2 ☆
ルーナとクリシュティナが消息を絶って、一夜が明けた。二〇八〇年二日目の夜明けはすっきりとせず、天気も鼠色だ。そこからはいつ大粒の雨が降って来ても、おかしくはない。
「……」
誠次は寮室のソファに腰かけ、俯いていた。
ルーナとクリシュティナ。神社で大人たちに連れられ、消息を絶ってから、香月たちが連絡も掛けても通じず、行方も分からなかった。まさしく、神隠しにでもあったかのように。
「警察に通報するべきなのか……」
「馬鹿馬鹿しくないか?」
そう言いながら、誠次の隣のソファにルームメイトの夕島が座る。
「馬鹿馬鹿しい?」
誠次は顔を上げながら、夕島が電子レンジで温めてくれていた餅を受け取る。
「天瀬を誘ってきたのは向こうの方だ。にもかかわらず結局姿を消して、向こうに振り回されている。もう放っておいていいんじゃないのか?」
夕島の指摘は、客観的に見れば正しいのだろう。
「でも、これから力を合わせてどうにかしようって考えていた時なんだ。こんな中途半端なところで諦めたら、後悔しか残らない……」
熱されて柔らかくなった餅を口に入れるには至らず、誠次は浮かない表情で言う。しかし、歯を喰い縛れば、まだ信念は残されている。
あの二人の性格を思えば、黙っていなくなるなんて事はしないはずだ。よって考えられるのは、やはり無理やりに攫われたのだと言うべきだろう。
「諦めたくは、ない……」
「国際魔法教会か。HPをネットで見ても、世界平和の為に活動していることを強調して、どんな活動をしているか詳しく載っていたな」
「世界平和の為に国際魔法教会が俺を必要としているって言うのは、なんか漠然としすぎていて。大体なんで、わざわざルーナとクリシュティナをヴィザリウス魔法学園に入学させてまで俺に近づけようとしたんだ……?」
「さてな。少なくとも連中には、そうしなくちゃいけない理由があったと考えるべきだ」
夕島は簡易キッチンの食器棚から、食器を取り出しながら言う。
「諦めないのは……まあ、天瀬らしいな。気を付けてくれと忠告はするけど、止めはしない」
リラックスした姿勢でソファに座る夕島は、割り箸を二つに割ると、皿に盛り付けた餅に醤油をかけ始める。ぽたぽたと、餅のつるつるな白い肌に黒い液体が掛けられる様子を、誠次はじっと見つめていた。
「……きな粉、あったっけ?」
「生憎、家は餅には醤油一択だ」
きな粉一択であった誠次の無念を他所に、夕島は美味しそうに餅を頬張り始める。
「夕島の言う事も分かる……。でも俺はやっぱり、探さないといけないと思う」
「……? きな粉をか?」
「違う! そこはルーナとクリシュティナだろ……」
口に含んだ餅を伸ばしながら首を傾げる夕島に、誠次がツッコんでいた。
しばし時間が経てば、ルーナ宅に向かっていた篠上と千尋から連絡が届いた。玄関のチャイムを押しても反応はなく、おそらく帰って来てはいないとのこと。
こうなれば居ても立っても居られず、結局醤油味の餅を食べた後、誠次は寮室を後にした。
「――やっぱり、誘拐って事かな……? ルーナちゃん担がれてるの見えたし……」
当時の状況をよく知るのは、唇に人差し指を添えている桜庭だった。冬用の暖かそうな私服を着た桜庭と共に、誠次は魔法学園の通路を歩く。
「でもクリシュティナちゃん、最後は自分から着いて行ったって感じで、無理やりじゃなかったんだよね……」
桜庭は胸に手を添え、俯きながら言っている。
「王国の人が連れ戻しに来たとか?」
だとすれば、自分たちがこの問題に介在できる余地はなくなってしまうだろうが。
「分からない……。見えたのは外国の人だったってだけで」
桜庭は当時の様子を必死に思い出していた。
「桜庭もルーナとクリシュティナに戻って来てほしいか?」
「それは、そうだよ……」
一瞬だけ顔を上げた桜庭だったが、すぐに視線を落とし、
「クリシュティナちゃん、行っちゃう時、ここの学園生活がとても楽しかったって言ってくれた……。これからまだまだ一緒に楽しい思い出とか、作れそうだったのに……」
「……そうだよな」
このままでは何もわからないまま終わってしまう。少なからず自分が関わっていた事を、なかった事に出来るほど大人しくもない。
軽いため息を零した誠次は、桜庭と共に職員室まで向かった。
中央棟の職員室は、年末年始でも学園に残っている教師たちの戦場だ。朝から電灯は点けられており、中では三が日だと言うのに、残った教師たちが忙しそうに作業をしている。
「――はあ!? ルーナとクリシュティナがいなくなった!?」
――このぼんくら教師は日本酒を片手に飲んでいただけだったが……。
日本酒の瓶を片手に、赤ら顔でしゃっくりをしながら、林が大声を上げていた。
「ひっく」
「「声大きいですっ!!」」
目の前に立っていると酒の臭いがひどく、桜庭は悶絶しそうに身じろぎしている。
「って言うか酒飲むんなら自室で飲んでくださいよ!」
「うるせーな俺の勝手だろうが。んな事よりロシア二人組が一体どうしたんだ?」
どうやら、教師陣はルーナとクリシュティナの本性を知らないようだ。
「た゛大使館にいるご両親゛さんからは、何も聞いてないんですか?」
失礼をないようにか、鼻に手を当てることもせず、それでもほんの少しでも林の口臭から逃れる為か、誠次の背中に隠れるようにして桜庭が訊く。
「んあー。なんも、ないけど?」
ローラー椅子の背もたれにだらしなく腰かけ、それでも左手の酒瓶だけは手放さないのは何かの執念すら感じさせる林は、身に覚えもないようだ。
「酔っぱらって忘れてるんじゃないでしょうか?」
誠次がジト目で林を追求する。
「失礼だな。俺が電話に出なくとも周りのが代わりに出てくれるんだよ」
「いえ誇らしげに言う事じゃないですよね……」
誠次がツッコむが、林は呑気に大きなあくびを出すだけだ。
そして、ワイシャツの下の背中をぽりぽりと掻いたと思えば、右手で自分の机の上をまさぐり始める。おつまみでも引っ張り出すのかと思ったが、どうやら違うようで。
「えーっと……。ほら、これが貰っといたご両親さんの電話番号だ」
ぽんと、ルーナとクリシュティナの親宛だとの電話番号が書かれたメモ用紙を、誠次は投げ渡される。
「……俺たちが電話するんですか?」
「俺酔っぱらっちゃってるし」
戸惑う誠次に、林はきょとんとした表情で応じる。
仮に電話をかけて、もしも本当に両親が出てきたら、それはそれで気まずい雰囲気になりそうだが……。
「あ、あたしが電話しようか?」
同じく思い至ったように桜庭が誠次を見つめ、手を差し出してくる。
女子の方がまだ良いかと「頼んだ」と誠次は桜庭にメモ用紙を渡していた。電話を掛ける為、桜庭が先に職員室から退出する中、一応誠次は林に昨日の事について説明をする。
机に頬杖をつきながら誠次の話を聞いていた林は、再び大きなあくびをしていた。
「外国人集団って、ロシアンマフィアかなんかか?」
「分かりません……」
「ともかく俺はご両親とやらからなんも連絡は受けちゃいない。無断で学園辞めようなんざそんな都合よくはいかねぇから、連れ戻してこい」
「……はい。失礼しました」
担任教師からの言葉を受け、誠次は踵を返し、職員室から退出する。
「きゃっ!?」
「うわっ」
ドアを開けて廊下に出た所、桜庭と衝突しそうになり、慌てて身体を避ける。桜庭もどうやら電話を終えたようで、職員室に戻ろうとしていたようだった。
桜庭は「と、ととっ」と言いながら身体をくるりと一回転させ、誠次の目の前で踏ん張ろうとする。今度は誠次が右手を差し出せば、桜庭はそれを掴んでようやく姿勢を正す。
「すまない。どうだった桜庭?」
「あ、ありがとう。でも、こっちはやっぱり通じないね……」
大使館に勤めていると言うご両親への連絡先には、通じなかったそうだ。
「大使館の親の話も、嘘だったの……?」
「おそらく。向こうは手早く済ませるはずだったんだろう」
しかし自分が一か月も行方を知らせずに不在にした所為で、向こうの計画に狂いが生じた。だとしたら、クライアントの方が多少強引な手を使う事にしたと言う事も、十分に考えられた。
いや、例え自分のせいでルーナとクリシュティナが追い込まれてしまったかどうかに関わらず、やるべき事は決まっている。
「俺はルーナとクリシュティナを助けたい。力を貸してくれるか、桜庭?」
誠次の黒い視線を受けた桜庭は、嬉しそうに元気よく頷く。
「うん! あたしにも協力させて。出来る事は少ないかもしれないけど、出来る事をしたい!」
※
ぼんやりとした視界の先で、取り上げられた自分の電子タブレットが転がされる。ここは何処かさえ分からない薄暗い部屋の中。
昨日から同じ服装のルーナは、天井からぶら下がった縄によって腕を締め上げられ、吊るされていた。足は床につく。しかし身体の自由は効かない。これでは魔法式を浮かばせられたとしても、魔法文字の打ち込みは出来ず、無抵抗であった。
「――良い眺めじゃん。女子高生とは思えないねー」
捕縛された姫を眺め、ロシアから日本まで再びやって来たベルナルトは微笑む。薄暗闇の部屋の中で光を宿し、舐めるような視線は、ルーナの身体を上から下までくまなく行き来している。
「こんな……真似を……っ!」
ルーナは力を振り絞り、腕の縄を解こうともがく。しかし天井から伸びた紐は強靭で、むやみに細い腕を動かしても、白い肌に痛々しい赤い痕が増えていくだけであった。
「クリシィはどこだ!? クリシィを傷つけるのならば、私が貴様を討つ!」
「その強気、そそるねぇ」
一日中吊るされた状態のままルーナが声を荒げるが、ベルナルトはまるで相手にしない。それどころかルーナの顎に手を添え、悠々に嗤いかける。
「まどろっこしい話は無しにしようじゃん。優柔不断のオヒメサマ?」
ベルナルトの顔のすぐ目の前で、ルーナが悔しく歯を食いしばっている。
「なにが、望みだ……! 私は国際魔法教会の命令しか聞かんぞ!」
「その国際魔法教会に、おたくら騙されてたんだよ」
「っ!?」
ベルナルトの術中に嵌まりかけているルーナは、コバルトブルーの瞳を大きく見開く。
「何を言うか……!」
「オルティギュア王国の難民の為の亡国復活ねぇ。でもその王国、とっくの昔に二人だけの王国になってるよ? 一〇年前から」
「二人だけだと!? う、嘘だ! 生き残りは今もいて、私たちが王国を復活させるまで待っているんだ!」
「ほらよ」
ベルナルトがロシア語の新聞を魔法で宙に浮かし、ルーナに見せつける。
そこに書かれていた内容を見たルーナは、絶句する。
「王国民は全員死亡……? 生存者は、いなかった……?」
「ハハッ。やっぱ教えてもらってなかったか」
予定通りに人が戸惑う姿を見たベルナルトは、満足気に手を叩いて笑う。
「残念だろうけどこれが現実だ。アンタらが必死こいて戦って、国を復活させたところで、待ってる人はいやしない。君たちがいると思っているオルティギュアの生き残り。あれ全員゛捕食者゛に喰われてたんだって。女も、子供も」
「嘘だ嘘だっ! 私は信じないぞっ!?」
「信じるか信じないかは勝手だけど、実際オルティギュア王国なんて知ってる人も、生き残りも見た事がないだろう? 可哀想に。もう守るべき国民もいないのに、姫って呼ばれて期待を受けてたんだね」
ルーナに残されたわずかな芽でさえ、摘み取る気で、ベルナルトは語り掛ける。
信じるべきものの手立てを失いつつあるルーナは、度重なる疲労にも負けそうになり、頭を垂らす。
「……いる」
しかし、ルーナはまだ言葉を紡ぐ。覇気はなく、掠れかけた、声であるが。
「クリシィが……私にとって残された全てだ……。何もかもを失った私と一緒にいてくれたクリシィだけは……私が守る……」
「泣けるねぇ」
未成年がいるにも関わらず、ベルナルトは煙草に火をつけ、吸い始める。
火に油を注ぐように、嫌味な笑みを振りまくベルナルトは、白い煙を盛大に吐いた。
「ほら、お前が会いたがってたメイドさんだよ」
ベルナルトが手を叩いて合図をすれば、部屋の外から鎖が引きずられる音が聞こえ、やがてそれが大きくなる。
ベルナルトの部下が連れて来たのは、両手を鎖で縛られたクリシュティナであった。暴行を受けたのか、それとも泣いていたのか、頬は林檎のように赤く染まっている。
「姫、様……。ごめん、なさい……っ。私の所為なんです……」
「だよなぁクリシュティナ・ラン・ヴェーチェル? お前が俺なんかに姫さんを大人しく渡したから、姫さんはこんな無様な姿で吊るされてるんだぜ?」
「っ!? ごめんなさい……ごめんなさい姫様っ!」
「違うクリシイ! クリシイの所為ではないっ!」
クリシュティナが身体を震わし、泣き始める。
ルーナは今もまだ、必死に縄を解こうともがいている。
「さて。幻影魔法ってのは面白いものでな。対象者の精神状態によって掛かり方が違う。古くは怪しい霊媒師による洗脳とか……って、この説明も面倒だからどうでもいいか」
どっちみち、と呟きながらベルナルトは幻影魔法の魔法式をクリシュティナに向ける。
「クリシィにするつもりか!?」
ルーナが顔を上げ、ベルナルトを睨みつける。
「ああ。主を裏切るようなメイドには、罰を与えないとな?」
「やめろっ! 貴様っ!」
「なら取引といこうぜ姫様!?」
ベルナルトは項垂れていたクリシュティナの髪を無理やりに引っ張り上げ、ルーナに見せつけるように腕を突き出す。
「いやっ、痛っ!」
クリシュティナが悲鳴を上げ、可愛らしかった顔が苦悶に歪む。
「よせっ! やめろっ、もうやめてくれ!」
絶叫するルーナは、もはや抵抗する気もなくなり、今はただ目の前の故郷亡き少女を救うために身体を身動きさせる。力強い眼光を放っていたコバルトブルーの目からも、徐々に光が失われていく。まるで夜空に輝く白い月が、黒い雲に覆われて掠れていくように。
「じゃ、俺からの要求を言おうか――」
完全にルーナを嵌める為の餌として使ったクリシュティナをまじまじと眺めてから、ベルナルトはその要件を告げる。
完全に屈服し、頭を垂らしていたルーナは、ベルナルトの言葉を黙って受け止めていた。
「――んじゃそう言う事だから。一緒に仲良く頑張ろうぜ、オヒメサマとメイドちゃん?」
ベルナルトは落ちているルーナの電子タブレットを拾い上げ、指の上でペン回しの要領で回し始める。
「ああこれはこっちから遠隔操作できるってやつだから、今日連絡出来なかっただろ? これでお友達までたくさん作っちゃって。まさかお前ら二人とも、ここで仲良く青春ごっこでも出来ると思ってたわけ?」
ベルナルトはしゃがみ込み、ルーナ同様身動き出来ないでいるクリシュティナの顎を無理やり持ち上げる。
「お前たちが生きる方法ってのは、これからも永遠に国際魔法教会に従うしかないんだよ。゛捕食者゛に国を滅ぼされた、あの日からな」
「誠次は……誠次が、変えてくれると……言ってくれた……。いつか、背中に背負ったモノを降ろせる日が来ると……」
か細い声が、ベルナルトの後ろの方から聞こえた。
銀髪の頭こそだらりと下がっているが、ルーナはまだ意識が残っているようだった。ルーナのすがるような言葉は、顔を持ち上げられているクリシュティナの耳に深く残る。
「おいおい冗談だろ?」
驚くベルナルトであったが、状況を打破できる力は、今のルーナにもクリシュティナにも残されてはいなかった。
「もう諦めなよ。どうせ、せーじくんもお友だち騙してた君たちに愛想尽かして放っておくよ」
ベルナルトはすくりと立ち上がり、ハッとなったルーナの目の前まで歩み寄る。
「そう、か……」
「作戦開始まで大人しくしてくれよ? 普通の魔法生に憧れた、哀れな哀れなオヒメサマとメイドちゃん」
ベルナルトがひとまず去った薄暗い部屋の中。早朝だと言うのに、夜のような静寂が、しばし残された者たちを包んだ。
「……ごめん、なさい、姫様……」
か細い声で、クリシュティナはルーナに謝り続ける。周囲に見張りの人はいるが、クリシュティナは構わなかった。
「大丈夫だ、クリシィ……。もう大丈夫だ……」
辛うじて持ち上げた視線の先。締め切った窓の内側に掛かるカーテンの所為で、窓の外の世界は見えず。閉ざされた蓋の隙間から零れる光が、やけに遠く感じられた。
「今さらこんな事を言っても遅いかもしれません……。けれど、私が間違っていたんです……。もう育ての親を失うのが怖くて、国際魔法教会に見捨てられたくなくて……周りも見ずに必死に……」
「いいんだ……。私も、同じだよ……」
泣き出しそうな声で語り掛けて来るクリシュティナに、ルーナは今できる精一杯の笑顔を見せていた。
そんなルーナの表情を見てしまったクリシュティナは、いよいよ大粒の涙を流し始めていた。
「私は、ずっと姫様を利用していたようなものなんです……。自分の幸せを取り戻したくて、姫様の影に隠れていて……」
「クリシィの幸せは、私の幸せだ……。大晦日に言われたことの答え、本当に大切なのは、クリシィなんだ……」
ルーナは微笑み、クリシュティナを安心させてやる。
「……だから私は、誠次を……剣術士を討つ」
「っ!? ルーナ……ああ……」
いつまでも迷ったままでいたのは、本当はルーナではなく、きっと私の方だったに違いない……。そして状況を最悪な方向へと変えてしまった。
騎士と姫。二人は戦うしかない運命にある。それを今の自分では変える事が出来ず、そんな状況を作り出してしまったと感じるクリシュティナは、ただただ自分の不甲斐なさを嘆き悲しむ。
「みんな……すまな、い……」
謝罪の対象は、学園の皆へ。
ベルナルトが出て行った部屋の中で、ルーナはぐったりと頭を垂れる。ぼさぼさになってしまった銀色の髪は汗が絡みつき、気色悪そうにむき出しの肌にべっとりと張り付いてしまっていた。
借りているアパート部屋の外へ出たベルナルトは、電子タブレットの着信を確認する。
「死体は処分した、か」
国際魔法教会の面子の死は不慮の事故だった。そう言う事にしておけば、問題はないだろう。
「ああ、早く国に帰りたい」
煙草の煙混じりの白い息を吐きながら、ベルナルトは鼠色の空を見上げる。
ここはビルばかりの鋼鉄の街。自動車の通る音や、リニア車の振動。その全てが耳障りに聞こえ、ベルナルトは苦虫を噛み潰したような表情をする。
そして遠くから聞こえて来る、家族と思わしき子供と大人の楽し気な話し声。それらが一瞬で地獄に変わる瞬間を、ベルナルトは想像する。
想像は容易だった。なぜならば、自分はその光景を見ていたから。
「……そうか。俺も帰る国、なかったっけ」
※
――都内某所の山の奥。
一台の車が停車している森の獣道を進んだ先。大量の落ち葉を踏んだ先に立っていたのは、黒く雄々しきたてがみを蓄えた百獣の王だった。
「よくやった、獅子」
刺々しい黒い毛に覆われた口と、鋭い爪を伸ばした手に人間の血を付けたライオンは、主人に頭を撫でられる。
バーバリライオンの目の前には、二人の男の死体が、無残な姿となって転がっている。殺されていたのは、ベルナルトの部下であった。成りすまし、メールを送っていた使い魔の主の男は、電子タブレットを木の葉の上に落とし、踏みつける。
「誇り高き国際魔法教会の魔術師たちよ、すまなかった……」
国際魔法教会のフード付きコートを着ている若い男は、殺されてしまい、処分される直前でいた二人の仲間の元まで歩み寄り、黙祷を捧げていた。
「仇は討つ」
仲間の遺体を使い魔の背中に乗せ、しっかりと固定する。
黒毛のライオンを従え、国際魔法教会の男は歩き出した。
※
午後になっても、ルーナとクリシュティナからの連絡は何もない。
警察に通報することも念頭に、誠次たちの捜索活動は始まった。今日は誘拐現場となった初詣会場の調査だった。
「よっしゃ。じゃあ手分けして聞き込み調査だ!」
会場の調査は、そう言って張り切る志藤の提案であった。屋台の人ならば当時を見ていた人もいるだろし、二日連続で出店している店も少なからずあるだろう。
美味しそうな屋台の料理に引き寄せられそうになりつつも、誠次は聞き込みを続ける。
しかし初詣当時は正月という事もあり今日に比べて参拝客の数は目に見えて多かった。歩く隙間さえないほどだった石畳の道も、今日にいたってはすたすたと歩くことが出来る。そうするとすなわち、正月の大混雑の様相では、屋台の人もいちいち参拝客の顔など記憶している暇もなかったようで。
「悪いけど分かんねえな坊主。ンな事より牛串いらないかい? 美味いよ?」
「そうですか。ください」
聞き込みの礼もかねて、高い串を買って食べる。美味しいので、構わないが。
「天瀬さん!」
「悪い寝坊した!」
小野寺と帳が、誠次の元へ合流する。
「来てくれてありがとう。ほら、牛串」
「サンキュー。おっ、美味いな」
「ルーナさんもクリシュティナさんも、大切なクラスメイトですからね」
もぐもぐと牛串を咀嚼する帳に、小野寺も張り切っていた。
ルーナとクリシュティナといた期間は圧倒的にルームメイトたちの方が長い。彼らにも、同じクラスメイトの友人としての思いがあるのだろう。
「ここら辺は聞き込み済みなんだけど、見てないって人の方ばかりだ」
地図も用い、誠次は周囲を見渡しながら告げる。
「大混雑だったらしいしな」
「住職のお方ならどうでしょうか?」
小野寺が提案してくる。
「なるほど。まだそっちは訊いてなかったな」
誠次は早速、巫女さんたちの方へ訊き込みに行く。
しかし、箒を手に境内の清掃途中であった巫女さんたちもお勤めが忙しく、見ていなかったそうだ。残された目撃証言は桜庭のみ。彼女は今、この境内の中で篠上と千尋と香月と共に、聞き込みを続けている。
気温はだいぶ下がっている。マフラーを深く被り直し、白い息を吐いた誠次は懸命に、ルーナとクリシュティナの行方を調べる。
「夕島、ロシア大使館の方に連絡してくれたみたいだぜ。ルーナとクリシュティナのご両親がいないかって」
横を歩く帳が言う。
「でも、門前払いだったそうだ。教えられないって」
「そうですよね……」
帳が残念そうに言えば、小野寺も落胆する。僅かな光明でさえ、潰されていた。
「駄目。どこにも手掛かりなし」
やがて桜庭たちも集合し、それぞれの収穫の無さを語った。
「せめてどの方角に行ったかも知れればと思ったのですけれど、人があまりにも多すぎて証言も何もありません……」
千尋も当時の混乱の中では、ルーナとクリシュティナの行方を知るには至らなかったようだ。
「そう言えば、志藤君は……?」
「あれ、そっちと一緒じゃなかったのか?」
香月が首を傾げると、誠次も同じく首を傾げる。
「ま、まさか今度は志藤さんが行方不明に!?」
小野寺が慌てて周囲を見渡す。最初の方は逐一報告があったものの、先ほどから急に連絡が来なくなっている。
――志藤は捕まっていた。たとえどんなに僅かな情報でもよく、神社の裏側の茂みを歩いていたところを、後ろから何者かに幻影魔法を浴びせられて。
そして運ばれた、木々が生い茂る神社敷地内の森の中。志藤は木の幹に身体ごと縛り上げられ、身動きが出来ないでいた。
「――悪く思うな日本人」
目覚めた志藤の目の前には、外国人の女性が立っていた。モデルのような身体つきに、すらっと伸びた足が目に入って来る。
よく見ればこの女性。昨日の初詣の際に前の列におり、途中で横に抜けて行った女性だ。
「誰だよ、アンタ……」
初めての幻影魔法を浴び、すこぶる気分が悪い。おまけに胸を強く締め付ける縄のせいで、呼吸もうまくいかない。ぐったりとなっている志藤は、日本語を操る自分を捕まえた女性をまじまじと見る。
「私はエレーナ。日本語は最近習得した」
「日本語って、そんな簡単か……?」
「何度かこの国に来ることがあってね」
エレーナと名乗った女性は、ぎらついた目つきで語り掛けて来る。
「怖……。俺、まだ死にたくないですよ……」
少なくとも、本音を言っていた。こういう状況になってみて今、実感する恐怖を感じた身体の震え。抑えようとしても無理なものであった。
エレーナは震える志藤を見下し、自分の腰に手を当てて話し出す。
「情けないな日本男子。お前だって魔術師だろう?」
「手が、使えませんし……」
志藤は後ろに回されている手を縄から振りほどこうと、もがく。
「別にお前を殺そうなんて真似はしないよ。ただ私にも協力者が必要なんだ」
「学生が協力者って……随分と切羽詰まってるみたいッスね……」
なぜか少しの余裕が生まれ、志藤はエレーナに問いかける。この短時間でこの状況に、慣れてきたと言うのか……?
対して、エレーナはつまらなそうにふんと鼻を鳴らす。
「アンタらのクラスメイトを拉致した奴。私は知ってるよ」
「ん、なに?」
「だから、私は拉致されるところ見てたって。しかもソイツ、私の知り合い」
「なんだって……」
一体どう言う事だ……。罠か、本当に知っているのか……。
いずれにせよ縄で身動きが出来ない以上、選択の余地は限られている。
「条件は、なんスか……?」
「話が早くて助かるよ。状況判断力が良いってのは、優秀な証拠さ」
「はあ……」
こちらはそれよりも一刻も早く縄を解いてほしく、曖昧な返事をしていた。
「さっきも言ったけど、私はその男に復讐がしたい」
「振られた男への愛憎劇ってやつっスか……?」
「中々言うね。そんな所さ」
志藤の言葉に、エレーナは肩を竦めていた。
「アンタらはオルティギュア王国の姫を救いたい。そこでお互いの目標は一致しているってわけさ」
「知ってるのかよ、ルーナちゃんとクリシュティナちゃんの事……。まあ知ってなかったらこんな真似もしねえか……」
それにこちらが二人を探していることも、エレーナは知っているようであり、それ故捕まえて来たようだ。
「で、アンタの条件ってのはなんだ?」
目の前に立つ女が望みそうな対価を考える。そこで真っ先に浮かんだのは、なぜか天瀬誠次とレヴァテイン。だとしたら、渡せないと志藤は唾を飲みこみ、エレーナをじっと睨みつける。
「……ものだ」
「もの?」
急に俯き、ぼそりと言いだしたエレーナに、志藤は首を傾げる。少なくなったとはいえ初詣の賑やかな声は遠くから聞こえ、エレーナの声を打ち消している。
「聞こえなかったんスけど……」
志藤が訊き返すと、エレーナはすぅと息を大きく吸い込んで、こう叫ぶのであった。
「食べ物と風呂。そして寝る場所を私に提供しろ!」
「……はあ!?」
まさかの条件に、動かない身体を大いにのけ反らし、志藤は小さく絶叫する。
「ここは異国の地だ……。持ってきた金も底をついて、もうどうしようもないんだ」
「いやじゃあ国に帰れよ!?」
志藤がツッコむ。
「復讐が終わるまで帰るわけにはいかない。どうなんだ!? 情報が欲しくないのか!?」
エレーナが歩み寄り、志藤の胸倉を掴みあげる。
三文無しになるまで復讐したいと言う気持ちは分からず、志藤は涙目になりそうになりながらも、声を張り上げた。
「だー分かったッスよ! 俺が飯奢りますから、情報教えてください!」
「風呂と寝るところは!?」
「学園の寮室へどうぞ!?」
そこまで言うと、エレーナは志藤の胸倉を離し、ロープも解き始める。
……奇妙な外国人と志藤の交渉は、ここに成立した。




