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魔法世界の剣術士 上  作者: 相會応
エーギルの温泉館にて
194/211

7

「……」


 東京から旅行に来た女子六人組が寝る部屋では、ワイヤレスのドライヤーが生み出す温風で、香月詩音こうづきしおんが髪を乾かしていた。夕食の後にも再び温泉に入り、火照った身体を覚ます為にも薄着の浴衣姿だ。


「流石に入り過ぎたかしら……」


 ぽかぽかを通り越して熱く火照った身体を眺め、香月は微笑む。後ろの方では友達たちが、明日の予定を話しているようだ。座椅子に腰掛けたり、床の上に寝転がったり、思い思いの時を過ごしている。

 あらかた髪を乾かし終えたところで、魔法で宙に浮かばせていたドライヤーを頭から離す。


「……?」


 温風が止んだと同時に微かに、誠次(せいじ)が自分の名を叫んだような声が聞こえた気がし、香月ははっとする。


「天瀬くん……?」


 叫び声が聞こえたのは、その一瞬だけだった。しかし、聞き間違える筈もなかった。今までずっと一緒にいて、何度も自分の名を呼んでくれていたのだから。

 香月は立ち上がっていた。


             ※


 微睡(まどろ)んでいた視界が、正常を取り戻し始める。どうやら、しばし寝ていたらしい。

 浴衣姿の誠次は、意識を取り戻していた。

 視界に広がっている見慣れない天井に、温かい光の照明。旅館の客室であることに間違いはないが、クラスメイトは周囲にはいなかった。


「みんなは……?」


 まだ頭の中はぼうっとしている。夢の途中、なのだろうか。

 少しの恐怖心を抱く自分の呼吸音以外、なにも聞こえはしない静寂の客室の中、誠次は床の畳に手を当てて上半身を起こす。


「――起きたかね」


 老人の声がどこからともなく聞こえ、誠次は目を凝らす。

 いつの間にかと言ってもいい。テーブルを挟んだ向こう側に、白髭を蓄えた老は座していた。

 東洋人の血を色濃く残した肌はしわが寄っているが、所々に若々しさも感じる。日本人にしてはほりの深い目元の奥の瞳は黒く、こちらをじっくりと見つめていた。


「急に倒れたんだ。ここは私の部屋だよ」

「すいません……」


 起きようと上半身を起こしたは良いものの、全身は鉛のように重たく、精々座るのがやっとだった。

 ぼうっとした表情をする誠次を眺め、白髭の老人はテーブルの上にぽつんと置かれていたグラスを差し出してくる。グラスの中には、透明な液体が入っている。


「飲むと良い。気分も良くなるだろう」


 差し出されたグラスの中の水が揺れ、反射する天井の照明の光がゆらゆらと揺れている。差し出された水をじっと見つめていた事に気づかれたのか、「ただの水だよ」と老人からは言われ、誠次ははっとなって顔を上げる。


「それとも、お腹が空いたかな?」


 老人がどこからともなく、誠次の目と鼻の先に手のひらの上に置いた真っ赤なリンゴを差し出す。汚れも傷もない。綺麗に磨かれているというよりは、まるで美しく作られた彫刻品のような無機質さを、リンゴからは感じた。


「貴方は……?」

「旅人さ。私も君と同じ、長い旅の途中だ。さあ、飲みたまえ」


 老人の期待するような視線を受けた時にはすでに、誠次はほぼ無意識の範疇で、グラスを手に取り口につけていた。

 これは本当にただの水だったのか。匂いも味も確かめる間もなく、喉を通してしまった今となっては、わからなかった。

 気持ち悪かった気分もようやく落ち着きを取り戻し、誠次は老人と向かい合って座席に座る。

 二人の間に真っ赤なリンゴを置いた老人は、水を飲んだ誠次を満足そうに見つめていた。


「お一人で旅行ですか?」


 部屋を見渡しても、異常なほど綺麗なままで、老人の荷物らしきものはひとつもない。ここへ来たばかりなのだろうか、しかしそれにしては同じ浴衣を着ているのが不自然ではあった。


「たまには一人も良いものだ。しかし、やはり古い友人も欲しくなってくる。君を見ているとね」


 男の目が細く、誠次を見つめて来る。


「古い友人……?」

「虚しいものだ。かつて多くの者が血を流したこの地球で、戦士たちの記憶は欠片も残されていないとは」


 物語るように、老人は言う。


「私は全てを見て来た。君が魔剣を振るったその瞬間より、その前から」


 スキー熱でも出て来たのだろうか。急に身体中が熱くなり、誠次は額から汗を滲ませていた。


「君の魔剣は元の姿に戻りつつある。最後に使った時は、自我を呑み込まれそうになっていただろう?」

「はい……。まるで誰か別の人が、俺の身体を乗っ取ろうとしてきて……。初めて戦った時は、そんな事はなかったのに……」


 どこで見ていたのか、と言う些細な疑問でさえ今の誠次の脳裏には浮かばず、老人の言葉に素直に答える。

 確か、初めて扱った時は素直に言う事を聞いてくれたはずだ。

 ……確か? 確かって、いったいおれは何のために、戦ったのだったけか……? 思い出せない……。

 そんな事さえ、今の誠次には曖昧となっていた。

 

「魔剣が元の姿に戻っている証拠だ。だが、まだ完全ではない」


 老人は満足そうに言っていた。

 そして腕を組み、何やら虚しそうに周囲を見渡す。


「この国も多くの人が命を燃やし、ついえていった。東馬迅とうまじん

「あの人は……テロリストだったんです……」


 正座する膝の上に置いた両手に力を込め、誠次は言う。


「その実、人間の身には余る野望を抱いていたようだがな。彼は最期までこの魔法世界を憎んでいた。憎んだが故に、禁忌の魔法に手を伸ばそうとしていた……」

「死者復活……」

「その通り。あれは人の生をもてあそぶものだ。とても認められたものではない」


 愛する人を取り戻す為の妄執が生んだ、禁断の魔法への到達。それは最終的には彼が憎んでいたはずの゛捕食者イーター゛となると言う皮肉な結果で、幕を閉じていた。


「そして、この世界に希望を抱いた者も、僅かな誤解から朽ち果てていった。佐伯剛さえきつよし

「あの人は……未来を信じていた」

「何一つとして確証されてはいない未来を信じる。それは人間の愚かさでもありまた、間違えながらも進化を繰り返したらしさでもあるな」


 特殊魔法治安維持組織シィスティムの一員として、最後まで戦い抜き、志藤の父親を守って死んでいった。


「しかし……この魔法世界はまたしても、過ちを繰り返そうとしている。彼ら以外にも多くの者は死んでいったが、それらは人の記憶に残ることなく、次第に忘れ去られていく。そればかりか、今でさえ人は自由だ。夜の世界を失ったとしても」


 カーテンも開けられている窓の外を眺め、老人は虚しさを漂わせていた。窓の外ではまだ溶けていない白い雪が、塊となって屋根からずるりと音を立てて、落ちていく。そして溶けてしまった雪は冷たい水となり、地面の上に朽ちていった落ち葉へと降りしきる。


「助け合って、必死に生きているんです……。東馬さんにだって信念はあった。ただ、その方向性が間違ってしまっていて。誰だって、死にたいから生まれたわけではないはずです……」


 そう言った誠次の顔を、老人は感心したように見つめる。

 だが次には、薄く頬んでいた。


「私は君の恐れを感じている。そのいつもの自信ある表情の裏にある、弱い君を」

「俺は……そんなはずは……」


 おもむろに老人が立ち上がり、誠次の元まで歩み寄る。部屋の照明が長身に隠れ、冷たく黒い影が誠次に襲い掛かった。


「やがて魔術師かれらだけとなるこの魔法世界に、果たして君の居場所はあるかな? 魔法を使えない、剣術士きみの」


 老人のしわが寄った手を向けられた誠次は、サウナにでも入ったかのような汗を噴き出しており、口で呼吸せざるを得ない状況へとなっていた。ばくばくとと鳴る心臓の動悸が、一向に収まらない。


「私のかつての友たちは、灼熱の炎に焼かれ黒い灰となり、すでに夜の世界で待っている。君はこちらに来る気はないかね?」

「夜の世界で、待っている……? かつての、友……?」

「スルト。彼が振り撒いた終焉の炎によって、私の友たちは異形の姿に変えられた。日の光を恐れ、太陽の光を見る事も出来ない。だから私はずっと待っていたのだ。気の遠くなるような長い時を、孤独に旅して。彼らが生まれ変わる、その時を」

「貴方は、一体……っ!?」


 自分でも分かるほど、黒い瞳が痛むほど揺れている。思わず後退さろうとも、元から足が無いのではないかと思えるほど、力を入れることが出来ない。


「僕はトリックスター。全てを閉ざし、終わらせる者さ」


 老人の姿が一瞬のうちに、自分よりも幾分か若い少年の姿へと変わった。


「トリック、スター……?」

「やっと会えたね。僕は君に会いたくて仕方がなかったんだ」


 トリックスターと名乗った白髪はくはつの少年は、誠次を見つめ、屈託のない笑顔を見せる。伸ばした両手で誠次の両頬を触り、大切な宝物のように優しく触る。

 なんの感触も感じなくなった誠次は、その手に宿っているのであろう人間の温かさも冷たさも、感じれなかった。


「お前は……」

「僕は……」


 まるで口づけでも交わすかのように、誠次の鼻先に少年の鼻先が当たるまでに、少年は顔を近づけてくる。


「もう一度あの頃のように、愛し合おうスルト。私とお前、二人だけの世界を作り直す為に」


 今度は女性の声となり、トリックスターは誘惑するように、生暖かく湿った吐息を誠次の耳に吹きかける。胸に押しつけられる二つの感触は、女体の柔らかい胸によるものだった。

 トリックスターは誠次の背に腕を回し、誠次の肩の上に顔を乗せる。


「二人だけの、王国……」

「そう。そこではもう、誰にも邪魔されることはないだろう……」


 まるで生まれたばかりの赤子をあやす様に、トリックスターは一旦身体を離すと、今度は誠次の頭を包み込むように、抱き締めて来る。

 途切れかけの意識の中、誠次の呼吸は鈍くなり、トリックスターの柔らかい感触に墜ちていくようだった。


「私の中で永遠とわに眠れ、剣術士スルト――」

「――《グィン》!」


 月明かりにも似た眩い閃光が、少女の詠唱の後、部屋一帯に拡散する。闇に沈みかけていた誠次の意識は、現実へと引き戻される。


「香……月……」


 光の発生源である部屋の入り口を、トリックスターに抱かれていた誠次は、ぼんやりとした表情で見つめて、呟く。

 白い魔法式を広げて立っていたのは、浴衣姿の香月詩音だった。


「おや」


 長い髪の女性の姿となっていたトリックスターは、誠次を抱きかかえたまま、香月を面白げに睨む。


「今すぐ天瀬くんから離れないと、次は攻撃魔法を当てるわ」

「ふふ。相当怒っているようだ」

「……!」


 ただの威嚇では済まさないと、香月は攻撃魔法の魔法式を実際に構築し、誠次を抱くトリックスターに向ける。

 白い魔法の光を浴びながらも、トリックスターは余裕の笑みを浮かべていた。


「私に魔法は効かない。この意味、分かるだろう?」

「魔法が効かない……。天瀬くんと、同じ……?」

「その通り。魔術師わたし剣術士せいじは共にあるべき存在なのだ。君ではない」


 そして、とトリックスターは軽く手を振る。たったそれだけの、僅かな動作で、香月の目の前に浮かんでいた円形の攻撃魔法式は、跡形もなく消滅していた。妨害ジャミング魔法でもない、まるで最初からそこに無かったかのように、一瞬で魔法式が消えたのだ。

 驚き途惑う香月の目の前に、トリックスターは゛出現゛する。苦しく口で呼吸をする誠次は、床の上に置き去りにされていた。


「魔法をこの世に生んだのは、私だよ」

「貴女が魔法を……!?」

「魔法を生んだ私に魔法で攻撃するのは、無駄な事さ」

「っ!?」


 トリックスターは続いて、香月を抱き寄せるように片腕で細身の背を包み込む。

 拒絶しようと素手を胸に押し当てる香月であったが、トリックスターは構わずに香月の耳元まで口を寄せる。


「さて君に質問だ香月詩音。レーヴァテインは何処にある? この魔法世界を完全なものにする為に、私は誠次とレーヴァテインを回収したいんだ」

「やめ……っ」


 強引に香月を抱くトリックスターの背を見た誠次は、身体の底から怒りが湧き上がるのを感じ、両腕に力を込める。


「貴様……っ!」


 全身から汗を噴き出しながらも起き上がった誠次は、トリックスターの背中を鷲掴みにして、香月から引きはがす。


「これは驚いたな剣術士スルト。その状況で立ち上がるとは」

「香月から……離れろっ!」


 ふらふらな意識の中では、まるで部屋自体が回転しているようだ。それでもトリックスターの身体を引いた誠次は、怯える香月を守るために二人の間に立つ。


「……共に来てはくれないのか、剣術士?」


 寂しそうに微笑みながら、トリックスターは誠次に問いかける。


「俺は、ヴィザリウス魔法学園1-Aの天瀬誠次あませせいじだ……! 貴様の知る剣術士とは違う……!」

「ふらつきながら言う台詞ではない。しかし見事だ。お前の顔を立て、今宵は引き下がろう」


 今度は同年代程の、端正な顔立ちをした若い男子の姿へと変化したトリックスターは、片手を掲げる。何かをされるのではないかと警戒した誠次と香月であったが、トリックスターはまるで空気と同化するかのように、透明になっていく。


「ま、待って!」


 香月が手を伸ばすが、最終的にトリックスターは完全に透明となり、最初からなにも無かったかのように空気を掴んでいた。残されたのは、机の上に置かれた真っ赤なリンゴだけだった。


「香、月……っ」


 香月の後ろで、誠次はずるずると姿勢を落とし、膝から床に座り込む。


「天瀬くん!? しっかりして!」

「うぐ……っ!?」


 駆け寄った香月に支えられるが、口元まで手を伸ばしていた誠次は、とうとう堪え切れずに、一瞬で胸から押し上がった体液を吐き出した。


「けほっ、げほ……っ」


 手で抑えていてもどうしようもなく、酸っぱく生臭い液が飛び散る。


「天瀬くんっ!」


 目の前にしゃがんでいた香月は、後も先も考える間もなく、こちらを包み込むように抱き着いて来た。背中を優しくさすられ、落ち着かせられる。


「もう大丈夫よ天瀬くん……。私がいる……安心して……」


 先ほどのトリックスターの抱擁よりかは遥かに温かい体温を感じ、誠次はようやく落ち着きを取り戻す。


「ごめ……香月……怖、かった……」


 揺れる視界の中で、必死に香月を捉えた誠次は、香月の細い身体を抱き締め返す。香月の体温と匂いを感じ取った身体は安らぎ、唇を震わしつつも誠次は目を瞑っていた。

 小刻みに震える誠次の身体を抱き締め、香月は誠次の茶色の髪を優しく撫でる。


「大丈夫?」

「ありがとう……。落ち着いた……」


 しばし抱き合った末、香月が誠次の肩の上から頭を離す。背中から離した手はそのまま、誠次の両手を優しく取っていた。


「どうして、俺がここにいると分かったんだ?」

「変だと思うかしら。あなたが私の名前を呼んだ気がして……」

「……いや、俺はずっと香月の事を追いかけていたから。来てくれて嬉しいんだ」


 誠次は安心しきった表情で、目の前の香月を見つめる。


「あの人は、いったい何なの? 自分が魔法を生んだとか、言っていたけれど……」 


 真剣な表情で、香月はいてくる。

 未だに気持ち悪さが残る頭の中で、誠次は必死に思い出していた。


「トリックスター……。アイツはそう自称していた。かつて愛し合ったとか、わけのわからない事を言われて……」

「愛し合っていた……」


 香月は(こうべ)を落とし、なにやらじっと考え込んでいる。

 奇妙な出来事であったが、当事者は消えてしまった。残された真っ赤なリンゴを見つめても、押し寄せるのは不気味さと気持ち悪さだけであった。


「あっ、すまない香月。せっかくお風呂に入ったのに、汚してしまって……」


 しばし沈黙が続いた後、誠次は申し訳なく、頭を下げる。

 香月の浴衣の袖には、誠次の吐瀉物が付着してしまっていた。


「気にしないわ。それにあなたこそ」

「ああ。俺はもう一度風呂に入るよ。さっぱりしたら、気分が良くなるかもしれない」


 胸元に広がっている汚れをじっと見つめた後、誠次は立ち上がろうとしたが、


「うわ……」


 足にまともな力が入らず、すぐに膝をついてしまった。

 そんなこちらの姿を見かねたのか、香月がしゃがみ、肩を貸してきてくれた。


「無茶しないで。私がお風呂まで運んであげる」

「すまない……」


 香月に支えられることで、今の誠次はようやく立ち上がり、歩くことができていた。


「まるで酔っぱらいの介抱をしているみたいね。あなたは将来、こうやってお酒を飲んで奥さんのお世話になるのかしら」


 ここが旅館故の発言だろうか。耳元での香月の言葉に、誠次は苦笑する。


「迷惑はかけないようにするよ」


 部屋を出た直後、誠次は客室ドアを振り向いてみる。宿泊客がいるのであれば、そこには専用の札があるのだが、札は掛けられていない。すなわち誠次が運び込まれた部屋には、旅館側が把握している宿泊客はいないと言うことになる。

 時刻は11時を過ぎたところだろう。足を引きずるようにして、誠次はようやく男湯がある紺色ののれんの前までたどり着く。


「ここまで来れば大丈夫だ。ありがとう香月」

「まだ足元がおぼついていないようだけれど」


 誠次の腕を自身の肩から離しながらも、心配そうに香月は指摘してくる。


「さすがに男湯の中まで入るわけにはいかないだろうし、俺は平気だ」

「そう。なら私は着替えを持ってまた来るわ。くれぐれも子供みたいに湯船の中に沈んでいたりしないでね」


 遠回しに心配されているのだろうか、本当にやるとでも思っているのだろうか。どっちつかずな言葉を言われた誠次は、「ありがとう」と言い、のれんに手を掛ける。


「上がる時間、前もって言っておいた方がいいか」


 新品の浴衣を持ってこさせたまま待たすのも悪いと思い、誠次は香月に告げようとするが。


「別にいいわ。ゆっくり入っていて」

「でも夜も遅いし……」

「そうね。あなたはそうやって気遣いをしてくれるけれど、私だって出来るものよ。ゆっくりで大丈夫だから。急いで上がられても、逆に心配が増えるだけだわ」


 香月の頼み込むような視線と言葉を受けた誠次は、自然と微笑んでいた。


「……ありがとう。じゃあお言葉に甘えて、ゆっくり入らせてもらう」

「そうして頂戴」


 香月が踵を返して、新しい浴衣を持って来るためにフロントに向かう。

 その背中を角を曲がって見えなくなるまで目線で追っていた誠次は、持ち上げていたのれんを垂らし、脱衣場へと入った。


(みんな)には悪いけど、二番風呂を頂こうかな」


 意味が違うと思うが、汚れた浴衣を脱ぎながら、白い腰巻きタオルを片手に誠次は呟いていた。何だかんだで、自分は温泉が好きなんだなとしみじみ自覚を抱きつつ、室内大浴場へと足を踏み入れる。

 時間も時間であり、先程(みんな)で入ったときは他のお客さんである中年のおっさんやご老人もいたのだが、今は完全な貸しきり状態だった。深夜の旅館とはこんなこともあるのだろうかと、少しだけ嬉しい。

 汚れたのは顔と体だが、髪もついでに洗う誠次の後ろで、がらがらと脱衣場の扉が開かれる音がした。

 もう一人の入浴者があとほんの少しでも遅く来ていれば鼻唄を歌っていたところであり、途端に恥ずかしくなった誠次は、髪の毛を必要以上にごしごしと泡立てていた。


「――浴衣はあなたの下着の上に畳んで置いておいたから」

「な、なんだ香月か。焦った」


 誠次はほっと一息つく。

 泡で視界が塞がる中、聞き覚えのある女子の声の持ち主が、隣の洗い場に静かに着席したようだ。かこんと、風呂桶がずれる音が聞こえる。


「わ、私よ……」


 少しだけそわそわしたような声で、香月の返事があった。


「いや俺以外に人がいないと思ってさ。思いっきり鼻唄を歌おうとしてたんだ」

「一応は、あなた以外に誰もいない事を確認して、≪インビジブル≫を使って入ったから……」


 ごしごしと髪を洗う誠次は安心して、隣に座る香月に話しかける。


「来たのが香月で良かった――って、香月っ!?」


 髪をシャワーのお湯で洗い流した誠次は、ここでようやくこの状況の異常さに気がつく。

 一瞬だけ見えた横の人物は確かに銀髪で、小ぶりな胸元まで持ち上げられた白いバスタオルと、女性らしい綺麗な白い肌の太ももが見えていた。


「な、なんだって男湯に!?」


 盛大に慌てる誠次は椅子の上で回頭し、香月に背を向ける。


「あなたので汚れたから、洗いに」


 誠次が背を向けたのを少しだけ(とが)めるような視線で眺めつつ、香月は澄ました声で言う。


「女湯に行けばいいだろ!?」


 誠次は背筋をぴんと伸ばし、まるで面接官を前にした学生のような姿勢だった。

 別にこちらがやましい真似をしているわけではないと言うのに、何故か心臓はばくばくと鳴り響き、全身が熱くなる。


「それは……そんな状態のあなたを一人でお湯に浸からせるなんて、危ないからよ」

「そんなに心配だったら、志藤(しどう)とか男を呼んでくれれば……」

みんなもう寝ているわ」


 背中の方からそんな事を言われてしまい、誠次は反撃の言葉を失ってしまう。そして、次には――、


「わ、わかった……」


 と、早々に香月に降伏するのであった。


「それに私の身体を見ても、篠上(しのかみ)さんやルーナさんみたいに魅力的じゃないはずだし」

「そんな事は一言も言ってないし思ってもないからな……?」


 相変わらず香月には背を向けたまま、誠次はボディソープを手に取り、身体を洗っていた。何かしていないと、背後の気配に集中しすぎてしまう。


「あら意外ね。それじゃああなたは小さい方が(この)みなのかしら?」


 椅子の上に座る香月は、表向きは冷静な顔立ちのまま、洗い場のシャワーの温度を確かめるようにそっと手を伸ばす。


「そうは、言っていない」

「……最低ね」

「どう答えればいい!?」


 お風呂場の中で女子と二人っきりでなんと言う会話をしているのだ。これが男友達ならともかく、相手は香月詩音だ。思いきって振り向いて見たい感情をどうにか抑えつつ、誠次は泡のついた身体をお湯で洗い流す。


「体洗ったし、俺は先に出るぞ」


 男湯に女の子を一人きりにさせるのはどうかとも思ったが、《インビジブル》を発動しているそうなので、おそらく大丈夫だろう。この時間帯まで起きて、深夜風呂を楽しもうとする温泉通も今は泊まりに来てはいないようだ。


「バスタオル一枚姿の私を一人きりにさせる気?」

「その姿で堂々と入ってきたのはそっちだろ!?」


 室内風呂独特の反響音で以て、誠次の大声が響く。


「気分が優れないのならば、お湯には浸かるべきよ。そのまま出たら風邪を引くわ」

「……っ」


 どうしてもこのまま男湯から出したくないそうだ。それにこの状況で出ようにも、脱衣場の方向には香月がいる。

 もはや何を言っても香月に(相変わらず理由は理屈はどうであれ)論破されてしまう気がし、腰巻きタオルを巻いたままの誠次は立ち上がり、脱衣場ではなく、奥の湯船の方まで向かっていた。

 程なくして、香月も湯船の方までやって来る。ぴちゃと、お湯が冷めて水となった床の足音が徐々に近づいてくる時は、理由(わけ)の分からない高揚感が押し寄せていた。


「隣失礼するわ」

「と、隣!?」


 すぐ後ろから聞こえた言葉に返答する間もなく、艶かしさを感じる裸足が、視界の左隅の方で湯船に浸かっていく。

 彼女らしい(しと)やかな仕草で、香月がお湯に全身を沈めると、お湯の軽い波がこちらの胸から上を悪戯するように通っていく。

 ごくりと唾を呑んだ誠次は、もはやわざとらしく勢いをつけて、左隣に座った香月から視線を逸らしていた。


「……気持ち良いわね?」

「あ、ああ……」


 ここまで冷静な香月を横にしていると、何だか自分が情けなく思えてしまう。向こうから来たのだと自分の中で言い訳をして、誠次は視線を真正面へと戻す。予想通り、香月は大した反応も示さずに、自分の体にお湯を掛けていた。


「……愛する人を触るための右手じゃなくて、破滅の剣を握るための右手、か……」


 お湯を持ち上げた右手をじっと眺め、誠次は呟く。透明なお湯が手のひらから零れていき、たちまち右手は乾いていた。


「まあ……さっきは本当に助かった。香月が来てくれなかったら、きっとどうにかなってしまっていた。恥ずかしい話かもしれないけど、香月に似た赤い眼の女の子を追いかけていたんだ」

「私に、似た女の子?」

「ああ。目の色が違っていて、少し大人びていたけど……。目の前で消えてしまったんだ……」

「……」


 香月はわけが分からないようで、しばし無言でいた。

 真正面方向をじっと見つめながら、誠次は香月に感謝の思いを伝えていた。


「問題は、そのトリックスターとか言う人ね。いえ、本当に人なのかどうかも……」

「人じゃないと言うのなら、なんだと思うんだ?」

「分からないわ。それでも異常よ。魔法の発動もせずに姿を消したり、性別や歳を変えたり出来るのは。あなたにも見えなかったのでしょう?」

「ああ……。≪インビジブル≫でもなかったし、魔法の発動の痕跡も見えなかった」


 香月の言った通り、異常な相手だった。年齢も、人なのかも、男か女なのかも分からない。

 湯の中にいると言うのに、身体の芯は冷たく冷えてしまっている。それは恐怖と不気味さによるものと見て、間違いないだろう。


「……」


 お湯に浸かっているせいか、顔を紅葉(もみじ)色に染め上げている香月は、思い詰める誠次の横顔をじっと見つめていた。すると、何を思ったのか次には香月は、自分の身体を誠次の左腕に寄せていた。


「香月!?」


 ぴたりと、またしとりと、香月の感触が左側いっぱいに広がり、誠次は身体を震わす。


「嫌だったら、すぐ離れるわ……」


 何処かで聞き覚えのあるような事を言う香月は、最終的には誠次の左肩に、濡れた自分の頭を乗せるようにして、寄り添ってきていた。


「……いや、嫌じゃ、ないけど……」

「だったら、少しこうさせていて……」


 左膝の上に乗せていた左手を軽く持ち上げた姿勢のまま、誠次は身動きがとれなくなっていた。(いや)らしい事を言えば、左腕の上腕の一点に、最低限はある香月の女性らしい箇所が軽く押し当てられていた。

 

「私には分かるわ。あなたの心臓の音が、ここからでも聞こえるみたい……。あなたも、私を感じることが出来ているはずよ」

「香月……そうだな。俺も、香月をちゃんと感じる事が出来る」

「そうよ。あなたは、守ったものをその手で触れる事が出来ている」


 誠次の左肩の上に頭を乗せる香月は、瞳を瞑って穏やかな表情を見せていた。何故だかとても、幸せそうな表情でもあった。

 早鐘を打ち続ける心臓は、すでに誠次の意思では遅くすることができないところまで来ていた。

 仄かなシャンプーの良い香りがする香月の髪や、女の子らしい柔らかな身体の感触を、誠次も体感していた。

 香月の言葉は嘘であり、少しと言ったはずが、数分と寄り添っていたような気がする。もしくは、彼女の少しがこれくらいの長い時間を指していたのか。


「香月……」


 名残は惜しいが、そろそろ上がらないとのぼせてしまう。

 全身を火照らした誠次が、そっと声を掛け、軽く左肩を揺する。


「……あ」


 甘えるような香月の言葉はだらしなく、力が入っていないようだった。

 そして、こちらに全身を預けたまま、動こうともしない。


「香月っ。そろそろまずいって……」

「駄目……」

「駄目って、こっちが……っ!」


 右手で香月の頭を触ったところで、とある事に気づく。香月の顔が、そこから発熱しているように熱かった。


「え、香月!?」


 あまりの熱さに手を引っ込めた誠次は、なりふり構っていられず、ここでようやく香月を凝視する。


「うぅ……」

「のぼせてるじゃないか!?」


 雪のように白かった肌は真っ赤になっており、桜色のくちびるを薄く開け、口で過呼吸を繰り返している。


「頭が、ふにゃふにゃする……」

「ふにゃふにゃ!?」


 初めて聞く表現方法に、誠次は湯の中から立ち上がっていた。

 香月は完全にお湯に浸かりすぎてのぼせてしまっていた。ここは男湯で、この状況ではさすがの香月と言えども《インビジブル》を解除してしまっているだろう。


「……っ。天瀬くんの、天瀬くん……」

「どこ見て言ってるんだーっ!?」


 まるでエンチャント中のように、うっとりとした表情で立ち上がったこちらの下半身を見つめる香月を前に、誠次はさっと両手で隠した腰を引く。


「とにかく風呂から上がるぞ!?」

「うん……。手伝、って……」


 香月も自力で上がろうとしているが、上手く腕に力が入らないようだ。


「さっきと逆だな……」


 今度はこちらが香月を介抱する番となった。このままではもしかしたら誰か他の男が入りに来てしまうかもしれない。濡れたバスタオルが身体の張り付き、身体のラインが浮き彫りになっているこんな状態の香月を見せたくはなく、誠次は急いで行動する。


「取り敢えず、まずは湯船から出るぞ!」

「お願い……私、死んじゃう……」

「のぼせて死ぬなんてやり切れなすぎるだろ!?」


 まずは誠次が湯から上がり、ぐったりしている香月の背中に回り込む。

 はっきりと見る、うなじが見える背中は美しい線を描いて綺麗であり、誠次は思わず息を呑んだ。火照った赤みが差した肌色は、どこか艶かしく感じるものだ。


「じゃあ、わきの下に手を回すからな……?」

「お願い……」


 香月の細い腕の下に自分の腕を回し、誠次は香月を持ち上げる。腕で支えられなくなったバスタオルがずれ、胸の膨らみがあらわになりつつある。


「ごめん、なさい……。あなたを介抱しなくちゃいけないのに、私が介抱されるなんて……」


 それでも今は緊急事態だ、と誠次は香月をお湯の中から引っ張り上げる。


「構うものか……。具合は?」

「最悪よ……。でも、同時に幸せかもしれないわ」


 介抱する背後の誠次を見上げ、香月は微笑んでいた。


「変な事言うな……。俺だって、必死なんだ……」

「そう言ってくれて、場違いかもしれないけれど、嬉しいわ」


 香月は誠次を信頼して、身体を預けてくれていた。

 脱衣場までぐったりとする香月を引きずって運んでやり、取り合えずベンチ椅子の上に横たわらせる。新品のバスタオルと、冷たいスポーツドリンクを買ってやり、横になっている香月の元へ。


「ほら、ちゃんと水分をとって、タオルも新しいのにするんだ。うちわも持ってくるか」

「あなたも着替えないと……」


 ようやく落ち着いたのか、香月はこちらをじっと見つめて言ってくる。改めてこちらは腰巻タオル一枚だけと言う姿だ。


「だからこっちを見るな―っ!」


 誠次は急いで浴衣を取り出し、着替えていた。

 のぼせている香月は、横に座った誠次がうちわを扇いで作る風を気持ちよさそうに浴びていた。


「もう大丈夫か?」

「ええ……」

「のぼせるまで風呂に入っているなんて……」

「いけると思ったのだけれど……」

「心配をかけさせるな」 

「あなたには言われたくないわね」

「お互い様か」


 苦笑する誠次はうちわを扇いでいない左手で、足で挟んだスポーツドリンクの蓋を器用に外し、香月の口元まで差し出した。

 胸元のバスタオルを手で抑えながら上半身を起こした香月は、誠次が差し出したスポーツドリンクをごくごくと飲んでいた。


「ありがとう。助かったわ、天瀬くん」


 自惚れかもしれないが、こちらの介抱に、香月は嬉しそうな表情を見せてくれていた。

 幸いなことに、男湯への来客はなかった。その夜は一晩中、誠次は付きっきりで香月の介抱をしてやるのであった。

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