8
翌朝。容態が回復した香月と誠次も含め、全員で青空の下のスキーを楽しんでいた。昨夜の奇妙な出来事が忘れられたわけじゃない。むしろ、夜を明かして謎は深まるばかりだ。
しかし、楽しそうなクラスメイトたちと共に雪の上を颯爽と滑れば、嫌な事も忘れる事が出来た。そしてもちろん、嫌な事ばかりじゃなかった事もある。
「なんだ?」
昨日やった競技とは違う競技をそれぞれ行っているので、スキー板を止めた誠次は目を見開く。昨日は寂れていた食堂が、今日になって大繁盛しているのだ。中では若き男性店員が、忙しそうにラーメンを作っている。
「あっさりラーメンになってから見事に人気出てるな……」
店の中でカウンター席に並んで座っているのは、女子たちだった。旅館の食事も良かったのだが、普段から食べ慣れている味がそこにはあるのだろう。
東京に帰る限界の時間まで、誠次たちはスキーを楽しんでいた。帰り道でも寄り道を行い、時間一杯までの箱根旅行を楽しむ。温泉だけが箱根の名物ではなく、お土産も沢山選んでいた。
「ご当地ユキダニャン……。゛ユバ゛ダニャンだってよ」
お土産屋で真っ先に湯葉を食べているだらしない猫のストラップを発見し、誠次は横で試食のまんじゅうを頬張っていた帳に何気なく呟く。
「ハッハッハ……。見事に売れてないな」
どこか歯切れが悪そうに、帳は答えていた。
やがて楽しい旅は終わりの時を迎え、名残惜しいが、帰らなければならない時間となる。
帰りの特急電車の中では、まだ昼だと言うのに、友達たちは疲れ果てて眠っている。
「むにゃ……もう俺はつっこまねー、かんな……!」
隣の席に座る志藤は、こくこくと首を傾け、寝言を言っている。彼はどうやら夢の中でも大忙しのようであり、そっとしておいてあげよう。
窓際の席なので、窓から外の景色が一望できる。誠次は頬杖をついて、豊かな自然の風景を眺めていた。
「……?」
遠く、山と山の向こうで一瞬、閃光がさく裂した。そこから広がった大火が、山を呑み込んでいく。まるで火山の噴火のように、炎は広がり、爆風を伴って誠次と仲間たちが乗る車両に到達した。髪が逆立ち、肌は焦げ、身体が焼かれていく。
「っ!?」
思わず顔を覆った誠次だったが、目を開けてみると、山の光景は失せ、代わりに発達した文明が作り上げた鋼鉄のビルが並んでいる光景が広がっている。
「寝てたのか……?」
一瞬で世界が変わったかのような錯覚を見せられ、誠次は持ち上げた右手で顔を覆う。全身から汗が吹き出していた。
「――お客様、いかがなさいました?」
ぐっすりと眠っている志藤が座る通路側より、客室乗務員の女性が声を掛けて来る。
「いえ……平気です……」
「そうですか。窓の外を見ていたのに、急に怯えていて。――まるで世界の終末を見ているようでしたよ?」
「っ!? 貴様は!」
微笑む客室乗務員に、誠次は身構える。
声音や姿は違うが間違いない。昨夜トリックスターと名乗った者だ。
「あの日もそうだった。たった一人の男が放った終末の炎によって、文明が一瞬で消え失せた」
「トリックスター。何を知っている? お前もファフニールと同じ、かつてあった魔法世界の生き残りなのか?」
「新たなこの魔法世界は醜いものだ。もう一度ともに作り直したいのだ剣術士。手を貸してはくれないか?」
「諄い! こっちの質問に答えろ!」
誠次が立ち上がるが、トリックスターは誠次の顔の前に突き出した指を軽く鳴らす。途端、何故か全身に力が入らなくなり、誠次は強制的に椅子に着席する。まるで力が吸い取られているようだった。
誠次は歯を喰いしばり、こちらを見下ろすトリックスターを睨み上げる。
「我が儘なのは、相変わらずだな。まあいい。どの道、魔剣の封印が解かれるのを待つだけだ」
トリックスターは微笑み、通り過ぎていく。
「ま、待て!」
「私は止まらないよ。友の無念を晴らす為に、ここまで来たのだから。だから君も止まるな。友を守るために、その剣を振るい続けろ」
椅子に座ったまま、トリックスターを追いかける視線が、次第に閉じていく。視界が夜のような闇に染まった時、誠次の意識は途切れていた。
「――おい。東京。帰って来たぜ?」
次の瞬間には、志藤に肩を揺すられて、誠次は目を覚ましていた。
「もう、着いたのか……?」
「ずっと寝てたんだぜ? 途中で起こそうとしても起きないし、お前が楽しみにしていた駅弁、冷めちまったぞ」
そう言いながら志藤は、ぼうっとした表情で座っている誠次の頭の上に四角い箱の幕の内弁当を乗せて来た。確かに弁当は冷たく、冷めてしまっている。
「夢、だったのか……?」
夢では片づけられない現実性があったはずだ。
戸惑う誠次を不思議そうな目で見つめていた志藤は、続いて一枚の写真を差し出していた。
「ほらこれ。箱根の駅で撮ったやつ」
「あ……」
全員が集合した写真を受け取り、誠次は自然と微笑む。確かな記憶と思い出として写真は、旅が楽しかった事を物語っているものだ。
「思い出だけになんかさせるものか……」
写真をじっと見つめ、誠次は決意を込めていた。
リニア車を降り、東京の駅で通り過ぎていく人たち。誠次たち一一人も、荷物を片手に昼の駅構内を歩いていた。国際空港にも引けを取らないほどの設備が整った都内の駅で、横に並んで歩く誠次と香月は、すれ違い様の男に声を掛けられる。
「――私は友たちを救うために」
「――俺は友だちを守るために」
自然と出た言葉は、互いの信念を相手に伝えるものだった。
香月もまた、通り過ぎる背広姿の男の背を睨んでいる。どうやら、言葉が聞こえたようだ。恐れを抱いたのか、華奢な身体が震えているように感じ、誠次は香月の手を握ってやっていた。
「……っ。天瀬くん」
「……平気だ。香月や仲間がいる限り、俺はどんな相手でも負けない。この手で全てを守る。みんながいるこの魔法世界を守るために、俺は戦い続けるんだ」
いつか来るはずの、平和な魔法の世界の為に。
この旅行で改めて感じた友の存在の力を信じ、誠次は前を向いて宣言する。見つめれば前には、魔法学園の大切な友だちたちが、仲良さげに歩いている。彼らや彼女らだけではない。この魔法世界で生きる人々の為に。それが魔法の代わりに剣を持った自分の、出来る事なのだろう。
「……そう」
アメジスト色の瞳に光を宿す、香月の細くしなやかな指が、決意を込める誠次の右手を強く握り返す。
「私は、あなたの傍で力を与え続けるわ。今までも、これからも、ずっと未来まで、あなたを守る」
一泊二日の旅が終わり、忘れ物はなく、無事に全てを東京へと持ち帰って来た。
※
山梨県の八ノ夜宅に、一台の車が停まっている。鬱蒼と木々が茂る、言うならば魔女の森を越えた先に建つ、三階建ての木造建築の家だ。
「――お帰りなさい、お嬢」
車から降りた私服姿の八ノ夜を出迎えたのは、相変わらず釣り人のようなベストを着た警備員の福田だった。
「頼んでいた物はどうです、福田さん?」
挨拶もほどほどに、八ノ夜は車の後方を確認する。八ノ夜は今では四六時中刺客を警戒しなくてならない状況となっていた。
「お嬢は相変わらずせっかちだ。たまにはのんびり釣りでもしたらどうか」
「釣れるまで待ってるのが苦痛ですから、私には合いませんよ」
「まあ間違いない」
福田は朗らかに微笑んでいた。いつもは釣り用手袋をしている手のひらに出来た無数の肉刺を隠すこともなく、八ノ夜を離れにある自宅へ案内する。
「お嬢が生まれ変わった魔剣を持ってきたときは驚いた。……天瀬くんを連れて来た時と同じ気分だったもんだ」
何かを言い淀みつつ、福田は誠次には見せたこともないような神妙な面持ちをして、玄関を入ってすぐの廊下でしゃがむ。一人暮らしをしている福田の家は、調度品も極めて質素なものだった。
「よいしょと」
歳からくる腰の痛みだろうか、福田は声を発しながら、廊下の床にあった隠し扉の鍵を外す。
床の板が擦れる音がしたかと思えば、床が開き、ロウソクの明かりが辛うじて見える地下室へと続く階段がそこにはあった。鉄を始めとした、複雑な金属の臭いが、地下室からは漂っている。
八ノ夜が階段を降り、福田も後へ続いた。
「天瀬くんの戦闘データはじっくりと見させてもらった。パワータイプと言うよりは、どちらかと言えばやはり彼は敏捷性を生かしたスピードタイプだろう」
年寄と言う年代にしては、器用に電子タブレットを使いこなし、福田は言う。もっとも、彼らが子供の世代からそのような時代の利器は普及していたのだ。身近に扱っていたおかげもあるだろう。ニ〇四九年にピークを迎えていた科学世界を生きていた人なのだから。
「煤だらけで汚いのは我慢してくれよお嬢」
「構いません。私も片付けは苦手ですから」
階段を降りた先に広がっていたのは、灼熱の溶鉱炉と窯。そして金属を扱う作業台の数々だった。マグマとも言うべき炎の中からは、まるで炎が咳をするように、時より火花が吹き出している。
ただ立っているだけでも全身の水分が蒸発しそうな熱気が包む地下室の工房は、福田のものであった。
「その点では、前も今も天瀬くんの戦闘スタイルとはあまり噛み合っていない剣と言える」
福田は慣れた動作で機材を動かし、奥の方から何かを持ち上げている。
専用の工房を持つ鍛冶職人。それが福田の本来の職業であった。
「度重なる無茶を言って申し訳ありません」
「構わんさ。今や生き残って飯を食えている鍛冶職人など、数えるほどしかいない。そんな魔法世界となった今でも、この腕が腐らずに振るえるだけありがたい事だ」
福田が取り出したのは、自らが作ったレヴァテイン・弐の鞘だった。
「これが鞘ですか……?」
八ノ夜は驚いていた。
それもそのはずか、渡された鞘は明らかにレヴァテイン・弐の刀身に対して、細長いものであったのだ。
八ノ夜が驚くのも無理はないだろうと、福田は微笑む。
「わしも驚いたもんだ。お嬢から剣を渡されたその日のうちに、あの摩訶不思議の剣を色々と調べてみた。そうしたら、こうなってな」
そう言いながら福田は、確かに預かっていたレヴァテイン・弐を、八ノ夜に返却した。
「こ、これは……」
福田からレヴァテイン・弐を受け取った八ノ夜は、その姿に動揺する。
「天瀬くんの戦闘スタイルには、ある意味もってこいかもしれん」
福田はそこまで言うと、どこか八ノ夜を批判するような細い目つきを向けていた。
「お嬢。あの子は本来、読書が好きな心優しい男の子だ。鞘を作っておいてなんだが、こんなものを持たせるべきではない」
言われ、八ノ夜は揺れる眼を落とす。
「それは一〇年間を一緒に過ごした私が誰よりも知っています。純粋で他人に優しくて、家族を失う悲しみを背負った男の子だと言う事は」
「だったら――」
「だからこそ。アイツにはもう、この道しかないんです。もちろん、そうさせた私が責任を持ってアイツを見るつもりです」
年上の福田の言葉を遮ってまで、八ノ夜は言いきっていた。
八ノ夜から感じる物静かでも大いなる気迫に、福田は口を閉ざしてしまう。
「……お嬢の考えていることは、昔からわしには分からない。きっとそのなんでもないと言うような表情でさえ、わしらのような常人には理解できない世界を見ているのだろう」
「買い被りすぎですよ。私は……ただの不器用な魔女です」
レヴァテイン・弐を鞘に納め、八ノ夜は自嘲気味に答えていた。
決して表舞台には姿を見せないが、福田の技術力は高く、新たな鞘はまさに名工と呼ぶべき出来栄えだった。柄と鞘が接触した瞬間、刃が静かに奔しる音が、甲高く響いた。
「相変わらず最高の出来栄えですね。流石です」
鞘に収まったレヴァテイン・弐を見つめ、八ノ夜は微笑む。
揺れる炎の光が影を作り出し、儚い面影を漂わせる八ノ夜の姿をじっと見た後、福田は髪をぼりぼりとかいて言っていた。
「……わしにはよくわからんが、その剣は間違いなく人を狂わせる。良い方にも、悪い方にも。勿論それは、使い手次第だろうが」
福田は人目を避けるように、帽子を深く被り直し、八ノ夜の横を通り過ぎる。
「一仕事も終えたし、のんびりと釣りがしたい。注文通りだったでしょう?」
「はい。ありがとうございました」
「出来ればもう、その剣とは関わりたくないものだ」
「……」
新たな装備は完成した。あとは、これを少年の元へ再び届けるだけである。少年は、この剣の所持をもう拒むこともせず、友を守るために振るい続けるのだろう。
「天瀬……。全てが終わったら、その時は……」
僅かな迷いなど、今更したところで変える事も、戻る事も出来ない。首を横に振り、言葉を閉ざした八ノ夜は、鞘に収まったレヴァテイン・弐を背負い、踵を返して階段を上がって行った。
※
使い魔たちにだって、たまには憩いの時間は必要だ。普段はずっと主人の中におり、魔方式を組み立てられたら、嫌でも現実世界へと飛び出さなければならない。いざとなれば主人の身を守る盾としての役割も持たねばならず、可愛い格好良いと言われるだけが仕事ではないのである。
「……良キカナ」
湯けむりの中、白いタオルを頭の上に乗せ、ファフニールは深夜の箱根温泉を満喫していた。
当たり前であるが、浴槽は人間用に作られている。図体が大きいため、半身浴にもなっていないが、ファフニールは瞳を閉じてお湯を感じていた。
人たちが寝静まっている深夜とあって、竜と、゛彼ら゛の入浴を邪魔するものはなかった。
「――白虎カ」
「ガルル……」
クリシュティナの使い魔であり、同じく頭の上にタオルを乗せた白虎が、四足歩行のまま湯船の中に沈んで行き、頭だけを出していた。
「オ主ノ主人モ剣ノ小僧ヲ好イテイルヨウダナ。ソレ故構ッテモラエズ、少シバカリ寂シイノカ?」
「クーン……」
湿った鼻をぴくぴくと動かし、白虎は大量の口髭をしょんぼりと落としている。
「気ヲ落トスデナイ。人間ナラバ自然ナ事ダ。酸イモ甘イモ噛ミ分ケ、ソウシテ少シズツ、大人ニナッテイクノデアロウ。我々ハソレヲ見守ルノダ」
「ガル」
「左様。見守ルノモマタ、我ラノ役目ダ。……姫モ影デハ相当悩ンデイタノダゾ」
猫舌ならぬ猫肌だったのか、白虎はすぐにお湯から上がっていく。ずぶ濡れとなった身体の体毛を、洗い場でばさばさと全身を震わして水を飛ばし、乾かしている。
ファフニールがちらりと洗い場の方を見れば、そこでは魔法生の使い魔たちが思い思いの時間を過ごしている光景があった。
「きゃんきゃんっ!」
「みゃあみゃあっ!」
千尋と篠上の使い魔である子犬と子猫が、風呂桶に溜めたお湯で小さな湯船を作り、そこに入浴している。二匹とも仲が良いようで、表情もリラックスしている……と言うよりは、無邪気にはしゃいでいる。
「マッタク……公共ノ場デハ静カニセヌカ」
あまりにはしゃぐので、桶のお湯がなくなってしまっている。
やれやれと息をついたファフニールは、手桶でお湯をすくい、それぞれの風呂桶に継ぎ足してやっていた。
「トコロデ……オ主ラハ湯ニ浸カランデ良イノカ?」
ぎろりとした視線を、ファフニールは脱衣場の方へ向ける。まずドアの近くに立っていた、聡也の使い魔であるメガネザルは、それだけでひっくり返って気絶した。
帳のゴリラは脱衣場のベンチの上で寝ており、小野寺のフクロウは扇風機の上に留まったままピクリとも動こうとしない。
「……ム」
唯一湯船に近付く志藤のヘビを一目見ると、ファフニールの中でよく分からない感情が沸き出てくる。
「オ主ヲ見テイルト、何故カ気ニ食ワナイノダ……。一体何故ダ……」
志藤のヘビもまた、ちろちろと舌を何度も出し、ファフニールを睨んでいるようだった。
※
――アメリカ合衆国 ニューヨーク市マンハッタン。
冬の季節の気温は氷点下にもなる、アメリカ随一の人口を誇るニューヨーク州の中心街でもあるそこに、国際魔法教会本部は建っていた。かつてあった国際連合がその機能を維持できなくなった事により作られた、魔法を元にした新たな国際平和と安全の維持のための組織である。
老朽化が進んでいたかつての旧国際連合本部ビルは解体され、予算もなりふり構わず作り上げられたのが、新たな世界を統べる魔術師たちの氷点下の城であった。
総会議場と呼ばれる、各国の国際魔法教会の幹部たちが集う議事堂のような場所が、国際魔法教会本部最大の面積を誇る。場は巨大なドーム型の天井となっており、見上げれば奥行きを感じられる、翼を持った天使が空を舞う光景を描いた壁画が、天井一面に施されている。縦の列で同じ方を向く無数の椅子が整列した先にある、中央の壇上。そこはテレビなどでもよく見る、代表者が演説や発表を行う場であろう。
何よりも目につくのは、壇上の演説者の背後に目立つように置かれた、巨大な彫刻だった。口元まで持ち上げた左手に角笛を持ち、右手に杖を持った男の像である。
「――ヘイムダル。お前がまたギャラルホルンを吹いたその時、世界は再び戦火に包まれるだろうか……それとも」
――黒き者と対を成す白きアースは、ここでその時を待つ。左手に持った角笛を吹き鳴らす、その時を。
ヘイムダルの彫刻の足元でそっと手を伸ばし、日本から数秒で戻って来ていたトリックスターは語り掛ける。
「今日は久し振りに剣術士に会ってきたんだ。かつて友情を誓った心からの友であり、永遠の愛を誓った親愛なる愛人であり、私たちの世界を消滅させた憎き敵に」
人であることの体温を感じさせない頬の肌に手を添え、トリックスターは静かに呟く。
「思い出すね。かつてエーギルの館で次々と口論をしていたあの時を。自らの命と引き換えに、みんなを暗く冷たい夜の世界へ封印した彼は今、裏切者の女神たちと共に元気そうだったよ。……この手で殺してやりたいくらいに」
どこからともなく取り出した黄色いリンゴを、トリックスターは皮ごとかじる。
水々しい汁が飛んだが、甘いのか酸っぱいのか、硬いのか柔らかいのかさえも、トリックスターには感じることが出来なかった。
「火に似た光を恐れ、夜の世界にしか生きられず、辛かっただろうみんな……。私も辛かった。ずっと一人ぼっちで、長い時を旅して、ようやくたどり着いたんだ。だから、もうすぐだよみんな……。みんなこそが、この世界を生きるに相応しい存在なんだ。取り戻そう……我々の世界を。この世界を治めるのは過ちを繰り返す愚かな人類ではなく、我々なのだ」
トリックスターは痛みを感じないくちびるの肉を強く噛み締め、決意を込める。
大きな音がたち、総会議場の照明が一斉につけられる。議席にはいつの間にか、席が全てが埋め尽くされるほどの人々が座っていた。多くはスーツ姿で、中には軍服か、トーブを来た中東の人も満遍なくいるようだ。
「――国際魔法教会の諸君! これを見てほしい!」
ヘイムダルの足元でで振り返ったトリックスターは、両手を天高く掲げる。程なく浮かび上がったのは、ホログラムによる映像であった。そこには昨年の末、誠次がメーデイアで巨大゛捕食者゛を破砕した映像が流れている。
『――貴様らが何の目的で、何のために人を喰うのかは、まだ分からない。だが貴様らが人を襲う以上、俺たちは抗い続ける。例え貴様らが何であろうと、今を生きる人を守る為に。そしていつか、貴様らから夜を取り戻す……』
レヴァテインを゛捕食者゛に突き入れる誠次の言葉は、翻訳された英語で、人々の元へ届く。
間もなく゛捕食者゛が死滅した瞬間、誰かが「化け物だ……」と戦き呟いていた。
「日本はまだこんな存在を野放しにしているのか!? 昔の技術に縋って、いつまでも魔法文明を受け入れないからだ!」
(魔法技術で遅れを取った日本への偏見、か。さながら科学技術への未練が生んだ代償か)
トリックスターは内心で微笑みながらも、高らかに声を張り上げる。
「諸君! 時代は変わった! 今や世界は魔法がなくてはあり得ない世の中だ! 諸外国が手を取り合わなければ、夜の世界を取り戻す事も出来はしない!」
日本の代表者へ向け、各国からの非難のヤジが飛び始める。
「私たちはこの少年について、この場で映像を見るまで何も知らなかったと言うのが、実情であります……」
日本の代表者である男性が、周囲の声に圧されるように、力なく答える。
「知らぬ存ぜぬでは済まないだろう。もしかしたらあの少年は、従来の兵器以上の力を持つ兵器となる可能性もある。ニ〇六〇年に各国で結ばれた、ロサンゼルス軍縮条約で棄てたはずの力を持っているかもしれない」
ロサンゼルス軍縮条約。魔法が生まれた事により、従来の各国が有していた兵器を、国防に足りる最低限まで棄て、各国で協調する為に結ばれた条約であった。主要なところでは、大国が所持していた核兵器等の大量破壊兵器の廃絶だろうか。
「それは由々しき事態ではないか!?」
「どの面が言うか! そもそも貴様たちの国こそ、まだ大量破壊兵器を隠しているとの情報があるぞ!」
「お、憶測でものを語るな!」
(゛捕食者゛という人類にとって共通の敵が出た今でも、人同士での醜い争い合いを続けるのか……。哀れな剣術士。君の命と引き換えに生まれた新たな人類の愚かさに、君の嘆きが聞こえてくるよ……)
罵詈雑言が響く中、トリックスターはそれが止むのを静かに待つ。今まで長い時間を待っていたのだ。今さら待ち惚けることなどない。
「現状の問題点とは、日本国がその剣術士とやらの能力を十分に理解、管理出来ていない点にあると思う。その能力を見極め、必要ならば我々の管轄下に置くべきだ」
どこぞの国の代表が、片手を持ち上げて言う。
「しかし彼も人間です。意思があるでしょう」
「拒むのならば、条約通り゛破棄゛させるまで。我々国際魔法教会こそが、世界の秩序を守る為の魔力を有するに相応しいのですから」
「確かに、一部の強大過ぎる力はパワーバランスの崩壊と人類の恐れを生み出します。旧世紀の核兵器が例でしょう。あれは、あってはならなかったものなのです」
とある国の女性代表者が続けた言葉に、日本の代表者は言葉を失う。
――馬鹿な人間共。予定通り過ぎる流れだ、とトリックスターは、内心で込み上げる笑いを抑えることが出来ずに、口角を上げていた。
「では天瀬誠次は本当にそのような力を有するのか。それは実際に皆さんの前で見せてもらった方が良いでしょう。あれは世界の秩序を脅かす存在なのか、それとも世界の平和の為への人柱なのか」
「見るとは……どうする気です?」
トリックスターは瞬きをした目を――あの日に炎に包まれて崩壊した文明を最期の時まで見つめていた目を、現代へ生まれた百を越える魔術師たちへ向ける。
「天瀬誠次――剣術士をここ国際魔法教会本部に召集し、審判にかけるのです。彼の力を間近に見れば、彼がどれほど魔術師にとって脅威となるのか、或いはこの魔法世界を人間の物へと取り戻せる希望の光となるのか、判別が出来ましょう!」
夜の世界へと封印された゛友゛を取り戻す為、世界を喰わんとする野望を抱いたトリックスターの宣言は、高らかな声で国際魔法教会本部に響き渡っていた。
年内の更新は最後になります。良いお年をお迎え下さい。




