4 ☆
物心がついた頃から、厳しい父と母による英才教育を受けてきた。同い年の子が託児所で遊んでいるような年頃も、大人が習うような礼儀作法に着付けの訓練等。
私も外で遊びたい。どうしてこんなに嫌なことをしないといけないの? と父母に問えば、返事はいつも決まっていた。
「口答えをするな。ヴェーチェル家に生意気な子供はいらない」
何かを間違えたり、口答えをすれば、その都度両親からは怒られた。両親は自分を才女として育てる事に熱心で、まるでなにかに憑りつかれているようだった。
「――お父様、お母様。申し訳ありません」
そんな時、二つ上の兄はいつも一緒に謝ってくれたり、
「大丈夫だったか、クリシュティナ?」
親にはばれない所で、頭を撫でて、慰めてくれた。
自分と同じ赤い目と、自分とは違う銀色の髪。優し気に微笑む顔を見れば、嫌な事も忘れられた。
ずっと続くと思っていた習い事の日々は、ある日唐突に終わりを告げる。
「――クリシュティナ」
両親と共に買い物に行き、屋敷に帰って来た兄の声が、酷く落ち込んでいる。何事かと兄を迎えれば、たった一人で玄関に立ち、苦しそうな表情を浮かべていた。
「お父様とお母様が死んだ。荷物を纏めるんだ。この家を出る」
兄はそう言いながら、さっさと自分の荷物を纏め始める。
わけがよく分からないまま、クリシュティナはこくりと頷き、自分の洋服や勉強道具、習い事の道具などを鞄に詰めていた。
兄の言う事は、心から信じられるのだから。
――初めて自分が仕えるべき相手と出会った時は、兄の後ろに隠れて、慎ましい挨拶をしていた記憶がある。
何千万は下らない超高級車に乗せられ、見ず知らずのスーツを着た大人たちによって運ばれる。竜が描かれた紋章が刻まれた門を通り、噴水のある中庭に車は停められ、兄と二人して降りる。
前もっては聞かされていたが、やはり緊張する。なぜならばここはオルティギュア王国の中心。中世時代はあったと言うオルティギュア王国の城を現代風に改修した、オルティギュア王家の人々が暮らす屋敷なのだから。
「は、初めまして……。く、クリシュティナ・ラン・ヴェーチェル……です」
大勢の人々が見守る中、当時六歳ほどのクリシュティナは緊張しながら、兄の袖をぎゅっと掴んでぺこりと頭を下げる。
兄のミハイル・ラン・ヴェーチェルは、そんな恥ずかしがり屋の妹を微笑んで見つめている。
「ミハイル・ラン・ヴェーチェルと言います。ラスヴィエイト家に仕える事が出来、嬉しく思います。精一杯のご奉公をさせて頂きます」
たった二歳だけの年上だと言うのに、驚くほどミハイルは冷静で、不敵な笑みを見せながら大人たちに挨拶をしていた。そんな兄の勇ましい姿は、いつだって尊敬できた。
「ルーナ。挨拶をしなさい」
向こうの両親の間から、銀髪の同い年の少女が歩いて前へ出て来る。同い年のはずだが、向こうの少女は凛々しい立ち姿で、周囲の大人たちを率いているようだ。
「ルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイトだ。よろしく頼むぞ」
ひらひらのドレスを身に纏い、ルーナと呼ばれた少女は胸を張って宣言する。
――お互い、当時六歳の一〇年前。オルティギュア王国の首都の屋敷の中。竜と虎。コバルトブルーの瞳と、ワインレッドの瞳が初めて交錯した日であった。
姫であるルーナに仕える事は、その日のうちから始まった。
初めはルーナの部屋に呼ばれ、そこはとても六歳の女の子が一人で過ごすには広すぎる部屋だった。一人でぽつんと、ベッドの上に寝転がって本を読んでいるルーナの孤独な姿も、広すぎる部屋の異質さに拍車をかけている。
「あ、あの……っ。クリシュティナ・ラン・ヴェーチェル……。入りました……」
「ん?」
じろり、と視線を向けられたときは、怖かった。これは読書の邪魔をされて不興を買われたと思ったが、しかしどうやら違かったようで。
「ほうほう」
ルーナは本をぱたりと閉じると、興味深げにクリシュティナを見つめる。恐縮するクリシュティナは、もじもじと小さな身体を身じろぎさせていた。
「クリシュティナ、クリシュティナ……。長いから゛クリシィ゛でいいな?」
ぴんと閃いたように、ルーナは得意気に言ってくる。
「え、い、いけませんよ! 私は姫様に仕える身分の者です! そんな形式で呼ばれてしまいますと、姫様のお父様とお母様に怒られてしまいます……」
顔を真っ赤にして慌てるクリシュティナであったが、ルーナは「平気だ」と肩を竦めて見せていた。
「私はこれから勉強の時間だ。残念だが、遊ぶ事は出来ないぞ?」
「あ、遊びに来たわけではありません! お屋敷の中の家具の配置などの記憶で来たのです!」
まさか、とクリシュティナは小さい手を振って釈明する。
「なるほど。なら、何か分からないことがあったらなんでも聞いてくれ。私が知っている限りで答えるぞ」
「姫様とはあまり会話しないよう、厳しく言われてますので……」
最終的に視線を逸らし、終始恐縮しているクリシュティナは頭を深く下げていた。
一人で勉強を始めたルーナに部屋を出る瞬間もお辞儀をし、部屋を出たクリシュティナを待っていたのはミハイルであった。
「ミハイルお兄様っ」
知らない大人ばかりの屋敷の中で、血の繋がった兄の姿を見ると安心し、クリシュティナは笑顔で駆け寄っていた。まだこの頃は、兄妹で背丈も同じくらいだった。
「休んでいる暇はないクリシュティナ。お前は早く一人前のメイドとして、このラスヴィエイト家に仕えるんだ」
幼い頃から続いた自分への厳しい教育は、後々になってミハイルにオルティギュア王家に仕える為だと聞かされた。
きっちりとした服を着こなすミハイルは、広大で豪勢な装飾が目につく屋敷の中を、どこか複雑そうな感情を抱いた切れ長の目で見渡している。
「私……本当に姫様とお友達になれるんでしょうか……?」
「そんな不安そうな顔をするな。クリシュティナはやれば出来るいい子だろ?」
ミハイルはクリシュティナの茶色い髪の頭の上にぽんと手を乗せ、優しく撫でる。兄に撫でられるのは大好きで、不安でしかなかったクリシュティナはそれだけでにこりと微笑むことが出来た。
クリシュティナのメイドとしての日々は、それから始まった。最初は失敗ばかりだった家事や雑務も、大人の先輩メイドさんたちの厳しい指導の元、次第にこなすことが出来るようになった。自分が何者で、どのような身分の者だったのか、それに不満を抱くことも、ここの屋敷での日々を過ごすうちになくなっていた。
最初はぎくしゃくしていたルーナとの関係も、月日を重ねて徐々に深まっていく。
「なあクリシィ。屋敷の外には、やっぱり海と言うものがあるのか?」
「は、はい。失礼ですが姫様、もしかしてお屋敷の外には一度も……?」
「……ないんだ。いつか出てみたいのだけど、父上も母上も厳しいんだ。それは、私が特別な身分だという事は重々承知しているけれど」
むすっとした表情で、ルーナは窓の外に両腕を乗せて呟いている。
浮世離れしている、と言うよりは、いまいち現実味の無いルーナの発言は、当時六歳のクリシュティナにとってみれば驚きの連続であった。ルーナは自分の身代を理解している聡明さも、併せ持っているようだ。
「姫様がもう少し大きくなられたら、その……ご一緒に……外出できるかと」
遠慮がちにか細い声で言ったクリシュティナに、ルーナは腰まではある長い銀色の髪を嬉しそうに振り向かせた。
「クリシィと一緒にか!? 同い年と一緒に外出なんて、絵本のお友だちみたいだな!」
瞳をめいいっぱい見開き、ルーナはきらきらと眩しいほどの笑顔だ。
「も、申し訳ございませんっ。私の身分で、姫様と一緒だなんて図々しく……っ」
「堅苦しいな。そうだ、私の事はルーナと呼べ。そうすればクリシィともっと仲良くなれる気がする!」
今はまだ小さき姫の口から出た言葉に、クリシュティナは呆気にとられる。
「名前呼びだなんていけませんよ姫様! それに仲良くなる、だなんて……」
――聡明さを併せ持っているはずなのに、ルーナは気さくに分け隔てなく従者と接している。
クリシュティナは手を横に振るが、ルーナは納得いかないようなふくれっ面だった。
「あっ、お兄様……」
ふと見えた窓の外では、ミハイルが見たこともない男の人と、屋敷の門の外で話をしている。男はかなりの年寄りで、白髪の頭髪とゆったりとしたロングコート姿が特徴的だった。背を向けているミハイルの表情は、よくわからない。
「――何を見てるんだ、クリシィ?」
「ひゃっ!? も、申し訳ありません姫様っ!」
極めて恥ずかしく顔を真っ赤にして下がったクリシュティナと同じ方を、ルーナは見ている。
「あれは……君の兄か。そうか分かったぞ、君はお兄さんが大好きなんだな」
ははんとひとりでに納得し、ルーナは手をぽんと叩いていた。
「い、いや違います!」
「でも、顔が真っ赤だぞ?」
「違いますってば、る、ルーナ!」
とうとう耐え切れなくなったクリシュティナは顔を真っ赤にして、小学校の友達を相手にするように、ルーナに怒鳴ってしまっていた。
しまったと口元を抑えるクリシュティナに、一瞬だけきょとんとした六歳の姫君は、次には口を開けて豪快に笑いだした。
「ようやく私の事をルーナと呼んだなクリシィ!? 誰かに名前で呼ばれたのは、父上と母上以外で初めてだ!」
「そんな……」
こちらは申し訳ない気持ちでいっぱいであったが、ルーナは最後まで満足そうにしていた。
一国を治める姫としての威厳と誇りを持ちつつも、あか抜けてもいる。前もって教わっていた礼儀作法をことごとく無視してくるルーナに、クリシュティナも新鮮な感情を抱いていた。
ある日の夜。風属性の魔法を使って屋敷の掃除を行っていたクリシュティナは、屋敷の大広間で立ち止まる。幅広な階段が連なっている大広間の壁には、巨大な壁画が飾られていた。豪勢なシャンデリアの光が差し、壁画は良く見えた。
「ラスヴィエイト家に伝わる絵画です。月の女神と騎士」
ルーナの母親であり、王の妃であるディアナの声が聞こえ、クリシュティナは気をつけの姿勢を慌ててする。
「で、ディアナ王妃っ!?」
「構えないでいいわ。そう緊張しないでクリシュティナ」
艶のある黒髪に、美しい身体つき。王の妃に相応しい美貌を持った女性だった。
ディアナは微笑みながら、クリシュティナの隣に立ち並ぶ。
二人して眺める絵画は、顔が描かれた月を背後に立つ女神様が手を伸ばし、剣を携えた騎士に向け腕を差し伸ばしている。騎士は女神の前で膝をつき、差し出された女神の手の甲にキスをしていると言う構図であった。
「この絵は、黒い魔物に襲われている王国を騎士が守ると言うおとぎ話の一編です。月の女神は騎士に力を与えているのですね」
「黒い魔物……」
「それが現実になったものが、゛捕食者゛」
恐れを抱くクリシュティナに対し、ディアナは荘厳としていた。
「今この王国は多くの問題を抱えています。いつかこの王国にも、闇を祓う騎士が来てくれることを祈っているのです」
「……」
クリシュティナは背筋にぞくりとした何かが走るのを感じつつ、無言で頷いていた。
「怖い話をしたわねクリシュティナ。話を変えましょう。王家の為に尽くしてくれるクリシュティナには本当に感謝しているのです」
「そ、そんなっ! 恐れ多いです……」
赤面するクリシュティナが縮こまるが、ディアナは微笑む。
「屋敷での暮らしに不自由はありませんか、クリシュティナ? 貴女はルーナと同い年ですし、娘がもう一人いるようなものですから」
「は、はいっ! とても良くしてもらっております……。私は、ラスヴィエイト家に仕える事が出来て、嬉しいです……。あの、ですからこれからも、ずっと姫様のお傍にいさせてください……」
これが夢なのかどうかは、自分でも分からなかった。けれども今のクリシュティナの、素直な気持ちだ。
「ふふ。ルーナもきっと喜びます」
ディアナに言われ、クリシュティナは嬉しく笑顔を見せていた。
数日後、ルーナが初めての外出を許可されたので、クリシュティナもメイドとしてそれについていくこととなった。丁度、粉雪の降る寒い冬の日だった。
もちろん、二人きりと言うわけではなく、大人のお伴も複数名車を囲んでいる。
「初めて外に出れる! クリシィ! 早く来るんだ!」
「お待ちください姫様っ」
クリシュティナが、張り切るルーナの後を追って屋敷の門を通過する。
「早朝だと言うのに、やけに暗いですね……」
滅多に太陽が刺さないこの地域では曇り空が多い事は有名だが、そこに黒紫色のコントラストが掛かっているように感じる。クリシュティナは妙な不安を覚え、白い息を吐いていた。
「ミッドウィンター。極夜の日だな。今夜はオーロラが綺麗に見えるぞ」
屋敷に残るミハイルがクリシュティナに歩み寄り、頭を撫でてやる。
それだけで、クリシュティナはあやされたネコのように、幸せな表情を見せる。
「でも、゛捕食者゛が……」
夜になると人を襲うために出てくる怪物を思いだし、クリシュティナが視線を落とすが、ミハイルは心配無用と言わんばかりにクリシュティナの頭を撫で続ける。
「ルーナ姫をしっかりと頼むぞ、クリシュティナ。お前はやれば出来る、ヴェーチェル家の強い娘だろ?」
「……っ。は、はい! 行ってまいります!」
ミハイルの言葉を胸に、クリシュティナは張り切り、頭を深く下げる。ミハイルが見送る中、クリシュティナはルーナの後を追った。
車の後部座席に乗り込めば、ルーナが隣に座っている。姫の隣に座ることなど、オルティギュア王国では異例中の異例であった。まるでピクニックに出かける本当のお友達のようだ。
「クリシィ。どこか行きたいところはあるか?」
「……」
シートベルト締めながらルーナはまたしても、気さくに接してくる。
きっとこれは、彼女の優しさなのだろう。だからクリシュティナも、そんな慈愛の心に満ちたルーナに合わせることにしていた。
「そう、ですね。公園なんて、どうでしょう? お花畑でお花を見るのです」
「お花は屋敷でも見れるぞ……。私はせっかくなら鬼ごっこやかくれんぼがしたいな」
「鬼ごっこもかくれんぼも、お屋敷で私とやっているじゃないですか」
クリシュティナはくすりと微笑み、ルーナもあっと思い出したように笑いだす。
――初めて出来た同い年のお友達は、どこか気弱でおどおどとしており、メイドとしても失敗の目立つ可憐な見た目をした少女であった。
最初は大丈夫かと思っていたが、彼女は持ち前の器用さでなんでもそつなくこなしてみせ、周囲の大人たちも認め始めている。
夜空に見間違うほどの薄暗い空の下、ルーナとクリシュティナは市街地の公園へと車でやって来た。
「子供たちですね……」
一緒に車を降りたクリシュティナが、いささか不安そうにしてルーナの後ろに隠れてしまう。公園ではすでに、他の子どもたちが何人も遊んでいる。
人見知りな性格なのか、クリシュティナは声を掛ける事が出来ないでいるようだ。メイドの為にも、それ以上に友達の為にもと、ルーナは周囲の大人たちを下がらせ、かけっこをして遊んでいる同い年の子供たちの元へと歩み寄る。
「みんな。私たちも一緒に遊びたいんだ」
クリシュティナの手を引くルーナが、同い年の子供たちへずんずんと近づいていく。
子供たちは何事かと顔を見合わせていたが、やがて思いついたかのように明るい表情となる。
「お姫様だあっ!」
「ルーナ姫っ!」
王国内では屋敷でテレビに出たりと、わりと有名なようだ。
「混ぜてくれるそうだ。クリシィ早く!」
嬉しく振り向くルーナの視線の先、公園の入り口で、こちらをじっと見つめている一人の人影があった。長身で細身のその人は、フードを目深に被っており、男性か女性かまでは分からなかった。
「?」
首を傾げていると、長いコートを纏った人はゆっくりと歩いて去ってしまう。
「ど、どうしたのです、姫様?」
「いや、なんでも――」
「――い、゛捕食者゛だっ!」
平穏な空気を切り裂く悲鳴は、公園入口に立つ付き添いの大人たちから聞こえた。
まだ昼前のこの時間。それでも゛捕食者゛は道路に差した影より出現し、すでに通行人の何名かの身体を背中の触手で貫き、空中へと持ち上げていた。
「――姫様っ!」
「ニコ、ライ……!?」
ルーナを守ろうと走り込んできた従者の一人が、砂利の上で急停止したかと思えば、凄まじい力で゛捕食者゛のいる方へ引きずられていく。すでに彼の腹部には血が滲んでおり、現実味の無い漆黒の槍が彼の胴を貫いていた。
「きゃああああああ!?」
両手で顔を覆って怯え、悲鳴を上げるクリシュティナの手を、ルーナはしっかりと握っていた。
「クリシィ! 逃げるぞ!」
公園の中を散り散りに走り出す子供たちに交じって、ルーナはクリシュティナを連れて走り出す。
背中の方からは、逃げ遅れて捕まった人の悲鳴が止むことなく聞こえて来る。二人が乗って来た両親の愛車も、゛捕食者゛によって中に乗り込んで逃げようとした人ごと握りつぶされ、まるで紙くずをゴミ箱に捨てるかのようにぽいと大きな口の中へ運ばれる。
「いやあっ! いやあっ!」
「クリシィっ!」
公園の柵を飛び越え、ルーナとクリシュティナは森林の中へと逃げ込む。枯葉をくしゃくしゃと踏み鳴らし、ルーナとクリシュティナは無我夢中で懸命に走った。
「痛っ!?」
「ひ、姫様!?」
木の枝に足を引っかけてしまい、左足にひりひりと痛む切り傷がつく。逃げ惑う人々の悲鳴は徐々に小さくなり、すなわち遠くで追いつかれ、次々と喰われているという事なのだろう。
「もう、駄目です……。姫様は早く逃げてください。私は怖くて、走れません……」
奴らの地を這うような音がそこかしこで聞こえる中、完全に竦み上がってしまっているクリシュティナは、泣き言を言って木の幹に背を預け、ずるずるとしゃがみこんでしまう。
「クリシュティナ・ラン・ヴェーチェル! 背中におんぶしてでも私は君を運ぶ! オルティギュア王家の人間として、絶対に見捨てはしない!」
「違うんです姫様……真後ろ、に……」
クリシュティナの両肩を掴んで言い放ったルーナの背後へ向け、クリシュティナは震える小さな一指し指を指す。
鬱蒼と生い茂る木々の間のそこには、一体の゛捕食者゛が獲物を見つけた獣のように大きな口を開け、四足歩行の姿勢で立っていた。
「゛捕食者゛ッ!」
ルーナは懸命に振り向き、クリシュティナを守る為、魔法式を発動する。
「姫様……お逃げ、ください……」
「逃げないと言っただろう!」
震えそうになる足を誤魔化しつつ、ルーナはとある魔法を発動する。六歳児の小さな身体を埋め尽くさんとする、巨大な円形の魔法式が回転し、怒りに震えるルーナの髪が吹き荒れる風で逆立つ。
「飛べファフニール! 敵を焼き尽くせ!」
――それが、木にもたれ掛かる少女が初めて見た竜の姿であった。
魔法式から飛び出した一筋の光は、流星によく似ている。それは風を裂き、巨大な翼を広げ、ルーナと゛捕食者゛の間に降り立った。筋骨隆々なしっかりとした足と、鋭い爪が地面に触れた時、凄まじい振動が駆け抜けた。
「ドラ、ゴン……!?」
「久シイナ、姫。シカシ人前デ我ヲ呼ビ寄セタトハ、余程ノ窮地ト見エル」
「頼むファフニール……。゛捕食者゛を倒してくれ!」
「会話、しているのですか……? 言葉が分かるの、ですか……?」
どうやらファフニールの言葉は、自分以外には聞こえていないようだ。
泥にまみれたルーナと、呆気に取られているクリシュティナを鋭い眼で交互に睨んだファフニールは、敵である゛捕食者゛を捉え、口に炎を滾らせる
「我ニ任セロ。――焼キ払ウ」
ファフニールが口から放った魔法の熱線は、ルーナに飛び掛かろうとしていた゛捕食者゛に直撃し、漆黒の体躯をもれなく焼き尽くす。
あまりの高温に肌が焼かれるようで、ファフニールが放ち目の前で拡散する赤い炎を前にルーナは、思わず両腕で顔を覆っていた。
「クリシィ……っ!」
最終的には、ルーナは木の幹にもたれ掛かっているクリシュティナを熱から庇う為、自らの身体をクリシュティナに押し付けるようにして覆いかぶさっていた。
「姫、様……。゛捕食者゛が、焼き尽くされました……」
ルーナの肩から顔を出し、呆然とした面持ちのクリシュティナが耳元でぼそりと言っている。
ぱちぱちと木々が燃える音と、何かが焼けている焦げた臭いが漂う中、ルーナは汗だらけの顔をクリシュティナから離した。
「ハアハア……。あり、がとう、ファフニール……」
振り向けば立ち尽くすファフニールと、彼が放った魔法の炎により燃え尽きた自然の様子があった。幼い二人を喰おうとしていた゛捕食者゛は言葉通り、焼き尽くされたのであった。
「マダマダ我ヲコノ世ニ留マラセテオクニハ魔素不足ダ、姫。モウ限界ダゾ」
「分かって、る……。強く、ならないと、な……」
小さな身体の中の魔素を殆ど使い果たし、ルーナは意識が途切れる寸前であった。
「……」
ファフニールはおぼつかない足取りのルーナをじっと見つめた後、最後に翼を大きく広げ、魔法元素の粒子となり、漆黒の空へと消えていってしまう。
「さあクリシィ……。一緒に、逃げよう……」
「姫様……。私の為に……」
「友だちを助けるのは、当たり前だ……。絵本の騎士も、そうしてきた……。剣を持っていて……私は……大好きなんだ……」
立ち上がったクリシュティナが、魔素切れを起こしているルーナの元へ駆け寄り、腕をとって華奢な肩に回す。
ぼうっとする視界のまま木々を抜ければ、黒煙に染まるオルティギュア王国の街の様子が見下ろせた。あちこちで警報が鳴り響き、何かが爆発する音。ちょうど今、大きなビルが無数の゛捕食者゛に纏わりつかれ、崩壊していくところであった。
「オルティギュア王国が……崩壊、しています……」
「そんな……。お父様、お母様……?」
たった数時間の間に、初めて見た市街地が地獄絵図へと変貌していく様に、ルーナはとうとう愕然とし、声を震わせる。
すぐ隣のクリシュティナも、生まれ故郷が怪物に蹂躙されていく光景が信じられないようで、わなわなと身体を震わせている。
「家だ……家に帰ろう、クリシィ……! ゛捕食者゛は家の中には入ってこないんだろう!?」
「姫様……。二人だけでは、もう戻れません……。ごめん、なさい……っ」
「父上と母上がまだいるかもしれないんだ! 転んででも行くっ!」
「姫様ぁっ!」
乾いた頬の上を流れる、雫たち。お互いに涙を流し合いながら、まだ子供のルーナとクリシュティナは、どうすることも出来ずに、陥落する祖国の光景を見渡していた。
電柱も蹴落とされ、極夜の一日は暗闇が永遠に続く。月は出ず、街を燃やす火の明かりだけが、残された人々の灯となっていた。
「――姫様!」
目の前に浮かんだ形成魔法の足場を伝い、少年が抱き合うルーナとクリシュティナの元へ到着する。
「お兄様っ!?」
駆けつけたのはクリシュティナの実の兄、ミハイルであった。屋敷を出た時と変わらない綺麗な姿で、ミハイルはルーナの前で頭を下げる。
「無事だったのか、ミハイル……」
ルーナの意識は朦朧としており、口の呼吸も荒い。
「ご安心を姫様。じきに国際魔法教会より救援魔術師部隊が来ます」
「国際魔法教会……?」
異常なほど冷静なミハイルの口から出た、初めて聞くような名に、ルーナは首を傾げる。
「国際魔法教会とは、私たちの希望です。国王と王妃は゛捕食者゛によりすでに捕食されました。姫様は一刻も早くこの場から逃げなければなりません。オルティギュア王国の為にも」
「父上と、母上が……っ!?」
知らせを聞いたルーナの顔面が蒼白色となる。
「お、お兄様!?」
数か月前と同じだ。ミハイルの口から、大人たちが死んだことを知らされる。――あの日と同じ、まるで首尾よく獲物を仕留めた獅子のように、獰猛な赤い瞳の眼光を滾らせて。
そう淡々と告げたミハイルに、驚愕するクリシュティナであったが、ミハイルは構うこともない。まるで、露骨に妹を無視しているようだ。
ルーナはとうとう身体を支えられなくなり、その場に崩れ落ちる。
「姫様!? ……お兄様! どうして、ここにいると分かったのです!?」
ルーナを支えるクリシュティナが問うが、ミハイルは冷酷な視線を向け、小さく口を開く。
「姫様を守る立場の者が、何故逆に助けられている?」
「っ!?」
まるで言葉で殴られたかのように、クリシュティナは縮こまってしまった。
「ご、ごめんなさい……お兄様……」
「お前が弱いから、ルーナ姫をここまで追い込んだんだ」
「私は……ごめん、なさい……お兄様……っ」
もはや正常な判断など、今の二人に出来はしなかった。身も蓋もない事を言われていると言う事実に気づけず、泣き叫ぶルーナも、呆然とするクリシュティナも、逞しく見えるミハイルの言葉を信じていく。
美しくも残酷なオーロラが展開する夜空に、無数の魔法の光が煌めいたのは、その直後の事であった。国際魔法教会から派遣された多数の魔術師たちが、オルティギュア王国の街を再び戦場へと変えていく。その日、国際魔法教会が行った゛捕食者゛殲滅作戦は、多数の犠牲者を出しながらも明けない夜を通して続けられた。
領土を蹂躙され、国王と多くの政府関係者を失ったオルティギュア王国は国としての機能を保てなくなり、間もなくロシア連邦に編入されることとなる。
生き延び、逃げ延びた人々は難民として肩身の狭い生活を余儀なくされていたと言う。
――王族や政府は何もしてくれず、誰も助けてくれなかった。
王国から逃げてきた難民たちの間では、そのような声が大半を占めていたと聞かされる。
難民と同じく逃げ延び、ロシアで一般人として魔法学校に通っていたルーナとクリシュティナにも、その声は当然聞こえて来る。国を失った姫と言う身分と世間の声を考え、オルティギュア王国の難民とは会う事すらさせてはくれなかった。
「――国際魔法教会が、援助してくれるだと?」
「ええ。姫様がオルティギュア王家の生き残りだと知っているようで」
背丈も伸び、やや細くなった目つきは互いに鋭くなってしまっている。
冷静に告げてくるクリシュティナは、短めだった髪を伸ばしている。
――周りが言うには、二人とも宝石のように美しく育ち、聡明な知識を身につけたと。
あの日から死に物狂いで魔法の勉強をし、実技もこなしてきた。中学生の時点でいくつかの攻撃魔法も習得し、対人戦も幾度となく行った。全ては、世界平和を謳う国際魔法教会の為に。
そんな二人の元へに届けられたのは、国際魔法教会からの魔法学園への招待状であった。
「これはこの上ない吉報です。私たちが難民である以上、このままではオルティギュア王国の復活は成しえません」
「そうだな。私たちを助けてくれた国際魔法教会の為にも……行こう」
そして始まったガンダルヴル魔法学園での生活は、魔法学を優先的に学んで来た二人にとっても血が滲むような、厳しい魔法訓練の日々であった。そこには青春の二文字もない、ただただ国際魔法教会の為に戦うための魔術師を作り上げる、養成所のようなものだ。
――しかし、これは当然の事だと、誰もこの魔法学園の在り方に疑問を抱く人はいなかった。親たちも、それを分かったうえで子供たちを一流の魔術師にすべく、子供たちを魔法学園に通わせているのだ。
「先日の模擬戦校内一位はルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイト! 皆もルーナに負けぬよう、日々精進すること! 全ては国際魔法教会の為に!」
「「「国際魔法教会の為に!」」」
学園のそこら中で、そのような声が聞こえてくる。
だから、ロシアにある国際魔法教会支部に二人で出向いた際も、そのような目で見られる事に特段なんの感情も沸かなかった。
「久しぶりだな、クリシュティナ」
「お久しぶりです、お兄様」
国際魔法教会ロシア支部で待っていたのは、クリシュティナの兄のミハイルであった。積もる話もあるだろうと、歳を重ねてそのような配慮を覚えたルーナは、自分の立場も関係なくクリシュティナとミハイルを二人にしてやった。
一方で、国際魔法教会のコートを着るミハイルの前にて。クリシュティナは目を瞑って深々と頭を下げる。
「ご援助の連絡、感謝致します」
「構わない。オルティギュア王国の復活は、ラスヴィエイト家のみならずヴェーチェル家の望みでもある。全てはこの日の為だったんだ」
国際魔法教会幹部ミハイル・ラン・ヴェーチェル。向こうの背丈はこちらよりはるかに伸び、細身でスマートな身体つきに、強い信念を感じさせる精悍な顔立ちであった。
「親から離れた虎は、強くならなければなりませんから」
「その通りだクリシュティナ。分かっているな」
「はい。私は絶対に姫様を守ります」
クリシュティナの赤い瞳は、ミハイルをじっと見上げていた。
「国際魔法教会からオルティギュア王国復活にあたって課せられた条件がある。俺はそれを伝えに来た」
「条件?」
「数週間のうちに日本語を学べ、クリシュティナ」
「? 日本、ですか……?」
クリシュティナとミハイルの会話の最中、ルーナは宗教教会のようなステンドグラスが並んでいる大部屋の奥へと、ローブを着た国際魔法教会関係者たちに、誘われる。
「これは……?」
「貴女にとっての、王国を取り戻す力です。……さぁ、手に取って」
「……」
漆黒の柄を抱いた長い槍は、まるで祈りを捧ぐ神への供物のように、教会の奥で横たわっていた。
大勢の大人たちの視線を感じながら、ルーナは少しだけ戸惑いはしたが、王国を取り戻すため。ゆっくりと槍の前まで歩み寄ったルーナを、教会の照明がひと際眩しく照らす。
「おお……」
竜と戯れる聖女が描かれたステンドグラスの下。あまり美しく、清らかな光景に、誰かが感嘆の息を漏らす。
(なんだ……これは!? ……全身から力が溢れて来るようだ……)
横たわる槍を前にした生まれて初めての感覚に、ルーナの肌が鳥肌を立てる。
ルーナが手を伸ばし、横たわる槍に触れようとした瞬間――、
(――本当ニ良イノカ? ドウヤラ、後戻リハ出来ナイヨウダゾ姫)
どこからともなくファフニールの声が聞こえ、ルーナの頭の中で響く。
ルーナは険しい表情で、首を横に振る。
「……止めるな。父と母の敵を討ち、王国を取り戻すと決めたのだ」
(……ソウカ。我ハ姫ニ従ウ。例エ地獄ニ落チヨウト、羽バタイテミセヨウ)
「ありがとう……ファフニール」
頷いたルーナは右手を伸ばし、黒の槍をその手で掴み取った。




