3
他のルームメイトたちは、不幸中の幸い(?)か、揃って帰省中でいなかった。
「ふむ。美味いは美味いが、味付けが物足りないな」
寮室にて、近くのバーガーショップで買った大量のハンバーガーを、エレーナは次々と咀嚼していく。
「人が買ってやった飯に文句言うなし……」
そのあまりの食いっぷりに、ポテトをつまむ志藤は恐怖すら感じていた。
「その黄色くて細長い食い物にソースはないのか?」
「ああ、ないよ」
紙コップのストローで炭酸飲料を啜る志藤は、周囲を見渡す。ポテトには、ケチャップだろうか?
しかし、ルーナは昼飯の際に目を引くほどのマヨネーズを米の上に乗せていた。
そこで座っていたソファの肘掛けから立ち上がった志藤は、簡易キッチンの冷蔵庫へと向かい、マヨネーズとケチャップのチューブを取り出していた。
「お前……。ロシア人が全員マヨネーズ好きだとは思うなよ」
「まあ見てなって」
志藤は小皿にマヨネーズとケチャップを同じ量出し、スプーンで混ぜ合わせる。白いソースと赤いソースが混ぜ合わせれば、肌色のソースが出来上がっていた。
「日本のオーロラソースだ。美味いぜ?」
「オーロラか? あれはこんな色じゃなくもっと綺麗だぞ」
「見た事あるんスか?」
志藤が何気なく振り向くと、そこには上着に手を掛け、服をたくし上げているエレーナがいた。風呂に入っていなかったと言うのに関わらず、綺麗な白い肌が覗いており、志藤は慌てて両手で顔を塞ぐ。
「はっ!? 何してんだよアンタっ!?」
「時間が惜しい。風呂に入りながら飯を食う」
風呂でハンバーガーを食べる輩など聞いたことがない。いやそもそも。出会ったばかりの男の前で無防備に服を脱ぎだす女性を、志藤は知らなかった。
「あと颯介」
最終的に裸となり、それでも惜しげもなく身体を隠そうとしないエレーナは、後ろを向いている志藤に声を掛ける。
「な、なんスか……?」
背後にいるエレーナには目も向けられず、志藤は正座をしていた。
「早急に仲間を呼べ」
「仲間?」
「ああ。特に、あのサムライボーイをな……」
ふさ、と志藤の頭に何か柔らかい繊維の物が乗せられる。
どきりとした志藤がそれを手に取って見ると、エレーナが身に着けていた白いブラジャーが、視界の上でふらふらと揺れていた。
志藤とようやく連絡が繋がったかと思えば、なんと先に寮室に戻っているとの事。戻っているのならば連絡ぐらいしてほしかったと言う友人たちに対し、一か月間も連絡を返すことが出来なかった誠次はまあまあと宥めるしかなかった。
「アンタって志藤には甘いわよね」
篠上にはジト目でそう言われてしまう始末だ。
神社から戻ってやって来た志藤の寮室には、誠次のルームメイトと四人の女子によって窮屈な状態となっていた。基本的に女子たちをソファや椅子に座らせてやり、男子たちは余ったリビングのスペースを見つけてはそこに腰掛けていた。
「さすがに狭いな……」
「帳さん、大きいですからね」
窮屈そうにしている帳に、千尋がくすくすと微笑む。
「夕島君も来てくれたのね?」
「一応、皆がやる気だと言いますから」
香月が夕島に声を掛ければ、どこか恥ずかしそうに、この場に来てくれた彼は眼鏡を掛け直しながら言う。
そして、肝心の志藤は、申し訳なさそうな表情で部屋の奥からそろりと出てきた。
「心配しましたよ志藤さん。急に戻られていて」
小野寺の言葉に、一同が揃って頷く。
「わ、悪かった。どうしてもこっちが先だって言うから……」
謝ってくる志藤は、しきりに洗面所と浴室がある方を気にしているようだ。リビングの机の上には不自然なほど大量の、バーガーショップの紙袋があった。
「誰かいるのか?」
誠次が問いかけると、ドアが開いた音と、むわりと、妙な湿気が部屋の中に立ち込めて来る。
「――なっ!?」
志藤が顔を真っ赤にして慌てているのが、誠次の視界が捉えた最後の光景であった。次の瞬間には、四人の女性が誠次の身体に飛び掛かり、そのうち誰かが手で無理やり視界を塞ぐ。
「わっ、な、なにも見えない!?」
「み、見ちゃ駄目!」
切羽詰まった桜庭の声が真後ろから聞こえ、誠次は目を瞼の下でぎゅっと潰されそうになる。
「痛い痛いっ! 何が見えるんだ!?」
「な、なにも見えないから!」
前方からは篠上の声がしたかと思えば、耳をぎゅっと塞がれる。
誠次が押さえ込まれている中、浴室から出てきたのは、裸の女性であった。髪だけをバスタオル一枚で乾かしながら、無遠慮に歩いて出てきたエレーナは、誠次のルームメイトたちと目を合わす。
「はっ!?」
「えっ!?」
「そんなっ!?」
女性の裸を前に、三人とも顔を真っ赤にし、目を各々手で隠していた。
その一方で、誠次には四人の少女が纏わりついて、何が起こっているのか分からない。
「本城さんは口を塞いで!」
「か、かしこまりました! 痛くは致しません誠次くんっ! ごめんなさい!」
「いや殺す気かっ!? むぐっ!?」
抵抗しようとした誠次の口に、香月の合図の元、千尋が両手を押し込める。口まで塞ぐ意味はないだろうと思うのだが。
「ガキどもがぎゃあぎゃあ五月蠅いな」
「アンタ服着ろって! 男子部屋だって説明しましたっスよね!?」
志藤が片手で顔を隠しつつ、エレーナに向けて怒鳴る。
「今時の日本の男子高生は生の女の裸も見たことがないのか?」
「普通ねえよっ!?」
怒鳴る志藤を前に、堂々と仁王立ちをするエレーナは、まったくと言わんばかりだ。
「ふぐふごふげっ(だから何が起きてるんだっ)!?」
ソファに身体を固定され、一切の身動きを許されない誠次は、四人の女子に揉みくちゃにされながら、じたばたともがいていた。
やがて、志藤のTシャツとジーンズに着がえたエレーナの姿を、うんと頷きあった女子たちから手を離された誠次は見る事になる。
「っ!? お前は!」
首にタオルを巻いて立っていたのは、山梨県のショッピングモールに襲撃して来た女性だった。青白い髪からは湯気が立っており、風呂上がりなのだろうか。
「よおサムライボーイ。山梨以来だな」
口角を上げるエレーナも誠次を覚えており、互いに睨み合う。
「知り合いなのか!?」
志藤が驚く中、エレーナは面白げに周囲を見渡す。
「私はサムライボーイにも借りがあるし、いっそのこと纏めて返しておきたいんだけど」
持ち上げた右手で攻撃魔法の魔法式を展開させ、エレーナは不敵に笑う。
室内に一気に緊張感が走り、立ち上がった香月が攻撃魔法の魔法式を展開する。
「なんなの? この失礼な人」
視線を誠次に向け、香月が訊いてくる。
誠次は身構えたまま、香月たちに説明する。
「山梨のマウンテンペアに襲撃して来た奴らの仲間だ」
「そう、なら敵ね」
有無を言わさず、香月がエレーナに向ける魔法式の光を強める。
「ち、ちょっと待て!」
志藤が香月とエレーナの間に入り、両者に向かって手を押し広げる。
「この人がルーナちゃんとクリシュティナちゃん攫った連中の事知ってるんだよ!」
「飯の配給だと思って並んでいた長蛇の列で、この二人が昨日の初詣で話しているところを聞いていてな。協力してやる」
「罠ではなくて?」
攻撃魔法の魔法式を展開したまま、香月が志藤に訊く。
「それは……。でも現状、あの二人の事に近づける唯一の手掛かりになるかも知れねーだろ?」
志藤の言う通り、現状他に手掛かりが一つもない。何が狙いかはわからないが、この女性に頼る他はないだろう。
誠次も背中のレヴァテインから手を離すと、エレーナの方も魔法式を解除していた。
――しかし、心羽を傷つけた敵であった事実が、誠次の次の一声を止める。大雨の中、両手に抱いた心羽の弱々しい姿を思い出してしまったのだ。
「……俺は信用できない。少しでも怪しい真似をしたら、俺はお前の背中にレヴァテインを突き立てる」
周囲のクラスメイトが怯えるような発言を、誠次は敢えて言う。
エレーナもまた、誠次のクラスメイトたちの表情を確認するかのように見渡してから、軽く微笑んだ。
「敵の敵は味方ってやつだろ? それに、アンタの力はマウンテンペアで見てたんだ。下手に歯向かえそうにはないからね」
エレーナは「契約だ」と言いながら、右手を差し出してくる。
誠次は未だ難しい顔をして、右手を伸ばすのを躊躇う。
「だったら、こいつの面倒は俺が見る。もし裏切るような事があれば、俺が責任を持って対処する。エレーナを信じた俺の責任って事でいいだろ?」
代わりに名乗り出たのは、志藤だった。
「志藤……」
「今はルーナちゃんとクリシュティナちゃんを救うのが先だし、他に手掛かりが無い以上、乗っかるしかねえだろ?」
歩み寄って来た志藤は組んでいた腕を離し、エレーナの前で自身の右手を差し出す。そして、険しく眉を寄せてエレーナを睨む。
「アンタを……信じるからな」
「ああ」
無言の誠次が見守る中、志藤とエレーナは握手を交わす。まるで友人が悪魔との契約を交わしているようで、気が気でなかった。
ここまですると、ようやく香月も魔法式を解除していた。警戒心自体は、この場の他のクラスメイト同様、解いてはいないが。
「あと、一応言っておく」
エレーナもまた、真剣な表情で少年少女たちを見渡す。
「アンタらが追おうとしている相手は人殺しや拷問も辞さないような野蛮な連中だ。日本の警察も当てにはならない。平和にいくと思うなよ?」
エレーナの目が、桜庭の緑色の目と合う。先ほど皆を見渡した時に、エレーナは彼女の恐れを察したのだろう。
「……っ」
緊張の面持ちを見せる篠上と千尋に挟まれて座っている桜庭もまた、震えていた口をぎゅっと結び、頷いていた。
ルーナとクリシュティナを攫った者の名はベルナルト・パステルナーク。ロシアを拠点にする魔法を扱う傭兵部隊の参謀との事。
※
翌朝。三が日最後の日。
漂う酒とたばこの臭いに、鳴り響く大音量の外国の音楽。蛍光色でいっぱいのダンスフロアでは、男性と女性が分け隔てなく踊り狂っている。
ここは東京都都内某所のダンスクラブ。目を突き刺すような照明が白いスモークの彼方から襲い掛かって来て、志藤は思わず目を覆う。
「眩しいし五月蠅いし、やばいな……」
自身が思う、せめてもの大人びた服装を着てみたものの、志藤は嫌な顔をする。
新年早々こんな所で酒を呑んで踊っていて、一体何が楽しいのだろうか。志藤にはわけが分からず、カウンター席の丸椅子に腰を掛けていた。
「ここの連中には酒と異性と音楽があればいいのさ。年越しからずっとここにいるなんて奴もいるんじゃないか?」
すぐ横に腰かけるエレーナは、胸元を大きく開いたセクシーな衣装だ。この場に来る女性には、それなりの露出がここにいる為の最低条件のようなものなのだろう。
「あれは……?」
未成年の身分でこの場にいる事がどうしようもなく忍びなく、志藤は酒の入ったグラスをそっと握りながら、ダンスホールの奥を睨む。
そこにはダンスホールの喧騒とは打って変わり、客にカードを配るディーラーやバニーガールの姿があった。
「カジノだな。魔法でインチキも何でもありだ。魔法を知らない大人たちを相手にするあこぎな゛商売゛だよ」
馬鹿な奴ら、とエレーナは微笑んでいる。
「まだ真昼間だってのに。こんなところが、まだあるんスね……」
「日本の警察はまともに働いてもないようだな」
「……」
日本に来る際は、ここにベルナルトが必ず来るとエレーナは言う。
大人数でこんな場所に訪れるわけにもいかず、志藤とエレーナの二人が代表として潜入していた。表向きは小さな美術館であったダンスホールに入る為の年齢確認は行われず、エレーナの顔パスで通されていた。
「それで、どうするんですか?」
志藤はエレーナに訊く。まさかここにずっといて、ベルナルトが来るのを待っているつもりだろうか。そうなるとこちらの身が持ちそうにない。煙草ではない何かを蒸かしている大人もおり、志藤は目を背ける。
「ベルナルト本人が来たら一番良いが、アイツは知恵が回るしさすがにそれはないだろう。だからアイツの知り合いを捕まえて、情報を吐かせる」
景気づけだと言わんばかりに、エレーナは志藤の手から酒の入ったグラスを受け取り、一気に飲み干す。それが彼女にとってのエンジンとなったのか、エレーナは座高のある椅子から降りていた。
「ロシア人って、やっぱ酒好きなんスね……」
一瞬で空になったグラスを眺め、志藤は一種の感動を味わっていた。
「お前も酒の美味さが分かるようになれ。その時は、付き合ってやるよ」
「お手柔らかに頼みます」
前を歩くエレーナの後を追い、志藤は苦笑していた。
「エレーナさんも、魔法生だったんスか?」
「ああ。私はロシアの魔法学園で魔法を習った。向こうはこことは違って、戦う為だけの魔術師を養成する軍事学校みたいなものだよ」
エレーナは、周囲の人々を眺めながら言う。中には自分と同年代の男子や女子もおり、志藤は思わず目を疑う。
「アンタらは良いよな、選択肢ってやつがあって。私は戦う事しか知らないから、戦う道を選んだ」
「選択肢がない将来……」
ぼそりと呟いた志藤の言葉は、ダンスホールを縦横無尽に駆け抜ける騒ぎ声によってかき消されていく。
あてもなく歩いていたのかと思えば、どうやら違ったようで。エレーナはカジノスペースの入り口で立ち止まっていた。
「あの日本人。ベルナルトとよくつるんでいる奴だ」
「っ! アイツは!?」
志藤が目を見開く。
バニーガールから酒の入ったグラスを受け取っている壮年の男性であったが、志藤には見覚えがあった。幼い頃、まだ何も分からずに父親に連れられた社交場で、父親の同僚だと紹介された男性だ。あの時はウエイトレスからワインを受け取っていた者が、こんな所で油を売っているとは。
「知ってるのか?」
エレーナも驚いたようで、志藤をまじまじと見る。
「ああ……多少な……」
身に沸き起こる怒りを自覚し、志藤は唇を噛んでいた。
「で、どうするんだ?」
「急にやる気になったな? 簡単だ。個室に連れ込んで拷問だ」
「はあ……。なるべく穏便に済ませたいっスけど」
父親が犯罪者として行方不明となっている状況で、こんな所で違法カジノにうつつを抜かす男に内心で苛立つ志藤は、口調こそ穏やかではあった。
「私が近づいてアイツを連れ出す。お前は男性トイレの中で人が来ないか見張っていろ。情報はそこで吐かす」
「……分かった」
若干の心細さを抱きつつも、志藤は頷く。
「でもどうやって連れ出すんだ? しかもトイレって」
「まあ待ってな。お前には刺激が強すぎるからさ、シャイボーイ」
エレーナが蠱惑的に微笑み、志藤の頬をそっと触っていた。そこへちらと覗く、エレーナの胸元。
ネオンカラーの閃光の下、志藤は顔を真っ赤に染め、ぎこちなく金髪の髪をかいていた。
※
美術館には、人生で初めて来ている。取り扱っているのは絵画であり、色々な人の作品が展示されている。
「美術とは、難解だな……」
木に横たわる女性を描いた絵を眺め、誠次は口に手を添える。
なんともないような絵に見えるが、それが何百万もの価値を持つ。そう考えると、変に緊張するものだ。
(裸の女の人の絵が何百万円もする……)
すぐ隣では《インビジブル》を使用してレヴァテインを持つ香月が複雑そうな表情で、なんの変哲もなさそうな絵をじっと見つめている。
《インビジブル》の影響下では光の屈折もなく、誠次の影のみが映る大理石の床の下。そこにはエレーナ曰く、大勢の外国人が集うダンスホールがあるらしい。静かな美術館とは正反対のような場所が、こんな所にあるとはにわかに信じ難く、誠次は未だにエレーナを警戒していた。
(志藤くん、大丈夫かしら……。突然暴走しないかしら……)
香月も心配そうにしている。大人数では目立つとのエレーナの判断で、地上一階のこの場にいるのは誠次と香月のみ。《インビジブル》が使用できる事と、桜庭と千尋は敵に顔を見られてしまっているかもしれない危険を考えて、香月が付き添いとなっている。
「いや突然暴走はしないだろう……。いざと言う時は連絡してくれとは言っておいた。今は志藤を信じよう」
(そうね……。それにしても、絵画ばかりね)
香月はとある絵の前で立ち止まり、それを見上げる。そこには月を背景に、背に純白の翼を生やした女神の絵があった。
遠い昔、フランス人の画家が描いた【セレーネー】と呼ばれる女神の絵画である。当然のごとく、レプリカであろうが。
(……)
どこか惹かれているのか、香月は【セレーネー】の絵をじっと見つめていたままだ。
「月の女神……」
その横顔をしばし見つめていた誠次もまた、壁画を見つめる。
セレーネーの手によって永遠の眠りについた、全知全能の天の神ゼウスの子であるエンデュミオンと、彼との悲恋を描いた絵に映るセレーネー。愛する者の永遠の眠りは、自分が望んだ事のはずなのに、彼女の表情はどこか暗く、儚い悲壮感を漂わせていた。
※
鏡と洗面所が三つほどはある広い男性用トイレの個室で待っていると、小さかった音楽が急に大きく聞こえだす。どうやら、誰かがトイレに入って来たようだ。
「――もう、我慢できないのね?」
色っぽい甘え声を出しているのは、エレーナだろう。扉一枚を挟んだ先で、二人の足音が絡み合うのを感じ、志藤は息を呑む。傭兵足るもの、必要な能力なのだろうかと。
「最近は面倒ごとばかりだ。気晴らしにはちょうどいい」
男の苛立つ声が聞こえる。やはり、聞き覚えがあった。
「面倒ごと? それって何かしら?」
「上司の失態だよ。テロに情報など与えおって、特殊魔法治安維持組織の恥さらしだ」
「よほどの苦い思い出みたいね。良いわ、忘れさせてあげる」
するりと、何か布が解けるような音も聞こえて来る。
一方で志藤は、激しい怒りを必死に抑え込んでいた。
「とっとと光安に権限を与えてやるべきだったんだ。そうすれば少なくとも自分の身は守れたと言うのに――」
男の言葉を最後まで聞いていることが出来ずに、志藤は思い切りドアを蹴り飛ばしていた。
「なんだ!?」
「言わせておけばテメェはっ!」
怒鳴る志藤が慌てる男の元へと詰め寄り、両手で胸倉を掴み上げる。洗面台の前にエレーナと共に立っていた男は、背中を思い切り鏡へと押し当てられ、悲鳴を上げていた。
「き、貴様! 志藤康大の息子か!?」
男の方もこちらに見覚えがあったのか、怒りで歪むこちらの顔をじっと見つめ、驚き叫ぶ。
「親も親で、子も子だな!」
「父親を、馬鹿にするなっ!」
「奴は反逆者だ!」
「違う! 俺の親は絶対にそんな真似なんかしねーよッ!」
思い切り手を出したい気持ちをどうにか抑えつつ、志藤は叫ぶ。
「七光りの餓鬼の分際で……。所詮、お坊ちゃまは甘やかされて育ったって事だな!」
「そっちのごたごたに介入する気はない――が」
ドレス背中のファスナーを大きく開け、背中を露出していたエレーナが志藤の手を解き、今度は代わりに男の胸倉を掴み上げる。
「この写真の男、知ってるな? ベルナルト・パステルナーク」
エレーナの裏切りにも、男は困惑しているが、すぐに口を真一文字に結ぶ。
「仲間だったのか……! し、知らんな!」
「見たところや聞いたところ、アンタは相当お偉いさんみたいだな。そんな日本のお偉いさんがロシアの傭兵と親密な関係にあるのは、少なくとも褒められた事じゃないんじゃないか?」
エレーナの言葉を聞いた男の表情が目に見えて青冷めていく。そうなればもはや、知らぬ存ぜぬではすまないだろうが。
「知らんと言っている! もういいっ! 私は忙しいのだ! 光安に貴様らを逮捕させてやる!」
特殊魔法治安維持組織の重役が光安の名を出し、利用している。この今の特殊魔法治安維持組織の状況に、志藤は歯痒い思いを感じる。
エレーナの脅迫にも応じずに、男がスーツのポケットから電子タブレットを取り出そうとしたその時であった。
「うぐ……っ?」
男の全身に痙攣が起こり、苦しそうに口で息をしだす。まるで蟹のように、白いぶくぶくとした泡が、口から出て来ていた。
「なんだ!? どうしたんだよ!?」
エレーナの手を強引に解き、空気を求めて首をかきむしりながら、トイレの床の上に倒れ込む男性と共に、志藤は慌ててしゃがむ。
「苦じい……っ! ががっ!?」
「持病か?」
同じくしゃがんだエレーナが訊くが、男は必死に首を横に振っている。
「アンタ、この男に一体何を?」
「私は何もしちゃいない。ショックか言い逃れの演技にしてもこれは……」
首を横に振るエレーナの頭上、洗面台には、男が飲んでいたと思われる飲みかけの酒の入ったグラスが置かれている。まさかと思った志藤はすぐに立ち上がり、そのグラスを手に持った。
「この酒……本当に酒っスか?」
「寄越せ」
エレーナも気が付き、志藤から酒を受け取り、匂いを嗅ぐ。
「ロシア製のウォッカだが、匂いが違う……。盛られたか!」
ハッとなったエレーナが、忌々し気に男のスーツ下のシャツのボタンを開ける。
露になった男の首筋には青い痣が浮かび上がり、間違いなく毒を盛られていた。
痙攣している男は、言葉にならない呻き声を出し、必死に志藤とエレーナへ向け手を伸ばしている。
「教えろ! ベルナルトはどこだ!? アイツは証拠隠滅の為ならばなんだってするような男だ!」
「助、けで……!」
「往生際の悪い!」
畜生、とエレーナは舌打ちをする。
その時志藤は思い出していた。男に酒を渡していたバニーガールの存在を。
「っ!」
志藤はすぐに男性用トイレのドアを開け、走ってダンスホールへ。再び大音量の音楽が鼓膜に襲い掛かる中、志藤はズボンから電子タブレットを取り出し、上の階にいるはずの誠次に電話を掛ける。
「頼む天瀬っ!」
電話を掛けている途中も、己の目でバニーガールの姿を探したが、踊る人々の手足や体の動きが目立ちすぎて、個人を探す難度が高すぎた。
程なくして、誠次は応答した。
『志藤。大丈夫か?』
「ああ……。だがベルナルトって奴に先を越された。情報源がやられた――」
そこまで言いかけた所で、男の末路を思い出してしまった志藤は急に吐き気を催し、思わず左手で口を抑え、前のめりになる。初めて垣間見た人の死だった。
『やられたって……大丈夫なのか!?』
誠次の声が、志藤の吐き気を和らげる。
「心配すんなって。それよりも刺客が逃げたかもしんねえ! 外国人のバニーガールの金髪の女だ! そいつがベルナルトの味方のはずだ。悪いけどそれしか情報がねえ!」
『分かった。ここの外への出入り口は美術館しかないはずだし、俺と香月で塞ぐ!』
「頼む!」
誠次との連絡を終えた志藤の後ろから、エレーナが悔しそうな表情でやって来る。
「クソっ! まんまとこっちの行動が読まれていたなんて……」
ロシア語と日本語で罵声を言いつつ、腹立たし気に壁を殴りつける。
「こうなったらもう、救急車と警察を――」
いざ志藤が番号を入力しようと、何気なく足を踏んだ床に転がっていた、酒の入った瓶。
栓は開いており、酒が入っていた瓶がかかとに当たり、液体がとくとくと零れていく。床に広がる透明な液体を見つめた志藤は、ハッとなってエレーナを見る。
「やべえかもな……!」
完全に嵌められている。奴はエレーナもろとも、一網打尽にするつもりだ。
強烈なアルコールの臭いで思い至った志藤は、周囲を見渡す。
「っち!」
同じく悟ったエレーナが舌打ちをした直後であった。突如、《フェルド》と呼ばれる魔法の火炎の放射が、ダンスホールの中でまき散らされた。
火炎はアルコールと酸素の影響で業火となり、踊り狂っていた人々を呑み込んでいく。辺りはたちまち火の海と化し、人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。
「《グレイシス》!」
エレーナが氷属性の魔法を展開、発動しようとするが。
「氷属性の魔法元素がない! 妨害魔法かっ!?」
エレーナが唇を噛み締める。
向こうは反抗を読んでいたようであり、予め妨害魔法を部屋の中に仕掛けておいたようだ。魔法の発動に必要な魔法元素が足らず、エレーナの体内魔素を使って浮かべた魔法式から魔法が放たれることはない。
燃え盛る炎が室内を煌々と照らし、辺り一面がネオンカラーから橙色に染まる。強烈な熱風に曝され、酒に溺れていた人々は逃げ遅れている。
「私は本当に何も知らなかったんだ……! まさか、ここまでするとは……!」
エレーナは握りこぶしを作り、口惜しそうに言っていた。
「お前、何を……!?」
「こんな所で死ねるかっての……! 逃げるぞ!」
志藤は戸惑うエレーナの手を強引に掴み、燃え盛る火炎の中、出口へ向かって走り出す。
※
志藤から連絡を受けた誠次と香月は、地下ダンスホールへと繋がっている階段へと続く扉をすぐに見張っていた。
勿論、地蔵のように睨みを効かせて待っているわけではなく、あくまで一般客として自然に。
「……あれか!」
女性は大胆にも、バニーガール姿のまま現れた。周囲を気にする素振りも見せずに扉を開け、美術館の通路を悠々と歩いて行こうとする。
(あなたには見えるの? 私には、見えない)
すぐ横で誠次と同じ方を見る香月は、美術館ではあまりに目立つバニーガール姿の女性を見れていない。
「《インビジブル》を使っているのか」
だからこその、あの余裕なのだろう。
(追いかけましょう)
「分かった。俺が前に立つ。挟み撃ちにするぞ」
外へ出ていかれ、車などに乗られてしまえばアウトだ。そうなる前に、自分と香月の力で無力化するしかない。三が日中の美術館に他の人おらず、誠次は小走りで女性の元まで近づく。
足音と気配に気がついたのか、女性が誠次をまじまじと見つめる。向こうは自分が見えていないと思っているはずだ。
(まさか……)
女性はロシア語で何かを呟き、小走りで走り出す。
が、誠次は女性の前に走り出し、立ち塞がっていた。
「ベルナルト・パステルナーク。知っているな?」
(ベルッ!?」
《インビジブル》を解除した女性は、誠次に向け破壊魔法を発動する。向こうに話し合う気は最初からないようであり、ここに戦闘は始まった。
「香月! 頼む!」
「――大人しくして頂戴。《グレイプニル》」
誠次の目線の先、女性の後方より、レヴァテインを携えた香月もまた《インビジブル》を解除して、女性へ向け拘束魔法を放つ。魔法式から放たれた光る魔法の紐が、驚く女性の背に接近する。
しかし《グレイプニル》は惜しくも女性の肩を掠め、空中で消えて行く。
「っ!」
女性は香月を一睨みすると、素早く身を翻し、誠次と香月両者を視界に入れるように移動する。
その間、誠次は香月の元へ駆け寄っていた。
「ミスるなんて珍しいな香月」
「この剣が重いせいね。あなたが持っていて」
「ああ、任された」
指摘された香月は少しだけ不機嫌そうにしながらも、誠次にレヴァテインを鞘を付けたまま渡す。
バニーガールの女性は、背後に飾られていた絵画に額縁ごと物体浮遊の魔法を浴びせ、金属製の額縁を次々と浮かび上がらせる。
「死ね!」
ロシア語の罵声を浴びせて来たかと思えば、女性の周辺に浮かんでいた額縁が回転を開始し、誠次と香月を切り刻むかのように投げ飛ばされる。
「全て撃ち落とすわ。《グランデス》」
香月の魔法式から発生した魔法の光が拡散し、無数の弾丸となって額縁と次々と接触する。気泡が弾けるように、《グランデス》はフラッシュを引き起こしながらも額縁を地面に落としていた。
その絵画と魔法の間を、誠次は走り抜ける。右手に握った鞘に入ったままのレヴァテインを構え、女性の懐まで一息に。
「抵抗するな!」
「速い!?」
胴を狙った誠次の一撃を女性は躱し、反撃にハイヒールのかかとを思い切りに上げ、誠次の顎先を掠める。
顔を持ち上げて女性の足蹴りを回避した誠次は、踏み込んだ右足を軸に、女性へ向け回し切りを見舞う。
女性の腹にレヴァテインの柄が打ち込まれ、女性は唾を吐いて腹部を押さえ込む。
しかし、すぐに女性は態勢を整え、誠次の背後に回り込む。誠次も振り向こうとするが、女性は誠次の首に腕を回し、ぎゅっと締めて来た。
「くっ!?」
「……っ。天瀬くんから離れて頂戴」
誠次の背後をとった女性へ向け、香月が《ライトニング》の魔法を放つ。目に見える太い電撃の閃光が、ジグザグな軌道を描いて女性に到達し、女性の向き出しの背を焼いた。
「痛っ!?」
「助かった!」
緩くなった女性の手を咄嗟に掴み寄せ、誠次は女性の身体を逆に背に押し付ける。そして自身の腰を軽く上げて女性を宙に持ち上げ、背負い投げの要領で女性を大理石の床の上に背中から叩きつける。
「きゃあっ!」
「これで冷えるだろ!」
ついでに頭も冷やして欲しかったが、女性はすぐに起き上がると、誠次と香月から距離を取る。
「餓鬼が、調子に乗るなーっ!」
完全に激昂してしまった女性は、香月へ向け破壊魔法《サイス》を発動、展開する。
死へのカウントダウンを告げる魔法文字が打ち込まれていくのを見た誠次は、レヴァテインの刃を隠していた鞘の留め具を素早く外す。
「させるかッ!」
右手で握ったレヴァテインを、叫びながら勢いよく振れば、抑えを失った鞘が吹き飛び、女性の右手に命中する。
「馬鹿なっ!」
「香月に手出しはさせない!」
まさかと思ったのか、魔法式の発動をキャンセルされた女性は、左手で右手を押さえ込んでいた。
「痛いから覚悟して」
香月が攻撃魔法《エクス》を発動し、女性の左手に衝撃波を浴びせる。
女性の左手が大きく弾け、少なく見積もっても一本の骨は折れただろう。
「このクソガキ共が! 殺してやるっ!」
相変わらずロシア語で叫び散らす女性は、しかしよろよろと後退る。
今のうちに、誠次は香月の前に盾になるように立った。
「ギブアップしろ」
「……っ」
下手な英語が通じたのかどうか、それともこの牙城を崩す方法が見つからないのか、女性は悔しそうに歯軋りをしていた。
勝利を確信しつつある一方で、まだ次の手があるかもしれないと言う事を警戒する誠次と香月の真横から、熱風が押し寄せて来たのは想定外の事だった。大量の人々の、悲鳴と共に。
「なに、これは……っ」
「っ!? 香月!」
死に物狂いで熱風から逃げて来た人々の群れに、怯えを見せる香月を守る為、誠次はすぐに香月の身体を抱いて後退する。
地下のダンスホールで火災かなにかが起こったようだ。
誠次と香月が交戦していたバニーガールの女性は、好機とばかりに、その人混みに紛れ、美術館の外へと逃げおおせていた。
「平気か香月?」
「ええ、ありがとう……」
外へ外へと続いて行く、派手な衣装を着ている人の列を見送っていると、最後尾の方に志藤とエレーナがいた。二人とも煤を纏っており、エレーナに至っては火傷をしたのか、苦しそうな息遣いをしている。
「志藤!」
「天瀬……っ」
誠次が駆け寄れば、志藤は安堵の表情を見せ、思わず床の上に倒れ込む。
「志藤! 一体何が起こったんだ!?」
誠次は志藤の元でしゃがみ、声を掛ける。
香月も無言で駆け寄りつつ、エレーナを警戒している。
志藤は床の上に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
「ベルナルトに、先を越されてた。あの野郎、纏めて葬るつもりだったんだ。ダンスホールは火の海だ」
「何だって……」
「あの特殊魔法治安維持組織とやらの男、これを持っていた。軍事ヘリの取引書だ。ベルナルトと取引したんだろう」
エレーナが懐から書類を取り出し、三人に見せる。
「エレーナも嵌められたんだ。クロじゃないだろ……」
志藤は誠次の手をとり、立ち上がりながら言う。
「ともかく、早くここを出ましょう。煙がここまで上がってきているわ」
エレーナに治癒魔法を当てている香月の指摘通り、黒い白い煙が美術館にまで漂っている。
誠次たちは急ぎ、美術館を後にした。誰かが通報したのか、警察と消防はすぐに美術館を包囲し、火災が周囲に広がる事はなかった。
近くのビルの路地裏で、香月が気難しい表情を浮かべる。
「女の人も、逃がしてしまったわね……」
「悪かった……。もっといい作戦を考えるべきだった私のミスでもある……」
強気だったのが一転、エレーナが謝罪をしてくるが、責める気はなかった。
「そうとも言い切れません」
なぜならば、戦闘の際に手に入れていたのだ。ベルナルトへと繋がる、手掛かりの一つを。
口角を上げる誠次は、左手に握っていた棒状の物体を、三人に見せる。
「デンバコか? お前のじゃねえな」
志藤が誠次の手に握られているそれをじっと見つめる。紫色のラメが入っているのは、どう考えても男の物ではなかった。
「美術館での戦闘中に、あの女の人の胸元に挟まれていたのを抜き取ったんだ。向こうは気づいていなかったみたいだけど」
ペンを回すように手元でくるくると電子タブレットを回転させ、誠次が誇らし気に言っていると、
「バニーガールの胸元に手を入れたってこと……?」
香月が至極複雑そうな表情で、誠次をじっと見つめていた。
※
美術館からいくつかの交差点を通った後、ベルナルトの運転する車が女性を回収した。
「ベル……。目標は殺したけど、剣みたいなのを持ったわけの分からない餓鬼どもに邪魔された……」
後部座席に飛び込むように乗り込んだ女性を確認し、ベルナルトは車を走らせる。
「でもアタシはやったよベル……。褒めてくれる……?」
相当な戦闘だったのだろう。魔法戦の訓練を何度もこなしていたはずの彼女でさえ、口で荒い呼吸を繰り返している。
そんな彼女の顔をバックミラーでじっと見つめてから、運転席に座るベルナルトは「ああ」と返事をする。
それだけで、女性は安心しきったかのように微笑んでいた。
「さて、電話でもするか。お前の電話に」
どこか淡々とした口調で、ベルナルトは片手で電子タブレットを起動する。車を自動操縦に切り替え、顔が映るテレビ通信機能を使う。
呆気に取られる後部座席の女性は、浮かび上がった長方形の画面を食い入るように見つめる。
「よお剣術士。お前の事はよく知っている。ご挨拶が遅れた、ベルナルト・パステルナークだ」
先手を打ったのは、ベルナルトだった。
画面に映った少年の姿を見た女性は、胸元の電子タブレットの消失に気づき、息を呑みこむ。
戦った時と変わらない。少年は迷いなく黒く光る眼差しを、ベルナルトへと向けて来る。
『俺は天瀬誠次だ。ベルナルト・パステルナーク。貴様を倒し、ルーナとクリシュティナを助ける』
「俺もお前に用があってさ。今からオルティギュアの姫とメイドが攫われた神社に来い。会わせてやるよ。びびって逃げるなよ?」
『俺は逃げも隠れもしない』
少年は動じることもなく、こちらを睨んだままはっきりと告げる。
「大した自信だ。日本人ってのはいつも自信無さげな奴らばっかだと思ったが、覚えといてやるよ」
ベルナルトは冷酷に言い切ると、少年との通信を終える。電子タブレットを助手席に放り投げた左手は、そのまま後部座席の女性へと向けられ、破壊魔法を放つ。
「待ってベル! 次はアイツらを殺――」
抵抗する間もなく、女性はベルナルトによって殺害されてしまった。
「やり直しなんてねえんだよクソが……」
苛立つ気持ちを抑えきれずに、ベルナルトは煙草に火を付ける。大好きな喫煙のはずなのに、苛立ちは消えてはくれなかった。




