5
歩きながらタオルで顔を拭く誠次は、篠上と千尋に感謝していた。
「ありがとう二人とも……。すまない」
「私たちは構わないけどアンタ、クリシュティナちゃんに何しようとしたの?」
ジト目を向けて来る篠上に、変な誤解を抱かれているようであり、誠次は慌てた。
「とても難しい話なんだ……。篠上も千尋も一緒に、直接本人から話を聞いた方が良いと思う」
湿った茶色の前髪をそっと触りながら、誠次は言う。
それを聞けば、篠上と千尋も顔を見合わせてから、うんと頷いていた。
「せっかく帰って来てくださったのに、一難去ってまた一難のようですね……」
千尋は不安そうな面持ちで、誠次の後をついて行った。
大晦日を楽し気に過ごすクラスメイトたちから逃げ、クリシュティナは一人で、ヴィザリウス魔法学園の白い廊下を歩いていた。
「クラスメイトの寮室に泊まる予定だったと言うのに……私は逃げて……」
どこに行けると言うのだ? 行く当ても、もうどこにもない。私たちには、国際魔法教会しかないと言うのに。だから、安らいで帰れる場所を取り戻す為に、私は国際魔法協会の命令を忠実に実行して異国の地である極東まできた。
――それなのに、ルーナは……。
「――クリシィ!」
後ろの方からルーナの叫び声が聞こえ、クリシュティナは立ち止まる。
ルーナは、突然部屋を後にしてしまったクリシュティナを走って追っていたのだ。
「一体どうしたんだクリシィ?」
「どうして、私の事を剣術士に教えたのですか……?」
クリシュティナは振り向きながら、ルーナを非難するような視線を送る。
明らかにいつもと様子が違うクリシュティナに、ルーナは答えに窮してしまっていた。
「どうしてって……私たちの意思を一方的に押し付けても、決して彼は私たちに協力してくれない。だからもっとお互いの事を知って、友好的な関係を築ければ良いと思っただけだ」
「関係ありません! 彼を無理やりにでも国際魔法教会に引き渡せば、国際魔法教会はオルティギュア王国を復興してくれます! どうして彼と仲良くなる必要があるのですか!」
「そんな事をしてしまえば、クラスメイトの皆が悲しんでしまうと分かるだろう!? 私は出来れば、この学園で出来た友だちを悲しませたくないんだ!」
とうとう叫び返してしまったルーナを、クリシュティナは呆気に取られた表情で見る。
「……姫様にとって大切なのものは、なんなんですか……」
ルーナはしまったと言うような表情を浮かべ、だがと口をきつく結び、銀色の髪を左右に振る。
「クリシィの事は大切だ。……だからと言って、向こうの意思を無視してまで強引な真似をするわけには、いかないだろう……?」
「そんな事は……!」
「……っ」
重苦しく長い沈黙が、大晦日の夜に続く。今も宴を楽しんでいるクラスメイトたちを尻目に、ルーナとクリシュティナは互いに睨み合っていた。
「ルーナ、クリシュティナ!」
そんな二人の元へ走ってやって来たのが、誠次と篠上と千尋だった。
「三人とも……」
顔を上げたルーナが反応を返してくれるが、クリシュティナは目線を合わせようともしてくれなかった。
誠次は篠上と千尋の気に背を押されつつ、まずは頭を下げていた。
「さっきはすまなかった……。その、気持ちを、考えてなくて……」
「……」
クリシュティナは誠次を一瞥すると、さっさと行ってしまう。
クリシュティナを追いかけようとしていたルーナであったが、諦めたかのように肩を落とすと、誠次へ申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すまない……私の方こそ……」
「クリシュティナさん、すごい怒ってたね……」
「一体、どう言う事なんでしょう……?」
篠上と千尋にも、ルーナの口から説明がされていた。自分たちが本当は何者で、日本に来た目的はなんだったのかと。
「そんな……」
「本当の、お姫様……」
ルーナの口から出る真実に、二人とも驚き、時より悲しそうな目をしていたのを、誠次ははっきりと見ていた。篠上も千尋も、ルーナとクリシュティナと仲良くなれたと思っていたのだろう。
「最初から、天瀬を連れて行く為にヴィザリウスに来ていたって事なの……?」
「二人にとって国際魔法教会は、身寄りのない身を救ってくださった恩人なんですね……」
「そうなんだ……。騙していて、申し訳ない……」
ルーナが頭を下げる。
「許してくれなくていい……。その、退学もやむを得ないと思っている」
「退学って……。……それは、ちょっと違う気がする……」
篠上が複雑そうな表情を浮かべ、ルーナをまじまじと見つめる。
「ショックですけれど……ルーナちゃんさんとクリシュティナちゃんさんが喧嘩したままと言うのは、私たちの心も痛みます……」
千尋もルーナとクリシュティナの為に、あごに手を添えて必死に考えている。
「皆は、本当に優しいんだな……」
ルーナが感動したようにコバルトブルーの目を輝かせると、篠上は気恥ずかしそうにし、千尋も嬉しそうにくすりと微笑む。
「それは一応、友達だって思ってるし……」
「クリシュティナちゃんさんのお料理、また皆で食べたいです」
「ルーナ。国際魔法教会の人と話をさせてくれないか? 俺が話せば、向こうの考えも少し分かるかもしれない」
「っ!? 国際魔法教会に交渉する気なのか?」
その考えが信じられないようで、ルーナはびっくり仰天しているようであった。
「そんなの、きっと無理だ……」
「話してみなくちゃ、やってみなくちゃ、分からないだろ?」
誠次が必死にルーナを説得する。
理由はどうであれ、せっかく日本へ来てくれたのだ。こちらがロシアに行くことは無理でも、せめてルーナとクリシュティナにとって便宜を図ってもらえるように、頼むことだってできるはずだ。
――それに、もう一つ。
(国際魔法教会……。圧倒的な魔法の力の元に世界平和を実現させようとしている国際的な組織……)
自分が着ている制服の腰に刻まれている紋章をちらと見つめる。よく名を聞く彼らがどのような組織なのか、知る必要があるとも考えていた。
「頼むルーナ。ルーナとクリシュティナの為にも、俺たちに協力させてくれ。このまま終わりなんて、やり切れない!」
「私もお願い。こう見えて天瀬って、なんだかんだやってくれる人よ?」
「とても頼りになるお人です。それに皆で頑張れば、出来ないことはないはずです!」
「誠次……皆……。本当に、感謝する……」
ルーナは胸に手を添え、未だ慎重にだが、うんと頷いてくれた。
大晦日を過ごすようにと学園側が用意してくれた寮室に戻ったルーナは、部屋の電気が点いていなかったことにまず驚く。クリシュティナはいるはずだが、もう寝ているのだろうか。それもそのはずか、時刻はもうすぐ年越しの午前〇時を迎えようとしている。メイドとして早寝早起きの彼女なら、普段は寝ているはずの時間だ。
寝ているのならば仕方ないと、ルーナはクリシュティナを起こさないようにリビングまで歩く。
すると、机の上に何かが置いてあることに気が付いた。
「これは……」
置いてあったのは、メモと、机の上に乗せられたピロシキであった。作り置きしてあった量はとても多く、軽く見積もってクラスメイトの数だけはある。
「配る予定で、作って置いてあったのか……」
ロシア語で【YA sozhaleyu】と書かれていたメモは、ごめんなさいと言う意味であった。
ルーナは二段ベッドの方を見る。下のベッドでクリシュティナは壁の方を向き、布団を深く被って寝息を立てていた。
「眠たかったらイライラしていたのか……なんて言ったら、怒るかな……」
ルーナはピロシキを一つ手に取り、ソファに座ってもぐもぐと行儀よく食べる。育ちがどうしても出てきてしまうところだ。
「……クリシィ。眠っているのなら、これは私の独り言だ」
もぐもぐと咀嚼を終えた後、ルーナは立ち上がりながら、クリシュティナの背に語り掛ける。
「……」
「やはり、この学園の皆を悲しませたくはないし、誠次の居場所はここだ。だから私は……誠次たちと協力して、国際魔法教会に別の方法はないかと訊くつもりだ。一応は私も姫の身分。国際魔法教会も話ぐらいは聞いてくれるはずだろう」
今までクリシュティナと共に、地獄のような戦闘訓練や英才教育を文句一つも言わずにこなしてきたのだ。今回ばかりは、国際魔法教会に意見しても通してくるのではないだろうかと言う、ルーナの考えだった。
もちろん、ルーナはまだ慎重であった。
「……私が楽観的で優柔不断だと非難されるのは重々承知だ。だとしても、祖国復活は、別の方法で出来ないかと手を打ちたいんだ」
そもそもなぜ国際魔法教会は私に天瀬誠次を篭絡し、ロシアまで連れてこさせようとしていたのだろうか……? 今になって湧いてきた疑問は、やはりここ東京のヴィザリウス魔法学園での魔法生生活を送らなければ、浮かんではこなかった疑問であった。
「明日の朝、初詣とやらに誘われたんだ。一年の計は元旦にありだと、神社でお参りをするらしい。もし賛成してくれるのならば、一緒に初詣とやらに行こう」
「……」
クリシュティナは本当に眠っているのか、布団を被った身体を上下にゆっくりと動かしている。
時計を確認すれば、もうすぐ午前〇時になろうとしている。ロシアではクレムリン宮殿の鐘が鳴り、日本では除夜の鐘が鳴らされ、お茶の間に鐘の音が鳴り響くのだろう。――千尋が用意したのと同じ、記録された映像であるが。
多くの人が生まれ、また多くの人が散って逝ったニ〇七九年も、そろそろ終わりを迎えようとしている。
「ねぇ、白虎……」
早寝早起きは女中の基本生活態度である。が、それは今日に限っては違った。
大晦日と言う理由ではない。ルーナは寝て、布団で横になっていたクリシュティナは、自身の使い魔であるホワイトタイガーに話し掛ける。
「私は……どうしたいのでしょうか。本当の私は一体……」
胸の奥がしんと冷え、クリシュティナは自分の身体を丸める。
「……貴方は、ルーナのファフニールのように、話せませんでしたよね……」
少し寂しく微笑んだクリシュティナは、そっと目を閉じる。
いつだって虎は、空を自由に飛ぶ竜に憧れた。虎にはない、自由に羽ばたく為の翼を、竜は持っているから。
「天瀬誠次……。貴方が、私に翼をくれると言うのですか……?」
――いや、どうして……たった数日しか会ったこともないような人を簡単に信じれるものか。
「お兄様……」
不安と期待が入り混じったか細い声で、クリシュティナは呟いていた。ふかふかのベッドは、華奢な身体を包み込むようにして、クリシュティナを甘い眠りへと誘っていく。
1-Aの生徒が集う談話室でも、いよいよ宴はクライマックスを迎えようとしていた。
「――ってかお前らもう寝ろよ!? なんで普通に起きちゃってるの!? いい子はもう寝てないと駄目だよ!?」
顔を真っ赤に染め、ヒックと肩を揺らしながら、林が叫んでいる。
「俺は先生だから注意しないと駄目なわけよ!?」
「はいはい先生はもう寝てくださいスって!」
やれやれ顔の志藤が林の腕を自分の肩に回し、運んでやろうとする。
「おいっ! 誰か代表者っ! なんか締めの言葉言いやがれ!」
ジョッキを片手に、林が周囲を見渡して叫ぶ。
1-Aクラスメイトたちは苦笑して、互いの顔を見合っていた。
「んなの、アイツしかいねーじゃん? 天瀬ー」
泥酔している林を担いだまま、志藤がお菓子を頬張っている最中の誠次にバトンを繋ぐ。
「んぐ? ぼげが(俺か)?」
正直やりたくないが、期待には応えなくては。
誠次はお菓子をお茶で流し込むと、一応雰囲気づくりの為にグラスを持って、談話室カウンター席の横まで歩く。
「時間ねーから早く頼むぜ?」
志藤が急かしてくる横で、林も「おっ、いいねー」と酒臭い息をこちらに浴びせて来る。
一体何を言えばいいのか考えるが、皆の視線が一斉にこちらに向けられ、頭の中が混乱しそうになる。
「ええと。こうして皆で揃って年末を迎えられて、嬉しく思う! ――で、どうかな?」
「「「短っ!」」」
えぇ……。
思い浮かんだ言葉を述べた途端、盛大なツッコみを食らってしまう。
まだまだ物足りないようで、クラスメイトたちからは囃し立てるような視線や声援を受ける。彼らこそ、酒を飲んでいるのではないかと思えてしまう。
「そんなもんかお前の力は!」
林からもそんな事を言われてしまい、誠次はなぜか妙に腹が立って来て、こほんと咳ばらいをする。
そして、1-Aのクラスメイトたちを見渡した。
「……この一年間で、色々とあった。何度も挫けそうになってしまったり、負けそうになってしまった。でもそんな時に、いつもこの1-Aの仲間の姿が思い浮かんだんだ。1-Aの皆がいるから、俺は立ち上がる事が出来た。皆にとっても1-Aが最高のクラスだったって思えるように、来年もよろしく頼む!」
「「「長っ!」」」
「お前らーっ!?」
誠次がグラスを持ち上げながら宣言すると、男子と女子の双方より歓声と拍手が沸いた。
どうやら今度は上手くいったみたいで、ほっと一安心する誠次は、微かに赤い顔を俯ける。
「じゃあ次は香月!」
林は何を思ったのか続いて、はしゃぐクラスメイトたちの後ろの方に立っていた香月詩音に声を掛ける。
名を呼ばれた香月は当然、困惑気味にぴくりと反応する。
「え、私、ですか……?」
ここだけは、林の意見に賛同だった。自分だけがと言う不公平さを感じていたのもあるが何より、ここ一年で彼女を取り巻く環境はだいぶ変わったはずだ。この学園で友と出会い、守るべきものも生まれた今の彼女になら、出来る事だろう。
「来てくれないか?」
誠次が香月に手を差し伸ばすと、最初こそ戸惑っていた香月はクラスメイトたちの間を通って誠次の手をとり、カウンター席まで歩み寄る。そして、クラスメイトたちの方を向いた香月は、軽く深呼吸をしていた。
「……私は春に天瀬くんに助けられて、皆が優しくて、嬉しかった。魔法だけが取り柄だった私を、皆は受け入れてくれた。本当に、感謝しています。出来れば、一年後や二年後も、こうして皆と一緒にいていたい、です……」
「「「香月ちゃん……!」」」
感極まるクラスメイトたちに、
「いや俺の時と露骨に反応が違わないか!?」
慌てる誠次がツッコんでいた。
「おい皆! 年越し一分前だぜ!?」
「やべっ、まだそば喰ってねぇ!」
「ジャンプ! ジャンプしよ!?」
志藤の言葉を皮切りに、皆がそわそわとし、新年を迎えようとする。千尋が用意した年越し花火映像も、クライマックスを迎えようとしている。除夜の鐘の音と共に、盛大な花火が新年の夜空に色とりどりの大輪を咲かすのだろう。
「ねえ見て。映像の人たち、夜の外にいるのに楽しそうに笑っているわ」
クラスメイトたちの騒ぎ声の中、横に立つ香月が誠次にそっと声を掛けて来る。
誠次も顔を上げれば、黒い影の人々が、夜空に打ち上がる花火を指差しては満面の笑みを見せている。
「本当だな。きっと皆、希望を抱いて新しい年を迎えようとしていたんだろう。来年はもっといい年になるようにって、願って」
「今は良くはなるのかしら」
「大丈夫だ。そんな気がする。気がするだけだけどさ」
後ろ髪をかいていた誠次の言葉に、香月はくすりと微笑む。続いて、何かを見つけたようにアメジスト色の目を花火で輝かせる。
「あの人たち、手を繋いでいる……」
黒い影の男性と女性が腕を伸ばし合い、手を結ぶように繋いでいる。
すると香月は、こちらに向けて右手を差し出してきた。誠次がそれに気づくのと同時に、香月の右手が左手にそっと触れる。
「つ、繋ぐ、か?」
「え、ええ……」
自分から手を差し伸ばしたわりには、香月の声は震えていた。それを誤魔化すようにか、手をぎゅっと繋いでくる。
「き、キスまで、してるわよ……?」
「なに!?」
映像の男女を見れば、お互いの身体を寄せ合い、顔と顔は隙間を埋め尽くすほど近付け、口づけを交わしているではないか。
「一家団欒の年越しの時に、キスをするのか……?」
「あれはカップルだと思うけれど……」
驚愕している誠次の横で、香月はそわそわとしているようだ。空いている左手で、落ち着きなく銀髪を触り、誠次に視線をちらと送る。
「……っ」
誠次も誠次で、香月が次に何を期待しているのか、わからないわけではない。よって顔を真っ赤にし、全身も発熱しているのではないかと思えるほど、体温が上昇していた。
そんなこちらの熱を冷まし、冷静な判断力を取り戻さしてくれるのは、いつも決まって香月の冷たい声だった気がする。
「たった一か月間会えなかっただけで、自分でも驚くほど悲しく感じたし寂しくなった。貴方がいない空白を埋める事が出来なかったの」
「香月……」
切なく感じるとともに、大きな温もりも、香月の右手から感じ取れる。それは一年前には感じられなかった熱であった。
「……貴方には私以外にも他の女性の力が必要だという事もちゃんと理解している……。もしかしたら、私以上の女性も……。でも、そうだったとしても……私は貴方の傍にいたい……」
「……っ。……ありがとう」
頭が真っ白になるほどの激情を、誠次は面には出さずに抑えつけ、香月に向け微笑んで感謝の言葉を返す。
香月はそれを複雑そうな感情が入り混じった表情で、見つめ返す。その感情の多くは、悲しみと寂しさで違いないだろう。
「除夜の鐘の音……」
香月が呟く。
「年越しか」
迎えたニ〇八〇年は、クラスメイトたちと共に。地上波も除夜の鐘の録音データ放送がされている頃だろう。重く美しい鐘の音は、静寂の談話室の中で良く響いた。
カウンター後ろにいた柳が気を利かせたのか、部屋の照明は落とされたようだ。
「――黙祷するのはどうだい?」
背中から柳に声を掛けられ、誠次は振り向く。
「黙祷、ですか? 除夜の鐘を聞くときに黙祷とは聞いたことがないですけど?」
「試しにやってみるのもいいかもしれないよ? 煩悩をとらないとね」
柳がにっこりと微笑んでお勧めしてくるので、聞いたことはないが、とりあえず目を瞑って鐘の音を聞いてみる。
「……」
しばし鐘の音を聞いていると、完全に暗くなった視界の先で、何かが動いたようなささやかな風を感じる。仄かな甘い香りが漂ったかと思えば、暗い闇が一層濃くなった気がする。
「……っ」
そして、左頬に何か柔らかい感触が押された。悪戯されたかのようなくすぐったい感触に、香月の息遣いが左耳の間近で感じる。
鐘の音一つ分は押されていた柔らかい感触は、やがてゆっくりと離れていく。香月の匂いも、ささやかな風と共にすぐ横を離れた。
「――えっ?」
「煩悩退散」
今のはなんだと、目を開けようとした誠次の肩を後ろからぽんと叩くのは、柳のしわのある手であった。
誠次は目を瞑ったまま左頬にそっと手を添える。暗闇で感覚が鋭くでもなっていたのか、左頬に残された優しくも強烈な感触は、鮮明に覚えている。
「まさかこれ、一〇八回鐘の音が鳴るまで目は閉じたままなんですか……?」
隣に立つ香月が今どのような表情をしているのか、見てみたくとも、迂闊に目も明けられない。
「……そう、ね」
やや上ずっているように感じる香月の声は、鐘の音に乗せて聞こえた。
「み、皆で年を越せて、本当に良かったわ」
「……そうだな」
何かを誤魔化すような香月の言葉に、誠次も目を瞑ったまま頷く。
「なんでお前、目閉じてんの……?」
律儀に目を瞑ったままの誠次の前の方から、志藤がやって来る。
「……煩悩をとる為だとか」
「いや聞いたことねーし……。んな事より、もっと前行こうぜ? 香月も」
「私はもう眠くなってきたのだけれど……」
「大晦日と正月は徹夜するのが基本だろ? 皆いるしさ」
「まだ、目を開けるわけには……っ」
途中でやめたら罰が当たりそうなのが恐ろしく、誠次は目をぎゅっと閉じたままだった。
「ふふ。こっちよ」
志藤が肩を竦める中、香月が誠次の手をとり、歩いていく。机に何度かぶつかりそうになりながらも、誠次は香月に連れられて、クラスメイトたちの輪の中へと入っていく。
※
東京とモスクワの時差はおよそ六時間だ。その六時間後、クレムリンの鐘の音が、ロシアの全土に鳴り響く。年末年始を家族で盛大に祝うのは、極東の地域も極北の地域も変わらなかった。
開始された大統領演説の最中、ベルナルト・パステルナークは気だるげにソファに寄りかかり、テレビを凝視する。一応は傭兵として鍛え上げている上半身は裸であり、下半身はベルトを巻いたジーンズと言う格好だ。
「頭痛ぇ……。あ、そう言えば年越しだった」
前回の日本での任務に失敗し、ロシアに帰国したベルナルトは、寝泊まっている粗末なアパートの一室で、グラスに注いだウォッカをストレートで飲み干す。
「効く……」
胸がむかつき、酔いで思わずふらつく足も、自分の部屋の中ならではの特権だ。足元に何かが絡みつき、ふとフローリングの床を見れば、赤いランジェリーが転がっている。誰かが部屋に来ていたのだろうが、記憶には残っていなかった。
「あ? 新しい指令だと?」
金色の髪をぽりぽりとかき、ベルナルトは自分の電子タブレットを起動する。青の半透明の画像が斜めに浮かび上がり、ベルナルトの顔を青く染め上げた。
「また日本かよ……。いい思い出もないんだよな……」
ベッドの上に置かれていた上着のポケットから煙草を一つほど取り出し、口に咥えながら忌々しく呟く。大雨の中の任務失敗は、ベルナルトにとってみれば、雇い主の国際魔法教会から滅法怒られたトラウマだ。
「面倒臭いな……」
ぼんやりとした表情で、煙草に火をつける。
元々そんなに血気盛んでも情熱家でもない。理由を持って戦えるからと根っからの戦闘狂が多いこの職業界に属しているのは、ただ給料が良いだけでと言う、生活費を稼ぐための手段としか思っていない。
クレムリンの鐘の音を聴きながら、ベルナルトは新たな任務を確認する。
「剣術士と魔剣レ―ヴァテインの回収? 破壊じゃダメなんですか?」
疑問を電子タブレットに吹き込めば、相手からの返事はチャットですぐに届く。
『国際魔法教会上層部は回収を望んでいる』
「剣術士とやら、殺しちゃったらダメなの?」
壁に貼り付けている少年の写真を見つめ上げ、ベルナルトは訊く。背中に剣を背負った少年の情報は、日本での一回目の作戦以降手に入った。最初に見た時は日本のアキバとやらによくいると言われているコスプレ集団の一人かとも思ったほどだ。
『ウォッカの飲み過ぎで喧嘩っ早いのは本当なんだな、ロシア人』
「それはただの偏見ですよ。俺は喧嘩嫌いの平和主義者ですから。国際魔法教会だってそうでしょ? それがどうして今になって男の子のお尻を追わなくちゃいけないんですか」
『日本での活動に支障が起こり始めている。剣術士の影響が非常に大きい。早めに手を打たなければならないと、国際魔法教会が決議した』
「そして、アンタらはオルティギュアの姫様を派遣したんだろ?」
ここまでは粗筋だと、ベルナルトは言う。そして状況はここ数日で確実に変化している。
ベルナルトはウォッカ……に伸ばしかけた手を止め、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してキャップを捩じり、冷たい水を喉に流し込む。
『ああ。だが付き添いのヴェーチェルに命令していた報告任務によれば、ラスヴィエイトは任務に消極的だ。想像するにラスヴィエイトはヴィザリウス魔法学園の生活に感化され、かなり迷いを持ってしまったようだ』
「おいおい。お姫様のバカンスじゃないんだからよ」
ベルナルトは思わず苦笑する。訓練は受けたようだが、所詮、年頃の女の子は女の子のままだったと言うわけか。
『そこで貴様の出番だ。日本へ急行し、ラスヴィエイトとヴェーチェルと接触しろ。知らせでは、ヴェーチェルの方もどうやら報告任務に遅れがでているそうだ』
「俺の周りは問題児だらけじゃんかよ……。もうやだ……」
この上なく面倒臭く感じ、ベルナルトは電子タブレットを持ったまま深いため息をする。
『いいか単刀直入に訊く。やるのか、やらないのか。どっちだ?』
ベルナルトは素早く返答する。
「金が手に入るんならやるよ。俺にはそれだけさ。幻影魔法は使っても?」
『勿論だ。方法は任せるが、必ず任務は成功させろ。オルティギュアの姫と剣術士、グングニールとレ―ヴァテインは回収するんだ』
モノのように扱いを示す文であるが、ベルナルトは大して反応もしなかった。こうなれば一刻も早く異国の地での任務を終わらし、報酬金を貰いたいところだ。
「もしも標的が゛激しく゛抵抗した場合は?」
『やむを得ない場合は、最悪何らかの゛欠陥゛があっても構わない。報酬金はその分落ちるがな』
「落とさないよう、それなりに頑張ります」
ベルナルトは通信を終え、目を完全に覚ますつもりで、ペットボトルに残った水を髪から盛大に被る。ぼたぼたと、顔から水の雫が落ちていき、ベルナルトの足場を湿らせた。
「面倒臭……。剣術士。お前には借りがあるし、いっそ――」
自分でも嫌な口癖だと思うが、こうも言っていなければやっていけない。顔の水気を手で払いながら、ベルナルトはロシアの街の夜景を見つめる。
「ハッピーニューイヤー。゛捕食者゛さん」
雪が降り積もる街に蠢く影に向かい、ベルナルトは声をかける。今年の年越しも人を喰う怪物と共にだった。
しばし外を睨んでいると、部屋の奥のベッドの方から、甘ったるい女性の声が聞こえた。
「――ねぇベル……。貴方またタトゥー増えたの?」
どうやら相当酒でも飲んでしまっていたらしい。布団を被った裸の女性が部屋にいたことに気づかなかったとは。
「んあ? そうそう。日本に行った時に彫った。漢字」
「素敵……。ね、ベル? キスして?」
「おう、いいぜ」
ベルナルトは振り向き、目を瞑ってこちらに両手を伸ばす女性の元へ近づく。
記憶にないという事は、それほど感情も抱かなかったのだろう。
キスを待つ相手に対し、冷めた表情をしたベルナルトは、おもむろに右手を持ち上げ、女性に向け破壊魔法の魔法式を組み立てる。
「っ!? べ、ベル!? なにを!?」
「悪いな。《サイス》」
魔法の鎌が女性の衣服も纏わぬ身体を貫き、女性は白目を剥いてベッドの上に崩れ落ちていく。
「生かしたままってのも面倒だが、こっちの処理も面倒臭いな」
後ろ髪をぽりぽりとかきながら、ひとまずベルナルトは女性の処理を後回しにし、買っておいた日本語の参考書の本を眺めているのであった。
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