6
一泊二日の温泉旅行初日。スキー場から戻って来た誠次は、客室の畳に敷かれている座布団の上に寝っ転がり、静かに本を読んでいた。
「……」
「……」
「……」
「……」
ちらと横目で室内を見渡せば、帳は客室のテレビでレトロゲームをしており、小野寺はテーブルの上に広げた(違う旅行先の)旅行パンフレットを楽し気に眺めており、聡也は部屋の隅で黙々と勉強をしている。
ちらと部屋の和風柄のアナログ時計を見れば、時刻は夜になろうとしている。
「そろそろ腹減らないか?」
「減――っ」
「――いやそうじゃねーだろっ!?」
上半身を起こした誠次が皆に伺おうとしたが、大声を出したのは志藤だった。彼は部屋の中央の座椅子に座り、腕を組んで不満げだ。
「何してんのお前ら!? やる気あんのかよ!?」
「旅行にやる気と言われましても……」
パンフレットをぱたりと閉じた小野寺が、志藤に向け首を傾げる。
「違うんだよ! 何でお前ら旅行に来てまで寮生活の延長行動してるんだよ!? ここは旅館だぞ!?」
立ち上がりながら、志藤は他の全員相手に盛大に突っ込んでいる。
「別に風呂は寝る前に一度入ればいいしな。室内風呂は二十四時間開いているそうだし」
聡也は勉強をする手を止めることなく、言い切る。電子タブレットの教材を使えば、学びの際に実質紙とペンは必要ない。
一方で、志藤は頭を抱えていた。
「もっとこう、箱根の温泉旅館にいるぜ俺たち!? みたいななんかがあってもさ……」
「おっ、やっとラスボスか! レトロゲームは難しくてやり応えあるな!」
「帳に至っては話を聞けよっ!」
テレビ画面の前でガッツポーズをする帳の後姿に、志藤が虚しくツッコむ。
「分かったよ志藤」
読んでいた本に栞を挟み、誠次は自分の荷物の元まで足を運ぶ。備えあれば患いなしの精神は相変わらずであり、一泊二日の旅行にしては色々と大きすぎな荷物の中から、もしかしたら使うかもしれないと持って来ていたとある物を取り出す。
「天瀬……。やっぱお前って奴は……」
「皆でウノしようぜ!」
「いやそうじゃねーだろっ!」
意気揚々と誠次が掲げたとあるカードゲームに、志藤がよろけながらツッコんでいた。
結局、テーブルを囲んでカードゲームを行ってしまった五人は、ここが箱根の温泉街である事も忘れかけるほどに熱中してしまっていた。
「女子って、浴衣の下に……下着、付けないのかな?」
「それって都市伝説だろ」
「伝説にすんなし……」
顔を赤くしている志藤の儚い夢を、聡也が砕く。志藤は手札のカードをテーブルに置きながら、なあなあと肩を竦めていた。
「今頃は皆さんで一緒に仲良くお風呂入っているんでしょうかね。ルーナさんとクリシュティナさんも、楽しそうで何よりでした」
「みんなが力を合わせたお陰だ。ただこのカードゲームは、容赦ない戦いだけどな」
小野寺の出したカードの上に、意気込む誠次はカードを重ねる。
「負けたらなんか罰ゲームってルールでどうだ?」
唐突に、帳が言い出す。彼の手札は決して残り少ないとは言えないが、勝てる見込みでもあるのだろうか。
「途中からそれありか!? まあ、そっちの方がやる気出るか!」
志藤が長袖の腕を捲って張り切っている。
「負けたらどうします?」
手札があまり良くないのか、小野寺がごくりと息を飲んで、全員に尋ねる。
「全裸で女風呂突撃?」
聡也が眼鏡を光らせて言えば、
「お前って時々突拍子もないこと言うよな……」
隣に座る帳がおっかなびっくりにツッコむ。
「いや……水泳部でやろうとしている奴がいたんだ……」
「それ、立派な犯罪だからな……」
さすがに恥ずかしそうに顔を赤く染めた聡也に、至極まっとうな事を、志藤は言っていた。
結局、罰ゲームはジュースを奢ると言う無難なものになり、首尾よく負けたのも誠次であった。なんでもあのカードゲーム、最後の一枚になった時に掛け声を発しなければならないという暗黙のルールがあったようだ。終始優勢で手札を減らしていた誠次であったが、最後の最後で掛け声を言い忘れ、最下位へと転落していた。
「旅館で買うと結構高いんだよな……」
悩ましく誠次は呟く。
かといって夜の外に出るわけにもいかず、そもそもコンビニエンスストアや道路沿いの自動販売機も早寝早起きをしている時代だ。
「あっ……こんばんわ」
木製の通路を一人で歩いていると、お土産コーナーの所で偶然、浴衣姿のクリシュティナと出会う。どちらかと言えば東洋風の顔立ちをしている為、浴衣姿はとても似合っていた。
「お風呂どうだった?」
「はい。とても気持ちが良かったです。夕食の後に、また皆で入ろうと決めました」
出会ったばかりの刺々しさは何処かへ行き、今は穏やかに微笑む少女が目の前にいた。
「それはよかった」
「立ち話も何ですし、宜しければ何処か座れるところでお話ししませんか? 貴方とは、話したいことが沢山ありますから」
クリシュティナは誠次を見つめ、言う。
「分かった。でも今俺罰ゲームで、ジュースの使い走りされてるんだ。それが終わったらすぐに行くよ」
「旅行先で罰ゲーム……? わ、分かりました。それでは私はロビーで待っています」
浴衣姿のクリシュティナは「待っていますからね」と声を掛け、誠次を見送っていた。
早速、友人たちに半ば嫌がらせで【ミネラルウォーター温泉卵味】なるものを送り付け、誠次は旅館のロビーへ向かう。
もうすぐ夕食時と、女将さんや仲居さんが忙しなく動き回っているロビーには、何席かテーブルとソファがあった。おそらくクリシュティナはそこにいるだろうと、誠次は辺りを見渡す。
「――ちょっとぐらい良いじゃないかよ姉ちゃん! 可愛い顔してさぁ……なっ、なっ!?」
「こ、困ります!」
クリシュティナを見つけたかと思えば、なんと浴衣姿の中年の男に絡まれている場面に遭遇する。風呂上がりの様子の男の顔は赤らんでおり、顔を近づけられているクリシュティナの嫌そうな表情からも、酔っぱらっているのだろう。
しかもクリシュティナに言い寄っているその男、誠次には見覚えがある顔だった。
「こっちは楽しいぞ~」
去年末に特殊待治安維持組織本部に潜入した際に、隠れ蓑として入っていたクリスマスツリー点検スタッフのバイトで、コーヒーを渡して来た作業員の男だ。
「クリシュ――!」
「――何やっとる。いい歳して」
声を掛けて近づこうとした誠次のすぐ横を、浴衣姿の白髪の男性が通る。
「ひゃ、小川ひゃん? 社員旅行って言ったって男ばっかりで嫌になりますよ僕ー」
「だったら彼女の一人でもさっさと作らんか。未来を担う若者に迷惑をかけるな」
酔っぱらっている男の肩を担ぎ、小川は振り返る。当時現場監督をしていた男性で、偶然にもこの旅館に社員旅行に来ていたようだ。
クリシュティナの元へ駆け寄りつつあった誠次と、目と目が合った。あの日はお互いに帽子を被っており、尚且つこちらは髪を伸ばしていたが。
「……っ」
「……フン」
小川は誠次の顔をじっと見つめた後、横を通り過ぎていく。どうやら彼は最初から自分がこの場にいると気づいていたようで、大して驚いた顔はされなかった。
「お前が途中で消えた時は、さすがに俺も驚いたもんだ」
「す、すいません……」
誠次は急いで振り返り、頭を下げる。人命が関わっていようがどうであれ、バイトをバックレたのは事実だ。
「末端のバイトが一人が消えた所で作業に支障は出ない。俺はまた来年もツリーを点灯させるし、お前は来年もまたツリーを見に来ればいい」
「小川ひゃん、誰と話してるんれすかぁ?」
赤ら顔の男が首を傾けて誠次の方を見たが、さすがにそちらは気づけていないようだ。
「まあ人手が足りないのも事実だ、佐伯。暇になったら、また来ればいい。今度は彼女を連れてな」
小川はクリシュティナを睨んだ後、そっぽを向いていた。
「また今年も、見に行きます。子供の頃からずっと見ていたので。必ず」
去って行く小川の背を見送り、誠次は声を掛けていた。
「し、知り合いだったのですか?」
後ろからそっと、絡まれていたクリシュティナが訊いてくる。
「少しだけの知り合いだけど、向こうは俺を覚えてくれたみたいだ。待たせてすまなかった」
「い、いえ。待っていたら声を掛けられてしまって……。正直、貴方の姿が見えた時は、ほっとしました……」
クリシュティナは浴衣を整え直しながら、誠次に向けて軽く頭を下げていた。
「話って?」
「大晦日の日の続きです。改めて私の事を、きちんとお話ししたいと思いまして。あの日は本当に、ごめんなさい……」
「もう気にするな。でも話はしたいな。俺もクリシュティナの事、もっと知りたいから」
「ありがとうございます。あ、何か飲みますか? ご用意いたします」
この甲斐甲斐しさは、メイドとしてならではだろうか。しかし、今は同じ身分の魔法生であり、クラスメイトのはずだ。
「ほら」
だからと誠次は、予め持っていた【ミネラルウォーター温泉卵味】を差し出す。
ペットボトルに入ったそれを、クリシュティナは誠次から両手で受け取る。
「温泉卵、味?」
「さっき見つけたんだ。どんな味か、気にならないか?」
「まあ……そうですね。日本は本当にこのような発想が豊かですね」
透明な水を不思議そうな表情で眺め、クリシュティナは言う。
「実は俺もまだ飲んでいないんだ。美味いか不味いか、博打ってやつだな」
誠次もまた、自分の分を顔の横まで持ち上げていた。ミネラルウォーターのパッケージとしては斬新な、黒卵をモチーフにした黒いラベルが目につく。
「では同時に飲んでみましょうか」
「ああ」
意外と乗る気なのは、まんざらでもないと思ってくれているのだろうか。
誠次とクリシュティナは同時にキャップを開け、口元までペットボトルの飲み口を運び、見た目は透明な水を飲んでみる。
「ぷはっ!?」
すぐに口を離し、口元を手で抑え込んだのは、誠次の方だった。
味はそのままゆで卵であり、それをミンチにして口に流し込んでいるようなものだ。飲み物のはずなのに、凄まじく重たい。
「んっ」
誠次の目の前では、クリシュティナが四分の一ほどをきちんと飲み終えていた。
「へ、平気なのか?」
「はい。透明なのにきちんと卵の味がして、本当にこの国の技術力は素晴らしいと思います」
「……凄いな」
味の感想まできちんと述べるクリシュティナを、ある種尊敬する目で見る。
クリシュティナは、自分が変な目で見られてしまっていると勘違いしてしまい、慌てて両手を振っていた。
「わ、私の味覚がおかしいわけではありませんよ!? 私、料理には自信がありますし……な、何でしたら裁縫なども得意ですしっ! 掃除も出来ますっ! 一緒にいて良い事尽くめだと思いますよ!?」
「な、何故自己アピールをしだす……?」
「え、い、いやこれは別に!」
まるで風呂上がりのように、クリシュティナは両頬を朱色に染めていた。
脱線しかけてしまったが、話をする為に、二人は向かい合って椅子に腰かける。
「当時私は、オルティギュア王国のメイドとして、ラスヴィエイト家に仕えていました――」
当時何が起きていたのか。クリシュティナの身の上話も、包み隠さず教えてもらえた。彼女は時より悲しそうだったり、寂しそうな目をしていた。
「――話してくれて、ありがとう」
「いえ。元々こちらが隠していた事です。それで……宜しければ、貴方の事も、話してくれませんか?」
結局、クリシュティナが用意してくれたお茶が、二人を挟んだテーブルの上で湯気を立てている。
「俺の事?」
「は、はい。変な意味ではなく、お互いをきちんと理解する為にも、やはり話す事が重要だと思いますので」
クリシュティナは赤い瞳を真摯にこちらへ向けてくる。出会った初日にルーナを使っていた頃とは、明らかな違いだった。
「分かった――」
頷いた誠次は、自分の事をクリシュティナに話していた。
「ご家族を゛捕食者゛に……。心中お察しします……」
「クリシュティナこそ。お兄さんとは、離れ離れになっちゃったんだな。せっかくの家族なのに、一緒にいられないなんて、辛いと思う……」
しかしクリシュティナは、静かに首を横に振っていた。
「今の私にはルーナと、皆さんがいます。辛くはありません」
「それなら良かった。でもお兄さんが国際魔法教会の幹部って、やっぱ凄いな……」
近い所で言えば、千尋の父親が魔法執行省の大臣であるような事だろうか。
香月や志藤もと言い、自分の身の回りには実はとんでもない社会階級の者が多すぎると思うのだが。
「学園の生活はどうだ? 何か困っている事とか、ないか?」
「え、は、はい。皆さんにはとても良くしてもらっています」
一瞬だけ変な間があった言葉の終わり、クリシュティナはくすりと笑う。
「な、なんで笑うんだ?」
戸惑う誠次の目の前で、クリシュティナは軽く頭を下げる。
「気に障ったのなら申し訳ありません。ですが本当に、お風呂で皆さんの言う通りだと思いまして。天瀬誠次くんはとてもお優しく、親身になってくれると」
「お、俺は学級委員だから。クラスメイトの事を考えて、より良い学園生活を送ってもらえるようにしたいだけだ」
急に恥ずかしくなった誠次は、後ろ髪をかきながら、クリシュティナから目を逸らす。
クリシュティナは優しく微笑んでいた。
「貴方に受けた恩は、そう簡単に返せるものではないと思います。心から感謝しています」
「平気だって。もうルーナもクリシュティナも自由なんだからさ。これからの事は、ヴィザリウス魔法学園で過ごして見つければいいはずだ」
「ありがとうございます。感謝しても、しきれません……」
「大丈夫。それよりもうすぐ夕飯の時間じゃないか? 部屋まで送るよ」
「送る?」
「酔っ払いの人とか多いいし、また絡まれるかもしれないからさ。さっきは格好つけて助けようとしたけど結局小川さんに先を越されちゃったし、俺にもそれくらいやらせてくれないか?」
苦笑して後ろ髪をかきながら、お腹を空かせた誠次が椅子から立ち上がると、クリシュティナもすぐに立ち上がった。
「貴方は……もう十分に格好よくて、素敵だと思います……」
「え?」
「い、いえ。それではお願いします、誠次……。旅館の和食は、一度食べてみたかったのです」
美味しそう。新鮮な魚介の刺身に肉。小さな鍋なんかもあったりして、確かにその通りだと、誠次もうんと頷いていた。
終始リラックスした表情を見せていたクリシュティナを部屋まで送ってやり、誠次は友人たちがいる部屋へと帰る。
「あれ、暗。……どうしたんだ、みんな?」
まだ寝る時間ではないというのに、電気も点けていなく薄暗い部屋を進みながら、誠次は戸惑い声を出すが。
「お前の、所為だろ……。なんちゅーもん、寄越してくれたんだ……!」
志藤の苦しそうな呻き声が、暗闇の下の方から聞こえる。
床の上に倒れている四人に囲まれているテーブルの上には、【ミネラルウォーター温泉卵味】のペットボトルが、蓋も開けられている状態で置かれていた。
「す、すまなかった……。まあ丁度、お腹も空くんじゃないか……!? は、ははは……」
癒しの旅行のはずなのに、ここまでろくなものを食べていない気がしていた。
よってもっとも楽しみなのが、この後の旅館の食事だ。
食事は間もなく、複数名の仲居さんによって部屋まで運ばれて来た。普段は男性客でも年配や中年の人ばかりを相手にしている事が多いのか、男子高校生五人組が新鮮なようだ。
「ちょっと、ちょっと。男子高校生なんて可愛すぎない!?」
「あとでおばさんのお部屋来なよ、なんて言っちゃって!?」
「アラヤダー!」
聞こえないと思っているのか、部屋を跨いだ廊下ではしゃぐ熟年の仲居の会話が聞こえてきて、五人ともなんとも言えない表情となっていた。
料理自体はとても美味しそうな、新鮮な魚介類を贅沢に使った和食のフルコースだった。寮生活を送っている普段は学食もろくに使えない為、購買弁当や適当な外食で済ましていることが多いので、このような豪華な夕食は中々味わえない。豪華絢爛な料理を前に、変に緊張して構えてしまうものだった。
「な、何から手をつけて良いんだ……?」
「お、お野菜からでしょうか……?」
帳と小野寺がごくりと息を呑んで、首を傾げている。
「鍋の下の火だ……なんか、不思議と見続けたくなるんだよな……」
「気持ちは分かる。最近のは廃棄物を再利用したバイオ燃料らしいな」
鍋の下で青く色づく火を、身体を屈めて見つめる、誠次と聡也である。
「行儀良くな」
仲居にチップなるものを手渡し、志藤は腕を組んで四人のクラスメイトたちを見渡す。
「よし、俺も腹減ったし。頂いちまおうぜ!」
「ああ!」
志藤の掛け声に誠次が合わせ、全員でお茶の入ったグラスを掲げて乾杯する。みんなで食べているのもあるのだが、料理は色とりどりの見た目通りの美味しさだった。
「この後ですけど、皆さんで一緒にお風呂ですかね?」
「おう。んでやっぱ、温泉卓球だよな!」
「それを聞くと、早く温泉に入りたくはなってくるな。眼鏡はかけながらでも大丈夫だろうか?」
「いや流石に外せよ。曇るだろ……」
楽し気に会話をしながら食事をするクラスメイトたちを眺めながら、誠次もまた右手に握った箸を料理に伸ばす。
(あ、あれ……?)
場の雰囲気に、少しだけ気が緩んだのか。右手の箸で掴んだ高級そうなすき焼き肉を、するりと落としてしまう。肉は無情にも、床の上にぐしゃりと落ちてしまっていた。
驚きながらも誠次が左手で肉を拾い上げ、皆に気づかれないうちに鍋に入れる。急に力が抜けたと感じた右手を不思議に思いながら、黒い瞳でじっと見つめていた。
「なんだ……?」
本当に気が緩んでいただけだろうか。指の間で箸を挟んだまま、握っては開くを繰り返してみるが、握力に異常はない。
「どうしたんだよ天瀬?」
急に力の抜けた右手を見つめるこちらの行動を不審に思ったのか、刺身を美味しそうに頬張りながら志藤が、訊いてくる。
「いや……じゃんけんの特訓を少し。最近負けてばかりだからさ」
「んだそれ……。料理冷める前に食っちまえよ。美味くなくなっちまうぞ」
「ああ」
不可解だが、本当に気が緩んでいただけかもしれない。右手はそれ以降正常に、刃向かうことなくこちらの脳の指示通りに動いてくれ、口元まで美味しい料理の数々を運ぶことが出来ていた。
楽しい食事の後、五人は早速風呂場まで向かう事にした。
「ああ……温まる」
見上げれば天井の室内風呂だが、それは昔は満天の星空が臨める露天風呂が夜も開いていたとの事。それでも温泉が温泉である事に変わりはなく、湯船に浸かる誠次は溜息を吐き出す。
「やばいな……すっげー眠くなる……」
スキーでさんざん遊んだ所為か、ここへ来て眠気がやって来たようで、帳が豪快なあくびをしている。
眠たいのはこちらも同じくであった。すでにのぼせてしまったのではないかと思うほど、頭の中がぼうっとしてくる。
「極楽です……」
「やはり普通のお湯とは違うな……」
岩場に掴まるようにして湯を感じている小野寺と、意地でも眼鏡を外さないでいる聡也も、癒しの時間を過ごしていた。
風呂から上がり、牛乳を飲み、浴衣に着替え、卓球場へ。五人に同時に押し寄せる尋常ではない眠気を吹き飛ばすように、しこたまピンポン玉を打ち込んだ。
「こ、コーチッ! もう、身体が動きませんッ!」
「甘いぞ! それでは全国制覇など、夢のまた夢だッ!」
口でぜえぜえと息を出す誠次に、帳が喝を入れる。
「夕島を見ろ! 見るからにオーラが違うだろ!?」
「俺は先に全国へ行く。お前も、追いついてこい」
向かいのコートで眼鏡を光らせるライバルキャラに、誠次は唇を噛み締める。
「天瀬。俺と一緒に全国行くんだろ!?」
「お前は……この手のスポコン漫画によくいる気の合う友人キャラか!?」
ダブルスの相方である志藤が、こちらへガッツポーズを決めてくれる。何度も喧嘩をする事もあったが、それでも共に泣き、笑い合った仲だ。
「行くぞ聡也! 仲間の為に、このスマッシュに、全てを懸ける!」
「ば、馬鹿なッ! そのスマッシュは、俺の師匠の技のはずっ! まさか、お前はッ!?」
「行け天瀬ーっ!」
「――先生の次回作にご期待くださいっ!」
帳が締めの言葉を叫べば、卓球場に静寂が訪れる。
「俺たちは……」
「一体……」
「何を……」
「しているんだ……」
四人は卓球台に手を付き、それぞれずーんと暗い表情になり、頭を抱えていた。
「マッサージ機……気持ちいいです……」
一人離れた所で、マッサージチェアの振動を感じていた小野寺は、うつらうつらと頭を上げ下げする。
「……あれ、今誰かが見てたような……」
眠気により、変なテンションとなって盛り上がっているクラスメイトたちを見つめる人影があったのを感じ、小野寺は顔を上げる。しかし、強烈な眠気には打ち勝てず、小野寺は大きなあくびをしていた。
「なあ、今日はもう寝ようぜ……?」
「だな……」
志藤と帳が頷き合い、誠次たちは客室に戻る事にした。
後片付けをし、客室へ戻って行くクラスメイトたちの最後尾を、誠次は追いかけるようについて行く。
「楽しかったな……」
睡魔を押し殺してまで、今日と言う一日をまだ楽しみたかった気持ちがある。出来ればこんな日が、ずっと続いて欲しいと思えてくるほど充実した一日と言うのは、そうそう訪れてくれるものではないだろう。
そして――。
これで良いのだろう、と思っていた誠次の目の前を、銀髪を肩まで流した少女が横切っていた。
「香月……? なんでこんな所に?」
しかし周りの友達は、この一年間で仲も深まったはずの銀髪の少女など見ていないようで。
「なんで、みんな見えてないんだ……?」
一方香月は、誠次を含めた友達を気にすることなく、背中を向けてずんずん進んでいく。
「香月、待ってくれ……」
目元にクマを作りつつある誠次は、ふらふらと歩き出し、やがてしっかりとした足取りで走り、遠くなっていく香月の背を追いかけていた。
「俺の声、聞こえないのか?」
角を曲がって消えて行く少女の姿を一人で追いかける誠次の背筋には、底冷えするような悪寒が走っている。まるで迷路のように感じる旅館の通路を彷徨い、香月の背を必死に追いかける。追いかけても追いかけても、一向に追いつくことが出来なかった。
「香月っ!」
こちらの叫び声がようやく聞こえたのか、香月は通路の先で立ち止まり、ゆっくりと振り向く。
「ハア、ハア。……一人で何してたんだ――?」
果たして息切れを起こすほど、走ったのだろうか。
呼吸を整え、香月の顔を見た誠次は、一切の動きを止めていた。
「香月……?」
……ではない。瓜二つの外見かと思った美しい外見は僅かに大人びており、何よりも強烈な違和感を感じたのは、瞳だった。
全てが始まったあの日。自分の記憶に確かな印象を残した紫色の瞳ではなく、どこまでも黒く、深い、深紅の色。――まるでその瞳は、綺麗な紫から青の光を喪失したかのようだった。あまりに美しく、全ての世界の、時が止まったかのような錯覚を与える、青の光を。
「君は……」
少女は虚ろな赤い瞳を懸命に動かすが、やがて、物を見ると言うよりは、声のありかを探すかのようにして、こちらをじっと見つめてきた。
そして、こちらに憂いを帯びたような表情を向け、次には泣き出してしまいそうなほどくちびるを震わせ、必死に何かを伝えようと動かす。
__私を忘れないで。
「勿忘草の、花言葉……?」
見間違う余地もなく、少女の口は、確かにそう言っているようだった。
「どうして、そんなに悲しい顔をするんだ……? 大丈夫だ! 俺はここにいる!」
誠次の声を確かに聞いた少女は、悲し気な表情を安らかなものに変え、青い光を喪った瞳をそっと閉じる。
間もなく、少女の姿が消えていく。《インビジブル》でもなく、何もかもが色彩を亡くし、薄くなっていくように。
誠次はそれに、胸の中を灼熱の炎が包み込むような、痛くもあり激しい喪失感を感じていた。
「待ってっ! 君は一体!?」
重たい右手を必死に伸ばし、少女を追い掛けようとする。
泣いているようにも見える少女もまた、こちらの手を掴もうと、右手を懸命に伸ばしているようだった。
「――おっと!?」
伸ばした手が触れ合う前に、角を曲がって来た浴衣姿の白髪の老人に当たってしまい、誠次は思わず手を引く。
「あっ、す、すみません……」
「大丈夫だよ。それより君こそ、顔色が悪いようだが?」
今度は老人が手を差し出し、誠次の右頬を優しく撫でて来る。しっとりとしたしわくちゃの手が、誠次の肌に吸い付いて来るようだった。
「俺、女の子を追いかけていて――」
老人はそう言いかけた誠次のくちびるに、そっと自身の人差し指を添える。
「知っているよ。私は全てを見て来た。気の遠くなるような時を重ねて。君と同じく、゛旅゛の途中なのだ」
「俺と、同じ……。゛旅゛……?」
この日本人の老人の言う旅とは、少なくともこの旅行の事ではない気がする。まるで全てが吸い込まれそうな虚無を感じる老人の黒い瞳を見据え、誠次は呟く。
「天瀬誠次……。私は、君をずっと待っていた。君がその右手で掴むのは、愛する者ではない。……魔法世界と言う文明一つを滅ぼした、破滅の剣だ」
「そんな……」
「ゆっくりとお休み……。君はこの世界で十分に戦った……」
老人の手に引き込まれるように、誠次の黒い瞳から光が消えて行く。意識も途絶え、何もかもが、考えられなくなるようだ。
意識を墜とした誠次を抱え、満足そうな表情をし、白髭を蓄えた老人は歩き出す。




