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三月も残り僅かとなり、東京もだいぶ暖かく感じる日が増えて来た。街に植えられた桜も、満開とまではいかないが蕾を開き始め、漂う柔らかなピンク色は、春の訪れを感じさせる。
「一雨来そうね……」
歩きながらふと天を見上げれば、鼠色の雲が漂っている。春に吹くと言われる東風が、広大な太平洋を挟んで遠く離れた地アメリカから、こちらに雨雲でも寄越したのだろうか。
ローブのような黒いコートを着る香月詩音は自然と、首元まで手を伸ばし、今はそこになかった物の存在に気付く。寒い日、いつもは首にあるお気に入りの赤いマフラーは、暖かくなったから押し入れに仕舞ったのでも、何処かへ失くしたのでもない。
向こうはまだまだ寒いだろうから使ってくれるだろうと、遠く離れた異国の地に旅立った男の子に、預けているのだ。
当然、ただ貸しているだけなので、返してもらわなければ困る。必ず、帰って来てくれないと――。
「傘を持ってきた方が良かったかも」
今日一日はバイトのシフトを入れてあり、バイト先である駅前の喫茶店へ向け、香月は一人で歩いている。春休みの期間中、桜庭と篠上と千尋の三人と共に魔法の鍛錬をし、部活探しもした。
結局部活は、自分が運動神経が皆無な事と、そもそも集団行動に向いてはいなかった性格から、断念した。貴重な経験をさせてくれた事と、一生懸命部活探しを手伝ってくれた三人には感謝をしているし、先輩たちも同級生も良くしてくれた。だからこそ、中途半端な時期に自分が部活動の輪に入って、気を遣わせてしまうのも申し訳がなかった。
「?」
交錯し、通り過ぎていく自転車を避けて歩いたところ、香月は街路樹の茂みに捨ててあった大きな段ボール箱を見つける。
「ひろってください……?」
まるで隠すように置いてあった段ボールには、張り紙が適当に貼り付けてあり、黒のマジックペンでそう書かれていた。
「犬……?」
本来は栗毛色だったのだろう、所々黒く汚れてしまっている毛並みは、可哀想に何日間も洗えてもらっていないようだ。小さい犬種のようだが、体躯はそれなりに大きく、おそらく成犬となってから飼い主に捨てられてしまったのだろう。
「貴方……もう片目が開かないの……?」
通り過ぎていく人たちの視線を背に、しゃがんだ香月は、怯えているような犬にそっと手を伸ばす。
香月を警戒している犬の右目は開いておらず、よく見ると、目元の毛も禿げてしまっている。暴行でも受けてしまったのだろうか。
「このままじゃ、雨に濡れちゃうわ」
どうにかしてやりたいが、自分の寮室に他のルームメイトの許可なく持ち運んでしまうわけにもいかず。ひとまずは温かい場所に運んでやろうと、犬が入っている段ボールごと持ち上げようと両手を伸ばした香月だったが。
「ワンッ! ワンッ!」
「きゃっ」
香月の接近を許可しようとはしない犬が、威嚇とばかりに吠える。
小さな悲鳴を上げ、香月は手を引っ込めていた。身体が震えるが、すうと、息を深く吸って深呼吸をする。
「……風邪ひいちゃうわよ」
まるで犬と会話をするように、香月は声を掛ける。
犬は唸り声をあげ、香月を……人を完全に敵視していた。
香月は周囲をきょろきょろと見渡した後、おもむろに電子タブレットを起動する。少なからず人目を集めてしまっているし、もうすぐバイトの時間だ。
「困ったわ……」
逆立った三本の毛束が特徴的な犬を何処か放っておけず、香月はとりあえず、近くのコンビニに駆け込む。
「いらっしゃいませー」
「これ、温めてください」
とりあえず目についたドッグフード缶を一つ、コンビニ店員に差し出す。
「えっ。で、でもこれ、ドッグフード、ですよ?」
「はい。温めて下さい」
電子マネーで支払いながら、香月は至って真面目に店員と受け答えをしていた。
コンビニから出た香月は、すぐに犬の元へ戻る。
「温めたから、美味しいはず」
しゃがみ、今度は温めてもらったドッグフード缶を犬に差し出す。
犬は、湯気が立っているそれを一瞥すると、今度は香月の綺麗な指先に勢いよく嚙み付く。
「痛っ!」
ドックフード缶をひっくり返し、香月は慌てて手を確認する。痛みは一瞬だけだったが、ぷつりと肉が切れ、真っ赤な血が雫となって溢れて来た。
「……もう」
香月は治癒魔法を使い、すぐに傷を修復する。地面にまき散らしてしまったドッグフードは、物体浮遊の魔法を器用に使ってすくい上げ、ビニール袋へと入れる。
「……そんなに嫌なら、もう良いわ。貴方の事なんか、もう知らない」
軽く頬を膨らませた後、すぐに無表情へと戻った香月はスカートをはらいながら立ち上がり、捨て犬に背を向ける。
「さようなら」
ぼそりと呟いた後、一歩、二歩と歩き出す。
「ワフ」
犬は、ようやく奇妙な銀髪少女が去ったと安堵したように、再び段ボール箱の中で丸まろうとしていた、が。がさごそと、急に段ボール箱が動き出す。
「ワン!?」
「――本当に見逃すとでも思ったのかしら?」
犬が慌てて段ボール箱から顔を出すと、なんと離れた所から、香月が魔法式を向けていた。
「私がしたのはそう……フェイントよ!」
香月は犬を相手に、勝ち誇った表情を見せる。
「ワンワン!?」
「卑怯だと思ったかしら? でも……これが人間のやり方なのよごめんなさい!」
「キャフンッ!」
香月の罠? に見事にかかった犬は、物体浮遊の汎用魔法で浮かされた段ボール箱ごと、運ばれて行くのであった。
段ボール箱を、配達員よろしく魔法で持ち運ぶ香月は、それはそれは周囲の人から変な目で見られていた。雨が降らぬうちに、香月は急いで駅前の喫茶店へ駆け込む。
「あのっ」
からんからんと、ドアベルの音を立て、香月がお店に辿り着く。
「あれ、どうしたの香月ちゃん」
立っていたのは、ちょうどお客様からのオーダーを受け取っていた様子の、南野千枝だった。腕まくりをしたチェック柄のシャツに、手元にオーダー票を持っていた。
「まだ時間じゃないよ?」
南野は腕時計を確認しながら、きょとんとしている。
肩を上下させ、深く息を吸い、呼吸を整えた香月は、南野をじっと見つめ上げ、
「拾ってやって下さい!」
「何をっ!?」
香月が持ってきた犬は取り合えず、従業員たちが使う二階の休憩室へと移された。片眼が開いていない犬は、まだ警戒しているのか、段ボール箱から一向に出ようとはしない。
「それにしても驚いたよー。急に段ボール浮かばせた香月ちゃんが、拾ってください! ……なんて叫んで来たから、家出したと思ってさ。あ、寮だから寮出?」
「焦っていて……。お騒がせして、申し訳ないです……」
バイトの時間には間に合ったので、香月はまだ私服姿のまま椅子に座り、恥ずかしさを誤魔化すように、コップに入った温かい紅茶を啜る。
「気にしなさんな。私がオーダーミスった分はきっちり働いて返してもらうから」
ニヤリと微笑む南野に、
「本当にごめんなさい……」
「い、いや冗談冗談……」
申し訳なく頭を下げる香月へ、南野は慌てて両手を振っていた。
休憩室の窓の外にはちょうど、花を咲かしている桜の木が見える。店内のBGMが、およそ百年以上前に伝説的人気だったと言う英国の四人組バンドの曲へと切り替わる。曲のチョイスは、店長の趣味だそうだ。
「でもどうしたもんかねー、このワンちゃん。めっちゃ警戒しちゃってるし……」
南野も近づいてみるが、段ボール箱から返って来るのは、相変わらずこちらを威嚇する鳴き声だった。
「持って来るべきではなかったでしょうか……?」
「ううん。見捨てるなんて出来ないっしょ」
南野は腰に手を添え、捨て犬相手にすっかりやってやる気になっている。
対する捨て犬は、香月と南野に興味ないようで、明後日の方向を向いて大きく口を開き、欠伸をしていた。ある意味、リラックスしていると言うべきか。
「この子、片目開いてないじゃん……」
南野も気になったようで、犬を見て言う。
「はい。おそらく、前飼っていた人に……」
「なるほどね。それで、人が嫌いになっちゃったのかも」
段ボール箱の外側に、水の入ったボウルと、店にあったビーフジャーキーを皿の上に乗せて出してやる。
「まったく。この時代、人間だってただでさえ生きていくだけで大変なのに、動物飼うんだったらちゃんと責任持ちなさいよね。あんたもそう思うよねえ?」
南野が犬に声を掛けるが、犬は無視を決め込んでいる。
とりあえず温かい所には移せた。他の従業員に迷惑を掛けるわけにはいかないので、香月も着替えてエプロンを身に纏う。
英語の音楽が鳴り響く喫茶店。そこから見える窓の外の桜の木の上。鼠色の雲は、ぽつりぽつりと、無数の水滴を落とし始めていた。
※
アメリカ合衆国、ニューヨーク州マンハッタン、国際魔法教会本部地下。
査問会が終わった誠次とルーナとクリシュティナは、控室まで戻り、付き添いの教師として共に来た百合と合流する。
「そうだ、ありがとう誠次。コートを返す。とても温かった」
「ああ」
通路を歩く途中、ルーナが持っていたコートを返却され、そう言えばと誠次も渡していたことを思い出し、受け取っていた。
晴れやかな表情を見せるルーナの一方で、クリシュティナが少々浮かない顔立ちをしている事にも、気づく。
「クリシュティナ? 大丈夫か?」
「……っ、はい」
「クリシィ……」
クリシュティナを見て、何かに気づいたようなルーナが、そっと口を開く。
「お兄さん……ミハイルさんがいたな」
「クリシュティナのお兄さんが会場に?」
正直、査問会場にいた人々の顔は、ヴァレエフを除いてあまり覚えていない。相当緊張していたので、少しでも気を抜けば意識が真っ白になりそうになっていたからだ。
「私は、ヴェーチェル家の、恥……」
「気にするなクリシィ。クリシィが日頃から頑張ってくれていることは、私が何よりも知っている」
胸に手を添えて意気消沈してしまっているクリシュティナを励ましたのは、肩に手を添えて微笑んでやっているルーナだった。
「ありがとうございます、ルーナ。私もルーナの傍にいれて、本当に良かったです」
二人は国際魔法教会の保護から正式に抜け、晴れてヴィザリウス魔法学園の゛普通の魔法生゛と言う身分を得ることが出来た。今後はこのような無理矢理な召集も、なくなるのだろう。
「そうだ。どっちみちホノルル行きの飛行機は明日だし、お兄さんに会ってきたらどうだ?」
誠次が提案する。
「い、いえ。これ以上、私個人の問題で、誠次たちを引っ張るわけにはいきませんから……」
「気にしなくていい。次いつ会えるか分からないんだし、会える内に会っておいた方が良いって。話したいこととか、いっぱいあるだろ?」
「――私も会っておいた方が良いと思うな」
誠次の後ろからそう言葉を重ねて来たのは、百合だった。
「私だって、ちゃんと弟と会えないのは寂しいし……。だから今のうちよ、クリシュティナちゃん」
「しかし、私は……」
未だ踏ん切りがつかないようで、クリシュティナは俯いてしまう。
「別にクリシュティナが嫌だったら、強制するわけじゃないけど」
しかし誠次は、クリシュティナが兄であるミハイルの事を、とても慕っているのを知っていた。大晦日の時や、旅館での会話で、それは本人の口が語らずとも分かることだった。……色々な意味で、身に染みて。
最終的にクリシュティナは、誠次の黒い瞳を、自身の赤い瞳でじっと見つめた後、何かを噛み締めるように瞼を閉じる。
「……ありがとうございます、誠次……。ちゃんと会ってきたいと、思います」
「なら、私が一緒に行こう。ミハイルさんには、オルティギュア王国陥落の際に脱出の手助けをしてもらったしな。お礼も言いたい」
ルーナが名乗り出て、クリシュティナも「お願いします」と頷く。
「じゃあ俺と百合先生は先に控え室に行くよ。デンバコはともかく、レヴァテインも返してもらわないと落ち着かないしな」
「では……すぐ貴方の元へ戻りますから、誠次」
クリシュティナとルーナを見送り、誠次と百合は荷物が置いてある控え室へと、ひとまず戻った。
「二階から見てたけど、すっごく逞しく見えたわよ、誠次くん。お疲れ様」
「ありがとうございます。でも、最初は本当に緊張して、追い詰められていた二人を見て焦っていて……。ヴァレエフさんが来てから、不思議と落ち着けたんです」
「この魔法世界を統べる王様と対等で話せるなんて、凄いことだわ。二階にいた私でさえ、届いてくる気迫が凄くて何も言えそうになかったもの」
「……」
過去に両親と親しかったから、だろうか。数奇な廻り合わせもあるものだと、誠次は感じていた。
「とにかく、うーんっ。……これでようやく日本に帰れるわねー。愛しの我がふるさと、って言った感じかな」
百合はリクルートスーツの堅苦しさが嫌だったのか、ベッドの上に座り、大きく伸びをしている。
イレギュラーこそあったものの、無事に引率任務を終えたので、百合も晴れやかな表情を見せている。ヴィザリウス魔法学園の職員室で、きっと胸を張れることだろう。
誠次も誠次で、込み上げた達成感に自然と微笑み、生まれ故郷へ帰れる事への喜びを噛み締めていた。
「俺の故郷か……」
大まかな話は聞けたのだが、具体的な話は出来ないまま、ヴァレエフとは別の道を行くことを決めた。今さら後に引くつもりはないが、せめて、世界がどうこうと言ったような物騒なものではない会話だけでも、もう少しはしていたかった。
「それにしても、デンバコがないと暇も潰せないわね。ルーナちゃんとクリシュティナちゃんが戻ってくるまでの間、二人で何しようか誠次くん?」
にこりと微笑む百合に、
「そうですね――」
誠次は顎に手を添え、真剣な表情で、思いつく。
「日本に帰ったらしたいこと、順々に挙げていくのはどうでしょう?」
「……それ、余計に虚しくなりそうじゃない……? 最低でも、帰るまで二日かかるのよ……?」
「……確かに」
※
「――はい。ミハイル・ラン・ヴェーチェルと言う、男性です。彼に会えないでしょうか?」
その頃、クリシュティナ・ラン・ヴェーチェルは、国際魔法教会本部ロビーの受け付け前にいた。
「アポイントメントは?」
お世辞にも愛想が良いとは言えない女性受付職員は、クリシュティナに訊き返す。
「とっていません……」
その受け答えだけで、受付の職員は分かりやすく鼻息を出す。
「国際魔法教会の幹部はその崇高な使命を果たす為、日夜平和維持活動に勤しんでいます。いくら血縁者を自称したとしても、せめてアポイントメントを取るのが゛一般人゛から見ても常識だと思いますが」
「ずっと連絡もとれなくて……」
「離れ離れの家族など、この世界中にどこでもいます。貴女だけが特別ではありません。これは無礼な真似ですよ?」
後ろで黙って聞いていたルーナが、怪訝な顔をするが、職員の表情は変わらずどこ吹く風だった。
「クリシィ。もう……」
ルーナが後ろからそっと声を掛け、クリシュティナを引き下がらせようとしたが。
(姫、上ダ)
「上?」
身体の中にいるファフニールに声を掛けられ、ルーナは顎を上げる。
ドーナツ型となっているロビーの二階部分を、大勢の国際魔法教会幹部たちが歩いているところだった。
ルーナは目の前で気落ちしているクリシュティナの背中を一瞬だけ見つめ直し、コバルトブルーの視線を幹部たちへ向ける。角度的には、一階の受付前にいるこちらからはちょうど顔が見えるぐらいだったが。
「ミハイル・ラン・ヴェーチェルさんはいるかっ!?」
クリシュティナの為、ルーナはなりふり構わず大声を出す。
「ルーナ!?」
クリシュティナからすれば、突然背後でルーナが叫んだようなものなので、驚くのも当然だった。
周囲の通行人からも、静かだったロビー内で叫んだルーナは好奇の目で見られている。しかし、場慣れしている様子のルーナは大胆不敵な表情で、多くの幹部たちがいる二階を臨んでいた。
「――はしたない真似をルーナ姫。ご自身のご身分をお考えください」
間もなく、幹部たちの中から、美しく目鼻立ちが整った容姿の青年が、顔を出す。王家のもののような艶のある銀色の髪に、妹と同じワインレッドの瞳。ミハイル・ラン・ヴェーチェルだ。
「生憎、私の祖国はすでに滅び、今はヴィザリウス魔法学園の1-A所属の魔法生として国際魔法教会に呼ばれ、ここにいるのです」
「……その勇ましい性格は、どうも昔から変わらない気がしますが」
「クラスメイトとして、大切な友だちの為に、お願いします。妹に……クリシュティナと会ってやってはくれませんか?」
ルーナとしては久しぶりの、ロシア語での会話だった。
「……」
ミハイルは無言で、一階へ向け冷たい赤の視線を送る。
「お兄様……」
一歩二歩と下がったクリシュティナが、瞳を潤ませ、二階のミハイルを見上げる。
「話すことなど、特にはございません」
妹の自信なさげな顔を見たとたん、端正な顔立ちを歪ませるミハイルであったが。
「――良いではないか、ミハイル」
ミハイルらの後方から、ヴァレエフ・アレクサンドルが、数名のお供を従えてやって来ていた。
ミハイルたち幹部は、ヴァレエフを一目見るや、すぐに頭を下げていく。
「っ! ヴァレエフ様、しかし……」
「せっかく生き残れた兄妹だ。それに、魔法が生まれてから国家間の親密は深まったが、人同士の距離はむしろ遠くなっている。今のうちだ、会って話をしておきなさい」
「……は」
優しい表情をする国際魔法教会の最高指導者に言われ、ミハイルは未だ少しだけ躊躇をしつつも、二階から顔を出す。
「今からそちらへ行く」
「……はい」
返事をしたクリシュティナは、喜んでいるというよりは、やはり少し緊張しているようだった。
一階のロビー、机を挟んでソファがある極めて簡素な待合スペースで、座って待っていたクリシュティナはミハイルと再会する。
お膳立てをしてやったルーナは気を遣い、神殿の柱に背を預け、胸の前で腕を組んで立っていた。
「お久しぶりです……お兄様」
血の繋がっている兄を相手に、クリシュティナは緊張に緊張を重ね、背筋をぴんと伸ばして口を開く。ヴィザリス魔法学園の女子制服のスカートのしわを、何度も何度も無意識に手で伸ばしながら。
「さっきは恥と言ってすまなかった、と訂正する気はない。お前はヴェーチェル家の使命を手放した」
向かいのソファに座る姿勢こそ同じく良いものの、ミハイルはクリシュティナを睨むようにして、答える。
「……゛ただの一般人゛としてなら、久しぶりと言ってやろう。……昨年にも、会ったがな」
「あの時は……時間もありませんでしたし、事務的な対応でしたので……」
「それはお互い様だったはずだろう。話したいなどと言う個人的な感情は、あの時は無かったはずだ。お前が国際魔法教会に籍を置いていたと言う事もあっただろうが……」
ミハイルは湯気が立っている手元のコーヒーが入ったカップをじっと見つめてから、若干縮こまっているクリシュティナをじっと見る。
「日本での生活で、お前は変わったんだな」
「皆さんには、良くしてもらっていますから……。お兄様は、それがいけない事だと思いますか?」
意を決した様子で、クリシュティナはミハイルに質問をする。
少しばかり答えに時間が掛かったミハイルは、クリシュティナから一旦視線を外し、国際魔法教会本部内を見渡す。
「……さあな。俺から言う事は何もない。ただ……」
「ただ……?」
逸らしていた切れ長の瞳を、ミハイルはクリシュティナへと戻す。
「……あんな力強い表情も、出来るんだなと思った。いつも後ろで隠れているだけだった記憶の中のお前が、あの議会場で姫を守るために声を張り上げた」
「私はまだ、守ってもらってばかりなのです……。だからせめて、私が守りたいと心から思う人を守りたいと思うのです」
「あの剣術士のこと、か」
ミハイルは先ほどの出来事を思い出すようにして、言う。
クリシュティナは迷う事もなく、はいと頷いていた。
「天瀬誠次は……私や私のかけがえのない大切な友だちを救って、守って下さいました。ヴィザリウス魔法学園の皆さんも、過ちを犯した私を許してくれた……。だから私は、日本で彼らの傍にいて、その時がくれば今度は、私が守るつもりです」
「お前が決めた道だ。俺がとやかく言うつもりもない。何度も言うが、お前はもう国際魔法教会とは一切関わりがない人間だ」
否定も肯定もせず、ミハイルは告げる。
「……お兄様は、昔から変わらないままだと思います」
少しだけ寂し気に、クリシュティナは言っていた。
唯一そこだけが、他愛のない兄妹の会話だったような気がする。まるで兄のミハイルは、妹のクリシュティナを遠ざけようとしているようで、ならなかった。
会話が少しでも途切れたのを感じるや否や、視線を合わせようとはしないミハイルはすぐに立ち上がり、急いでクリシュティナも、立ち上がる。
「お、お兄様っ。もう、行かれるのですか?」
「本部へ無理やり呼ばれて、こちらを恨んでいるのなら謝ろう。そして、もうここに用はないはずだ。早く帰るべきところへ帰れ」
「う、恨んでなどいません……! どうかお元気で、お兄様っ。連絡は取り合え――その気はないですよね……」
必要以上にも感じる兄の厳しさを受け、クリシュティナは悲し気に赤い瞳の視線を落とす。
「もう、俺とは関わるな」
ミハイルは国際魔法教会の黒と白の制服の襟を正し、踵を返して歩き出す。
「ミハイルさん」
ルーナの前を通り過ぎる時、ミハイルは軽く一礼をする。
「私は祖国を……オルティギュア王国を忘れているつもりではありません。私は彼らの無念を、この身に背負いながらも、前へと進むことを決めたのです」
「……何度も言いますが、私から言う事はありません。私の言葉は、国際魔法教会としての言葉になりますので。ここまでご足労いただき、恐縮です」
ルーナの目の前を通り過ぎ、ミハイルは国際魔法教会の紋章を背に、歩いて行く。
「まったく。屋敷にいた時から感じてはいたが君の兄は、少し厳しすぎるきらいがあるな」
ミハイルの背を見送ったルーナは、ふうと、ため息混じりに呟き、立ち止まっているクリシュティナに声を掛ける。
「そうですね。でも、相変わらずのお兄様で、少しほっとしている自分がいるんです。……どうか、お身体にお気を付けて……」
私とルーナがいるべきところはここではない。自分のいるべきところで、新しい役目を果たせ――。妹は兄に遠回しで、そう伝えられたようだった。
「戻るか、クリシィ」
クリシュティナは、ルーナが心配しているよりは、いくらか穏やかな表情でいた。
「ありがとうございました。戻りましょうルーナ……彼の元へ。私たちの帰るべき居場所は、そこのはずです」
「クリシィ……そうだな。何よりあの先生と二人きりにさせるのは、何と言うか、少々不安なんだ」
「同感です。急ぎましょう」
そこの反応は早かったクリシュティナは、同じく急ぎ足のルーナと共に、誠次と百合がいる控室まで急いだ。
一方、国際魔法教会本部のとある区画通路では、誠次のレヴァテイン・弐を預かっていた女性職員が、とある国の代表者に詰め寄られていたところであった。
「そ、そんな。レ―ヴァテインを渡せだなんて、無茶苦茶です! ヴァレエフ様はこの剣を剣術士に返却するようにと言っておりました!」
女性に詰め寄る男性は、嫌悪の表情を見せる女性から引き下がるどころか、増々食い下がる。
「理由はどうとでもなる! もちろん、対価は支払う! あの剣を遺棄しなければ、我が国の国際的な立場は危うい! ようやく我が国も足並みを揃えられる時まで来たんだ!」
「ですが……」
「お前もあんな青臭い子供に、あの剣を保有させたままにして言いわけがないと思うだろ!? あの剣の本当の使い道は、誰かを守るためのものではないのだっ! 圧倒的な破壊の力なんだよっ!」
血走った目を爛々と光らせ、魔剣の持つ力に魅了された男は叫ぶ。
※
同時刻、マンハッタン市街地。連日、国際魔法教会本部の周辺では国際魔法教会……魔術師たちへ反感する隔離された人々によるデモ抗議活動が行われていた。無数の車が行き交う道路には、今もプラカードやビラが片付けられることなく残されている。いくら片付けても、民衆が通り過ぎれば、新たに増えているのが実情なのだ。
「おいジェームス」
「何だい、マイケル」
「今日はやけに静かじゃないか?」
「そうだなマイケル。こんな平和な日は早いところ帰って、お袋のミートパイが食べたいぜ」
「「ハハハ!」」
道路脇に停めたパトカーに手を付き、コップに入ったコーヒーを啜りながら、少し腰回りの大きなアメリカンポリス二人が会話をしている。いつもならば、どこかで暴動が起き、それを鎮圧するのがマンハッタン警察の毎日のルーティンワークとなっているのだが、今日に限ってはいつもの喧騒が嘘のように静まり返っている。
今このマンハッタンの光景だけを見れば、平和そのものであった。道を歩いている人も、魔術師なのだろう。
二人の警察官は呑気に欠伸をしていた。
「――゛お前は魔術師か゛?」
ふと、背後から英語でそんな事を言われた気がし、コーヒーを飲もうとしていた手をピタリと止める。
「? おいマイケル」
「何だい、ジェームス」
「今、お前は魔術師かって聞かれなかったか?」
「魔術師と隔離された人々の共通の合言葉か――?」
――パンッ、パンッ!
その時、魔法世界となったマンハッタンの市街地で、かつての世界の遺産である銃の乾いた発砲音が二回、轟いた。魔術師は隔離された人々に対し、隔離された人々は魔術師に対して使う、互いを隔てた魔法の言葉を合図に。
待つ人の元へ、誠次たちが日本へ帰るには、すんなりいくようではなかった。
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