話だ。それに、万が一にもここが陥落してしまった暁には、我々の理想とする完全なる魔法世界への道が大きく後退し、あろうことか、隔離された人々の力を誇示してしまう結果に繋がりかねない! このままではマンハッタンのみならずアメリカ全土……いや、世界各国で革命が起きるぞ!」
「魔術師を守り、次の世代へ繋げるのが我々の使命のはずだ! こんな大規模な暴動……このままでは向こうは陥落してしまいます!」
幹部同士が議席から立ち上がり、中腰の姿勢で言い合いを始める。
「ヴァレエフ様! ご英断を!」
「早まってはなりませぬ、ヴァレエフ様!」
戦力を割き、キルケー魔法大学へ援軍を送るか、否か。ヴァレエフは二つに一つの決断を迫られていた。
騒然とする議会場の、遥か高い天井。そこに描かれたとある女神の顔を這うように、一匹の蜘蛛がかさかさと動いていた。それは、魔法で作られた存在、眷属魔法によって生み出された使い魔であった。
※
黒煙が立ちこめるマンハッタンの光景は、イースト川を挟んだブルックリン方面の川沿いからもよく見えた。封鎖されたキングス・ミッドナイト・トンネルに至る道路には、多くの乗り捨てらた車両があった。
それらを埋め尽くすほどに集合していたのは、圧倒的な人の群れだった。
「……!」「……!」「……!」
まるで合戦の出陣前の兵士のように、血走った目で白い息を吐きながら、その時を待つ群衆。彼らの先頭には、隔壁封鎖されたキングス・ミッドナイト・トンネルの入り口前に立つ一人の、漆黒の人影があった。
「諸君、陽動は成功した! 魔術師は王の通り道を封鎖し、安心したきゃつらは戦力の大半を、我々がいるブルックリン方面から避けた! 好機は今だ! 我々の自由を取り戻す為、突き進め! 倒れた仲間の無念を背に、魔術師たちへ思い知らせるのだ!」
黒い外殻装甲を身に纏った腕が、天高く突き上げられ、鬨の声を上げる。魔法でもびくともしないようなぶ厚い隔壁へ、黒い装工を身に纏った男が手をかざす。
「番犬……。お前の守るべきものは、魔術師によって地獄へ送られた人たちだ……!」
パワードスーツに包まれた右手に膨大な力が収束し、男の動きと共にそれが解き放たれる。突き出した右手の接触点から、隔壁に蜘蛛の巣のようなひびが広がっていき、真夜中の王の通り道へ至る扉が崩れ落ち、解き放たれた。
遥か空高く。ブルックリンに聳える高層ビルの屋上から、番犬が扉を破壊する眼下の光景はよく見えた。隔壁を破壊されたトンネルへ、マンハッタンの暴徒たちの総数と同じほどの隔離された人々が、なだれ込んでいく。彼らはイースト川水底の長い距離を通り、未だ健在する国際魔法教会本部へと侵攻するのだ。
「冥界の番犬が王の元へと向かった。魔法の国を守護する番人は再びその身を燃やし、魔法世界と魔術師を、剣術士として守る……」
数多のヘリコプターが旋回し、生み出す焦げ臭い風を浴びながら、高層ビルから足を出して座る少年は、楽し気に微笑む。すぐ傍に置いてある味のしない食べかけのリンゴが、燃え盛るマンハッタンからここまで到達する灰を受け、黒ずんでいった。




