1 ☆
見渡す限りの人の大群に、頭上で幾つも重なる華やかな装飾の数々。二〇八〇年の正月を迎えた東京のとある神社には、大勢の参拝客が訪れていた。紅白の横断幕が包み込む神社は、大方の予想通り大混雑を極めていた。
「朝早くから起きて来てこの混雑かよ……。やっぱ初詣ってどこも混むよなー」
前も横も後ろも人、人、人だ。ひとたび賽銭箱まで向かう人々の列に並んでしまえば、あとは流れに身を任せるしかなくなってしまう。せっかくの屋台も列の中央からでは看板すら見えず、派遣されていた警察官が屋台前に柵を置いて人を誘導している。
「ビルばっかりで神社も減ったし、皆ここに来てるんだろう」
温かい厚着姿の誠次も、流れる人の群れに身を任せ、辺りをきょろきょろと見渡しながら言う。覚悟はしていたが、いざ並んで早くも一時間。まだ神社そのものも見えてこないのは、一種の修行かなにかか。
延々と続くような石造りの道路を少しづつ進むのは、誠次と志藤の二人ペアだった。
「んで、ルーナちゃんとクリシュティナちゃんはどうなってるんだよ?」
「篠上と千尋が任せてって言っていたけど」
彼女たちも、この人の群れの中のどこかにいるのだろうか。先ほど篠上から送られてきたメールには【私たちも並んでる】との事。
快晴の青空の下、誠次と志藤はゆっくりと進む。
「王国のお姫様ねぇ」
「お姫様なんて、本当にいたんだな……」
「オルティギュア王国ねえ。調べたけど、かなり小さな王国だったらしい。昔はオーロラが世界一綺麗に見えるところって事で、観光客もそれなりにいたみたいだけど、近年はかなりやばかったらしい」
白い息を吐きながら、志藤は呟く。
「夜の外に出歩けなくなり、国力も同時に衰退していったというわけか」
あごに手を添える誠次の言葉に「そう言うこと」と志藤は頷いていた。
「次第に国としての機能を保てなくなっちまって……こう言っちゃなんだけど、どちらにせよ潰れるのは時間の問題だったのかもな」
申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、志藤は言っている。
「ルーナとクリシュティナには、そんな祖国を復活させる使命があるんだよな……。きっと、俺たちが想像しているものなんかよりも遥かに重たいものが……」
俯く誠次は、呟いていた。
まだ学生の身分の自分たちで、これはどうこうできる問題なのだろうか。今の自分たちに分かることと言えばただ、ルーナとクリシュティナの仲を引き裂いてはならぬと言うことだった。祖国オルティギュア王国から遥々来たルーナもクリシュティナも、互いの事を大切に思っているはずなのだから。
列は極めてゆっくりと進んでいく……。
「お、前の女の人が退いた。ラッキー」
突然、すぐ目の前に並んでいた長身の女性が横へ抜けて行ったが、それも些細すぎるバイパスだ。
「今の人、横顔だけでも中々美人だったけどな。見てた?」
「いや。全然」
「んだよ……。あー寒」
志藤ががっくしと肩を竦めているが、考えに耽っていた誠次はそれどころではなかった。
こうも長時間並んでいれば最初は下らない話やお決まりの下ネタで時間を潰していても、限界にもなる。
「しっかし、やっぱ初詣ってどこも混むよなー……」
「志藤……。その台詞、今日もう五回目ぐらいだぞ……」
「うっそまじ!? 恥ずっ!」
しかしそうは言うけど、と志藤は髪をぽりぽりとかく。
「実際マジで、長いんだよな……。話す話題もうねーよ……」
「し、志藤!」
突然、誠次が何かを見つけ、志藤の肩をぽんぽんと叩く。
「どうした?」
「美味そうな団子の屋台から、香ばしい匂いがしきりに漂ってきている……! 俺は戦線を一時離脱――っ」
ここまで来てこの匂いは卑怯だと思えるほど、醬油とみたらしの香ばしい匂いが鼻を挑発してくるのだ。 誠次が横にふらふらと向かいそうになるのを、志藤が首根っこを掴んで止めていた。
「ここまで来て諦めるなこん畜生っ! 俺だって食いてーよ!?」
「団子が、団子が遠のいていく……!」
数々の犠牲を乗り越え、二人は賽銭箱へ確実に近づいていた。
ひと際短い幅の階段を上り終え、賽銭箱へとようやくたどり着く。ご縁があるようにと言う安直な理由で五円玉をそれぞれ取り出し、賽銭箱へ放り込む。
「……」
「……」
二人で手を合わせ、静かに願い事をする。何だかんだでおめでたい正月に行う初詣の願い事とは、叶いそうな気がするのだ。
足早に志藤と共に賽銭箱から離れ、巫女さんが待つおみくじ売り場へと向かう。
すると、志藤が誠次の腕をつんつんとつつく。
「お前、神様に何頼んだ?」
「世界平和」
冗談ではなく、そう頼んでいた。きっと周りの人も同じ願いをしたに違いなく、この世界ではありきたりで普通な考えでもあるだろう。
「神様に頼んで世界が平和になりゃ、世話ないぜ」
志藤が苦笑している。
「そう言う志藤は、何頼んだんだ?」
「俺は……健康祈願」
志藤は真正面方向を向きながら、そう言っていた。年末に降った雪は神社の境内所々に残っており、まだまだ冬は続くことを知らせて来る。
「お前の分もやっといたわ。去年はお前、怪我しっぱなしだっただろ?」
横を歩く志藤の言葉が、白い息を吐く身体に深く染み込むようだった。
「ありがとう。……まあ世界が平和なら、怪我もしないんだろうけどさ」
平和の象徴である鳩が集まっている方を見れば、子供たちが煎餅らしきものを割り撒いている微笑ましい光景があった。
境内内で紙のおみくじを購入し、早速開けてみる。これも中々どうして、初詣に来てやらないわけにはいかない。
志藤が引いたおみくじは【末吉】であった。当の引いた本人は、少しばかり残念そうな表情を浮かべている。
「末吉って。また微妙だなおい……」
志藤曰く、吉よりも運勢が低いとの事。確か賽銭前の列に並んでいるときはおみくじを楽しみにしていた志藤であるが、今となっては「おみくじなんて信じねーし」などと言っている。
「天瀬はどうよ?」
志藤と同じくおみくじを広げていた誠次は、そこに書かれていた文字を見つめて、戦慄している。
「゛ちょい゛吉、だそうだ」
「んだそれ!?」
志藤がツッコむが、確かにおみくじには【ちょい吉】と書かれていた。
……なんだこれ。ちょっとだけ良いのだろうか……。
人が多く大変そうな中で、どう言う事だと巫女に聞く気にもなれず、さっそくだがおみくじを静かに結んでいた。
「俺の金運、大きな散財があるだと。はぁ……。お前はどうだったよ、恋愛運?」
やや遅れて志藤がおみくじを結ぶ場にやって来て、どこか含みのある言い方で聞いてくる。
ちょい吉と言う言葉の響きに圧倒され、すっかり見るべきところを忘れていた天瀬が気づいた時にはすでに、おみくじは横並びの紐に固く結ばれた後だった。
「し、しまった……見忘れた!」
「お前にとっちゃ一番気になるところだろうが!」
志藤がまったくと、肩を竦めている。
「もう解いたら……駄目だよな?」
固結びしてしまったおみくじに震える手を伸ばし、誠次は悔しく尋ねる。
「残念。間違いなく罰当たりだな」
やれやれと苦笑する志藤もまた、自分の引いたおみくじを誠次のおみくじの隣に結んでいた。
どうにか気を取り直した誠次と志藤は、待ってましたとばかりに財布を同時に取り出す。
「じゃあ気を取り直して、俺らにとっての初詣本番行きますかー!」
「ああ! 屋台だな! 団子を食わないと!」
「どんだけ団子食う事に執念燃やしてんだよ……」
これも日本の味だ。ルーナとクリシュティナにも買ってあげよう。
長蛇の列を横にして、来た道を引き返す志藤と誠次は早速、屋台が立ち並ぶお祭り会場へと向かっていた。
二人の魔法生によって新たに結ばれたおみくじが、迎えた新年のそよ風によって紐ごとゆらゆらと揺れていた。
長蛇の列対策の為か、この神社に賽銭箱は複数ある。祀られている神様も四方八方から金を投げられては願いを聞かされて忙しないと思うが、大して気にされることもないだろう。
誠次たちとは別の賽銭箱でお賽銭を済ませた香月と篠上は、おみくじを引くために二人で歩いていた。
「まだルーナちゃんもクリシュティナちゃんも来ていないみたいね……」
「連絡もないし、結局、お賽銭は二人で済ませちゃったわね……」
篠上が残念そうに言い、香月も俯いていた。
桜庭と千尋はそれぞれ家族と、この神社へ初詣に来ている。よって香月と篠上が二人で、ルーナとクリシュティナを誘っていたのだが、肝心の二人からは今日に入ってまだ連絡すら来ていない。
「篠上さんは家族とは過ごさないで良かったのかしら?」
赤いマフラーを口元まで上げ、香月は篠上に訊く。
「うちは毎年親戚が大勢集まって来て、私はおせちの手伝いとかするんだけど、今年は親戚の人が亡くなっちゃって……。でも初詣に来たりお守りは買っても大丈夫だって、おばあちゃんが言ってたから」
篠上も赤いマフラーを首に巻き、香月に説明していた。
「私は中吉かー。詩音はおみくじどうだった?」
二人一緒におみくじを買い「まあまあね」と呟く篠上が香月に訊いてくる。
香月は広げたおみくじを凝視し、なぜか硬直している。
「私は……。……゛ちょう゛吉……?」
あごに手を添え、眉を寄せる香月は小首を傾げる。
「ちょう吉ってなに!? 超!?」
「これは果たして、大吉より上なのかしら……?」
ひらがなと漢字で【ちょう吉】と書かれたおみくじをまじまじと見つめ、香月は真剣に悩んでいる。おみくじをひっくり返したり、逆さまにして読んでみたりしているが、大して意味はないのだろう。篠上も篠上で「水に濡らすとかどう……?」とか提案してくる始末だ。
「……っ」
「……っ」
年頃の少女たるもの、恋愛運をじっくりと見た後、おみくじを結び付け、今度はお守りを買う場所へと向かう。
「お守りね。天瀬と志藤になんか買ってやりましょう」
「志藤くんには、学業成就が良いと思うわ」
「じゃあ天瀬には――」
篠上が呟けば、二人の視線が同時に、縁結びのお守りコーナーへと注がれる。二人が同じところを見つめたことに気づき、頬を赤らめる。
「け、健康祈願ね……」
何かを誤魔化すような咳払いをした後、篠上は健康祈願のお守りに手を伸ばす。
一方で、香月はあくまで冷静であった。
「篠上さんは、それを買って、私が縁結びを買うと言うのは……」
「えっ!? そ、それは、不公平よ!」
こうなれば、篠上も縁結びのお守りを選ぼうとする。
「だったら、こうしましょう――」
あまりこのようなおめでたい場で言い争いもしたくはない。香月がとある提案をし、篠上も納得したように頷いていた。
屋台街で食べ物を漁っていた誠次と志藤の元へ、香月と篠上が合流してくる。
「見つけた。アンタの背中のそれ、目立ってすぐ見つかって便利だわ」
篠上が白い息を吐きながら、誠次の背中の黒い袋を見つけて駆け寄って来る。
「二人にお守りを買ってきたの」
香月が小さな紙の袋を二つ鞄から取り出し、差し出してくる。
「俺にも?」
志藤が驚きながら、香月から差し出された紙袋を受け取る。
「クラスメイトとしてよ」
「そっか。サンキューな。――が、学業成就……」
嬉しそうに紙袋から取り出したお守りを見た志藤が、一気に意気消沈してしまっている。それでも嬉しかったようで、二人に素直に感謝していた。
「俺の方、なんだか多くないか?」
紙の膨らみが大きく、誠次は訝しんで中を見てみる。お守りは、なんと四つもあった。
「い、良いのか、これ……?」
四つものお守りを手にぶら下げ、誠次は恐る恐る問いかける。神様同士が喧嘩しそうで怖いのだが。
「巫女さんに訊いたら、持っていても問題はないって。むしろご利益アップよ」
ふふんと微笑む篠上が、得意げに言ってくる。
お守りは学業成就と健康祈願。そして縁結びが二つと言う、これまた妙な組み合わせであった。
「そうか。ありがとう二人とも」
誠次はお守りをぎゅっと握りしめ、二人に感謝していた。
「それで、肝心のルーナとクリシュティナはどうなってるんだ?」
「それが、まだ連絡もないの。ルーナさんは来ると言っていたけれど、何かあったのかしら……」
「心配だな、もぐ。……香月も食べるか?」
「ありがとう」
誠次が食べていた一口カステラの入った袋を、横を歩く香月は受け取る。いや、かなり食べたそうにアメジスト色の目で一口カステラを凝視していたのでだ。
香月は両手で持った紙袋に物体浮遊の汎用魔法を簡単にかけて見せ、浮かせた袋に左手を入れて、一口カステラを取り出していた。
「美味しい……」
もぐもぐとカステラを頬張る香月は、新年早々甘くて美味しいものを食べれて、幸せそうな表情をしている。
「あ、アンタは、お年玉を初日に使い切ろうとする子供かっ」
反対側から、綿あめ屋台に行っていた篠上が綿あめを片手にやって来る。
「いや、どっちがだよ……」
志藤が苦笑しながら、頭の後ろに両手を回していた。
篠上も香月の元から、一口カステラを貰っては、美味しそうに頬張っている。
結局自分が食べたのはたった一つで、残りは香月と篠上と志藤に食べられることになりそうだ。お祈りとお守りをしてもらったので、その分のお返しと言えばお返しになるだろうか。
「って、このままじゃただの初詣になっちまうぞ? ルーナとクリシュティナの国の事を国際魔法教会に相談するんだろ」
ずれかけていた行動目的が、志藤の言葉により思い出される。
「どうにかする為には、クリシュティナの協力が必要なんだ」
ルーナが言っていたが、国際魔法教会との連絡手段を持つのはクリシュティナだけであり、彼女らはそこから指令を受けている。彼女がいなければ、自分がどうにかしてやることも出来ない。
いい機会だからと、初詣に無理に誘ったのが間違いだったのだろうか?
……いや。何の気なしに訊こうとしても、きっとまた昨日の大晦日の夜のようになってしまうのだろう。
「デンバコに着信が来てるわ」
香月がコートのポケットに手を入れ、振動している電子タブレットを手に取ってみる。
「私の方にもだ」
同時に、篠上の方にも電子タブレットに着信があったようで、彼女も肩掛け鞄から電子タブレットを取り出していた。
「桜庭さんから」「千尋から」
同時に呟く香月と篠上によれば、二人ともそれぞれの家族と一緒にこの神社に来ているらしい。この見渡す限り地面が見えないほどの人の多さでは、さすがに待ち合わせでもしなければ合流できそうにないが。
「えっ……」
まずは香月が、桜庭から送られたメールの内容を確認して、絶句している。
「そ、そんな……」
篠上も口に手を添え、わなわなと身体を震わす。
「「……?」」
快晴の正月の空の下、誠次と志藤は顔を見合わせ、何事かと首を傾げていた。
※
――少し前。
四人よりやや遅れてだが、ルーナとクリシュティナは、確かにヴィザリウス魔法学園の寮室から出立していた。
「? 私の電子タブレットの調子が悪いのか? 綾奈たちにメールが送れないのだが……」
私服に着替え、大晦日用に貸して貰っていた寮室から女子寮棟の通路を歩きながら、自分の電子タブレットと睨めっこをするルーナは、国際魔法教会が支給してくれていた電子タブレットの不調を今朝から感じていた。何度も電源を入れたり切ったりしているが、一向に友人たちに連絡を送る事が出来ない。
「クリシィのはどうだ?」
「私のも何故か送れません……。電波は入っているみたい、なのですが……」
GPS機能等に問題はないが、一向に言う事を聞いてはくれなかった。クリシュティナも訝し気に自分の電子タブレットを見つめている。
妙な予感を共に胸に抱きつつも、ルーナとクリシュティナは初詣の為に、約束した神社へと急いで向かう。
「分かっているとは思うが、誠次もいる」
魔法学園からほど近い場所にあると言う神社へは、徒歩で行ける。新年の朝日を身体いっぱいに浴びながら、ルーナはクリシュティナに言う。
クリシュティナはまだ少し気まずそうにだが、頷いていた。
「はい……。昨日は誠次にはとても失礼な事をしてしまいました……。ちゃんと、謝ります」
「……誠次は私たちの事で、少しでも協力してくれると」
「あんなに失礼な真似をしたのに、彼は……」
クリシュティナは胸に手を添え、俯きながら歩き続けている。
「今考えれば私たちは……国際魔法教会の命令を逸脱しようとしているのですね……」
「ああ……。更には申し立ても行おうとしている……」
「ロシアにいた頃には、考えられない行為です」
二人とも、国際魔法教会の言う事全てが正しいと思い、増してやそれが当然だと思い、疑問を感じることもなく忠実に従ってきた。
しかしここにきて、外部の者の手を借りて国際魔法教会に意見しようとしている。危ない橋を渡っていると言う自覚は両者にあったが、不思議と彼ならやってくれるのではないかと言う期待感もあった。
「私は少し、怖いです……」
クリシュティナは空を自由に飛ぶ鳩を眺め、そんな事を呟いていた。
二人はあまりにも長い間、鳥かごに入れられてしまっていたのだ。今では自力で飛び方を忘れ、羽ばたくことも出来ないでいた。
「――あれか?」
「――ああ」
歩道を歩くそんな二人の背後から、ゆっくりと一台の黒い車が近づいて来ている。ここは平和の国。すぐ背後に迫る脅威に、二人が気づくこともない。
二人は都内の神社までは辿り着いていた。異常が起きたのは、参拝客の為に混雑している神社の鳥居を潜ったところであった。
「――ルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイト。クリシュティナ・ラン・ヴェーチェルだな?」
先に来ているはずの皆を探そうとしたルーナとクリシュティナであったが、後ろから名を呼ばれ、振り向いてしまう。
二人の後ろに立っていたのは、おおよそ初詣の参拝客とは思えない風貌をした二人組の外国人の男だった。顔立ちもどれも険しく、ただの観光客ではないのは誰の目から見ても明らかだ。
「っ!」
「その名を知っての無礼か。貴様ら何者だ?」
怯えるクリシュティナを守ろうと、ルーナが男たちの手を振り払い、前へ出る。
「王国はもはや滅び、貴女に残された力は貴女自身のみ。国際魔法教会は早急な任務の実行を貴女に命じました」
ロシア語で告げてきた相手。
それに対し、ルーナは腕を横に振る。
「ま、待ってくれ! 今別の方法を模索しているんだ!」
「別の方法、だと?」
「せい……っ。剣術士が、国際魔法教会と直々に交渉したいと言っているんだ。彼と話しをしてくれないだろうか……」
ルーナは慎重であった。つい従おうとしてしまったその頭の中で、ヴィザリウス魔法学園の皆の顔が浮かび上がり、ルーナは思い留まっていた。
「自分の立場を理解しておられではないようですね。貴女はすでに一か月も国際魔法教会を待たせている」
男が前へと進んで来て、ルーナの腕を鷲掴みにする。
「痛っ!?」
強引に腕を引かれ、ルーナは悲鳴を上げる。
「ルーナ!」
クリシュティナが魔法式を展開しようと腕を上げるが、そこまでであった。
「君のお兄様はこんな事を望んではいないが? 君は剣術士と兄上、どちらが信用出来ると思っているのでしょうか?」
「っ!? 兄、様……」
クリシュティナは腕を降ろし、抵抗も何もしなくなる。まるで金縛りにでもあったかのように、口で呼吸をしながらも、彼女は微動だにしなくなってしまった。
「クリシィっ!?」
抵抗しようと、左手で魔法式を展開したルーナであったが、妨害魔法で魔法式を壊される。
「《ナイトメア》!」
「――ルーナちゃんっ!? クリシュティナちゃんっ!?」
誰か、聞き覚えのある声が聞こえる。こちらに向かって一目散に走って来る桜庭の姿が見えた所で、ルーナの意識は闇の底へ沈んでいった。
幻影魔法により意識を失ったルーナは、筋肉質な男の肩に担がれ、神社の入口方向へと運ばれていく。
いつの間にか、大勢の人の注目を集めてしまっていたようだ。男たちの考えでは、大人しくこちらの命に従うと思っていたのだが、ルーナが予想以上に抵抗をしたため、このような事態になってしまった。
「来い! ヴェーチェル!」
呆然とした面持ちで立ち尽くすクリシュティナへ向け、もう一人の男が声を掛ける。
びくりと身体を震わせたクリシュティナは、僅かな迷いを振り切るように、首を横に振る。
「ルーナ、ごめんなさい……私は、私は……っ」
「二人に何してるんですかっ!」
偶然にも現場を目撃していた参拝客である桜庭が、果敢にもこちらへ向かって来ていた。
「桜庭、さん……。もう構わないで、下さい……」
「ちっ! こっちだ!」
クリシュティナが桜庭にそう告げるのと同時に、舌打ちをする外国人の男の手がクリシュティナの肩を掴んで引き寄せていく。
「クリシュティナちゃん!? そんな、待ってよ! どうなってるのこれ!?」
桜庭はクリシュティナとルーナを連れ戻そうと、目立つ人混みの中、必死に声を掛けていた。
「貴女たちと過ごせた魔法学園生活は、とても、楽しかった――」
クリシュティナは桜庭と目線と合わせることなく、小さく見える背を向け、人混みの中へと消えて行く。
「そんな、クリシュティナちゃん……」
周囲の人々がごそごそと話し合い、残された桜庭をじっと見つめている。へたりとその場に座り込んだ桜庭の元へ、人混みをかき分けてやって来たのは、桜庭ママと桜庭パパだった。
「莉緒! 危ないじゃない!」
「突然走り出して、どうしたんだ?」
「クラスメイトが……友だちが……行っちゃった……」
震え声で桜庭が言うが、状況が良く分かっていない桜庭ママと桜庭パパも顔を見合わせているだけだ。
「莉緒ちゃんさん!」
落ち込む桜庭の後ろから、もう一家の家族がやって来る。高級そうな厚着を身に纏った、本城一家だった。
「千尋のお友達さん! まあ素敵。千尋がお世話になっております」
「あら、お友達の。こちらこそ、莉緒がお世話に――」
同い年の子を持つ親同士にありがちな会釈を、双方の母親がしている。
「大丈夫ですか? 風邪を引いてしまいますよ?」
千尋がしゃがみ込み、落ち込んでいる桜庭の肩に手を添える。
「クリシュティナちゃんがもう関わるなって。ルーナちゃんが、無理やり……」
「私は遠くから偶然桜庭さん方を見て……」
丁寧な言葉遣いの千尋の手をとり、桜庭は立ち上がる。
「今のは、一体……」
「参拝客、と言う賑やかな集団ではないようだったが」
桜庭パパと直正は横に並び立ち、二人が連れ去れた神社の入り口を見つめていた。そして、気づいた時は「どうも」とお互いに握手をする。
「ど、どうしよう……」
「ここの神社には綾奈ちゃんたちも来ています。ルーナちゃんさんとクリシュティナちゃんさんは綾奈ちゃんたちと一緒に過ごす予定でしたので、確認の為に電話いたしましょう」
胸に手を添え、真剣な表情で千尋は言っていた。
「あっ、それならあたしはこうちゃんに!」
冷静な千尋に、桜庭も真剣な表情で頷いていた。
「――みんな!」
やがて、連絡を受けた誠次たちが、桜庭と千尋たちの元へと駆けつける。
その時にはすでに、ルーナとクリシュティナの姿はどこにもなく、面影すらも残されてはいなかった。
※
クリシュティナが乗り込んだ車には、ラジオが流れている。
『特殊魔法治安維持組織がメーデイアの監査を行ってから数日が経ちました。メーデイアの矯正監であった溝口佑太は、当初は任意同行に従っていたものの、今朝になって供述が二転三転するなど、曖昧な供述を繰り返しているようです――』
サングラスを掛けている運転席の男が、ラジオを消す。
「賢明なご判断です、ヴェーチェル様。祖国復活は、全オルティギュア王国民の願いなのですから」
「……」
クリシュティナは俯いたまま、何も言わない。今は、誰にも顔を見られたくない後ろめたさを感じてしまっているのだ。
信号が赤になり、走っていた車が一時停止する。レンタカーなのだろうか、内装はとても綺麗で、目立った埃も見えない。
「世間の中には我々の活動を良くないと思う人もいるようですが、私はそうは思い――」
「――はい。お疲れさん」
助手席に座っていた金髪の男性が右手を伸ばし、運転席の男に向け《サイス》の魔法を放つ。
車の中が一瞬のうちに真っ白な閃光に包まれ、クリシュティナは思わず目を瞑る。
クリシュティナの真横に座っている男性は、サングラスの下の表情を一切崩さずに、クリシュティナの腕を強引に掴み上げた。
「きゃっ!?」
悲鳴を上げるクリシュティナの前方では、嗤う金髪の男性がサングラスを上に持ち上げる。その腕に、漢字で『愛』と書かれているが、愛情など微塵も感じないほどの、冷酷な表情で。
「お初にお目にかかりますオルティギュア王国お付きのメイドさん。俺の名前はベルナルト・パステルナーク。以後お見知りおきを」
「貴方は、一体……!?」
国際魔法教会ではない。こんな男は、見たことも聞いたこともない。
例えようのない恐怖に駆られるクリシュティナが思わず振り向くと、そこには眠らされているルーナが乗る車がぴったりと後ろを着いて来ている。そして、その車内でも白亜の閃光が煌めき、国際魔法教会の運転手が殺害される。
「る、ルーナっ!」
「さて、お前には俺の個人的な復讐に役立ってもらうぜ? 哀れな操り人形ちゃん」
死体をどかしたベルナルトが、交代する形で運転席に座り、ハンドルを握る。
行く先も分からないまま、囚われの姫とメイドを乗せた車が、正月の都会の街の中を優雅に横断する。羽ばたいていた鳩たちが、餌を求めて道路に舞い降りる。ベルナルトが運転する車がその横を通り過ぎれば、灰色の羽が盛大に巻き起こり、雪解けの水溜まりへと墜ちていった。




