1 ☆
ルーナとクリシュティナがヴィザリウス魔法学園に転校してきてから、五日が経っていた。目的である天瀬誠次は相変わらず学園に戻ってこないが、二人の魔法生生活は、なぜか順風満帆であった。
「あの……これを受け取ってくださいっ!」
「これは……?」
女子寮棟の屋上では、高校生にとっての一大イベントが繰り広げられていた。
休み時間に呼び出されたルーナは、顔を真っ赤に染めた同級生女子生徒から、手書きの便箋を受け取る。
「ら、ラブレターです! あのっ、ルーナさんの事がす、好きなんです! お願いします!」
寒空の下、ぺこり、と頭を深く下げて来る他クラスの女子生徒を前に、ルーナは受け取ったラブレターを握り締め、慌てる。
「いやま、待て! 私は女だぞ!?」
「関係ありませんっ!」
「あるだろ!?」
「球技大会のバスケの活躍を見てから、一目惚れなんです!」
女子生徒はルーナに詰め寄る。
ルーナは道を踏みはずしてしまった女子生徒の両肩をぎゅっと握りしめ、まるで強引なキスでもしてくるような勢いを押し留める。少しでも力を抜いたら、ファーストキスを奪われてしまいそうで、まだ奪われたくはない。
ルーナは真剣な表情で、興奮している様子の同級生をじっと見つめる。
「君は女子で、私も女だ。やはり同性同士が付き合うと言うのは、普通ではないと言うか、特殊すぎると思うんだ……」
「日本語、達者になってますね……ルーナさん……」
うっとりと目を細める同級生に、どうしたものかとルーナは首を軽く振る。とにかく、自分のせいで誤った方向へ歩もうとしてしまっている同級生を救ってやらなければ。
「そ、そうだっ。男の子を好きになるんだ」
至極当然の事をルーナが言い聞かせた途端、同級生の少女は何故か切なげな表情を浮かべる。
「まるで知っているようですね……。そこまで言うのなら、ルーナさんは、汚らわしい男子と付き合ったことがあるんですね!?」
ぎくり、とルーナは伸ばした手を引っ込める。
「い、いや……。そう言うわけでは……」
「だったらとやかく言えないじゃないですか! 私は貴女の事が好きなんです! もうどうにも止まらないんです!」
言いきり、なんとこちらのくちびる目掛けて接近してくる女子生徒。何かの罠かとも思ったが、どうやら女子生徒は本気のようだ。
ルーナは迫り来る女子生徒を両手で押さえつける。細い腕の力は強く、ルーナは女子生徒をどうにか抑えている。
――が、屋上へ゛新たな侵略者゛が来た。
「待ちなさいっ! ルーナさんに次告白するのは私よ!」
「いいや私なんだから!」
屋上へと続く階段でずっと待っていただろう、あれよあれよと女子生徒がやって来ては、ルーナに向かってくる。
「君たち本気か!?」
極北の地から見るのも、極東の地から見るのも変わらない。平和な青空の下で、女子高生に取り囲まれるルーナは悲鳴を上げていた。
やっとの事で教室へ戻って来たルーナが向かったのは、クリシュティナが待つ席だった。
お昼休み時の教室で、クリシュティナは何やら自分の電子タブレットを見つめ、ぐったりと落ち込んでいる。
「クリシィ?」
大量のラブレターを抱えたルーナが昼食を食べに戻って来ても、クリシュティナは軽く頭を上げるだけで、すぐに自分の電子タブレットに視線を戻す。
「クリシィ? おーい?」
何かのネット記事を読んでいるようだが、反対側からはホログラム文字と流れている映像が反転している為に、何を見ているのか確認できない。
ルーナはホログラム映像に手を突っ込み、クリシュティナの眼前で手のひらを振ってみる。
「聞こえてます、ルーナ……」
クリシュティナは最後まで渋い表情で思い悩んでいたが、やがて観念したかのようなため息をつきながら、出力しているホログラム映像をタッチ操作で回転させる。
一八〇度回転し、こちらでもニュース記事のような映像がよく見えた。
「やーにぱにまーゆ女子高生が可愛すぎる件。……?」
ルーナが復唱する。
見出しと言うべきか、大きな文字のタイトルには、日本語で確かにそう書かれていた。大きな見出しの下には、クリシュティナが生放送のインタビューを受けている様子が消音動画で流れている。
「テレビの生放送を見ていた誰かが、インターネット上に勝手に私の映像を流したそうなんです……。そうしたら、SNSとやらで拡散されてしまって……」
【可愛すぎw】【特定はよ!】等。画面をスライドすれば人々の声は一目瞭然で、ちやほやされている様はまさに軽いアイドル状態である。
クリシュティナがテレビの取材を受けたことはルーナも知っていたが、このような事態になるのは予想だにしていなかった。まるで文字が生きているように、クリシュティナの事を崇め称えているようだ。
「たかが知りませんと言っただけでこの大騒動は一体……。この国のネットの力は末恐ろしいな……」
ご丁寧にも゛やーにぱにまーゆちゃん゛とひらがなで名称されたクリシュティナは、ちらちらと周囲を確認するように瞳を動かしている。
「すでにこの学園の男子生徒の何人かが私だという事に気づいているようなんです……。こうなったら、全員を幻影魔法にかけて――」
「やめないか……」
忌々し気に呟くメイドを、ルーナが抑える。
「ルーナの方こそ、大人気みたいですね」
クリシュティナはルーナが貰って来たラブレターの数々を眺め、驚いたようにそれを手に持っていた。
「こんなものを貰うために、この学園に来たわけではないのにな……」
ルーナは頬杖をつき、不貞腐れた表情で廊下の外の方を見る。
透明なガラス張りで出来ている廊下窓からは、通り過ぎる生徒がよく見えた。視線はやはり、ルーナとクリシュティナに集中しているようだ。
「肝心の剣術士は、いまだに帰って来る気配もなしか……」
「ですね。こうなったら任務を終わらせて、早く故郷に帰りたいです」
気落ちしているクリシュティナが、ルーナへ言う。
ルーナはクリシュティナを見つめてから、教室の中を見渡す。クラスメイトたちは今日も楽しそうに、魔法学園での日常を過ごしている。
「クリシィ」
「なんです、ルーナ?」
神妙な面持ちと声で、ルーナはクリシュティナに語り掛ける。
「もしも天瀬誠次がここへ戻ってきたら、その時は……」
「向こうの出方次第にもよりますが、おそらくは」
クリシュティナの返答は早かった。それほどまでに、彼女の意思は固い。
極北の異国の言葉での会話は、他の極東生まれの生徒に聞こえることもない。
「――でも、それは最後の手段だと思うんだ。そうならない為にも、他の手はないのだろうか……?」
「ルーナ……」
クリシュティナはルーナに向け、同情するような慎重なため息を一つする。
「……」
――だが、赤い瞳の奥に眠る祖国を失った怒りは、いまだにクリシュティナの中で燻り続けているのであった。
※
――数日後。
いつも通りと変わらない日常に舞い込んだその知らせは、あまりにも唐突で、あまりにも残酷なものだった。
『いよいよ近づくクリスマス! あなたは誰と過ごしますか!? 僕はですね――』
テレビの声に耳を澄ましていたところ、玄関のチャイムが鳴り、明美はエプロン姿のままキッチンから離れる。リビングでは、雅がおもちゃを魔法を使って遊んでいる。
一瞬だけ主人が帰って来たのかと、サプライズを期待したが、そうではない。玄関のドアを開けた先にいたのは、被っていた帽子を手に持ち、神妙な表情をした男性だった。
男性の傍らには、ヴィザリウス魔法学園の制服を着た男子生徒が、同じく畏まった表情で立っている。
「佐伯明美さんですね?」
茶色の髪をオールバックにし、コートを羽織った紳士のような出で立ちの男性が、静かな声で訊いてくる。
「? は、はい」
「どうか落ち着いて、聞いて下さい――」
――男性からとある事実を聞かされたその時、自分がどうなったかは、はっきりとは覚えていない。ただただ悲しくて、頭の中が真っ白になった。あまりにも大声で泣いたのだろうか、リビングから雅が駆け寄って来て、背中に優しく手を添えてくれた気がする。
「……」
「……」
訃報を伝えに来た二人の男性は、口元を抑えて崩れ落ちる明美の姿を見つめ、やるせない表情を浮かべていた。
「……ご婦人。貴女の身も安全とは言えません。心の痛みが続きますでしょうが、魔法執行省が責任を持って貴女と息子さんの安全を確保します。こちらを」
本城直正は、パスポートを明美に差し出す。
「……心中お察し致します。しかし時間もありません。荷物を纏めてください」
ともすれば冷酷無慈悲な直正の言葉であるが、それしか明美と雅の身を守る手段は残されていなかった。
「ママ?」
状況を分かるはずもない雅が、両手で顔を抑えて泣き崩れている明美の服の袖を、つんと引っ張る。心配そうな面持ちをしている雅を見た兵頭賢吾がしゃがみ、雅の頭を軽く撫でてやる。
「この家から、引っ越さなくちゃいけなくったんだ。ごめんよ……」
「なんでママ、泣いてるの……?」
「……っ」
兵頭は何も言えず、無垢な表情を浮かべる雅の頭を撫で続けていた。
「悪い人がいるから、ママ泣いてるんだよね? いつも悪さしてる人がいるから、みんな困ってるんだ! そんなの、パパが倒すんだ!」
「……そうだな。ヒーローはいる……必ず」
兵頭は手を引っ込め、うんと力強く頷いて見せていた。
罪のない人を逃がすのが、今の二人の役目だった。
「志藤局長のご婦人も、空港へ無事に向かわれた。パスポートの手配も私の秘書が上手くやってくれたよ」
苦し紛れであるが、状況をどうにか飲み込んだ明美を待つ為に、直正と兵頭の二人は玄関ドアの入り口前で待機する。一番心配しているのは、明美が自分の手で自らの命を絶つ事だが、兵頭には目の色でその気はないと判断できた。
「学園には一人息子の志藤颯介少年がいます……。事実は俺が伝えます」
兵頭が言う。
「すまない……。嫌な役目を押し付けてしまって」
「お互い様ですよ。今はみんなが助け合っていかなければならない状況のはずです」
「颯介くんの精神状態も心配だ。高校一年生は大人になり切れず、まだ若い」
自分もそのような歳の娘を持つ身だと、直正は慎重にいくように兵頭に説いていた。
「志藤局長のご婦人はなんと?」
「ただ簡潔に、わかりました、と言われたさ」
直正は帽子を被り直しながら目を瞑り、思い出すように言う。
「どこかでこうなる事は分かっているような素振りだった。そして、今回の戦いで死傷した人への謝罪の言葉も受け取った……」
「国を守るために戦った人がこんな仕打ちなんて、どうかしていますよ……」
兵頭は握りこぶしを強く握り、行き場のない怒りを押し殺すように、自分の手の平に強く打ち付ける。
「次は、颯介少年か……」
学園ではよく天瀬誠次とつるんでいる姿を見かける。果たして、自分が上手く伝えることができるのだろうか。
※
――翌日。
昼休み、図書棟にいた志藤颯介は元生徒会長に生徒指導室に呼ばれ、その知らせをはっきりと自分の耳で聞いた。
「母さんが海外に……父さんが、行方不明……?」
「そうだ」
元生徒会長である兵頭は、自分の家がどんな家庭なのか、把握しているようだった。机を一つだけ挟んだ向こう側で、筋骨隆々の逞しい体躯をした二つ上の先輩の神妙な面持ちを、志藤はじっと見つめる。
「冗談です、よね? 性質悪いっスよ……」
志藤が苦笑して、金髪の髪をかく。
「俺がこんな冗談を言うと思うか?」
兵頭は険しい表情のまま、机に片手を添え、返答した。
「いきなり呼び出されて、両親が消えたって、わけわかりませんよ……本当……」
「飲み込むのに時間は掛かると思うが、どうか落ち着いてほしい」
「落ち着いてますよ俺はっ!」
途端、力強く床を蹴り、志藤は兵頭を睨む。
「颯介少年……」
兵頭が同情するような視線を向けて来るが、叫びは止まらなかった。
「なのに周りはどんどん進んで行って……! なんだよ、父さんが行方不明ってっ! 反逆者って!?」
「テロに国の機密情報を流した事による、国家反逆罪と言う罪状となっている」
「いきなり呼び出されて、父さんが犯罪者とか言われて、わけわかんねーよ……」
頭の中がぐちゃぐちゃと混乱し、自然と頭に手を添えてしまう。酸素が足りないのか、視界に映るものすべてが遠ざかっていくような錯覚も味わう。
「君の父親がそうではないと言う明確な証拠は、まだない」
「……」
「だがこれだけは分かってほしい。君の父親を信じ、自分の命を最期まで懸けてまで守った人がいたという事を。君の父親は、そうするに値する人だったんだと」
「命を、懸けて……?」
まさか、と志藤は顔を上げる。
兵頭は何も言わずに頷いた。察しの良い志藤は、それだけで気づき、自分の胸をぐっと抑え込む。
「くっそ……」
苦しい吐息をし、そして自分の右手を見つめる。
「君の父親はまだ生きている。しかし捕まるのは時間の問題だろう。今直正大臣が必死に無実の証拠を集めている。問題は今の政府に、それが通用するかどうかだ」
そして、と兵頭は懐から白い封筒を取り出し、思い悩む志藤に差し出す。
「君の母親からの手紙だ。中身は直接確認してくれ」
「……はい」
「これからどうするかは君の自由だ。母親と一緒に海外に行くもいい、君にも危険が及ぶかもしれないしな」
ただ、と兵頭は志藤の肩に手を添える。
「ヴィザリウス魔法学園は君を見捨てはしない。君が友達思いで困っている人を見ると放ってはおけないような、お節介な人だと言うのは、誠次少年からよく聞いている」
「天瀬、が……?」
黄色い目を大きく見開き、志藤は驚く。
「君たちはお互い、良い友を持ったな。俺は立場上、そのような友人を学園で作るのが難しかったんだ。羨ましいぞ」
「……」
母親からの手紙を無言で受け取り、志藤はぎこちなく頭を下げていた。
彼方では、夕日が沈もうとしている。茜色の日差しを横から浴びる志藤の目は、まだ完全に輝きを失おうとはしていなく、むしろ光を宿しているようであった。
※
――さらに数日後。一二月二三日。
山梨県の八ノ夜の家の二階、誠次の部屋で、心羽は目を覚ました。暖房がついている部屋はぽかぽかと暖かく、仰向けで寝ていた心羽の足元付近では、草鹿が腕を組んで立っている。
「起きたか?」
「……は、い」
「安心しろ私は敵じゃない。八ノ……はっちゃんの友達だ。……言い辛いな」
頬を軽くかきながら、草鹿はほっと一安心したように言う。
見ず知らずの人の事を知った心羽も安心し、身体を起こそうと布団に手を添えるが、上手く力が入らないようだ。
「数週間寝てたんだ。無理して身体を起こそうとするな」
「ありがとう、ございます……」
伸びっぱなしの水色の髪を白いベッドの上に広げ、心羽はお礼を言う。
「……まさか、私たちをあんなに手こずらせた相手が、こんな小さな女の子だったとはな」
「えっ?」
「私は特殊魔法治安維持組織専属の女医だったものだ。分かるか? 黒スーツの仲間だよ」
それを聞いた心羽の水色の瞳が大きくなり、反射的にか、自分の胸元まで上げていた布団の端をぎゅっと掴んでいた。その様は、まるで怯える小動物のようである。
「心羽、ごめんなさい……」
「安心しろ。お前を法廷に引っ張り出すなんて真似はしないよ。私が全員治してやった」
職業柄身に付いた口癖でもある言葉を先に言い、草鹿は微笑んでやる。
「ただ、君が使った強力な魔法で多くの血が流れた事実だけはしっかりと分かってほしい」
「……はい」
酷かもしれないが、自分も人である以上、そう言ってやらなければ仲間が報われない。そして、そんな仲間は全て自分が治してやって来た。
心羽は布団に寝転がりながらも、深く頷いていた。
素直でいい子じゃないか、と草鹿は自分の中で因縁の相手とケリをつける。
「よし。まずはゆっくりと上半身を起こそうか」
草鹿が背中に手を添えてやり、パジャマ姿の心羽はゆっくりと上半身を起こした。
喉が渇いているだろうからと草鹿が差し出した水差しの水を、心羽は両手を使ってごくごくと飲む。少し痩せてしまったようだが、食べればすぐに元気を取り戻すだろう。
「せーじが、心羽の名前、ずっと呼んでくれていた……。だから心羽、起きれた……」
膝の上で合わせた指と指を見つめ、心羽は嬉しそうに呟く。
「それで目を覚ましたってか? 随分とロマンチックだな」
草鹿が苦笑するが、確かに誠次の付きっきりの看病は功を奏しているのだろう。
「せーじに会いたい……。せーじはどこ?」
頬を赤く染め、心羽は草鹿に尋ねる。
感動の再会を拒むようで申し訳ないが、と草鹿は首を横に降る。
「アイツはここにはいない。アイツは今頃――」
※
「――うん。私は大丈夫。お母さんこそ、寒いから温かくね」
曇り空の下。母親との会話を終え、左耳に添えた電子タブレットを波沢香織は離す。
一二月二三日の朝。シングルマザーであり、キャリアウーマンでもある母親は年の瀬の今日も仕事で忙しそうだった。きっちりとしたスーツを着込む母親の凛々しい姿は、憧れでもある。
――それは同時に、姉も。
台場の海岸沿いの歩道を歩きながら、香織は白い息を吐く。先代の生徒会たちの働きによって制服の外出が認められている為、制服姿だ。
何よりも、今から向かう場所にはこの服装が学園以外では相応しいと思っていた。
「特殊魔法治安維持組織本部。お姉ちゃん……」
母親の誕生日直前になってもとうとう連絡を寄越さなかった姉に直接会うために、香織は修学旅行を明日に控えている身で台場までやって来たのだ。
見上げればやや屈折している巨大なビルが、目の前に聳え立っている。当然であるが特殊加工されている窓ガラスにより、外からは中の様子を窺う事は出来ない。
「クリスマスイブ、か……」
道路を挟んだすぐ横の大きな公園では、クリスマスイブにライトアップされるクリスマスツリーの点検作業らしきものが行われている。緑色のつなぎを着た作業員たちが、白い息を吐きながら一生懸命に作業しているところだ。
近くを歩くカップルたちを少々羨ましく眺めた後、香織は迷いを振り切るように首を軽く横に振る。
「仕事熱心なお姉ちゃんに、一言びしっと言うんだから」
肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握り締め、香織は特殊魔法治安維持組織本部へと誘われるように入って行った。
列島は寒さを極め、都会の街を行き交う人々はクリスマスに思いを馳せる。台場の海沿いの公園にも、巨大なクリスマスツリーのライトアップの準備がされていた。しかしそれが夜に光を放つことはないが。
「――よし、休憩っ!」
淡い緑色をしたつなぎを着た作業員の男性が、クリスマスツリー横に併設されている電源ケーブルを伸ばし終え、合図をかける。
黒い汚れが目立つつなぎを着た下っ端作業員たちも、暖かい缶コーヒーを手に、公園の中で休憩する。
三〇歳過ぎが目立つ作業員の中では、つば付き帽子を目深に被った少年はとても若かった。伸びきった茶色の髪が帽子からはみ出ており、帽子下の目元もよく見えず、一見近寄りがたい雰囲気を出している。
「新入りか? 坊主」
白いタオルをバンダナ巻きにし、髭を生やした同じつなぎ姿の男性が、少年へ気さくに声を掛けて隣に腰かける。
「汚れが目立っていないし、若い」
「……はい。バイトで」
少年は特に動じることなく、遠慮なく隣に座る男性に答える。
「そりゃあどんまいだわ。お前さんみたいなのは、あんなのを見て嫉妬するだろ」
豪快に笑う男性が下品に指さす先には、クリスマスツリーがライトアップされることを待ち望んでいると思わしき若い男女のカップルが、手を繋いで立っていた。生憎の曇り空で海沿いという事もあり寒そうであるが、零れる笑顔は暖かいものだ。
「哀れな哀れなクリスマスぼっちくん。お名前は?」
にやにやと笑いかけながら、髭面の男性は少年に名前を聞いてくる。
「佐伯剛」
少年は冷めた表情と声で、偽名を答えていた。彼の意思を、白い曇り空の下に見える特殊魔法治安維持組織本部に向けて。
「そっか佐伯くん。クリスマスは俺ら野郎どもと一緒にカップルたちを呪ってやろうぜ」
「そう、ですね」
「これは景気づけの祝いだ。受け取りな」
すっかりぬるくなった缶コーヒーを、すっと差し出される。苦いコーヒーは飲めない為、お茶を飲んでいた少年は「ありがとうございます」と言いながら、それを受け取る。
「ったく……俺らも魔法が使えれば作業なんか楽に終わんのに。でも、仕事がある分だけましか」
男は口元をつなぎの腕部分で拭いながら、クリスマスツリーを眺めて言う。
「旧式のLEDを使ったライトアップなんですね」
「世の中なんでも魔法魔法ってなったら、俺たちの働くところがなくなっちまうからな」
男は缶コーヒーを一口、口につける。
作業着姿に缶コーヒーとは、何ともあか抜けた光景で。隣で真似でもしてみようかと思ったが、吐き出すと思うので、少年は躊躇していた。
「そのうち俺らみたいな人間なんかいなくなって、世の中魔法使いだらけになるなんて、まだ信じられねぇよ。あー寒っ」
「そうですね」
一二月の海風はとても冷たく、まるで身体の芯から冷やされるようだ。同じく風を忌々しく浴びる男は、隣で貧乏ゆすりをしている。
「なんでも魔法に頼って、どうなんのかね。人が無意識のうちになんでも魔法をバンバン使うのは、俺は逆に気味悪くも感じるぜ。リーダーもそう言ってるし」
現場の監督でもある、ひと際目立つ風貌をした男性作業員を、隣の男性は指さす。
歳は五〇を過ぎているだろう。帽子を後ろ向きで被り、すでに置かれているクリスマスツリーの幹の所で腰掛け、壮年の男性は弁当を頬張っている。
「失礼します」
「おーう。彼女作れよ、猶予はあと一日」
相変わらずにやにやと笑う髭面の男性が見送る中、少年はおもむろに立ち上がり、リーダーである男性の元へ向かって行った。
男性はまるでツリーを守る番人のように、近づく少年に気づいて顔を上げるが、すぐに興味をなくしたようにまた弁当を食べ始める。
「お疲れ様です」
座る男性の前で、少年は立ち止まる。
「佐伯か。こんな時期にお前さんみたいな若いのがこんなアルバイトとは、よほどの一文無しか?」
だらしないな、と男性の軽蔑するような視線を感じる。
「そんな所です」
「魔法でも使えば簡単に済むだろうと、文句でも言いに来たのか?」
下請け工場社員である男性のつなぎの胸元の名札には【小川】と書かれていた。
少年を一瞥するなり、小川はふんと鼻息でも鳴らしそうな態度で、少年に声をかける。
「いえ、そんなつもりはありません。魔法を使わなくても昔からこの国の人たちはこんなに繊細な事が出来るのは、凄いと思いますし。小さい頃から、このツリーが綺麗にライトアップされるのはよく知っていますから。どこも忙しいですよ」
――だからこの日にこの場で人手が不足するのも知っており、この日を選んだ――。
「分かったような事を言う」
目を合わせようとしない少年を前に、小川は歯に挟まった魚の小骨を指で抜き、ビニール袋の中に投げた。
「魔法ばかりに頼れば人はその利便さに浸かり、腑抜ける」
するとどうか、と小川は少し寂し気に、白髪交じりの口ひげを軽く撫でる。
「甘い蜜を吸い続ければ努力を忘れ、もうそこから抜け出せなくなる。いつまでもこのままでいたいと願い、現実から目を背ける。その結果が今の夜を失った世界のままでいいと言う大勢の考えなんだろう」
「ずっとこのお仕事を?」
「そうだな。ここで働いていれば嫌でも愛着が沸く」
小川はクリスマスツリーを見上げ、どこか照れ臭そうに口角を上げる。つなぎの胸ポケットに押し込んでいたくしゃくしゃの煙草のケースを取り出し、中から一本を口に咥える。
「そう言う俺も、魔法の世界に世の中が変わっていくのが怖く感じてしまっているのかもしれん」
「怖い?」
「クリスマスだって浮かれている連中なんざまだ可愛いもんだ。やがてそんな感情も失って、人が人でなくなるようだよ。魔法使いなのに機械みたいだ、ってか」
「魔法が使える人も使えない人も、上手く共存できるといいですね」
願い、か。佐伯の達観したような言葉を聞いた小川は、佐伯の帽子の下の表情をじっと窺い、やがてそっぽを向く。
「戯けたことを。ゆくゆくは魔法使いのみの世界になる。お前さんのような若い魔法使いに、俺たちの気持ちがわかってたまるか」
「……」
少年は帽子を深く被り直し、小川に背を向ける。
「佐伯か……不思議な奴だ。こんな俺に話しかけて来るとは」
煙草の煙を吹かし、小川は少年の背を見送っていた。ご老体が鼻と口から出した白い煙は、魔法世界の白い空に溶け込んでいくように、虚空へと消えていく。
少年は家族連れやカップルで賑わう公園の中を歩き、道路を挟んだ先に見える特殊魔法治安維持組織本部を見上げる。不思議と、今は緊張することなく、落ち着いて見上げることができる。
その見た目は文化祭前に来た時とは変わらないが、どこか寂れた雰囲気を感じる。
少年は伸びきった髪の毛に隠した耳元の小型通信装置を、軽く手でタッチする。
「こちら天瀬誠次。特殊魔法治安維持組織本部前に到着しました。今から潜入します」
『気をつけろよ。危なくなったらすぐに逃げて来るんだ』
山梨県の数週間を共に過ごした八ノ夜の声が、耳元で響く。
「あれは!?」
通信を終えた誠次が特殊魔法治安維持組織本部の入り口の方を見ると、ヴィザリウス魔法学園の制服を着た少女が目についた。
青い髪に、黒い制服の緑色の線。姉が特殊魔法治安維持組織の隊員である、ヴィザリウス魔法学園の生徒会長、波沢香織であった。
「香織生徒会長? どうしてここに?」
一人で来たのか、香織は深刻そうな表情をしたまま、特殊魔法治安維持組織本部の中へと入っていく。花の蜜に誘われた蝶のように、スライドドアが開いた先の暗闇に吸い込まれていくようで、誠次は香織の背をしばし見つめていた。
「……失敗するわけにはいかない。必ず成し遂げる」
――例えその先で、獲物を仕留める罠が張られていようとも。
数日間の準備が、全て無駄になってしまわぬように。帽子を深く被り直した誠次は茂みに隠しておいた工具入れを模した荷物――ひときわ目立つのは背中に背負った長い棒状の袋――を纏め、特殊魔法治安維持組織本部へと幅広な道路を渡って行った。




