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誠次たちがマンハッタンへ行っている間、三学年生が卒業し、一時的に生徒の人口が減った東京のヴィザリウス魔法学園は、春休みを迎えていた。新学期への準備の期間だが、クラス替えは行われないので、嫌がらせの如く宿題も出される。進級を控えた在校生たちは、それらの消化に追われる日々を過ごしていた。
「――みんな揃って、いったいどうしたのかしら?」
新入生の為に寮室を開ける為、新しい教室より早くから寮室は移動されている。よって一つ上の階の新たな寮室で、香月は恐る恐る寮室の玄関扉を開けていた。
三人のクラスメイトが、真剣な表情で立っているのだ。
「お願いこうちゃん!」
「……宗教は、お断り」
「違うよ!? セールスでもないからね!?」
扉を閉めようとする香月の手を握り、桜庭が慌てている。
「詩音ちゃんさんの魔法の腕は、トップクラスです。どうか私たちに、その術を少しでも教えてくださいませんか!?」
千尋が桜庭に加勢し、ドアをこじ開ける。
「急にどうしたと言うの……?」
「ただ、このままじゃ駄目だと思ったの。私たちも実戦レベル……それ以上の魔法に慣れておきたいの」
篠上もドアを抑え、これにて香月が引き籠る手段は完全になくなった。
「いまいち納得出来ないわね……。天瀬くんがアメリカに行ってしまったこの時期に、急に魔法の特訓をしたいなんて……」
「こ、こうちゃん! わ、分かるでしょ……?」
桜庭は頬を軽く膨らませ、香月を見つめる。
千尋も篠上も一歩も引く気もなく、香月を真剣な表情で見つめる。
少し意地悪をしてしまったかと、香月は口角を軽く上げる。
「……分かったわ。でもその代わり、道は甘くないわよ?」
香月の言葉を受けた三人は、うんと揃って頷く。
「じゃあ今から、私がスケジュールを考えるわ。春休み期間の集中特訓ね」
「す、スケジュールですか?」
千尋が少し不思議そうに、香月を見つめる。
「ええ。魔法の特訓は煮詰め過ぎてもよくないわ。個人の魔素の量や集中力はそれぞれ限界があるから、それの回復もちゃんと考えないといけないの」
香月は饒舌な口調で、三人に説明する。
「欲張りすぎてもよくないのね」
「そこが魔法の奥深いところよ」
篠上の言葉に、香月がアメジスト色の目を輝かせ、うんと頷く。
「ただ身体を動かすばかりの体育との大きな違いは、そこね」
「詩音ちゃんさんの体育に対する並々ならぬ嫌悪感を感じます……」
千尋が恐る恐るくちびるに手を添えている。
「それじゃあ今から私が三人分のスケジュールを作るわ。春休み中の部活の予定と、どうしても外せない用事がある日や時間帯を教えて欲しいのだけど」
香月はすっかりやる気で、三人に告げる。
三人もその気だ。すぐに電子タブレットを起動し、それぞれ部活のスケジュールを伝える。春休みに遊びに行く用事なども、三人ともなかった。
――数十分後。
「――スケジュールが出来たわ」
「「「早っ!」」」
演習場に集まった三人の前で、香月が電子タブレットで浮かばせたホログラムをこれみよがしに見せつける。
「これは皆の体調と休息の時間を十分に考慮した、計画的なものだから、安心して頂戴」
さながら何かの栄養管理士のように言い、香月は各員のスケジュールを、三人の手元の電子タブレットにそれぞれ転送する。
「早速だけど、今日は四人での合同訓練を開始します。みんな、集中して頂戴」
「「「はい!」」」
「良い返事ね。私もやる気がでます」
完全に役に染まっている香月の前、しかし三人ともに気を引き締める。言ってしまえば、勉強で言う学校の授業の他で学ぶ、塾のようなものだ。それは一概に言えば、受験や進学の為なのだろうが、この゛香月詩音先生゛による魔法戦の授業は、三人の少女にとってそれとはなんら関係のない、特別な意味を持つ。
自分や友の為でもあるのだが何よりも。今は遠く離れた地にいる彼の傍にいる為だ。
香月も、少女たちのその思いに応える為、気合いを入れているのだった。
「魔法戦において重要なのは、速攻の戦いよ。身を守るのも重要だけれど、守り続けていても敵には勝てないわ」
「攻めて攻めて攻めまくるのね」
得意だわ、と篠上が不敵に微笑んで腕を組むが、香月はいいえと首を横に振る。
「その一方で、やはり注意しなくてはいけないのは、魔素切れね。そうなると私たちは手も足も出なくなるから、強い威力の魔法を何発も連発すれば良いと言うわけではないわ」
「状況に合った魔法を使わないと、すぐに息切れしちゃうんだね?」
「ええその通り」
頬に人差し指を添えて言った桜庭の言葉に、香月は頷いて見せる。
「その意味では、隙を見て攻撃魔法を当てると言う戦法が一番かもしれないわね。もちろん、本城さんのように防御魔法が得意であれば、堅守速攻を生かした戦術も時には必要よ」
「……あの、申し訳ございません……。先ほどから詩音ちゃんさんの仰っている事がほぼほぼ理解できていないのですが……」
そろーりと、千尋が片手を挙げ、申し訳なさそうに言う。
「本城さんにも分かりやすく言うと、そうね……要するに、敵の攻撃を防いで隙あらば攻撃する。一切容赦はするな、ね」
「は、はいっ」
ごくりと息を呑みながら、千尋は青冷めた表情を見せる。
「例えば篠上さんが悪の幹部だった場合、本城さん。貴女は迷わず篠上さんと戦えるかしら?」
「そ、そんなっ。綾奈ちゃんが、敵だなんて……」
信じたくはありません……と千尋は、切なく目線を落とす。
しかし次には、何かの迷いを振り切るように、右手に力を込め始める。
「え、こうちゃん、ほんちゃん……?」
桜庭が何やら不穏な雰囲気を感じ、二人を交互に見る。
「千尋……ごめんっ」
篠上までもが、瞳を潤ませて右手に力を込めれば。
「なんか始まった!?」
唖然とする桜庭がいよいよツッコみ始める。
「綾奈ちゃん。ずっと友達だと思っておりましたのにっ!」
「私だって! 千尋なら分かってくれると思ってた!」
「迷わないで! もう二人は敵同士なのよ!?」
睨み合う二人の横で、香月が胸にぎゅっと手を添え、叫ぶ。
「あの時、私にソフトクリームの先端を恵んでくださったあの優しい綾奈ちゃんは、嘘だったのですか!?」
「いっぱいありすぎて覚えてないし、そもそも私が買った大半のソフトクリームの先端はいつも千尋に食べられてばっかだった気がする!」
「悪の幹部の方が被害者だったりする!」
「そう、食べ物の恨みは深いわ……」
桜庭がツッコむ隣で、香月が目を瞑って何やら納得している。
「それだけで悪の道に走っちゃったの!?」
「まだあるわ……。ゲームで私が苦労して見つけたレアアイテムを……千尋は何の苦もなく取ってみせたの!」
「それは……ごめんなさいちょっとよく分からないわ……」
「さすがのこうちゃんもゲームの事に関しては同情出来てない!」
難しい表情をする香月の横で、桜庭が声を張る。
「あの時はご、ごめんなさい綾奈ちゃん! レアアイテムだとも知らずに、こんなの拾っちゃいましたっ! なんて、まるで自慢するように見せびらかしてしまって」
「ゆ……許すわ!」
「優しい! 素直に謝るほんちゃんも、許しちゃうしのちゃんも優しい!」
「そんなんじゃ駄目よ! 二人は戦わないと駄目なのよ!」
「でもこうちゃんが許してはくれなかった! 厳しいっ!」
声を張り上げる香月の監督の元、三人の魔法戦の特訓は始まったばかりだ。
「詠唱は恥ずかしいかもしれないけれど、集団戦では必要な事。味方との連携の為にも、意識して」
「うん!」
両手で拙くだが、攻撃魔法を展開する桜庭の隣で、香月は指導をする。
「《エクス》!」
桜庭が展開した白い魔法式から、魔法の弾が放たれ、千尋の防御魔法の元まで向かう。
千尋を守る反り返った魔法の壁に≪エクス≫は着弾し、まるで魔素が分散するように、壁の四隅へと消えていく。
「ど、どう……?」
「莉緒ちゃんさんを思ってハッキリと申し上げます。……痛くも痒くもありませんでした」
「うわ……。手加減したつもりはないんだけどな……」
終始不安な表情を見せていた桜庭は、きっぱりと言い放った千尋の前で、とうとう項垂れる。
「威力が弱いってこと?」
「はい。綾奈ちゃんの方がなんと言うか、こちらとしても反動を感じました」
篠上が尋ねれば、千尋はええと頷いて答える。
「付加魔法も出来ない。治癒魔法もそこまで上手じゃなかったし、あたし、いったい何が得意なんだろ……」
「魔法は短所を補うと言うよりは、長所を伸ばした方が良いと言われているわ。そう考えると、悩みどころね……」
香月は顎に手を添え、桜庭をくまなく見つめる。
「春休みはまだまだあるわ。期間中、今日みたいにみんなで集まることは出来なくとも、私とマンツーマンでの特訓で、それぞれの長所を伸ばしていきたいと思います。幸いにも私は、部活、やっていないので」
「「「……」」」
並々ならぬ感情を覗かせる香月を前に、今からでも遅くはないから何処か部活に入れば良いと思う、女子三人であった。
「そうだ! この際だから魔法教えてくれるお礼に、こうちゃんの゛部活゛探しをみんなで手伝うってのはどうかな!?」
桜庭が皆を見渡しながら提案する。
「まるで新生活のお部屋探しみたいな言い方ね。でも、良い提案。詩音はどう?」
篠上が頷き、香月に訊く。
「え……っ。あ、じゃあ、よろしく、お願いします……」
自分のターンが終われば、香月は守勢に回るのであった。もっとも、桜庭たちの提案が嬉しかったことが、今は大きいが。
「でも、このまるでリニア車のダイアグラムのような精密なスケジュール、今から変更することは可能でしょうか?」
「任せて。休憩時間を部活探しの時間に変更するわ」
「休憩時間潰されたっ!?」
※
眠らない街。かつてそう呼ばれたニューヨークも、今ではその呼び名を失い、夜も静かに眠りにつく。
豪華なホテルの上層階から見下ろして見えるマンハッタンの夜景も、色とりどりの光が点在する程度であり、巨大な街の全体像を確認する事は叶わなかった。
「ありがとう千里ちゃん……本当に助かったわ」
「いえ。私も通り道でしたし、それにこんなに豪華なお食事をご馳走してくださって、身に余る光栄です。礼装も用意して頂きましたし」
ドレスと呼ぶに相応しい姿に着替えてある百合と千里が、テーブルを挟んで向かい合い、会話をしている。
百合の隣に座る誠次もまた、マンハッタンの高級ホテルの上層階にある、格式あるレストランで食事をするに相応しいフォーマルな格好をしていた。
「き、緊張する……」
誠次の目の前、白いさらさら生地のテーブルクロスが敷かれた机に運ばれてくるのは、高級フランス料理のコースメニューだ。大きな皿の割には小さく纏まるフランス料理だが、それさえも芸術品のような美しさであり、それは料理自体への美味しさへと直結する。アメリカへ来てジャンクフードばかり腹に収めていたので、アメリカへ来てまさかのフランス料理に、誠次は尻込みをしていたのである。
「そう構えなくとも。料理は思った以上にゆっくり運ばれて来るから、焦らなくとも大丈夫だぞ?」
前菜を挟んで目の前に座るルーナもまた、周囲にいる外国人の大人たちに引けを取らないスタイルと佇まいで、純白のドレスを纏って微笑んでいた。デザインの仕様上、ただでさえ大きなルーナの胸元が更に強調されてしまい、そこからも誠次は攻撃を受けている気分だ。海外ゴシップ紙に載っていそうな周囲の外国人たちも、ルーナの美貌に嫉妬や、大きな興味を抱いているようだ。
「ふふ。初々しいな」
専らルーナは誠次を見つめ、慣れないコース料理に手こずっている様を面白げに見つめている。
「並んでいるナイフとフォークは、外側の方から順に使っていきます」
誠次の右隣に座り、こちらに作法を教えてくれるクリシュティナは、何故かと言うべきか、当然と言うべきか、真紅のチャイナドレスを身に纏っている。チャイナドレスもまた、身体にぴったりとフィットするデザインの為、クリシュティナのボディラインが浮き彫りとなっている。着痩せするタイプだったのか、思いの他胸元は大きく感じ、何よりも目が行ってしまうのは、こちら側で大胆に開かれた太もものスリットだった。
「どうかしましたか、誠次?」
「……い、いや……」
本来そんなに開いていたのかと疑いたくなるチャイナドレスのスリットは、もはや太ももの上の股のラインと白い肌まで見えてしまっている。それでもクリシュティナは自身の露出に気付いていないのか、赤面する誠次の顔をじっくりと見つめて来る。机の下に隠れて、ルーナや周りの人からは、今のクリシュティナの大胆さが見えないのである。
「私だって、チャイナドレスは着こなせます……」
小声のクリシュティナは誠次の方へ身体を寄せ、微笑んでいる。いつもは清楚で可愛らしいクリシュティナの笑顔も、今この瞬間は格好とこの場の雰囲気も相まって、蠱惑的に見えるものだった。
オルティギュア王国で育った二人のマナーは完璧であり、誠次は逐一参考にして、フランス料理に舌鼓を打っていた。
食事の後、誠次はお手洗いから出てくる。
「緊張して味どころじゃなかった……。ざるそばが恋しい……」
罰当たりな言葉を呟くが、ここはマンハッタンの高級ホテルの上層階。日本語が分かる人もいないだろう。
「ルーナ?」
儚くも綺麗な、純白のドレスの後姿が夜景を望んでおり、礼服姿の誠次も近寄って声を掛ける。
「信じられないな。薄暗く光彩も曖昧なのに、この街には大勢の人が生活している。東京も」
身長以上はある大きなガラスの窓に手を添え、ルーナは呟いている。
誠次もルーナの横に並び立ち、マンハッタンの夜景を眺めた。
「もしかしたらオルティギュア王国も、このように夜を忍びながらも残って、多くの人々が生き残っていたのかもしれないな……」
「ルーナ……」
力なく視線を落とす横顔をじっと見つめ、誠次は呟く。
ルーナはコバルトブルーの瞳で誠次をちらりと見つめ、微笑む。
「……オルティギュアの民は、きっと最期まで王家に憎しみを抱いていたのだろう……。彼らの思いは、今も私の胸の中にある」
胸にそっと手を添え、ルーナは言う。
「彼らの分まで、私は前を見て生きていくつもりだ。ヴィザリウス魔法学園の皆と一緒に」
「その為にも、俺は明日、ルーナとクリシュティナの為に頑張るよ」
誠次はルーナに向け、力強く頷いていた。
ルーナは嬉しそうに頬を赤く染め、うんと頷き返す。
「ありがとう誠次……。私もオルティギュアの為……何よりも君の傍にいられるために、全力を尽くす」
――あなたのビッグ・アップルへの旅は大成功すると信じています。私のただ一つの望みは、あなたとともにそれを成し遂げていくことです――。
昔のニューヨーク紙面で、とあるライターが掲載した文である。ビックアップル。それは、かつてのニューヨークの呼び名だ。
光も弱くなったが、確実に多くの人が生きているマンハッタンの美しい夜景を、誠次とルーナは二人で眺めていた。
クリシュティナはホテルの一室で、桐野と会話をしていた。ここへ運んでくれたお礼をしに来ていたら、話が合ったのだ。
お互いに誰かを支えていた立場同士、あるあるが尽きないのだ。
桐野もクリシュティナの事は、ここに辿り着くまでの車内で誠次から聞いていた。
「オルティギュア王国出身。どおりで今まで見た事がないわけでした。ヴィザリウス魔法学園はこの時期の三年間を過ごすに相応しい、素晴らしい学園です。自分の出身校を胸を張って言える事は、素晴らしい事ですからね」
桐野の落ち着いた口調は、優美な知的さを感じるものであった。
「はい。皆さんもお優しく、今ではとても大好きな学園です。欲を言えば、もう少し早くあそこへ来れれば良かったとさえ思っています……」
「私も母校をそう思ってくれて、嬉しいですよ」
会話の途中、突然、桐野の電子タブレットが着信を告げる。桐野は「失礼します」と言い、電子タブレットを起動する。
「い、今のはっ」
ホログラム画面が起動した瞬間、クリシュティナのワインレッドの瞳は捉えていた。まるで見る人を馬鹿にするような、あほ面とだらしない身体をしたネコの姿を。
大した用事ではないメールだったのか、桐野はすぐに視線を戻してくる。
「どうかしましたか?」
「ゆ、ユキダニャンさん……ですよね?」
あまり表だって言えないことのように、顔を真っ赤にして俯いたクリシュティナは、しかし右手で桐野の電子タブレットを指差していた。まさかこのようなところにお仲間がいたのが、嬉しかったのだ。
それは向こうも同じ思いだったようで、長らく理解者に巡り合えないでいた二人は、ここでようやくの邂逅を果たす。
「え、ええっ! ユキダニャンさんです! そうなんです!」
桐野はうんうんと興奮し、何度も頭を上げ下げする。
「「可愛いですよね!?」」
「「ええ可愛いですとも!」」
完全に意気投合した二人は、その後もユキダニャンの秘められざる魅力について、夜通し語り合うのであった。
二人がいるその隣の部屋、百合の部屋の扉を、誠次はノックしていた。
「百合先生。天瀬誠次です」
「天瀬くん?」
ドアが開き、中から百合はすぐに顔を出し、誠次を迎え入れた。
「一体どうしたの、誠次くん?」
「ハワイでのお返しです」
「あら。それじゃあ私、今夜は誠次くんに襲われちゃうのかしら?」
「い、いえ、そう言うわけでは。……え、襲う?」
「うふふ」
戸惑う誠次を部屋に招き入れ、百合はベッドの上に座る。
「お返しと言うのは冗談で、この本を渡しに来たんです」
だから女性の部屋の中まで入る気は無かったのだと、言いかけつつも、誠次は手に持っていた本を百合に差し出していた。飛行機の中で読んでいた本だ。
「あら。律儀に覚えていてくれるなんて、嬉しいわ」
百合はまだドレス姿のままだった。温かい電光色の下、漆黒のバラのような美しいドレス姿は、さながらレッドカーペットを歩く艶やかなハリウッド女優のようだ。
「明日も、よろしくお願いしますね」
思わず見惚れそうになり、誠次は百合から視線を逸らしながら告げる。
ベッドの上に腰かけ、ハイヒールの足を組んだ百合は、申し訳なさそうに微笑んでいる。
「アメリカに一緒に行って欲しいと八ノ夜理事長に言われた時、私はダニエル先生の方がいいと思ったのよ」
「い、いえ。俺は、百合先生の方が良かったですよ。正直、大変そうです……」
狼狽える誠次が答える。
ダニエルと一緒にマンハッタンの街を歩くとなると、想像しただけでこちらの色々なものがもちそうになかった。
「ありがと。結局、保険医が長期学園を離れるのは良くないという事で、私になったんだけど」
上気した表情を見せている百合は両手をベッドに押し付け、ため息をつく。仕草がいちいち色っぽいのは、彼女が仄かに酒を嗜んだからだろうか。
「百合先生は、どうして魔法学園の教師になろうと思ったんですか?」
百合に対する、誠次の純粋な興味からの、質問だった。
「ほら。ウチって、お父さんもお母さんもなんだか立派な職業だったじゃない? だから私も、星野の家に恥じないような職業に就かないといけないと思ったのよ。……それに何より、一希のせいかも」
「一希?」
「あの子に小さい時は色々な事を教えてたから。人にモノを教える大事さとか、楽しさを覚えていたのかもしれないわね。でも結局、エウラモス魔法大学を途中で辞めて日本に戻って来た半人前なのかもしれないけれどね」
顔を傾けた百合は自嘲するように、誠次に笑顔を見せていた。
誠次は「失礼します」と言い、百合が差し出してくれた椅子に座る。
「小さい頃から一人でこんな異国の地に来て、魔法を学んで、教師になると言う夢を叶えるのは、普通の事ではない気がします」
「……そうよもう、大変なんだから。誠次くんは分かってくれるのね」
百合が誠次を見つめる。
「貴女が俺たちを守らなくてはいけないと責任や重圧を感じているのであれば、少しでもそれを柔らげたいと、思っています」
後ろ髪をかく誠次がこの部屋に来た理由は大きく、もう一つあった。もっとも、こちらが本命だったと言っても良い。第二の故郷に戻ってから、明らかに重圧を感じてしまっている百合の身を案じていたのだ。
「俺も皆を守るために剣を振るって、その時の重圧に押しつぶされそうな時が何度かあったんです。それでも、そんな時は逆に皆が俺の後ろにいて、俺を守ってくれる事を思い出すんです。そうすれば、肩の荷がいくらか降りる気がするんです」
だから、と誠次は百合を見つめる。
黒い衣に身を包んだ年上の教師は、時に同い年のような純粋な表情をこちらに見せてくれる。
「何か抱えているような事があれば、言ってくれませんか? はぐらかすとかではなく。この地で起きた事は少し大変でしたし、百合先生だけがその責任を背負っているのは、間違っていると思うんです。俺もルーナさんとクリシュティナさんも、貴女には感謝していますし」
「あ、ありがとう……。……クリシュティナちゃんからも言われたけど。生徒から感謝されるのならば、教師になった甲斐があったわ。本当に嬉しいかも。私ってこんな性格だから、誤解されやすいのは分かっているのだけれどね」
青色の目を瞬きさせ、百合はほっと一安心したように、誠次へ向け微笑んだ。
「明日はルーナちゃんとクリシュティナちゃんの為に、一緒に頑張りましょうね、誠次くん。やる気出ちゃうわ」
「はい。終わらして、そして皆で、無事に日本へ帰りましょう」
なんだかホームシックを起こしているようで情けないが、なにもそれは百合も、ルーナとクリシュティナも同じだ。
「剣術士である誠次くんに例えて、早く日本に帰る意味で、元の鞘に収まらないといけないわね?」
「? それはちょっと意味が違う気がするのですが……」
「あれ? 私ってばまたミスっちゃったかしら……」
おかしいわね、と百合が唇に手を添えて首を傾げていた。
明日はいよいよ、国際魔法教会の本部へ向かう日だ。




