2
翌早朝。まだ夜明けも迎えていないような時間帯であったが、ルーナは早起きをし、鏡の前に立っている。上機嫌そうな表情で、選んだ服を自身の身体の上に重ねていた。
「お似合いですルーナ……」
後ろで座布団に座り、首をこくこくと傾け、あくびを噛み殺しながら、眠たそうなクリシュティナがルーナを褒めている。
「こうしてクリシィと服を選んでいると、屋敷にいた頃を思い出すな。あの日に戻る為にも……」
「……はい。ルーナには、頑張っていただけなければ……」
クリシュティナからの期待を胸に、ルーナは頷いていた。クリシュティナがルーナの髪を梳き、整えていく。魔法が生まれるより前より、ラスヴィエイト王家に伝わる、綺麗な銀色の髪であった。
「天瀬誠次……。これはおとぎ話の魔法の出会いか、運命か――」
夜明けの王家を守護する騎士は、すぐそこにいる。
――数時間後。
ドアをこんこんとノックする音によって、ソファで寝ていた誠次は起こされる事になる。
「――誠次! 天瀬誠次!」
「る、ルーナっ?」
寮室のドアの向こうから、ルーナの声が聞こえて来た時は、目覚めたルームメイトたちから一斉に白い目で見られることになる。
「海外の女性ってのは、朝から随分と情熱的なんだな……」
左側の二段ベッドの下では、帳が髪をぽりぽりとかきながら、大きなあくびをしている。
「せっかくのお休みなのに……もう少し寝たいです……」
右側の二段ベッドの上では、寝ぼけている小野寺が寝返りをうちながら枕を抱きしめている。
「何も、見えない……」
小野寺の下のベッドでは、予期せぬ目覚めに対応できずに眼鏡を探す、四つん這いの夕島の姿があった。
「どうにかしてくれ天瀬……。お前の熱狂的なファンだ……」
ベッドに再び寝転がる帳が言ってきて、ようやく誠次も重たい上半身を持ち上げる。
「いくらなんでも……早すぎる。まだ六時だぞ……」
時計を確認した誠次は制服姿のまま、ソファから転がるようにして落ちる。ぽりぽりと背中をかきながら、完全に開けきっていない視界を何とかこじ開け、ドアまで進む。
途中でゴミ箱に足を引っかけながらも、誠次は寮室のドアを開けていた。
「お、おはよう誠次」
ドアを開けると、廊下で一人で立っていたルーナは、少しそわそわとして前髪を触りながら、朝の挨拶をしてくる。朝が早いのも平気なのか、普段から健全な生活を送っているのか、元気が良すぎる。
「ち、ちょっと待ってくれ……」
小さな声を出し、誠次はドアをしっかりと掴み、ルーナをじっと見る。
「昨日も言ったけど、俺の考えは変わらないと思う。それでも、一緒に、その……デートをしたいのか……?」
互いをよく知る為にと、昨夜のクリシュティナからの提案は、二人で出掛けると言ったものであった。年頃の異性と出歩くことなど、噛み砕いて言えば、それはデートに他ならない。
前もって誠次が言うが、ルーナはうんと頷いていた。
「考えが変わらないのは止むを得ないと思っている……。それでも、もしかしたらと言う可能性もあるだろ? 私も君を諦めたくないんだ」
ルーナの意思も、こちらと同様に固いようだった。
「……分かった。準備するから、少し待っていてくれるか?」
「あ、ああ! もちろんだ! 私は待つぞ!」
ルーナは嬉しそうに、うんうんと頷いていた。嬉しそうな今のその表情には、少なくとも裏があるとは思えない。
「参ったな……」
試しにドアチャイムのカメラで外の様子を窺えば、ルーナは部屋のすぐ横で、そわそわした様子で待っている。意識がはっきりとしてからよく分かる、肩を大きく出したノースリーブの私服は、健康的な白い肌の露出が多くよく似合っていた。
休日はとことん寝るつもりでいるルームメイトを起こさぬようにシャワーを浴びる為、誠次は制服と下着を脱いでバスルームへ。壁に掛けたシャワーから噴き出る温水を浴びながら、誠次は俯いて考えに耽っていた。
(姫って言ってたけど……。あの竜となにか関係が……?)
銀世界で翼を羽ばたかせる竜の姿を思い出し、早朝の温水に誠次はぞくりと身体を震わせる。切ったばかりの茶色の髪から滴り落ちる水滴を、誠次はじっと見つめていた。
「待たせた。ええっと、ルーナさん」
髪と身体を乾かし、暖かい厚着姿で誠次は廊下へと出る。
ルーナは出てきた誠次の元まで駆け寄り、律儀に頭を下げて来る。
「ありがとう誠次。今日は同じ学園に通うクラスメイトの友達として、仲良くしてほしい。あと、さんは付けないでほしい」
どこか切なそうに目を細めるルーナの姿をじっと見つめれば、同情する気も沸いてくる。親が国王だった為の重圧と言うものも、彼女は背負っているのだろう。お供のクリシュティナを始め、多くの期待を背負う身体が、そうそう軽いはずもない。
自由に羽を伸ばさしてやると言うべきか、日本の街を紹介してやりたい気持ちもあった。
「……本音は?」
「君をロシアまで連れて行く」
……誠次がジト目で問えば、ルーナはきっぱりと答える。
昨夜に改めて確認はしたが、ロシアへ旅行なんて軽々しいものではない。永住とほぼ同じことであると、クリシュティナは無表情でおぞましい事を言って来ていた。到底理解できたものではない。
「クラスメイトと仲はどうなんだ?」
異性である自分と出歩くのは、同性よりもハードルが高いのではないか。つまりは、女子の友達はすでにいるのだろうかと、誠次は部屋を出て通路で訊いていた。
「君が不在の間に、大方友好的な関係は結べたと思う」
「友好的な関係……? そ、そうか……。なら、良いんだけど……」
堅苦しい言葉遣いは指摘するべきか否か。歩き始めたこちらのすぐ横をぴったりとついてくるルーナの横顔を眺め、誠次はどうしたものかと思い悩んでいた。
休みの日の早朝と言う事も手伝って、男子生徒の往来はそこまで多くはない。
ルーナの凛々しい横顔は、昇り始めた朝日を受けてきらきらと輝いているようにも見えた。しばしその横顔に見惚れてしまい、誠次は慌てて話題を振る。
「もうすっかり年末だな。ロシアって、年末はどんな感じで過ごすんだ?」
「私に一般家庭の事を訊かれてもな……。でも、まずロシアのクリスマスは年が明けてからなんだ」
「年明けにクリスマスがあるのか。お正月でまったり気分だと思うのに、すごいな」
ロシアは年始が大変そうだ。
誠次は驚き、目を大きくしていた。
「ふふ。でもおそらくそれ以外は日本人の過ごし方と変わらないと思うぞ。家族で団らんして、みんなで年越しを祝うんだ」
ルーナはどこか懐かしそうに、述懐しているようであった。
「同じ、なんだな……」
例え生まれた国や人種は違えど、家族を大事にしたい気持ちは、根本的なところで変わるものはないのだろう。
誠次はそう呟き、ルーナと共に男子寮棟から出る。
現在時刻にして午前の七時。ジョギングをしている人が精々目に入るほどで、年末の早朝にわざわざ出かけようなどと考える人はあまりいないようだ。
「うーんっ! いい夜明けだ!」
凛々しく美しいかと思えば、お次まるで夏休みのラジオ体操に向かう子供の様な無邪気さと可愛さを見せ、ルーナは両腕を上げて伸びをしていた。射し込む日差しが、ルーナの白い肌を照りつける。
「寒くないのか? そんな、肩とか腋を出して……」
ルーナの今の格好を直視するわけにもいかず、ほんのりと顔を赤く染めた誠次は、視線を前に向けたまま問う。
「全然。むしろ暑いぐらいだ」
しかし、とルーナの視線はじっと自分の格好を見つめている。
「誠次。一緒に服を買いに行くと言うのはどうだ? 今の私はロシアから持ってきた服しかないんだ」
「俺あんまりファッションとか詳しくないぞ?」
「構わない。お金もたくさんあるし、気にしなくとも大丈夫だ」
「さ、さすが、お姫様だな……」
「でも無駄遣いするとクリシィに怒られるから、ほどほどにしないと……」
自分の財布を取り出してぶつぶつと呟き、ルーナは札束をチェックしている。メイドのお叱りに怯えるお姫様の姿と言うのは、なかなかに斬新である。もちろん、お姫様自体初めて目の当たりにしているが。
早朝の七時過ぎであるが、都内の店は開店している事が多い。夜がない分、朝は早くからと言うわけだ。
商店街に建つカジュアル衣料品店に、誠次とルーナはやって来た。他にお客さんもおらず、店員の数も二、三人と、ほぼ誠次とルーナの貸し切り状態だった。
「このスカートなんてどうだろうか?」
誠次の目の前でルーナはスカートを持ち、交互に腰に当てて見せて来る。ひらひらの生地で出来た、可愛らしいものだ。
誠次も服を吟味しながら、何気なく呟く。
「ルーナはスタイル良いし、なんでも似合いそうだ」
「す、スタイルっ!? 胸を見て言うな!」
顔を真っ赤にしたルーナは胸元を抱え、誠次をきつく睨んでくる。
「今そっちか!? 確かにちらちらと見ちゃってたけどさ!」
慌てる誠次は、手に取った服で視界を塞いでいた。
「――随分と楽しそうね」
突然聞こえた、ルーナのものではない女性の冷ややかな声が、誠次の背筋を凍らせる。
「はっ!? 篠上!?」
ぎょっとした誠次が振り向けば、そこには極めて不貞腐れた表情をした篠上綾奈が立っていた。ジャケットにスカート姿とシックな格好だが、赤いポニーテールに黄色いリボンは忘れていない。
「な、なんでここに!?」
「お、お買い物……」
「こんな朝早くからか!?」
もじもじと言う篠上に、誠次はおかしいだろうとツッコむ。
「早起きは良い事だ、綾奈」
ルーナは感心したように篠上を見つめて頷いている。
「そ、そうよ私が朝早く起きていて服買いに来てたら悪いわけ!?」
「悪いとは一言も……ってその服、さっき俺がずっと見てたやつじゃないか」
篠上が大事そうに持っていたブラウスを見つけ、誠次が指摘する。ルーナに似合いそうだと思ったブラウスだが、なるほど篠上が着ても似合いそうだ。
「はい!? ぐ、偶然ね!」
見事に指摘された篠上は変な声を出し、顔を真っ赤にして、持っていたブラウスを急いでかごに押し込む。
「……誠次の趣味に合わせてるのか?」
ルーナが面白気にまじまじと、篠上を見つめる。
「ち、違うからっ! ぜんっ、ぜん偶然なんだから!」
ルーナがあごに手を添えて一々指摘すれば、篠上は増々顔を真っ赤に染め上げ、首をぶんぶんと横に振る。
「だ、大体。なんなのよアンタ。帰って来たと思ったらすぐにこうやってまた……」
篠上は誠次とルーナを交互に睨んで、噛みつくように言ってくる。
「話を急激に変えるな! 昨日さんざん説明したじゃないか。それにこれはルーナに日本の事を知ってほしくて一緒に出掛けているだけだ」
「話は終わったか誠次? 次はこっちに行こう」
誠次の腕をぎゅっと掴み、ルーナはこの場を立ち去ろうとする。
「じ、じゃあ篠上。また学園で!」
「!? ちっ、ちょっと待ちなさい! まだ話は終わってないの!」
早朝の店が一気に華やかになったようで、店員たちも何事かと三人の様子を見ている。
「だから、失くしたのは小鳥のせいだったって――」
本当の事だから嘘もつけない。まだ納得していないかと、篠上に告げようとするが。
「私の服選びを手伝いなさいよっ!」
「話ってそっちかよっ!」
結局、偶然店で居合わせた篠上を交えることになり、誠次はルーナと篠上の服選びを同時に手伝っていた。
服選びを終え、ルーナの買った荷物を手に持ち、誠次は商店街を歩く。満足に服を選ぶことが出来たそうな上機嫌な篠上とは、店で別れていた。
「綾奈も喜んでいたな」
横を歩くルーナの指摘が、彼女の機嫌の良さを裏付けた。ルーナもルーナで、篠上と一緒に服を選んでいる姿は、年頃の女の子のように一緒になってはしゃいでいた。ルーナ自身も言っていたが、いつの間にか、クラスメイトのみんなとも仲良くなったのだろう。
クリスマスを終えた街の中は、すぐに年末年始へ向けた商戦合戦の様相を見せている。どこも年末セールの広告がぶら下がり、通行人たちは足を止めては商品を眺めている。
「あれって……」
その人混みの中でも、目立つ女子を見つけた。
黒髪に、大きな花の髪留め。コート姿の桜庭莉緒が、前の方から歩いてきているのだ。
「あ、天瀬とルーナちゃん!」
「莉緒? 偶然だな」
ルーナも、前方から一人で歩いてきている桜庭に気づき、声を掛けていた。
「ぐ、偶然だねーっ!? うんうん偶然!」
桜庭は何回も何回も頷き、誠次の目の前まで駆け寄って来る。
「さっきは篠上で今度は桜庭か。偶然だな……」
不思議な事もあるものだと、立ち止まった誠次も頷いていた。
「し、しのちゃんとも会ったんだっ。いや偶然偶然」
「……?」
なんだろうか、この既視感は。まるで夏に一度調査をしに一緒に街へ出かけた時のような桜庭の様子に、誠次はジト目を向ける。
「莉緒は一人で何をしていたんだ?」
ルーナが桜庭に問う。
「散歩してたの」
ぎこちなく緑色の目をあちらこちらへと向け、桜庭は言う。
「朝早くから散歩とは、健康的だな」
ルーナが感心したように頷いている。
「丁度いい。三人で朝ご飯を一緒に食べよう。私はお腹が空いたんだ」
ルーナが誠次の手をぎゅっと掴み、歩き出そうとする。
それを見た桜庭が、慌てて二人の前に立つ。
「あたし美味しいお店、知ってるよ?」
「そうか。なら教えてくれ。莉緒は日本に詳しいしな」
「また女の子が揃って行くような店っぽいんだけど……」
苦い夏の記憶を思い出すと同時に、桜庭といれば楽しかった記憶も蘇る。
渋い表情をしていた誠次であったが、わくわくしているルーナと、嬉しそうな桜庭を見れば、否定できるはずもなく。
結局、桜庭を交えた三人でパンケーキショップへ向かい、三人で朝ご飯を食べていた。
「ルーナちゃんに日本の事いっぱい教えてあげたいな。楽しいところとか、沢山あるから!」
「是非行きたいものだ」
「うん!」
せっかくできた友人を大切にしたい思いは、桜庭も同じだった。
「……」
――ルーナにとってそれが、本当に本心なのかどうか、本当の目的を知っている自分には懐疑的な姿で映ってしまうのだが。
楽し気に会話をするルーナをじっと見つめている誠次をまた、桜庭が落ち着かない様子でじっと見つめていた。
「美味しかったな、誠次。果物と生クリームの組み合わせが絶妙だった」
お店の中で桜庭と分かれ、ルーナは満足そうに口元に手を添えていた。
「途中でマヨネーズ取り出したときは焦ったぞ」
どこからか取り出したのか、ルーナは生クリームの上からさらにカスタードではない黄色いソースを掛けようとして、桜庭と誠次が慌てて阻止していた。
「莉緒も楽しそうだった」
そう言うルーナも楽しそうだったのをわざわざ指摘するのも、野暮な事か。
昼になり、人通りも多くなっている。世間も冬休み期間を迎え、同年代の学生たちも商店街を歩いている。
「ねえあの娘……」
「すっげー可愛い……」
「お、大きい……」
道行く人は、ルーナの見た目に視線を奪われ、憧れを抱く。まさしくそれは、国民たちが一国の姫に向ける羨望の眼差しだ。もっとも、周りの人はルーナの素性など知る由もないのだが。
「誠次はどこか行きたい場所はないのか? 先ほどから私ばかりが君を連れまわしている気がするんだ……」
「気を遣わなくていいさ。ルーナが日本の事を知りたいのなら、知っている限りで教える。俺はこう見えて、歴史は結構得意なんだ」
「いや、申し訳ないがそう見えるが……」
胸を張って答える誠次に、ルーナが誠次と背中のレヴァテインの入った袋とを交互に見ながらツッコんでいた。
「なら、あれを一緒に見るのはどうだろうか?」
ルーナが指を指し示す。
示した先はビルの上。そこには商店街でも目立つ看板があった。刀を持った武士の男と、和服を着た女性が見つめ合っており、大きな文字がタイトルか。映画館の看板のようだ。
「映画? 時代劇風のラブロマンスか」
何か妙な予感がしないこともないが、誠次はルーナと共に映画館へと入る。薄暗くも広い室内は、長編映画を見る前のわくわく感を助長するような気がする。
゛捕食者゛が出現してからは一時期、怪物が人を襲うようなパニック映画は軒並み上映禁止となっていた。今ではその規制も少しは解除され、プロパガンダ的な意味でも、人々が力を合わせて怪物を倒すような内容の映画も上映されている。
「フ。やっぱり映画にはポップコーンだな」
緑茶と塩味のポップコーンを乗せたトレーを手に持ち、準備万端だ。
「緑茶……?」
そう言うルーナもキャラメル味のポップコーンとダージリンティーなる紅茶を持ち、誠次と横並びで歩いて上映会場まで向かう。
「身分が違う者同士の恋模様か……」
映画のパンフレットを見つめながら、横を歩くルーナは呟いていた。
上映会場内では、前の方の席を確保できた。迫力の映像が目の前に広がるのは、前席の特権だろう。
いざ予告から見ようと席に座った誠次とルーナの真後ろの席から、声を掛けて来る人物が一人いた。
「あら、ルーナちゃんさんに誠次くんではありませんか!?」
金髪のツインテール姿で、本城千尋がしれっと後ろの席に座っていた。高級そうなコートを身に纏い、お上品に膝の上に手を添えて、にこにこ笑顔で座っている。
「千尋か? 偶然だな」
ルーナがポップコーンを頬張りながら、振り向く。
「いつからいたんだ!?」
「私はずっとここに座っていましたよ?」
誠次がお茶を噴き出しそうになりながら訊けば、千尋は小首を傾げてそう言葉を返す。
「ま。まあ、私がどうしてここにいるのかはさて置きこの映画、とても面白そうですよね?」
「千尋もそう思うか? 実は私もすごく楽しみなんだ」
「先ほどからさて置けない状況が続いてるんだよな……」
こんなままでは映画の内容も入ってこないのではないかと思ったが、それはさほど問題でもなかった。――悪い意味で。
照明が落とされ、幕の先で広がった時代劇とは、侍が魔法を使って無双をすると言う時代錯誤も甚だしいものであったからだ。時代も江戸時代だろうが、
「おお、侍が魔法を使って敵を次々と倒している! 腰の刀は飾りなのか!?」
銀幕の明かりにコバルトブルーの瞳を輝かせるルーナが隣の席で興奮しているが、間違った知識を叩きこまれているに違いない。
「私の思ったのとも、少し違うようですね……」
後ろの席では千尋も呆気に取られている。
「な、なんだこれは……! 侍のくせして魔法使えているのが気に喰わないな、まったく」
ふんと言い放つ誠次であったが、そこではないだろうと千尋からは見られていた。
「おぉーっ」
「まぁーっ」
しかし、ヒロインとのラブロマンスシーンでは、ルーナと千尋がポップコーンを口元まで運んだところで動作を停止し、銀幕を食い入るように見つめている。
「江戸時代は江戸時代で、その時代の良さをありのままに伝えると言うのがだな――」
頬杖をつき、ジト目の誠次はぶつぶつと呟いていた。
映画を観終わった三人は、映画館内カフェへ移動する。
「感動した……。特に、ヒロインが主人公に治癒魔法を掛けながら告白するところは、ぐっとこみ上げるものがあったな」
「魔法での激しいアクションシーンも、見応え十分でしたね!」
「時代劇は、一体どこへ行った……」
腕を組む誠次の目の前で、二人の女子が映画の感想を言い合って談笑している。
「あっ、そろそろ私のお時間はお終いですね」
自分の腕時計で時間を確認している千尋が、席から立ち上がっていた。
「私の時間?」
誠次が目ざとく聞き返せば、千尋は慌てて両手を合わせる。
「な、なんでもございません! それではお二人とも、御機嫌よう!」
千尋はぺこりと深々お辞儀をし、誠次とルーナの前から去って行く。
「行ってしまったな。千尋も楽しそうだった」
ルーナは千尋の背中を見送り、そう述べていた。
「篠上に桜庭に千尋って、偶然じゃないよな……」
椅子に座ったままの誠次は、周囲をきょろきょろと見渡す。何かに監視されているんじゃないだろうかとも思ったが、ただの偶然と言う線も無きにしも非ず。
昼ご飯を食べる為、誠次とルーナはカフェで向かい合い、映画の感想等を話題に食事をしていた。長くスマートな足を組んで談笑する今のルーナの自由な姿は、羽のある背中にずっと背負っていた重たい荷物を降ろしているようであった。
※
ヴィザリウス魔法学園の理事長室に、八ノ夜美里は帰って来ていた。誰も使ってはいない為、若干の埃こそ被ってはいたが、部屋の備品は一か月前となんら変わっていない。弱い風属性の魔法でほこりを纏めて片づけた部屋に、一人の教師を迎える。
「貴方にこれを渡します」
横長の机の前に立ち、八ノ夜は小綺麗な布に包まれたとある物を、職員室から呼んだ林政俊に渡す。
日数こそ少ないが、教師陣も帰省している人が多い。生徒と同じく普段は寮棟で寝起きしているので、ただでさえ忙しい身分である魔法学園の教師ともなれば、冬休みが短くともありがたい休息期間となる。
――それでも、彼には帰る場所などどこにもないのか、職員室の机の上に突っ伏して寝ていたところを八ノ夜が呼んだのだ。
「こ、これは……」
寝起きではあるが、よれたネクタイとシャツ姿はもはやいつもの彼の姿だ。八ノ夜から銀色に光る結婚指輪を受け取った林は、最初こそぼうっとした面持ちであったが、次には目を細める。
「佐伯さんの指輪だそうです。台場の浜辺に落ちていたそうだ。特殊魔法治安維持組織が回収していたと。特殊魔法治安維持組織内の協力者が私に送ってくれました」
「っ! そう、ですか……」
少しだけ足に力が入らなくなったのか、林は身じろぎをするが、それもすぐになんともなかったかのように平然とした面持ちで結婚指輪を見つめる。
「佐伯さんの件は残念でした……」
「本当、いい奴ほど先に逝っちまうな……」
林は唇を噛み締め、結婚指輪をぎゅっと握り、悔しそうに呻く。
続いて、何かに思い至ったかのようにはっと顔を上げる。
「明美さんは!? 子供もいたって!」
「魔法執行省が共に海外へ逃亡させました。向こうでの生活に不便はないように、本城直正さんが便宜を図ってくれているので、安心してください」
「……ありがとう、ございます……。良かったです」
林は落ち着きを取り戻し、それでも漂う喪失感を拭えるには至らず。
「志藤康大さんの奥様も、共に海外です」
「……志藤颯介は?」
自分が受け持つクラスの生徒の名を出し、林は八ノ夜に問う。
「本人の意思を尊重し、この学園に留まる事にしました。佐伯さんが身を挺して守った家族の子ですから」
「元から俺のクラスは変な奴らばっかですよ。今さらどうって事ねぇですよ」
林は肩を竦め、受け入れたかのように笑いかける。
八ノ夜はそれでも、硬い表情を崩さなかった。
「……すみません。クラスを、頼みます」
「貧乏くじは慣れてます」
林は頭を軽く下げ、退室して行った。
「……」
魔法は得意だが、別に耳が特別良いわけではない。それでも、遠くで林の叫び声と壁を思い切り殴りつけるような音が響いたのを、八ノ夜は苦い表情で感じていた。
中央棟の五階にある魔法学園の職員室に、最上階の理事長室から八ノ夜はやって来る。
「あっ、八ノ夜理事長さん、お帰りなさい」
職員室に入った途端、星野百合が駆け寄って来る。
「星野。留守をどうも」
「ルーナちゃんとクリシュティナちゃん、やっぱり裏があるみたい。剣術士君と会うって言ってましたから」
百合はどこか面白そうに、唇に手を添えて言ってくる。
自分が不在の時期に転校してきた二人のロシア人の女子生徒。あまりに良すぎるタイミングに、八ノ夜自身、何か裏があるとは思っていた。しかし、生徒に野暮に干渉するわけにもいかず、そもそもしたくもなく。
百合からの報告にも、八ノ夜は慎重に頷いていた。
「何か表立った動きをするわけでもなければ、遠巻きに見ていて問題ないだろう。書類に不備などもないのだろう?」
「ええ。二人がいたロシアのガンダルヴル魔法学園も、二人の書類の内容に嘘偽りはないと」
「……」
しかし、どこか気にかかる。八ノ夜はぴたりと立ち止まり、百合の方まで再び迫る。
八ノ夜に不意に近づかれた百合は、思わず「えっ」と声を出して後退る。
「一応、天瀬が関係しているんだよな……?」
「え、ええ。ロシア語でそう話していましたけど」
「よし星野。ロシアの二人の監視を頼む」
「生徒の主体性を重んじるのでは……?」
ぴくぴくと身体を揺らしながら、百合は苦笑して受け答えをする。
「監視までならば大丈夫だろう」
「誠次くんの事、心配なんですね?」
完全に押し込まれていた百合の反撃の一言に、八ノ夜はほんの少しだけ顔を赤くしてから、我に返ったかのように後退る。形勢は逆転した……とまではいかないが、百合は当たりですね? と言わんばかりにくすくすと微笑んでいる。
一か月間を一緒に過ごした誠次は、少し大人びており、自分でも驚くほどの成長を感じた。一人の人としても――、
「……ともかく、頼む」
そんな彼を作り上げたこの魔法学園の職員室で、八ノ夜は百合にロシアからの転校生の調査を命じていた。
「了解しました」
百合はどこか楽し気に、笑みを浮かべて軽く頭を下げる。
※
商店街を抜け、道幅広い道路沿いの歩道を誠次とルーナがしばし歩く。
車の往来も多い道路では、雪解け水を弾いて進む車の音がとめどなく聞こえてくる。
「これは……」
ルーナは立ち止まり、鉄柵の横に立ち並ぶ重機と、そこで作業をする人々を眺めていた。
【工事中】と書かれた看板が掲げられているそこでは、魔法を使った建物の改修作業が行われているようだ。
重たそうな鋼材が、下に立つ作業用ヘルメットを被った複数名の人々の魔法によって浮かばされ、上へ上へと運ばれていく。鉄のパイプが空中で方向転換し、建物に差し込まれるように横移動をしていく。
建物の外壁に取り付けられている足場にも魔術師作業員の姿はあり、そこでは細かなねじ締めなどの作業を行っているようだ。
「八城高校。魔法学園化しているのか……」
横を歩いていた誠次が工事の様子を見上げ、呟く。
「まだ普通科の高校が残っているのか……」
海外の方では魔法学園以外の高校の方が珍しい。ルーナはぽつりと呟く。
しかし魔法の力により、改修工事はたった数日ほどで終わりそうだ。
「……」
生まれ変わる建物の姿を眺めていると、ふと、どこか寂しそうに澄んだ黒い目を細める誠次の横顔が視界に入る。
「国際魔法……国際魔法教会はロシアじゃ有名なのか? 現最高責任者が、ロシア人だし」
誠次が訊いてきたので、ルーナは軽く頷いてから答えた。
「ああそうだな。政府も国際魔法教会の意見を積極的に取り入れている。日本もそうじゃないのか?」
「薺総理……」
誠次は口籠っていた。
「国際魔法教会は混乱する世界の秩序を守るために、力を尽くしている。彼らの活動を悪く言う連中もいるが、それは間違いだ。国際魔法教会は必ず゛捕食者゛を滅ぼし、平和な魔法世界を実現してくれる」
言い切るルーナの力強い口調には、戸惑いや恐れなどは一切含まれていないものであった。
「確かに、国際魔法教会の作る世界は平和なんだと思う。けど、少し強引すぎる気もするんだ……」
「強引なんかではない。人は゛捕食者゛を恐れ、国際魔法教会が゛捕食者゛を滅ぼしてくれる。更には私とクリシィを含めた世界の孤児や難民を保護し、魔法学園で学ぶ機会を与えてくれている」
まだ慎重でいる誠次に、ルーナは思わず苛立ってしまっていた。
ルーナは国際魔法教会の事を心から崇拝し、まさにその様は何かの宗教を信じる熱心な教徒のようだ。
「そんな国際魔法教会を貶す発言は、例え君でも、許せない……」
ルーナの右手に、自然と力が籠められる。
「そんなつもりはないよ。少なくとも、国を失ってしまったルーナとクリシュティナを保護してくれたのは、良い事だと思うから」
どこか虚しさを漂わせながらも、誠次は優しい笑顔で、微笑んで言ってくる。
ハッとなったルーナは、自身の過ちに気付いていた。
「だからルーナが国際魔法教会の事を信じる気持ちも分かる。俺も小さい頃に家族を失ってしまって、今はヴィザリウス魔法学園の理事長をやっている人に救われた。だから俺も理事長のことは信じているし、ルーナが友だちであるクリシュティナの事を大切に思うのも同じで、俺も友だちが大切なんだ」
だから、と誠次は僅かな迷いを振り切るように首を軽く横に振り、ルーナを見つめる。
「すまない。改めて、俺はロシアには行かない」
引導を渡されるような宣言であったが、同時に、なぜか清々しくも感じてしまう。
何もそれは偶然の産物ではない。今日の外出で分かった。誠次と出会ったクラスメイトたちはみんな嬉しそうで、また誠次もリラックスした表情であった。彼には彼の居場所が、ここにちゃんとあるのだ。
視線を落としていたルーナだが、目蓋を閉じたまま、深く頷く。
「いいんだ……ありがとう。今日は君と出歩けて、本当に楽しかった。異性と二人きりで出歩くのは初めてだったが、大切な思い出だ。もし気を遣わせてしまったのなら、謝る」
「そんな事はないけど、ルーナ……」
誠次が掛ける言葉を失っているようであったが、そうさせてしまった責任はこちらにあるのだ。
ルーナはぎこちなくであるが、笑顔を見せていた。
「――どうして……っ」
気付けば、目の前の誠次の身体が、何か謎の感情を帯びて震えている。
「どうして、ルーナが姫だからって、王国を復活なんてしなくちゃいけないんだ……」
「ようやく姫だと認めてくれたのか……」
ルーナは力なく微笑む。何故だか、ほんのちょっぴり、嬉しかったのだ。
「王国の為に奉仕するのは、ラスヴィエイト王家に生まれた時から決まっている使命だからな……、国際魔法教会もそう言っていた」
言いながらルーナは、不思議な感情を味わっていた。
目の前の誠次は、自分の目的を否定したのにも関わらず、自分の事を思って悲しんでくれている。
? いや――、
(悲しんでいる……?)
そもそもどうしてそのように思われているのか、ルーナには分からず、首を傾げかける。
「ルーナだって、同い年の同じ魔法生のはずだ……。それなのに、国際魔法教会の言う事を聞いて……そんなの、まるで道具みたいじゃないか!」
「道具、だと……?」
誠次は持ち上げた自分の右手と左手をじっと見つめている。開いた手のひらを握りしめ、ルーナに向かって真摯な思いを告げる。
「同じように友だちがいて、同じように平和な日常を送れるはずだって、俺は思う。クラスのみんなと、穏やかな学園生活を送ろう」
「日常、学園生活……」
「そうしていつかは。俺もルーナも、互いに背中に背負った重たいものを降ろせる日が来るはずだ」
レヴァテインを背負う誠次は、そんな事を言ってくる。
運命ではなく、その可能性の話を聞いた自分の身は大いに強張り、コバルトブルーの瞳は大きく見開くことになる。
「誠次……」
駄目だ。――これ以上、この目の前に立つ男子の言葉を聞いていると、まるで身体を優しく解されていくかのような、おかしな感覚でいっぱいになりそうだ。ルーナは逃れるように、一歩だけ後退ってしまっていた。
「……君は分かっていない。私は王国復活を望む大勢のオルティギュア王国民の期待を背負っている。それを無碍に出来るはずがない」
これ以上、この甘い時を過ごすわけにはいかない……。私には、為さねばならない使命がある。感情や理屈でどうにか出来るものではないのだ。
だから、とルーナは顔を上げる。目の前に映る誠次は、こちらに腕を伸ばしかけており、黒い瞳に宿る光は、最後まで可能性を諦めようとはしていない。その危うくも優しい感情に、身も心も預けたくなる衝動を抑え、ルーナは言う。
「申し訳ない……今日は、もう帰ろう誠次。今日は、これ以上この話をしたくない……。私たちから誘っておいて、本当に、申し訳ない……」
「……分かった。ルーナ。また何か相談が出来る事があったら、言ってくれ……。俺、学級委員だしさ。゛クラスメイト゛の悩みは聞く」
虚しい冬の風を浴び、互いに二人は歩き出す。
――できれば、こんな感じで終わりたくはなかった。任務だとかではなく、一人のお相手として。
それが今のルーナの、優しい誠次との思い出に対する純粋な気持ちであった。
私服姿のクリシュティナ・ラン・ヴェーチェルと香月詩音が、真冬の河川敷を歩いている。降り積もった雪はまだ溶けきれておらず、緑と小麦色の雑草が生い茂っている河川敷は白一色だ。
香月とクリシュティナの視線の先では、誠次とルーナが歩いている。向かい側から来た犬の散歩をしている女性のリードに繋がれた犬がルーナに駆け寄り、微笑むルーナがしゃがんで犬の頭を撫でているところだ。
「今日の私たちの呼び集め。一体何のつもりなの?」
香月は細めた目で、クリシュティナを睨む。
クリシュティナから誠次とルーナが朝早くから出掛けているとメールを受け取り、香月たちはクリシュティナの元へ詰め寄り、現場へと各々向かっていた。
この状況もルーナ……ではなく、クリシュティナ個人が仕組んだものなのだろう。なぜなら視線の先を歩くルーナは、少なくとも裏の無さそうな純粋な笑顔を見せている。一か月ほど前にルーナに見せられた動画に映っていた自分も、あのような顔をしていたからだ。
となれば、と香月はクリシュティナを増々力強い目つきで睨めつける。
「あの二人はお似合いだと思います」
「だから何なのかしら? いえそもそも、私たちと天瀬くんはそんなふしだらな関係ではないわ」
香月にしてみれば、裏の顔を見せ始めた目の前の女性に対するショックが大きかった。
「何を考えているのかはまだ分からないけれど、貴女がこんなことをする人だとは思わなかった……」
ルーナ宅で食べた美味しかったピロシキの味をそっと思い出し、香月は視線を落として言う。
そよぐ冷たい風に茶色の髪を靡かせるクリシュティナは、赤い瞳に力強い光を宿し、香月をじっと見つめて来る。
「なにも……私もルーナも、友達を作る為に日本のヴィザリウス魔法学園へ来たわけではありません。勘違いされては困ります」
「……っ」
呆気に取られたのは、香月の方であった。
強気が出した虚言であってほしかった。少なくとも、友達になれるかもしれないクラスメイトだっただけに、今の言葉が嘘であってほしい。
しかし、こちらを睨み返すクリシュティナの表情には、迷いや偽りの気持ちは一切ないようだ。
「天瀬くんとルーナさんを無理やり結び付けて、一体どうするつもり?」
「剣術士を諦めてもらう貴女たちには関係の無い事です。私たちより恵まれている貴女たちにとっては」
クリシュティナは毅然とした面持ちで、答える。
自分にはないとずっと思っていた愛嬌のある笑顔も、時より見せていた優しい表情も、そこにはもはや残ってはいない。あるのはなにかに憑りつかれた様な、凄まじい気迫を感じさせる決意の意思のみ。
遥か先では、相変わらずクリシュティナの尾行に気づいていないルーナと誠次が、会話をしながら歩いていた。




