5 ☆
スキーを楽しむ周りの声が、今の彼女にはやけに遠く感じられた。
「すごく……つまらない」
ずるずると滑ってはみたものの、身体が思うように動かせないのが、歯痒い。やはり自分は、身体を動かすのが苦手なようだった。
限界まで紐を締めたゴーグルを持ち上げた香月は、ふくれっ面で自分が滑った道を眺める。
後ろからは、桜庭が慎重に滑って来ているところであった。
「う……こ、怖っ、危ないっ」
怪我をしないようにと心の中で祈っていたのだが、桜庭は予想通り、雪の上で盛大に跳び、尻もちをついてしまう。
「きゃっ!」
「桜庭さん。大丈夫?」
香月が桜庭の元へ駆け寄ろうとするが、スキー板をうまく制御することが出来ないでいた。
「やっべ! 超楽しい!」
そんな桜庭と香月の真横を、スキー板に乗った志藤が駆け抜ける。
「こう、風と一緒に駆け抜ける感じがたまんないな!」
傍から見れば格好良いのだが、上手く滑れない二人にとって今の志藤の姿は、複雑な感情でしか見れない。
一方で志藤は、コテージの方まで見事に滑り切ったところであった。ゴーグルを取ると、
「は!?」
何か雪がまとまった、白い山のような物が端の方に作られている。そこで着々と建造されていたのは、かまくらだった。
志藤はスキーストックを使い、方向を転換し、かまくらの元へ近づく。確か、ここに来た時にはまだなかったような気がするのだが……。
「あ、いらっしゃいませ志藤くん!」
かまくらの中からひょっこり顔を出したのは、厚着姿の千尋であった。
「なにスキー場に建築しちゃってんだよ!?」
入口は狭いところもきちんと再現されている為、中腰姿の千尋に志藤はツッコむ。
「端っこの方だったら大丈夫だって、係員さんの方も仰っていましたし……あ、これはかまくらと言うものです!」
「そりゃ分かるわ……」
「志藤くんがなに建築したかと聞いてきましたのに……」
千尋は志藤のツッコみに、しょんぼりとしていた。
「魔法で作ったんですけど、結構大人気なんですよ」
中をちらと覗けば、なんと子供たちが仲良く肩を並べて座っている。かまくらの周りのは、子供の家族と思われる大人たちが並んでいる。
「俺たちはスキーを楽しんでるんじゃないのか……?」
とは言いつつも、自分も幼い頃、雪が降った日は無謀にも雪だるまとかまくら作りに勤しんでいたっけかとも思い出す。作り上げたはいいものの、いざ翌日になって見れば近所の他の子どもたちに占領されていたり、いつの間にか壊されていたりする悲しい思い出でもある。
「係員さんが七輪とお餅を持って来て下さって、中で美味しいお餅も食べれますよ?」
「係員も完全に乗る気かよ!?」
口ではそう言いつつも、小腹が空いていた志藤は、千尋が建築したかまくらの中に入っていた。
スキーを諦めかけていた香月と桜庭の元へ、ルーナとクリシュティナがやって来る。
「詩音、莉緒!」
スノーボードを巧みに扱い、香月と桜庭の目の前で急停止するルーナと、その後ろからゆっくりとだがスキーで追いつくクリシュティナ。
「貴女たちも自慢しに来たのかしら?」
「へ? いや、そんなつもりは……」
「こうちゃんがやさぐれてる……」
冷たい香月の言葉に、ルーナが慌て、桜庭が困り顔で苦笑している。
「私とルーナが今まで通り一緒なのは、それはそれで楽しいのですが、皆さんとの交流ももっとしたいんです。ですので、私たちが滑りを教えてあげられるかと思いまして」
「回りくどいなクリシィ。もっと仲良くなりたいんだろ?」
「つ、つまるところは、そう言う事です……」
クリシュティナは恥ずかしそうにだが、うんと頷いていた。
「そっか、そうだよね。じゃああたしはルーナちゃんと、こうちゃんはクリシュティナちゃんとだね!?」
お互いの足元を見てから、桜庭が言う。
早速それぞれ分かれて、スキーとスノーボードの特訓をすることにした。
ルーナもクリシュティナも、桜庭と香月にそれぞれ滑りのコツを伝授し、やがて二人とも遅くとも滑れるようにはなっていた。
「確実に上達していますよ、詩音さん」
「ありがとう……クリシュティナさん。滑れると、楽しいわ」
「私も一緒に滑れて、楽しく思います」
クリシュティナは香月に向けて微笑む。
「あ……」
香月に滑りを教えている最中に、帳と共にスノーボードで滑っていく誠次の姿を見つけ、クリシュティナは自然と目線で追いかけてしまう。
「――クリシュティナさん」
天才気質と言うものだろうか、理屈ではなく感覚でスキーを習得している香月が近づいて来て、クリシュティナははっとする。
「どうしたの?」
「い、いえ……。よそ見をして申し訳ございませんでした……」
ゴーグルのお陰で、誠次を追いかけていたワインレッドの目線は、香月には上手く見られていなかったようだ。
「遠慮はしなくていいのよ。私だって、下手なところは認めているから」
「では……質問を」
思い切った様子で、クリシュティナはゴーグルを持ち上げて香月を見つめる。
「……? え、ええ」
スキーに関するところのつもりなのだが、と思いつつ、香月はゴーグルを持ち上げてクリシュティナへアメジスト色の瞳を向ける。
「貴女たち……誠次の傍にいる貴女たちは、どうしてこのように仲が良い関係なのでしょうか……? 普通は、共通の人に思いを寄せる立場でそのような関係のままでいられるのは、何というか、異常だと思います……」
「え……」
――もっと下手な分野である、感情の事についての質問をされ、香月はまるで雪漬けになるように硬直していた。
しかしクリシュティナは真剣な表情のまま、香月からの答えを待つ。
「私はもう、ルーナと誠次や皆さんに迷惑を掛けるつもりはありませんし、掛けたくありません。……ありませんけれど、この思いは……」
吹き寄せた風が小規模の吹雪を生み出し、雪が舞う。手を胸に添えたクリシュティナは、長いまつ毛の瞼を切なく落としていた。
「――私たちは皆、天瀬くんの事が大切だと思っている。たまによく分からない事を言い出したり、変な事をしていたりするところもあるけれど、皆を大切にしてくれる。それを全て含めて、私は彼を傍で支えたいと思っているわ。貴女が、ルーナさんを支えたいように」
「支える……」
「その気持ちが好意を抱いていると言う意味なのならば、否定はしないわ。はっきり言えば私たちは、天瀬くんの事が大好きよ。それは皆が共通して抱いている感情で、知っている事」
「それでも、この仲を続けられるのでしょうか……?」
「確かに、不思議かもしれないわね……」
それでも、香月は最初から見つめていた。彼が雪を滑るその隣に、いつか追いつき、いつまでも共にいられるように。
「男女関係なく皆から好意を抱かれるのは、彼が優しくて良い人すぎるから、かしら……」
自分で言っておいてだが、頬周りが温かくなるのを感じ、香月はネックウォーマーをくいと持ち上げる。
「だから、そんな素敵な人を好きになる貴女の気持ちは、おかしい事じゃないわ。同じ人に好意を抱いただけで友達をやめてしまうほど、私は薄情でもないつもりだし。おそらくきっと、ルーナさんもそう」
「ルーナや皆は、私のこの気持ちを許してくれるでしょうか……?」
「話してみないと、確実には分からないわ。でもこれで天瀬くんは、ますます大変そうね」
何かを誤魔化すようにゴーグルを掛け直した香月は、遠く彼方を見つめる。
ネックウォーマーに唇が隠れる瞬間、彼女の口角が上がっていたのを、クリシュティナは捉えていた。同じ人に好意を抱いていると言うのに、彼女はむしろ嬉しそうで、女神のような包容力を感じた。
「そう言えば、私の事を話していなかったみたいね。私の両親は、有名な科学者だったらしいわ。科学者なのに、魔法をとても愛していて――」
突然香月は、自分の事を話し出す。お互いの事を理解するために、必要な事だと思ったのだ。仲良くスキーを滑りながら、二人の会話は続いていた。
桜庭もルーナの運動神経の良さからくる技術力に、必死に食らいついていた。
時は流れ、最終的には十一人ともそれなりに滑れるようにはなっていた。楽しかったのだが、ずっと滑り続けているのも疲れるもので、何よりお腹も空いた。
スノーボードとウェアを返却し、誠次は昼飯を求めてコテージ横の食堂へ向かう。
「聡也? もう飯を食い終わったのか?」
何を食べようか、券売機の前で顎に手を添えて吟味していたところ、聡也が後ろを通っていた。
誠次の背後で聡也はぴたりと立ち止まり、眼鏡をくいと持ち上げる。
「……ああ」
「何食った? 俺は何を食おうか迷ってるんだけどさ」
振り向かずに誠次は訊いていた為、聡也の表情を窺い知る事が出来なかった。
「……こってりラーメン」
「こってりラーメンか。体力使ったしスタミナ補給したいから、俺もそれにしようかな」
ぼそりと呟いた聡也と同じ、誠次は昔ながらの券売機で、こってりラーメンを注文していた。
カウンター席に向かうと、そこには見慣れたもう一人のクラスメイトがいた。
「小野寺もここで飯食ってたのか?」
「天瀬さん!? え、ええ……」
小野寺はなぜか力なく、両手でお椀と箸を持って佇んでいる。
「おっ、ラーメンじゃないか。こってりか?」
「は、はい……」
気まずそうな小野寺の手元には、まだラーメンが食べかけの状態で残されていた。
「俺もこってりラーメンなんだ。同じだな」
「天瀬さんもですか!?」
妙に気まずそうにしている小野寺の横に、誠次は着席していた。
「こってりラーメン一丁!」
元気の良い男性店員の声が厨房から聞こえ、誠次は期待に胸を膨らませ、お腹は空かせて、ラーメンの出来上がりを待つ。
一方で、隣の席の小野寺は、先ほどからまったくもって箸が進んでいないようだった。
「食べないのか? 麺が伸びるぞ?」
「え、ええ……。分かっています……」
やがて誠次の手元にも、美味しそうな湯気が立つこってりラーメンが置かれる。
誠次は割り箸を二つに割り、ラーメンをつつく。
ごくりと、隣の席でこちらを見守る小野寺が息を呑む中、麺を口へ入れる。
「……不味」
次の手が、出ない。全身がこのラーメンを口に入れる事を、拒絶している。白い湯気で隠れていたようだが、よくよく見るとスープには尋常ではない量の脂が、まるで海の上に浮かぶ孤島のように浮き出ている。
脂が広がった口の中がまるで粘土でコーティングされたかのようで、洗い流すのにコップ一杯分の水では足りなかった。
「食えない、だと……!? ラーメンって、基本美味しいんじゃないのか……!?」
今までラーメンを残したことなどなく、完食を続けて来たのだが。目の前に聳える圧倒的な壁の存在に、誠次はひたすら驚愕していた。
「これはある意味発見ですよ天瀬さん……! 史上初、違う意味で絶対に完食出来ないラーメンです……!」
「大食いチャレンジとかじゃなくてな……」
「――やっぱ、美味しくないんですか……?」
厨房より、ラーメンを作っていたと思わしき若い男性店員が誠次と小野寺の目の前に立っていた。
これには驚く二人であったが、男性店員は「気を遣わなくても良いんです……」と意気消沈したように俯いている。
「さっきの眼鏡の男の子も、塩コショウとかトッピングを追加注文してくれても食べきれなかったようですし……」
「創意工夫してたんだな……」
彼も努力したようだが、結局食べきる事は出来なかったようだ。
一方で、頭にタオルを巻いている姿の男性店員に、誠次はどこか見覚えを感じていた。
「髪型が特徴的だったラーメンを一度に二杯も美味しそうに食べていたお客さんを見て、自分に自信がついて、北海道のラーメン店から独り立ちをしたのはいいものの、俺もまだまだみたいですね……。これじゃあ師匠に顔向け出来ない……」
「髪型が特徴的でラーメンを一度に二杯も食べるなんて、なんて変人で勿体ない奴だ……」
ニット帽をかぶったまま、誠次は水を一口飲んで、まったくと呟く。
「食べたところ、脂っこいのに問題があるように感じます」
寮室ではお菓子を沢山食べている小野寺は、冷静に分析している。
「脂っこい……!? そ……そんな馬鹿なっ!」
「いや気づいてなかったんですか!? この、何日間も洗ってないような風呂みたいなスープで!?」
驚愕する同年代ほどの男性店員に、誠次は立ち上がりながらツッコむ。
「な、何日間も洗っていない風呂のようなスープ……」
「天瀬さん……。かなり分かりやすい例えですけど、かなり落ち込んでしまっています……」
しかし、ここは彼の為にも、心を鬼にしてがつんと言ってやるべきだろう。聞いたところはるばる北海道のラーメン店から独り立ちをして来た、チャンスの時期と言うものなのだろう。
だから、と誠次は握りこぶしを作って男性店員に訴える。
「俺も手伝いますから、一緒に美味しいラーメンを作りましょう!」
「はい!? 何でそうなるんですか天瀬さん!? 今旅行中ですよ!?」
突拍子もない事を言い出す誠次の隣で、小野寺が驚愕していた。
借り物の制服に着替え、誠次は厨房に立つ。小野寺も味の審査の為、カウンター席に残っていた。
「こんな見ず知らずの俺の為に……。ありがとうございます、天瀬さん……!」
「良いんです。その代わり、美味しいラーメンが出来たら、一杯ご馳走してくださいね」
「その一杯とは、沢山の゛いっぱい゛って意味じゃないですよね?」
「当たり前ですよ。ははは」
二人して大笑いをしていれば、カウンター席で小野寺が極めて気まずそうな顔をしていた。
「――腹減ったー! 飯飯!」
聞き覚えのある男子の声が、入口の方からする。記念すべき一人目の犠牲者……もといお客は(都合がいい事に)志藤であった。
「「いらっしゃい!」」
「何食おうかな。……ってはあっ!? 天瀬!?」
制服姿のこちらを二度見し、志藤が指を指してくる。
「な、何してんの、お前……」
「こってりラーメン。おススメですよ」
「いや、ラーメンって気分じゃないんだけど……。どちらかと言えば、カレーなんだけど……」
券売機の前で唸る志藤を、誠次は睨む。
「こってりラーメン。おススメですよ」
「……じゃあ、こってりラーメンで……」
異様な気迫を感じ取ったのか、それとも外の寒さからくる震えだろうか、志藤はぷるぷると動く人差し指で、こってりラーメンを注文していた。
「あっ……」
「おい!? 今小野寺さん、あっ、って言いましたよね!?」
首尾よく小野寺の隣に座りながら、動揺しながらも志藤は券を差し出してくる。
「っつか、なにやってんだよお前。旅行中にバイトかよ……」
「外寒いし、ここは温かいぞ」
「そんな理由かよ……」
似合っているニット帽をゴーグルごとずらし上げ、志藤は誠次が差し出した温かいお茶を啜る。
「ぶは――っ」
そして、志藤もまたこってりラーメンの凶悪さには勝てず、一口食べてから噴き出していた。
「何だこれ!? 脂っこいなんてレベルじゃねーぞ……。まるで、スライム食ってるみたいだ……」
「解決策を考えてるんですけど、上手い考えが浮かばないんですよね……。……う、美味いっ、だけに……っ」
「何かいい案はないか志藤?」
「小野寺の勇気をさらっと無視してやるな天瀬……。い、いやいやそもそも、俺たちは旅行に来てるんだろ……? なんでラーメン作りの修行をしてるんだよ……」
真剣に悩む誠次と顔を伏せる小野寺の前で、志藤は力なくレンゲと割り箸を握っていた。
「強いて言わなくとも、原因はこの脂っこさだろ……」
「――いやー。運動したら腹減ったー」
次に来たのは、帳であった。彼も一通り滑り終わったようで、満足そうな表情を浮かべながらのご来店だ。次はぜひとも、その空いたお腹を満足していってほしいのだが。
「おっ、皆いたのか。皆は何食ったん――」
「「「こってりラーメン」」」
「お、おう……」
結果的に、志藤の隣にもまた一人、口を抑えて蹲る犠牲者が増えていた。
「はっ、はは……」
「おい。帳が今まで聞いた事のないような笑い声を出してるぞ……」
寒いと言うのに、汗を流す帳の背中を、志藤が擦ってやっている。
「皆で、考えようぜ……? このラーメンを、美味しくする方法を……」
「そうですね……」
「そうだな……」
帳の発言に、小野寺と誠次が頷く。
「みんな、ありがとう! ありがとう!」
感謝する若きラーメン職人の前で、
「お前ら、本気か……」
彼らのこの異様な団結力は、いったいどこから湧いてくるのだろうかと思いつつ、志藤も協力せざるを得ない状況だった。
「……」
一方、聡也は一人外で黙々とスキーを楽しんでいた。
滑り終えた所で女子陣と、とりわけ最後尾にいた篠上と合流する。いつの間にか時刻は夕暮間近となっており、女子たちも少し遅めの昼飯を食べに行くようだ。
「あっ、夕島お疲れ。私たち、皆で昼ご飯食べに行くところなんだけど」
「あそこのコテージの食堂は行かない方がいいですよ。もうスキーを終える予定でしたら、少し遠くて高くても旅館のレストランを使う事をお勧めします」
「そ、そう? わかった、そうするわ。もう夕方近いのに、天瀬たちはまだ滑ってるの?」
「そう、みたいですね。俺はもう少し滑っています」
スキー用品を返却しに行く女子たちを見送り、再び聡也は一人、広大な雪原へ。
しばし滑り終えたところで、みんなはまだかと、食堂があるコテージへと向かってみる。
「最後まで皆は見かけなかったが。まさか、まだ食べているのか……?」
恐る恐るコテージの扉を少しだけ開くと、先ほどまではしなかった香ばしい匂いが、鼻腔に漂ってくる。
「まさか、この美味しそうなラーメンの匂いは……!?」
聡也は思わず、扉を全開にし、自身の再来店を中にいた人たちに告げる。
嫌な思い出が詰まってしまっていたそこには、カウンター席に志藤と小野寺が。そして厨房には男性店員と、何故か制服姿の誠次と帳がおり、聡也を笑顔で迎えていた。
「まさか、あのラーメンを改善したと言うのか!?」
「ああ。皆で知恵を絞ったんだ!」
答えたのは、誠次だった。
「俺たちは、根本的なところで間違っていたらしいんだ。生まれ変わったぜ」
帳がぐっと、拳を持ち上げている。
カウンター席では志藤と小野寺が、美味しそうにラーメンを啜っている。背中からしか見えないが、箸が一切止まっていないのだ。
「こんなに美味しいラーメンを俺が作れたなんて……これで北海道の師匠に顔向け出来る! みんな本当にありがとう! お友だちだったら、お代はタダで良いよ!」
まさかこんな短時間でラーメンを変えるとは、と聡也は感服する思いで財布を取り出す。
「俺は諦めてしまった男です。お代はちゃんとお支払いしますよ」
トッピングを中心に食べたため、正直お腹はもうあまり空いていないが、聡也は再び券売機にお金を入れる。時間的にも、贅沢な三時のおやつと言ったところだろう。
「生まれ変わった、こってりラーメンとは――」
ぴたりと、ここまで来た聡也は、指を止める。静寂の中、聡也の視線の先には、生まれ変わったこってりラーメンの発券スイッチがあった。
「生まれ、変わっている……」
そこには見事にマジックペンで、【あっさりラーメン】と書かれたシールが、こってりラーメンのスイッチの上に貼られていた。
「そう言えば俺、師匠から教わったラーメンの作り方、こってりじゃなくてあっさりの方だったんですよー。いやーうっかりしてました」
申し訳なさそうに後頭部に手を添え、あははと笑う若きラーメン職人を前に、聡也はそっと財布の紐を閉じていた。
昼食を終え、誠次たち男子陣は揃って旅館へと戻ってくる。和風の風流ある旅館であり、決して高校生が軽々しく訪れるような場所ではないような場所だ。
「荷物はすでに部屋に運んであります。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
和装の受付係から、笑顔の誠次が部屋の鍵を受け取り、ロビーで待つクラスメイトの元へ戻る。
「さすがに女子とは違う部屋だよなー。ぶっちゃけ夢がないって言うかなんて言うか」
力なく笑う志藤が、がっくしと肩を落としている。
「一緒の部屋でも気を遣うだけだろ」
「そうじゃないだろ……」
帳がきょとんとして言っているのを見て、志藤は更に沈みこんでいた。
「ま、女風呂覗こうぜなんて流れになるよりは、ましか……」
まだ法を破るほどは落ちぶれちゃいないはずだ……。
やれやれと髪をかく志藤をよそに、(夢の無い)男子たちはそれぞれ思い思いの時間を過ごし始める。
※
一足前に部屋に着いていた女子たちは、それぞれ荷物を整理整頓していたところだ。内装は六人でも窮屈しない広さで、綺麗な和室であった。
「窓の外! 超綺麗だよ!」
旅館のすぐ外は、せせらぎが心地よい川景色が広がっている。夕暮色に染まりつつある冬の枯れ木の風景も趣があり、窓際に手を添える桜庭が「うーんっ!」と気持ちよさそうに伸びをしている。
「落とさないように、貴重品の管理はしっかりね」
篠上が全員に注意する中、千尋が手を挙げていた。
「早速、お風呂行きましょうよ! スキーで汗だらけです!」
「確かに。スキーウェアはかなり蒸れたな」
ルーナは少々ぎとついてしまった自身の銀色の髪を触りながら、千尋に同調する。
「お風呂は何回入っても大丈夫なのよね?」
「浴衣……。着てみたいかも……」
香月とクリシュティナに至ってはタオルと着替えの浴衣をすでに手に持っている。
かく言う篠上も、汗を大量にかいていたし、身体も程よく疲れていた。座っているクリシュティナの両肩に手を置き、にこりと微笑む。
「そうね。それじゃあ早速、みんなでお風呂入りましょうか!」
着替えを持ち、旅館の廊下へ。縦長の列で歩いていると【女】と大きく書かれた赤い生地ののれんはすぐに目についた。女性脱衣所にて、女子たちは上着を脱ぐ。
「綾奈。誠次となにかあったのか?」
上着を脱ぎながら、ルーナが篠上に訊く。
「え、い、いやなんでも……。私の悪いところね……」
篠上もまた上着を脱ぎ、思いつめたような表情をしていた。
たくし上げた上着が顔にかかったところで、篠上とルーナは何か異様な視線を感じ、ぴたりと動きを止める。
「……っ」
「うわぁ……」
香月と千尋が角から顔を覗かせて、篠上とルーナの着替えの様子をじっくり見つめている。
「……なに見てるのよ」
服をたくし上げたままの篠上が、ジト目で二人を睨む。
「しのちゃんもルーナちゃんも、何を食べたらそうなるの?」
桜庭の羨ましがる眼差しが、二人の大きく弾む胸元へと注がれる。
「そうは言うが、莉緒のも十分立派だぞ?」
慌てふためく篠上の横で、さすがと言うべきか、ルーナは堂々と腰に手を当てていた。
「そ、そうよ! 大差ないわ!」
胸を片手で押さえつけていた篠上も、はっとなって桜庭を指差す。
「……そう言えばそうね。自らの価値を隠している貴女こそ、一番の敵かもしれないわ」
香月がジト目で、すぐ隣の桜庭を睨む。
「か、価値って!? こうちゃん!?」
すぐ隣の女子の裏切りに、桜庭はぎょっとしていた。
更衣室の木製ロッカーを挟んだ反対側には、慎ましく風呂に入る準備をする千尋とクリシュティナの姿があった。脱いだ服を丁寧に畳み、背後の喧騒もなんのそのと言った具合だ。二人とも、慣れているからだ。
「他に人がいないとは言え、少し声が大きい気がします……」
公共の場だというのに、とクリシュティナは下着姿でため息をつく。決して別の理由でいらいらしているわけではない。
「クリシュティナちゃんさんも、私と同じ思いなのですね……」
横に並んで立つ千尋は、クリシュティナの身体を見つめ、何やらうんうんと頷いている。
「思えば中学生の時。男の子たちの視線を一斉に集めていたのも、綾奈ちゃんのスクール水着姿でした……」
「えっ?」
クリシュティナは困った顔を浮かべる。
「大きなお友だちを持つ者同士、クリシュティナちゃんさんも私と同じ星の元に生まれたお仲間です! 私たちには私たちの良さが、きっとあります!」
「は、はい……」
千尋は戸惑うクリシュティナの両手を握り、目元まで持ち上げていた。
「聞こえてるってのっ」
「あ痛っ」
背後から篠上がチョップを繰り出し、見事に千尋の脳天を叩く。
「クリシィ……。君はずっと、そんな事を……思っていたのか。気づけなくて……すまない」
憤然とする篠上の隣で、ルーナは目元を手で拭い、クリシュティナへ向け謝罪する。
「え!? ご、誤解ですルーナ! 私は羨ましいなんてこれっぽっちも思っていませんから!」
クリシュティナは慌てて、無意識のうちに胸元を隠していない方の手を振っていた。
(順番に深い意味はないが)ルーナと篠上、桜庭、クリシュティナ、千尋、香月の順に、白い湯気が立ち込める浴場へと足を運ぶ。ぴちゃぴちゃと、裸足がお湯を跳ねる音が楽し気に響く。
「昼だったら露天風呂が使えるみたいだったんだけどね」
桜庭が残念そうに言っている。四角い屋根に覆われた大浴場であったが、夜空が見えない以外、不満らしい不満もない。ましてや、スキーシーズンとは言え長期休暇期間でもないので旅館に泊まる人は他に多くなく、ほぼ貸し切り状態である。
「皆さんと一緒に温泉に入れるなんて……最高の贅沢です!」
ですよね!? と千尋が篠上に顔を向ける。
篠上は風呂椅子に腰かけながら、ほんのりと口角を上げていた。
「そうね。こんなに友だちが出来るなんて思ってなかったわ。そして、こうやってみんなで温泉に入れるなんて」
それも海外の友人だ。篠上は隣同士で座るルーナとクリシュティナを横目で眺めて言う。
「そうさしてくれたのは、誠次やみんなのお陰だ。そうだよなクリシィ?」
「はい。それははっきりと言えます。皆さん、ご迷惑をお掛けしました。そして、本当にありがとうございます」
ルーナとクリシュティナは、重ね重ねお詫びとお礼を言う。
「もう謝るのも感謝もいいわ。私たちもみんな、クラスメイトを助けたかっただけだから」
香月がシャンプーを手に取り、銀色の髪にぺたぺたと馴染ませながら言う。
「こうちゃんもこう言ってるし、もう気にしなくていいよ。ルーナちゃんもクリシュティナちゃんも、大事なクラスメイトで、友だちだから」
身体に手でくまなく石鹸を延ばす桜庭の言葉に、一同は頷いていた。
「それよりも温泉! ルーナちゃんもクリシュティナちゃんも初めてでしょ? 気持ちいいよー」
「クリシュティナちゃんさん、意外と着痩せするタイプなんですね……」
「あ、あまり見ないでください……。ルーナと比べて自慢できるものでもありません……」
温泉の湯に浸かる少女たちは、楽し気に談笑する。温かいお湯も、しっとりとした湯気も、何もかもが心地よかった。
「気持ちいいーっ! ちょっと早いけど、またみんなで来れると良いわね」
左右の肩に交互にお湯をかけ、篠上が極楽そうに顔を綻ばせて言う。
「ね? 詩音っ?」
「きゃっ」
ちゃぷと音を立て、一人離れたところで静かに目を瞑っていた詩音にお湯を掛ける。
「マナー違反よ……篠上さん」
果たして、熱い湯の所為か、火照った頬を膨らませた香月は、篠上に抗議する。
「詩音も詩音で、肌白いわよねー」
「篠上さんこそ。もう……いったい何なのかしら、この、お互いの身体を褒め合う奇妙な時間は……。それは、別に悪い気はしないのだけれども……」
辺りを見渡しながら、香月はぎこちなく自分の身体にお湯をかけ、呟く。バスタオルこそ巻いているものの、温泉用の為生地はさらさらで、お湯のせいで身体に張り付き、お互いに裸同然もいいところなので、この上なく恥ずかしいのだ。普段は学園で衣服を身に纏ったお互いの姿を見慣れている為、尚の更だ。
「温泉あるあるじゃない?」
お湯を全身で感じている篠上は、のほほんと言っている。
「……じゃあこれも、あるあるなのかしら――?」
香月としては、先ほどやられた仕返しと言う思いであった。
湯船の中でおもむろに立ち上がり、香月はゆっくりと、着実に、篠上に近づく。
「え? し、詩音!?」
「……」
全身からお湯を滴らせ、無表情で香月が差し出した手は、篠上の大きな胸まで伸びており、
「ひやっ!? ちょ、ちょっとっ!?」
「この柔らかさと重量感は一体……!?」
自分にはない未知との遭遇に、香月は驚愕し、張り付くように揉んだそれからしばし手を離すことが出来ないでいた。
篠上が香月に襲われている同じ湯船で、おでこの上に白いタオルを乗せるクリシュティナは、一人でじっくりとお湯を堪能していた。透明なお湯が肌に染み込んでくるようで、これが身体に良いことなのだろうと言うことが、なんでもなく分かる。
「クリシィ。横に座るぞ」
「どうぞルーナ」
バスタオルを胸元まで持ち上げているルーナが、クリシュティナの横でゆっくりと、爪先をお湯に沈めていく。
「……っあ。あ、熱いな……」
「最初だけです。すぐに慣れますよ」
「そ、そうか」
意外かもしれないが、ルーナとクリシュティナが共に湯船に入るのは、初めての事であった。女友達同士でも、裸の付き合いというのは恥ずかしいと聞くが、二人の間に新たにそんな感情は生まれなかった。
「相変わらずルーナは立派なものをお持ちですね」
じっとりとした目つきで、すぐ隣に浮かぶ二つの大きな物を眺めてクリシュティナが言う。
「も、持ちたくて持ったわけじゃないぞ……」
胸をぎゅっと手で抑えながら、ルーナはつんとそっぽを向いて言っていた。
しばし黙ってお湯を感じていると、唐突にと言うよりは、満を持したかのように、クリシュティナがルーナの綺麗な背筋を見つめて、口を開く。
「申し訳、ありませんルーナ……。私は、誠次の事が、好きです……」
香月には話しても良いと言われたのだが、いざ話してしまうと、謝ってしまう。
頬を赤く染めたクリシュティナは、恐縮するように頭を軽く下げ、それでも額のタオルを湯船には落とさない程度で、ルーナを見つめて言い切る。
「そうか……。でも不思議なんだ。クリシィが誠次の事をそう思ってくれて、嬉しがっている自分がいる」
湯に濡れた艶やかな銀色の髪の下、ルーナは真剣な表情で、真正面方向を見据えていた。
「誠次の事は、大切だ……。それは、この場の皆が思っていることなんだろう」
「……そうですね。ルーナだけではなく……」
湯けむりの中、はしゃぐクラスメイトたちの声を聞きながら、ルーナとクリシュティナは会話をする。どうやらルーナの方も、薄々と気づいていたようで。
「私も誠次が好きだ。この気持ちは、クリシイに負けたくはない」
「は、はい……。ですから私は、ルーナと誠次の幸せを、願います……」
バスタオルを巻いた胸にぎゅっと手を寄せ、クリシュティナは赤い視線を落として言う。
そんなクリシュティナをちらりと見たルーナは、微笑んだ顔をクリシュティナへと向ける。
「なんでクリシィが遠慮するんだ?」
「私が、誠次にこの想いを伝えるわけには……」
「クリシィは私にとっての友だちであり、同じ人を好きになった恋のライバルという関係になったと言うことだ。私は負けないからな、クリシィ!」
ルーナは嬉しそうにそう言うと、相変わらず戸惑っているクリシュティナに向けお湯を掛ける。
お湯を掛けられ、びっくりした表情を見せるクリシュティナは、ルーナを見つめ返す。
「ルーナ……」
「男子はなぜか胸の大きな女性を好むと言う。今のところは私がエンチャントも出来ているし、勝っているぞ!」
「私だって、ルーナには、負けたくありません……゛友だちなら゛、なおさらです」
はしたない真似だと言う自覚はあるが、クリシュティナもお湯を持ち上げ、ルーナへと掛ける。
姫とそれに仕えるメイド、と言う関係はもう終わっていたのだ。今あるのは、それの名残だけ。対等な人ととして、あくまでルーナは、クリシュティナと接するつもりでいるのだ。
クラスの同じ男の子を好きになる。問題はその男の子が周りの女子にとって、魅力すぎてしまう事だが、この状況に不自然はないのだろう。クリシュティナもまた、間違いなく誠次によって救われた一人なのだから。
「二人でなに話してるのー? 折角だから皆で話そうよ!」
桜庭が泳ぐようにしてやって来て、ルーナとクリシュティナに問い掛ける。
「実はだな。なんとクリシィが……誠次の事を大好きだと言うのだ!」
「ルーナ!? うぅ……好きなのは、ルーナもでしょうっ!? 大体、皆さんのは大きすぎなんです! 私ぐらいの大きさがちょうどいいんです!」
「え……突然なに!?」
ルーナの衝撃の発言に、反抗せんと声と胸を張り上げるクリシュティナに、お湯飛沫を上げて驚く桜庭。
「まあ……! やはりお味方です!」
「聞き捨てならないわね……!」
赤ら顔の千尋と篠上も加わり、室内女風呂の浴槽はかなり、ヒートアップの様相を見せていた。……温泉だけに、だろうか。
「……静かにお湯に浸かりたいのだけれど……」
香月の思いも虚しく、先に上がったら負けな気がする状況の中、新たにルーナとクリシュティナを加えた女子たちの恋愛話は、熾烈を極めていた。
目の前で乱舞する裸体の数々は、嫌でも香月の目につく。今の彼女たちの扇情的すぎる姿は、自分ではお手上げだ。
「……もはや、暴力よね……」
誠次が見たら卒倒するであろう光景を前に、香月は口元をお湯まで沈め、ぶくぶくと面白くなさそうに息を吐いていた。前に保健室で彼から取り上げた雑誌を参考にして言えば、彼は本当にこの手の運がないと言うべきか。




