1 ☆
月日は流れ、二月を迎えた。まだまだ冬だが、寒い日も次第に少なくなり、日によっては温かい日が続くようになっている。
「三年生ってもう自由授業じゃん?」
「あと二か月で卒業か。寂しくなるなー」
四人掛けのテーブル席に座る男子生徒が会話をし、相変わらず繁盛している談話室。
そんな魔法学園の談話室では、この時期限定のチョコミルクと言う飲み物が大人気だ。名前の通り、チョコとミルクの甘く温かい飲み物なのだが。
「……っん」
談話室の店員として、今日も勉強をしながら店番を頑張る心羽は、コップに注いだチョコミルクをちびっと飲む。甘いチョコの味が口いっぱいに広がり、とても美味しい。
「美味しい! ねえ真由佳ちゃん」
これも立派な談話室カフェの商品だ。おかわりしたいのを我慢しながら、心羽は隣に座っている真由佳に声を掛ける。真由佳は平日授業が昼前には終わる小学校帰りであり、赤いランドセルの中から取り出した宿題を真面目に行っている。お喋りの声が絶え間なく続く談話室であるが、逆に集中出来るのか、真由佳は慣れた様子で宿題が出来ていた。
「なあに心羽ちゃん?」
「このチョコミルク、どうしてこの二月の時期限定なの? 美味しいから、ずっと出せばいいのに」
――ぴたっ。先ほどまで続いていた男性生徒たちのお喋り声が、恐ろしいほどに一瞬で止まる。そして、最大限の聞き耳を、カウンター席に座る二人の方へと向ける。
漂う静寂の真意に気づけるはずもなく、真由佳は得意気に鉛筆を立てて、心羽に答える。
「それはね心羽ちゃん。バレンタインだから!」
「ばれん、たいん……? なにそれ?」
初めて聞く言葉に、心羽はきょとんと、髪の耳と一緒に首を傾げる。
男子生徒たちの中には、堪え切れずに心羽を凝視する者まで現われ始め、取り巻きが慌てて抑え込む。
一方、そんな視線の数々に相変わらず気づくこともない真由佳は、まだ床に着かない足をふらふらと動かし、心羽に得意気に教えてやる。
「バレンタインは女の子が男の子にチョコをあげる日! 二月一四日だって、前にテレビでやってた!」
「女の子がチョコをあげるの? 女の子沢山チョコ用意しないと大変だね」
全ての女性が満遍なく男性にチョコレートを配る日だと勘違いし、眉を寄せた心羽は真由佳に言う。
真由佳はくすくす笑っていた。
「違うの心羽ちゃん。うんとね、バレンタインはね……女の子が好きな男の人に内緒でチョコを渡す日なの」
僅かばかりに芽生え始めている乙女心と言うものか、若干頬を赤くした真由佳は、心羽の髪に隠れている本物の耳の方へ、ぼそりと耳打ちする。
耳打ちしたは良いものの、しかし露骨に沈黙に包まれている談話室の中では、周囲の男子生徒たちに声が丸聞こえであった。それもそのはずか、今やこの談話室の中にいる男子生徒たちは誰に言われずとも団結し、息を呑んで二人の少女の会話に耳を澄ませているからだ。……普段は騒がしいのに。
「そ、そうなんだ」
こちらもほんのりと顔を赤くした心羽も、真由佳に耳打ちをすると、真由佳はうんうんと頷く。
「私はおじいちゃんにチョコレート渡すんだ! 内緒だから、まだ言っちゃ駄目だよ!?」
張り切る真由佳が言い切ると。
――がしゃーんっ! グラスに入ったチョコミルクを零し、およそ半数の男子生徒が撃沈したようだ。
「じゃあ心羽は、せーじにチョコ渡す!」
――どしゃーんっ! ……談話室にいた男子生徒が、壊滅した瞬間である。
本日はバレンタインを目前に控えた、二月一三日。
高校生に比べて大きく広く見える、魔法学園の通路を、心羽は一人で歩く。歩くたびにゆさゆさと、狐のような大きな髪の耳が揺れていた。
「せーじに渡すチョコレート、どうしようかなー?」
歩きながら呟き、心羽はくちびるに指を添える。
「そうだ! ここにはせーじのお知り合いの女の子がいっぱいいるから、みんなに聞いてみよう!」
純粋無垢な笑顔を振り撒き、早速心羽は放課後の生徒会室に向かう。
「かおりん先輩は、きっとせーじにチョコレートをあげるはず」
年上の人にはちゃんと先輩を付けるのが、学校でのルールだと真由香から教わっていた。せーじは特別なので、言われない限りは変えないが。
「ごめんくださーい!」
一人だと少しだけ怖くなってくる委員会棟の地下通路にて、心羽は生徒会室へのインターホンを鳴らしていた。
「うーん……。ボタンまで背伸びしてやっと届いたけど、これじゃ画面が見えないよ……」
浮かんだホログラムの画面まで背丈が足りず、このままでは髪の耳だけが向こうに映ってしまう。学園で談話室に来るみんなが使っている電子タブレットみたいに、心羽もホログラム映像で会話をしてみたかった。
「そうだ! イエティちゃんを使おう!」
心羽は慣れた手つきで、眷族魔法の魔方式を展開、構築していた。
一方、暖房の効いている暖かい生徒会室の中では、副会長である渡嶋を除いた三人の役員がいた。女子高生である以上、ある意味宿命でもあり、同時に特権でもある膝上丈のミニスカートから出た生足の寒さを完璧に防ぐため、暖かいひざ掛けをしながら、業務に勤しんでいたところだ。
「寒い……。私の足の写真なんて盗撮して、いったい何に使う気なのよわーこ……」
生徒会室で着替えをしていたところ、副会長に写真を撮られていた事に気付き、怒り終えたところだ。
「わーこが戻って来たの?」
インターホンが来客を知らせた時、眼鏡姿の香織はそう思って顔を上げたが、そもそも生徒会役員ならば学生証で自由に通れるはずだ。
「私出ますよ!」
すぐに椅子から立ち上がったのは、書記である火村と言う名の1ーB所属の女子だった。明るくハキハキとした性格であり、その名の通りと言っていいものか、赤い色の髪をしている。
「お願いします、火村さん」
「はい! お任せください!」
昔からこのような率先して行動をすることが好きだったようで、とても生徒会執行部向きだと思われる後輩であった。
「はいこちら生徒会執行部書記の火村です! 誰ですか!?」
間もなく、相手からの返事はあった。予想だにしない、ダミ声で。
『――ギゲギィ!』
「ぎゃーっ!?」
画面を見つめていた火村が、悲鳴を上げて飛び跳ねている。
「火村うるさい……」
カタカタと音を立て、自分の机の上にある゛専用の゛デスクトップパソコンを操作している水木が、冷ややかに告げる。度の高そうな厚いレンズの眼鏡を掛け、水色の髪をした、1ーF所属の会計の少女だ。
「か、怪物が! 怪物がいるっ!」
尻もちをつく火村は、生徒会室の入り口を、震える手で指差している。
「私は今、初めてこの生徒会室に続くまでのセキュリティドアが必要だって思ったよ……」
「何を見たのさ……」
デスクトップとは言うものの、主要デバイスは液晶画面に内蔵されている為、小型且つ軽量化もされており、ついには折り畳み式になるまで進化したマイデスクトップパソコンを閉じ、水木は椅子から立ち上がる。
「どちら様ですかー?」
『――心羽です!』
「あら可愛い」
インターホンに映った少女を眺め、水木は「私には天使が見えるよ」と呟く。
「う、嘘だぁっ! 私には、毛むくじゃらの怪物が見えたんだけど!?」
水木の後ろで火村が声を張り上げる。
『わっ、イエティちゃん拗ねないで!』
火村に怪物呼ばわりされたイエティが拗ねたようで、画面の先で心羽が慌てて宥めている。
「あれ。その声、心羽ちゃん?」
「生徒会長さんのお知り合いですか?」
水木が振り返り、座ってココアを啜っていた香織に訊く。
「うん。通してあげて」
「はーい」
未だ怯える火村を他所に、水木は生徒会室へ通じるドアを遠隔操作で開けてやっていた。
間もなく、心羽が生徒会室まで初めてやって来る。
「こ、こんばんわ。心羽です!」
緊張した面持ちで、ドアを通りながら頭を下げて来る心羽に対し、
「「可愛いっ!」」
火村も水木も、どうやら心羽とは初対面のようだった。
「心羽ちゃん知らないってあれ、二人とも普段談話室行かないの?」
「田舎育ちの私はあんなお洒落なところ行けません!」
「五月蠅いところ苦手なので」
火村と水木が揃って答え、これは今度、談話室へ連れて行ってあげようと思う香織であった。
「いらっしゃい心羽ちゃん。今ココア淹れてあげるね?」
「ううん。いっぱいチョコミルク飲んだから大丈夫!」
初対面の二人には緊張しいな心羽だったが、香織には笑顔で首を横を振っていた。
「そっか。それで、どうしてここに?」
「かおりん先輩に訊きたい事があります!」
「っ!?」
香織はハッとなる。
その時香織の中では、二人の可愛い後輩を前にした先輩としての凛々しい姿があった。普段はおっちょこちょいなところばかりが目立ってしまうが、こうして心羽に頼りにされる自分を見てくれれば、後輩二人は自分の事を見直してくれるのではないだろうかと。
……実際はそんな事せずとも書記と会計の二人は香織を見習っているのだが。ともかく今の香織は胸を張っていた。
「う、うん! 聞きたい事って何かな!? 私になんでも聞いて!」
「かおりん先輩はせーじにどんなチョコあげるんですか!?」
握った両手を胸の前まで持ち上げ、心羽はわくわくと言った表情で香織に尋ねる。
よく響く心羽の声と言葉に、固まったのは波沢香織と火村と水木だった。
「こ、ここ、心羽ちゃん!?」
香織の夢見た格好いい生徒会長像というのは、ここで脆くも崩れ去った。
「うわおっ! 何とも大胆不敵!?」
「なるほど。生徒会長にとっては小悪魔ちゃんでしたか」
口に手を当てて驚く火村に、顎に手を添える水木が頷いている。
「……って、せーじって誰? 先輩の同級生さんですか?」
「違うと思う。おそらく、1-Aの剣術士」
首を傾げる火村に、水木がすぐに説明する。
「ああ、そう言えばそんなのいたね」
「仮にも同級生の中で有名人なのに、火村は関心がなさすぎる」
「記憶力の悪さには定評がありますので!」
「それじゃあ書記失格だし、そう言う問題じゃない気がする……」
何故か誇らし気に胸を張る火村に、やれやれと水木は指摘する。そんな仲の良い二人のやり取りの最中、香織は心羽の目の前まで一気に近づいていた。
「心羽ちゃん!? と、突然どうしたの!?」
「えっと、バレンタインだから、女の子が男の子にチョコあげるって教わって……」
尋常ではない動揺を見せている香織を前に、まずい事をしてしまったようだと、心羽は少し申し訳なさそうな弱々しい声音で答えていた。
「バレンタインって……え……もうそんな季節だったっけ!?」
香織は慌てて電子タブレットを起動し、カレンダーを確認する。
「わっ、今日ってもう一三日!? 明日!?」
電子タブレットを放り投げてしまいそうな慌て様を見る限り、どうやら本当に気づいていなかったらしい。
「生徒会長、もしや渡す予定なんですか!?」
「生徒会長のチョコ。少し、羨ましい……」
火村と水木がくちびるに手を添え、香織を見つめている。
赤裸々な暴露をされてしまった香織は、色々な意味で居てもたっても居られず、心羽の手を掴んで共に廊下へ出ようとする。
「せ、生徒会長! 残った業務はいかほどに!? 私たちがやってしまっても!?」
「私たちなら、出来ないこともない。生徒会長、あとは任せてください」
「ありがとう火村さん! 水木さん!」
「お任せください生徒会長! 生徒会長をサポートするのが、私たちの役目ですから!」
「さ、頑張るよ火村」
椅子に再び腰掛け、自慢の最新型デスクトップパソコンを起動し直した水木と、せっせと資料に目を通す火村の姿は、香織にとってとても頼りになる姿だった。
「なんだかごめんなさい……かおりん先輩」
「ううん。逆に気づかせてくれてありがとう心羽ちゃん。忙しくて忘れてたな……」
廊下に出た二人は、何処へでもなく歩きながら会話をしていた。北海道では激闘を繰り広げた二人であったが、今となっては心羽にとって香織は、一番親しいヴィザリウス魔法学園の女子生徒だった。香織も香織で、忙しい中、暇を見つけては談話室へと行くときもあった。
「でもバレンタインか……。どうりでクラスの男子がやけに落ち着きなかった気がする……」
独特の雰囲気と言うべきか、そのような事は薄々感じていたが、肝心の゛バレンタイン゛と言う事は誰も口に出して言わないのが、バレンタインの日独特の現象だろう。
「早くチョコレート用意しないと! 心羽はせーじにチョコあげたいから、かおりん先輩はどうするのかなって思って」
「心羽ちゃんは相変わらずだね……」
良い意味で自分の心に真っ直ぐな心羽が羨ましく、香織は微笑んでいた。
「そうだね。誠次君には本当にお世話になったし、感謝の気持ちを渡したいな」
「感謝の気持ち?」
「バレンタインのチョコレートって、好きなとかって言うだけじゃないんだ。家族への感謝の気持ちとか、お友だちに渡すと言う意味もあるんだよ?」
香織は教師のように、生徒のような心羽に教えていたが、
「でもかおりん先輩もせーじが好きだから、一緒だよね!?」
「え、そ、それはっ。……うん」
建前を述べても、結局はそうなるのだ。顔を赤くした香織は、頷いていた。
「よし! 急いでチョコレート用意しないと! 私、男の子にチョコレート渡すの初めてなんだ!」
「心羽と一緒! 心羽も初めて!」
「そもそも誠次くん、チョコレート好きなのかな……? 一緒に山梨県にいた時、心羽ちゃんなにか見てない?」
「ううん。心羽が起きて誠次と一緒にいたの、ちょっとだけだったから……」
本物の動物の耳のように、心羽は髪の耳をしょんぼりと垂らしている。
「そっか……。じゃあ今から、誠次くんに一緒に訊きに行こっか?」
しゃがんだ香織は微笑んで、心羽に声を掛ける。
一瞬だけ晴れやかな表情を見せた心羽は、しかし慌てて首を横に振る。
「だ、駄目! チョコレートは内緒で渡さないと!」
「えっ。そんな決まり、あったっけ……?」
香織は首を傾げるが、心羽は至って真面目だった。
※
その頃、男子寮棟の一室には、三人の男子と一人の少女がいた。
「――そう、それじゃあ天瀬くんは特にアレルギーはないのね?」
「ああ、そうだな」
メモ用紙とペンを両手に、香月が帳に質問している。
「じゃあ、ビター派かミルク派か、そもそもチョコレートが好きなのか、それは分かるかしら?」
「前に自分が置いておいたミルク味の甘いチョコレート、嬉しそうに食べてましたのは覚えています。翌日、鼻に大きなニキビが出来たのも、自慢してきましたし」
「彼ならやりかねないわ」
小野寺の言葉を聞きながら、香月は無表情でメモにペンを走らせる。
「取材、ありがとうございました。これはお礼のチョコレートです。どうぞ」
「ありがとう。でも、一つ忠告があります香月さん」
聡也が香月から取材のお礼である市販のチョコレートを受け取りつつ、眼鏡を光らせる。
「? 何かしら?」
「俺たち以外の男子に、この質問は控えた方が良いと思います。……命の、危険に晒されますので」
「訊きたい事はもう聞けたから、それに信用している貴方たち以外にはしないけれど……。命の危険って、いったい誰の?」
「「「天瀬のです」」」
積もっていた雪はすべて溶け終え、ゆっくりと春へと向かいつつある都内の街並みは、バレンタインムード一色だ。派手なリボンを模した蛍光灯が輝くアーケード商店街の一角で、香月詩音は立ち尽くしていた。
「私の考え過ぎなのかしら……」
悩ましく手を添えるおでこの下、アメジスト色の瞳の先には、ショーウインドウに収まったチョコレートの数々が映っている。店員に一言頼めば、いいのだが。
「――すみません! これ一つください!」
「はい! ありがとうございます! プレゼント用にお包みしますね!」
近くでは他の女性が、彼氏に渡す用のチョコレートを買っているようだ。
あのように、自然な感じで……。例えばそう……家族に渡すかのように……。
そう考えれば考えるほど、羞恥心は大きくなっていき、香月はチョコレートまで伸ばした手をそっと離す。
自分がチョコレートを誠次に渡す瞬間を想像すると、全身が温泉に浸かっているように熱くなる。それこそ一緒に湯船に浸かった仲だと言うのに、それとこれとは全く別の問題だった。
「そもそも……バレンタインって何なのかしら? 何で好きな男の子にチョコレートを渡さないとならないと言うの?」
「あのー……お客様……?」
「っ!?」
チョコを睨み、ぶつぶつと呟いていた所で、店員に声を掛けられる。
はっとなった香月は、首に巻いた赤いマフラーに口を埋める。
「よ、良かったら、ご試食しますか?」
「い、いえ……」
「で、ではどんなチョコをお探しか、お困りですか? 良ければ一緒にお探ししませんか? さっきからずっと……その……」
「……い、え……」
結局、そのまま逃げる様に店外へ。真冬は過ぎたとは言え、まだまだ寒さのある外だった。
「私は一体、何をしているのかしら……」
盛大に白い息を吐き、俯いた香月は呟く。
自分が改まって誠次にチョコレートを渡すシーンを思い浮かべれば浮かべるほど、ナチュラルな渡し方が想像できない。箱根の温泉では完全にこちらが主導権を握っているようなものだったので、まだ自分の感情を制御出来ていた。いつも通りの無表情で何気なく渡せばいいのかもしれないが、それはそれで違う気がする。
「えっ、チョコくれるの?」
「うん! 明日会えないじゃん!」
「サンキュー!」
手を繋ぎ、通り過ぎる楽し気なカップルたちの話し声が遠くなると、香月は立ち止まっていた。
――きっと彼は、どんなチョコレートを貰っても、喜んでくれるのだろう。とても優しく、温かい笑顔で、受け取ってくれるのだろう……。
そんな彼に、感謝と親愛の気持ちを送る為にも。
「……渡さないと」
学生鞄の紐をぎゅっと握り締め、香月は決心をしていた。
そうして向かった先は――自分がバイトをしている駅前の喫茶店だった。
「――そうして、決意を決めたは良いものの、こうして歩いてここまでたどり着いてしまったようですね」
「……ええ」
今日はシフトに入っていたクリシュティナ・ラン・ヴェーチェルが、カウンター席に座っている香月と、カウンターの向こうからエプロン姿で会話をする。ショーケースに入っている美味しそうなケーキの数々も、今日はブラウン色のチョコレート系が大半を占めていた。それらはほぼすべて、クリシュティナが作り上げたものなのだろう。
「バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを渡す風習は、日本独特のものですね。海外では家族や友人に感謝の気持ちのお手紙などを渡す事の方が多いです」
クリシュティナは綺麗な姿勢で立ったまま、香月に紅茶を差し出し、砂糖やミルクと共にまるで言葉を添えるように呟く。制服であるエプロン姿は、可愛らしく気品もあり、やはり似合っている。
差し出された紅茶の水面に映る自分の顔をじっと見つめた後、ワインレッドの瞳を持つクリシュティナをじっと見つめる。
「貴女も、天瀬くんにチョコレートを渡す気なのでしょう?」
「えっ」
コーヒーポットに容器でお湯を注いでいたクリシュティナは、香月の指摘に、ピタリと止まる。
「チョコレートは、゛皆さん゛に渡すつもりです。それが、ロシアの風習ですので」
「でもここは日本よ」
「詩音……。……そう、ですね」
頬をほんのりと赤く染めたクリシュティナは、こほんと軽く咳ばらいをする。
「では、日本の風習に従いたいと思います……」
「――おやおや。普段は黙々と働いているクリシュティナちゃんが喋っているかと思えば、仲良しお二人さんじゃない」
厨房の方から、先輩バイトである南野がやって来る。本人のお気に入りのセンスなのか、いつもの腕まくりをしたチェック柄のシャツの上に、制服を掛けている姿だ。
「あっ、業務中にすいません……」
クリシュティナと香月が頭を下げるが、南野は気にしないでと笑顔を見せる。
「いいって。それよりも何ー? 二人してバレンタインの作戦会議ー?」
「……はい。好きな人に、チョコレートを渡したいのです」
初日のように迷う事もなく、クリシュティナは素直に答えていた。
ははーん、と、南野はニヤケ面を浮かべ、
「そっか! じゃあうちの厨房使っちゃっていいよ! 材料大量に余っちゃってるし、店長もいないし!」
いざバレンタインだと張り切って大量のお菓子の材料を発注したは良いものの、それが余ってしまうのもまた、よくある事だった。
「良いのでしょうか……?」
「材料腐らせちゃう方が勿体ないし、シフトリーダーである私が許可する! ほら香月ちゃんもエプロン着て!」
途惑うクリシュティナの背を押してを厨房へと押し込み、香月の方まで南野は戻り、同じく背中を押し始める。
「手作りチョコですか……? でも私は、料理の腕がまだ……」
「男の子は絶対手作りの方が喜んでくれるって! そんなのちょっと不味くても関係ないってば!」
クリシュティナ同様、戸惑っていた香月もまた、南野に誘われ、立ち上がっていた。バレンタインプレゼント経験者であり、人生の先輩である南野にとっても予想外且つ想定外なのは、二人が同じ男の子へ向けてチョコレートを渡す気でいると言う事だろうか。
※
矢をつがえた弓を持ち上げ、洗礼された動作で構える。軽めの深呼吸をすれば、自分の呼吸の音以外は、不思議と失せている。彼方へ見える的へ向けて、袴姿の篠上綾奈は矢を放った。
瞳で追う間もなく、放たれた矢は一瞬で的に突き刺さる。アーチェリーとは違い、的のどこに当てても基本的には点になるのだが、篠上の矢は中心点を見事に捉えていた。
終始を無言で終え、一礼をした篠上は、赤いポニーテールの頭を振り向かせ、 道場の後方へと下がっていく。
座るときは基本的に正座をしなければならないのだが、父方の実家で婆に弓道共々礼儀作法を教えこまれた身として、篠上には苦ではなかった。
「――お疲れーっ!」
「あー寒かった……」
部活道中は神聖さすら感じさせる弓道少女たちであったが、その実は他の女子高生たちと何ら変わらない。部活動が終わり、更衣室で道具の片付けと着替えをするかたわら、頑張った分とばかりにお喋りに華を咲かせる。
「明日はチョコレート交換ね! 誰が篠上さんのチョコ当たるかな!?」
「私のチョコが当たりって……。そう変に期待されると作り辛いわ」
「だって絶対美味しそうじゃん!」
料理の腕を誉められて、悪い気はしない。しかし篠上には、誰よりもチョコレートを渡したい相手が、今年はいた。初めての本命、と言って良いのだろう。
(材料の調達は千尋に任せてあるし、今年は気合い入れなくちゃ!)
大切な黄色いリボンをぎゅっと結び直し、篠上は寮室へと帰る準備を急いでいた。
水泳部の終わり、購買にて千尋は早速、綾奈の言われた通りの材料を買いに来ていた。
「ええと。ココアパウダーにバニラエッセンスと――」
浮かべた電子タブレットをタッチし、千尋は篠上に言われた通りの、手作りチョコレートを作るための材料を選んでいく。旧来のコンビニ以上の品揃えを誇る魔法学園の購買であるが、ここも時期柄バレンタインデー向けの商品在庫が揃っていた。
「わあ。本城さんチョコレート作る気満々だね?」
一緒に来ていた水泳部の同級生に言われ、千尋ははいと頷いた。
「手作りチョコレート、誠次君にお渡ししたいのです!」
「え、笑顔がひたすら眩しい……。そんな素直な本城さんが羨ましいよ……」
「大切な人にお渡しできると思えば、なんだか私も嬉しくて……」
両頬に手を添え、千尋はきゃあと顔を真っ赤にして、ツインテールの金髪を左右に振っていた。
「それよりも注意して本城さん!」
「注意? 一体何をでしょうか……?」
「気づかないの!? バレンタインに近づくにつれ、男子たちのあの一見何ともないような余所余所しい態度。俺、バレンタインなんて興味ありませんよーと言うその裏の顔!」
「裏の、顔……?」
友達の言葉を聞く千尋の晴れやかだった表情が、徐々に青冷めていく。
「特に注意しないといけないのは、放課後の教室ね! 意味もなく放課後に残っている男子とは、目を合わせない事!」
「で、でも。本当に用があって、残っていらっしゃる男性の方もいらっしゃるのでは……」
「二月一四日にそんな男はいないっ! あとは昇降口の下駄箱ね! あそこに立っている男なんて――!」
「ま、まあ……」
友達の口から飛びだす罵詈雑言の数々に、千尋の中での楽しいバレンタインのイメージが、恐怖の一日へと変貌していく。
「バレンタインとはこれすなわち……男子と女子の間で繰り広げられる、大いなる闘争なのよ!」
「そんな……血を血ではなく……チョコでチョコを洗うような、悲惨な出来事が水面下で起きているのですね……」
切ない面持ちをして、千尋はバレンタインを前に戦々恐々してしまっていた。
※
都内のデパートから、二人の私服姿の高校生が、紙袋を片手に出て来る。
黒髪ショートの少女と銀髪ロングの少女、桜庭莉緒とルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイトだ。
「助かった莉緒。やはり莉緒は東京の店について詳しいな」
「あたしも初めて来るような店だったし、ルーナちゃんがいないとまず入れなかったよ」
二人が寄っていたのは、チョコレートを専門的に取り扱うお店だった。勿論、バレンタインに渡す為のチョコレートを買いに来ていたのである。
「本当は手作りにしたかったけど、あたしの腕じゃ絶対に失敗するし、美味しいの出来そうにないからさ……」
とほほ、と莉緒は申し訳なさそうに紙袋を握った右手を見つめて呟く。
「私も手作りをしようとしたのだが……ファフニールに全力で止められたのだ……」
同じく右手で紙袋を持ち上げ、ルーナは面白くなさそうに呟く。
(我ノ力ヲ全力デ借リ、火加減ヲ見テクレナドト抜カシタノハドコノ誰デアロウカ……)
心の中からファフニールが愚痴を零してくるので、ルーナは慌ててぷいとそっぽを向いていた。今もルーナとクリシュティナの寮室の洗面台では、無残な姿となったチョコレートの残骸が残されている。帰ったらクリシュティナのお叱りを受ける事は間違いないが、ファフニールが美味しく頂くつもりだ。
「ま、まあこう言うのは気持ちだよね!?」
「しかし良かったのか? その気になれば、もっと高価なものも買えたが」
桜庭とルーナが買ったのは、お手頃な価格のチョコレートだった。お手頃とは言っても、普段食べるようなお菓子感覚で出せる金額のものではないが。
「あまりに高いと、ホワイトデーで天瀬が困っちゃいそうだからさ。そもそもお返しはしなくていいよって言うつもりだけど」
「ホワイトデー? ……白い日?」
ホワイトデーは、日本独特の文化と言うか、風習だ。首を傾げるルーナが知らないのも当然だった。
「バレンタインとは逆で、男の人が女の人にお返しする日なの」
歩きながら桜庭がルーナに説明する。
「なるほど。そんな日があるのか……」
それならばこのチョコレートも納得できるとルーナは、うんと頷いていた。
「早く誠次に渡したいものだな」
「うん! 天瀬、喜んでくれるといいけど……」
「異性へのプレゼントは初めてだ。渡すのは少し、緊張するな……」
「右に同じです……」
大事そうにチョコレートを抱き、恥ずかしがる桜庭とルーナは歩いて行く。渡すべき人の待っているであろう、ヴィザリウス魔法学園へと。
※
日も落ち、全ての人が室内にいなければならない時間となった。バレンタイン前日のヴィザリウス魔法学園の女子寮棟の部屋は、いつにも増してカーテン越しに明るく照明が灯っている部屋が多かった。
その明かりの灯る部屋の一つに、誠次はいた――。
「ふっふっふ!」
「はっはっは!」
「……無念」
制服の上からエプロンを掛け、大袈裟な笑い声を上げる相村佐代子と渡嶋美結の前で、誠次は青冷めた表情をしている。現在地はヴィザリウス魔法学園の女子寮棟、二学年生女子用の部屋の中だ。相村と渡嶋はルームメイトであったようで、この華やかな女子部屋の住人だ。
「しっかしいくらなんでも、ちょろいねー剣術士くん。チョコレートあげたいから屋上まで来て、ってメールしたら素直に来ちゃって」
メールの送り手であった相村が、にやにやと口角を上げ、こちらを見つめる。緑線の制服を着崩してうまく着こなし、明るい髪色のロングポニーテール姿だ。
「ひ、卑怯ですよ! チョコレートなんて欲しいに決まってるじゃないですか! しかも意味深にハートマークまでつけて、添付されていた写真も見えそうで見えない際どい綺麗な太ももの写真なんて!」
「ちゃんと保存した?」
「はいしました」
思わず真顔で即答してしまった誠次は、ハッとなって顔を赤くする。
「な、なんていやらしい! 二つの意味でっ!」
「なんかノリボケツッコミしてきた……。あと、これを聞いたらかおりん喜びそうだな……」
相村が頬をかきながら苦笑するが、小声で誠次には聞こえない。
「まあ気持ちは分からんでもないけど、もうちょっと用心した方がいいよー。この先悪いお姉さんに騙されちゃうから」
同じく渡嶋も、まんまと罠に掛かった後輩男子を見つめ、微笑を続けていた。
「現在進行形ですね……」
別に手足をロープや拘束魔法で縛られているわけでもないが、二人の女子先輩に部屋の隅へと追い詰められている感覚的には、それに近い。
授業を終え、寮室へ戻ろうとした時に、差出人不明のメールが届き、期待に胸と身体を踊らせてのこのこ屋上まで行けば、待ち構えていたのは二人の先輩だった。
「悪いお姉さんとは心外である。でもごめんねー剣術士くん。悪いけど、身体貸して貰うから!」
「あの写真はお礼の前払い。対価の労働とは……覚悟するがいい、若者よ!」
背後にどす黒いオーラが見えそうに、意地悪く微笑む二人の女子先輩に、
「俺は食欲と性欲に負けて、捕らえられた身分です……。煮られるなり焼かれるなり、覚悟、しています……」
「「いやそんな仰々しくないけど……」」
不敵な笑みを浮かべて迫る二人の先輩を前に、誠次は悲鳴混じりに答えていた。
甘い罠にかかり、二人の先輩に捕まった天瀬誠次の長い夜は、ここから始まる。人間の三大欲求のうちの二つを弄ばれ、残された一つをも、これから失いかけようとしていた。




