3
この世界が色褪せて見えるのは、いったい何時からだっただろうか。白と黒の世界に、歩道橋の上より見た魔法の青い光が射し込んだ瞬間は、今でも思い出す。それは美しくも、どこか残酷で、儚い魔法の光。まるでこの世のものではなかったような、強烈な色彩を放っていた。
――お父さんっ! お母さんっ!
昔、両親が家で、目の前で殺された。よりにもよって゛捕食者゛ではなく、同じ人に。裕福な家庭だった自覚はある。両親が周囲の人が認めるほど偉く、偉大な存在だったのも。だから僕も、その両親に恥じぬように努力をしていた。姉も両親の才を受け継いで優秀だったため、自然と周囲からの自分に対する期待も高くなっていた。
だが、両親は殺された。雨が降る夜に、家で、急に押し入った来た大人たちによって、目の前で。犯罪者共は、両親の身体から噴出した返り血を浴びて、冷酷な目でこちらを見下ろしており――。
「――ハアハア……っ。夢っ、か……っ!」
――日本科学技術革新連合本部での戦闘から三日経っていた。大阪、アルゲイル魔法学園の寮室で迎える目覚めは最悪だった。汗でタンクトップが身体に張り付き、星野一希は布団を退けて起き上がる。自分の手をじっと見つめれば、剣で肉を切断した生々しい感覚が戻って来る。
「むにゃ……とーか、ちゃん。可愛い、で……」
最近お熱のアイドルの名を寝言を呟いているルームメイトは、まだいびきをかいて眠っている。
時刻は午前五時をすぎたばかりだった。外はまだ暗く、夜明けは訪れない。
「うっ……」
吐き気を感じ、一希は口元を抑えながら二段ベッドから降り、洗面台へ向かう。汗も洗い流すために、一希はシャワーを軽く浴びることにした。
「何で、こんなにも気持ち悪いんだ……」
シャワーのお湯を浴びても、気分はまったく良くならなかった。鏡に映った自分を見つめ、一希は口元を抑え込む。割れた腹筋の上の方、切るのが面倒で伸ばしっぱなしの金髪が、お湯で顔に張り付いているようであった。
まだ人肉を斬った感触は残っている。一希は水が滴る自分の両手を見つめていた。その瞬間、何も感情が湧かなかったと言えば、嘘になることが証明されてしまっていた。
「ずっと戦いをしてきた昔の人には簡単に出来て、今の時代に生まれた人には出来ないなんて、それは都合の良い話じゃないか……」
自分に言い聞かせるように呟き、身体と髪を乾かして制服を着て、洗面台から出た一希は、髪を乾かす。
さらさらになった金髪を靡かせ、一希は部屋の外へ出た。
――夏に大きな事件があって、生徒や親には理事長が不祥事を起こした、と説明された。生徒たちは皆その情報を信じていたが、あの日何があったのか真相は知っている。
そのせいあって、ヴィザリウス魔法学園との合同体育祭は中止。文化祭こそ開催されたが、どこか自重するような、重苦しい空気がずっと続いていた。
学園祭の余韻でもなく、生徒たちの表情も、どこか浮いていない。
「……くだらない」
冷めた表情をしながら、一希は廊下を歩く。
こんな学園生活を続けている今も何処かで、魔法を悪事に使う者がのさばっている。ならば今、ここで過ごすこの時間は一体何なのだ?
自分の現状に歯痒い思いを感じ、一希は俯きかける。
「一希」
「一希、くん……」
クラスメイトの二人の女子が、向こう側から歩いてやってきた。
「あの、一希くん。やっぱり、おかしいよ……」
「なにが?」
おどおどとした様子で告げて来るはるかに、立ち止まった一希は冷たい目線を送る。
「私たち、一希の事が心配なの! まるで人が変わったように……」
「心配してくれてるんだ。理もはるかも優しいね。僕は大丈夫だよ」
瞬時ににこりと微笑み、一希は人当たりの良い笑顔を見せつける。
「絶対大丈夫じゃないよ! なにがあったの一希くん? 私たちに相談できることなら」
「だったら、相談できないことだ。心配しないでも大丈夫だって。僕は一人でもやれるから」
通してよ、と一希は二人の間を通り過ぎていく。一希にとって他人とは今や、そのような無個性にしか見えなかった。この学園で送る高校生活も、ただの通過点にすぎない。
王城のように豪華な装飾が施されているアルゲイル魔法学園の廊下をしばし歩き、たどり着いたのは理事長室であった。
「失礼します。奥羽理事長」
では目の前の椅子に座り不敵な笑みを見せつける、アルゲイル魔法学園を治める理事長であり、現役の総理大臣はどうか?
「よく来た、星野一希」
答えは簡単。互いが互いを利用する、ある種の腐れ縁だった。
当然ボロを出せば利用される。それは黒革の椅子に腰かける相手も同じであり、油断は出来ない。
「その外見、気に入ってるんですか?」
「この学園の為ならば、一芝居打つこともできよう。それともお主も、幼女姿の私の方が好きなのか?」
「生命兆候は比較的安定しています。目覚めは気持ち悪いですが、薬を服用すれば収まりました。以上が報告です」
「そうか。ひとまずは安心だ」
本心だろうか。安易に人を信じれば騙される。
奥羽の口から出た言葉を、一希は深く受け止めることはない。
「ニュースを見てみろ。国内安定への第一歩だ」
奥羽はそう言って、手元の電子タブレットを点ける。たちまちホログラム映像が浮かべば、マスコミが徐々に嗅ぎつけた情報が流れている。
『――繰り返しニュースをお伝えします。昨夜、首相官邸より総理が緊急会見を行いました。日本を拠点に活動を続けていたレ―ヴネメシスのトップと目されていた男の正体は日本科学技術革新連合の博士、東馬迅。その男は拳銃で自殺。組織は事実上の崩壊をしたとのことです』
『――また調査により、日本科学技術革新連合の科学者と一部日本政府関係者の中で、レ―ヴネメシスと癒着関係にあったとのことも分かっております』
『――薺総理は今回の一件について、テロリストのトップを生かしたまま拘束できなかったことについて、悔しさと無念の気持ちを述べました。いずれにせよ、失われた夜の日以降続いて来た日本のテロ活動に、ようやく終止符が打たれることになります』
そして、
『この国も、魔法世界となった世界の一国としてのスタートラインに、ようやく立ったと言うべきでしょうかっ!』
等。
一希は顔色一つ変えることなく、それらすべての情報を聞く。特に、薺総理の直々のコメントには、かなりの皮肉があるなと感じながら。
だが当の奥羽は、一希を面白げに見ていた。
「スタートラインとは言いえて妙だな。我々にとっては、第二幕の幕開けか。目覚めの意見でも訊こうか?」
「都合の良い展開、ですね」
薺の姿を奥羽に当てはめ、一希は冷静に呟く。
「僕は犯罪者と゛捕食者゛が消せれば、他はどうでもいいです」
「相当な憎悪だな」
「ただの正義ですよ僕は。あなたは、相当な野心を胸に秘めている」
一希は鋭く青い視線を奥羽に向け、核心を突くように返す。
「少し違うな。世界の平和と安定のために、国際魔法教会は必要なのだ。゛捕食者゛と平和を作る教会に歯向かう者の排除。利害は一致しているだろう?」
「ええ。今のうちは、ですが」
一切の物怖じもしない一希を見て、奥羽は愉快そうに笑う。
「少なくとも、お前の力はあてにしている、星野一希。それは本心だ。国際魔法教会が統治する、゛捕食者゛亡き世界の為に」
「はい、僕こそがこの腐った世界を変えます」
一希は深くお辞儀をしてから、決意を固めた顔を上げていた。
※
「さあ、着いたよ」
車は何処とも分からない高台へとたどり着く。そこから見渡せる都会の夜景は眩しくて、直視することも躊躇ってしまう。――立ち昇る火炎と、蠢く黒い体躯の姿も重なれば、尚のさらだ。黒い影が、まるで都市全体を包み込んでいくようで、誠次は物悲しい気持ちを味わっていた。
「この歴史はどう足掻いたって変わらない。やがて来るべき世界だったんだ。だから君が悲観することはない」
白い息を吐きながら、白衣姿の奏は車のボンネットに腰を掛ける。
シートベルトを外した誠次も車外に出て、都会の街並みを眺めていた。今の自分では、この世界をどうすることも出来ない。目の前の人一人でさえも、助けることは出来ないのだ。
虚しい風が、二人の間に吹いては消えていく。
「もう悔いはないかい?」
奏は白衣のポケットに手を入れ、白い息を吐いて言う。
「ないと言えば噓になって。……家族に、せめてもう一度、会いたかったです」
「酷なことを言うようだけど、君はこれ以上この世界に留まってしまうと、戻れなくなる。そして、道のりは困難だ」
「はい」
だから、誠次は黒い眼を地平線の彼方へと向ける。いつか、この世界に必ず夜明けは来ると信じて。
「僕はこの後ももう少し生きるんだけど、結局゛捕食者゛の事は解き明かせなかった。それだけは……悔しいよ」
誠次は奏の前に歩み寄り、手を伸ばす。
「引き継ぎます。俺が必ず」
「天瀬くん……君は希望だ。未来を作るのは大人ではなく、君たちのような若い少年少女たちじゃなければ。高校生とは一見不安定な年代だが、同時に未来を変えられる可能性を持っている」
奏もまたそっと手を伸ばし、握手を返してくれる。
「この世界に留まると言う選択肢も、ないことはない。目を背けていれば、簡単な事だけれども」
「いいえ。俺は魔法世界の剣術士です。あの世界でやるべきことが、あるんです」
誠次ははっきりと、頷いていた。
「……それに、皆が待ってくれている」
「そう言ってくれると、信じていたよ」
奏は誠次から手を離すと目を瞑り、空気を味わうように深く深呼吸し、顔を上へ向ける。粉雪が見上げた顔に当たり溶け、まるで涙のように水が頬を伝っていた。
「もうすぐ、目覚めの時間のようだね……。頑張って……」
「香月さんに、なにか伝えましょうか?」
奏は眼鏡の奥の優しい瞳を、一瞬だけ大きくする。
「……ありがとう、って。あと、キスくらいは――」
「しつこっ!」
「冗談冗談……いやまあ、半分以上本気だけど」
「そんなの、面と向かって伝えられ、ませんよ……」
「はは。つくづく君でよかったよ」
奏は微笑んでいた。
「あと、゛捕食者゛の事で少し、分かった事と言うか知ったことが……」
「? なにかな?」
誠次は白い息を吐き、俯きながらも、続きを言う。
「東馬が自分の身体に大量の魔素を注ぎ込んだら、魔素が黒く変色して、東馬が゛捕食者゛になったんです……。考えたくはありませんが、もしかして゛捕食者゛は人で……」
奏の姿が、薄くなっていく。
「そう考えたら、失われた夜の日当日の゛捕食者゛の説明がつかなくなる。誰もが一度は考える考察だね」
「ですが、実際に目の前で……」
「確かに、魔法と゛捕食者゛は密接な関係にある。僕自身は何らかの関係があると思うよ。ごめん、こんな事しか言えなくて」
「いえ、俺が解き明かしてみせます。必ず、皆を平和な世界へ。だから、どうか安心して見守っていてください! 必ず!」
まだ、手遅れではないはずだ。奏の願いを手のひらで感じ取った誠次は、胸を張って答えていた。
やがて、奏の身体が闇夜の果てに溶けていく。その先では、新たな朝日が昇ろうとしている。待ち望んだ夜明けだ。射し込んだ日の光の眩しさに、誠次は顔を覆っていた――。
※
――一応、少年ではないが、彼もまた等しくそんな時代があった。そしてその大志は、今もまだ彼の心の中で燻っている。
「はあ、つまり、帰って来るのは一か月後と」
『場合によってはもっとかかるかもしれない。どちらにせよ、向こうの動き次第だ』
八ノ夜美里との生通信を終え、職員室の林は電子タブレットの電源を落とす。
レ―ヴネメシスの事実上の崩壊により、この国にもようやく、一応の平和は訪れたはずだ。それでも、いつもと変わらない職員室の光景を眺めながら、林は無性に一服したくなる。
「なんでずっと連絡出ないんだ。ったく、一応俺は先輩で、恋のキューピット役なんだけどな」
頬杖をつき、林は参ったなとため息をこぼす。ヴィザリウス魔法学園学生時代の後輩であり、現役特殊魔法治安維持組織第七分隊隊長である佐伯剛との連絡が、ここ数日取れないでいた。最終的には剣術士にも開示したが、最初は八ノ夜の要請により無理を言って科連本部の地図を仕入れてもらった通信が最後だ。
「さて、これからこの国が向かうのは国際魔法教会が掲げる平和な魔法世界、か」
林は大きく伸びをして、豪快なあくびをしてみせる。
「――林先生、こちらをどうぞ」
華やかな雰囲気がしたかと思えば、後ろから星野百合が、何かの紙を手渡してくる。
「なにこれ?」
林は渡された二枚の紙を交互にめくる。左上には顔写真。そして横にはそれぞれその人物に関する詳細文が載っている。見覚えのない女子生徒の情報だ。
「あら、私昨日も説明したと思いますけれど、転校生です」
「二人同時に? 同じクラス?」
「私も面白いと思いましたけれど。なんでも向こうの事情、だとか」
百合も詳しくは把握していないようで、首を傾げていた。
「向こうの事情って、随分な上から目線だこと」
見る限り、二人とも外国人らしい。双方の親の都合により、ロシアの魔法学園からの転入だそうだ。
一人は透き通るような青い目に、銀色の髪。北欧人らしい色白な肌に高貴な雰囲気も感じ、少し気難しそうな表情をしているが、中々の美人だ。
もう一人はどこか東洋系の顔立ちをしている、茶色髪の女子。こちらも引けを取らない可愛らしい容姿を持っており、しっかりとした表情と目鼻の顔立ちの中の可愛げが、男子女子双方に人気が出そうだ。
「マジで? 今日は転校生がいるー女子だー男子ども静かにー。なんてありがちな件、俺またやっちまうの?」
「その件はよくわからないけど、賑やかな事になりそうですね」
百合は楽しみそうに微笑んでいた。
「特に、誠次くんはさぞ居心地が悪くなっちゃうかも……」
「剣術士の明日はどっちだ、てか」
二人して特殊な生徒を弄る話題で盛り上がる。
「そんな誠次くんは、まだ?」
百合がどこか寂しそうに机をなぞり、林に問う。三日前の戦いの事は、生徒たちにこそ伏せられているが、教職員は全員知っている。
「ああ。理事長が言うには、しばらく時間が必要、だとさ」
「ふぅん。色々と教えてあげたかったのに」
いったい何をだろうかと、自分の指先を長い金髪に絡ませる百合を、林は冷や冷やな目で見つめていた。
「一人はルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイト。もう一人がくりしぇっ……クリシュティナ・ラン・ヴェーチェル。名前覚えるの面倒くさいぞこりゃ……」
クリシュティナの名前を見事に噛んだ後、林はぽりぽりと髪をかく。
「でも、素敵な名前じゃないかしら?」
百合は林の机に手をつき、共に紙を見る姿勢となる。香水ほどきつい匂いでもない、俗に言うフローラルな甘い香りが、まるで悪戯するように鼻をくすぐってくる。
「ルーナは月の女神様。ラスヴィエートはロシア語で夜明け、の意味。一方でヴェーチェルはロシア語で夕暮れ、の意味です」
「ロシア語出来るの?」
英語はペラペラなのは知っていたが、林は百合をまじまじと見る。
「ええ。アメリカの魔法大学でロシア語は必修科目でしたから」
百合は得意げに微笑んで、返答する。
「アメリカでロシア語が必修、ねぇ」
そいつは殊勝なことで、と林は机の上のコップに注いであるすっかり冷めたコーヒーを啜る。記憶と一緒で、それは時間が経てば酸っぱく、苦い味しかしない。
「転入予定日は明日、か。剣術士いないから男子どもは今がチャンスだが、厄介なことになりそうだこりゃ……」
理事長と剣術士を欠いた魔法学園。日本国内を揺るがす騒動が終わった直後に、またしても巻き起ころうとしている多難の予感。
ただでさえ年末で忙しいのに、また仕事が増えたようで、林はがっくしと肩を落としていた。とにもかくにも、将来有望な魔法生たちをきちんと立派な魔術師に育てるのが、自分の仕事であるのだが。
だがふと思う時があるのだ。立派な魔術師とは、この魔法世界で一体何なのか? 哲学的な考えではあるが、現状その答えは゛捕食者゛と戦うための兵器だと、既定している。
では自分たち学園の教師とは、怪物と戦わせる為の兵器を生み出す羊の皮を被った悪魔なのか。世間の声により、そう見られても仕方がないこの世界で、林は自分なりの教えを伝えていく。
来るべきいつかの為に。
※
少年(?)たちがそれぞれの大志を抱き終えた後のこと――。
同時刻、茜色の西日が射し込む窓の下。外からはかあかあと、カラスの鳴き声が聞こえる。
「これが……噂の……そうなんだなクリシィ……?」
「ええ。これが……かの有名なものです……ルーナ……」
六畳間の畳の上で寝転がり、ルーナとクリシュティナは互いの顔を確認するように頷き合う。
二人が感触を確認していたのは、畳である。寝転がれば、イ草の仄かな匂いがしてきて、気持ち良い。ひんやりと冷たく、少しざらざらとした感触も、肌に吸い付いてくるようで気持ちがいい。
「そろそろ、起きて準備をしましょう」
一通り畳を堪能した後、クリシュティナは立ち上がる。
「く、クリシィ……」
そんなクリシュティナの二の腕を見て、ルーナはくすりと微笑む。
「どうされました、ルーナ?」
「二の腕に畳の跡がついている」
「えっ、あ、そんなっ。……って、それはルーナもです!」
「なに? ほ、本当だっ!」
慌てて自分の二の腕を確認すれば、クリシュティナと同じ畳の赤い跡があり、二人して顔を見合わせて笑い合っていた。
二人が今いるのは、日本へ潜入する際に借りた、都会の片隅にある賃貸アパートだ。大家の男性は、寝泊まるのが二人の女子高生だと知った時にはたいそう驚いたようだが。
部屋自体は狭いが、二人で生活する分には窮屈しない。それは、もともと住んでいた屋敷と比べれば一部屋分の広さにも満たないが。
「明日はヴィザリウス魔法学園への転入日です。改めて確認しますが、そこでの呼び名は数日前からのように、ルーナ、と呼びます。どうか気を悪くしないでくださいね」
クリシュティナはメイドらしく、日本に来る飛行機の搭乗中まで、こちらの事をずっと姫様などと呼んでいた。
「国もないのに姫と呼ばれても意味はない。それにクリシィからは、名で呼ばれたいんだ。ずっと前にも言っただろう?」
「姫様は姫様です。それに変わりはありません。今は任務ですから」
「……分かっている」
そう言う間にも、クリシュティナは万国共通の優秀な荷物輸送装置である段ボール箱から、ヴィザリウス魔法学園の新品の制服を取り出していた。
「こちらが、ヴィザリウス魔法学園の女子生徒用の制服になります」
「男子は長いコートなのに、案外女子は普通なんだな」
「差別的な意味は含まれていません。昔の魔術師たちのイメージだそうですが」
クリシュティナはルーナに制服を手渡しながら、説明していた。
「私たちの目的は日本で学園生活を満喫するわけではありません。格好は関係ないでしょう」
「分かっている。剣術士、だな」
「そうです。全ては祖国の復活の為に」
ルーナの答えに、クリシュティナは満足そうに頷き、可愛らしい中華風のエプロンを腰に巻く。
「私は夕食を作ります。ルーナは制服の試着をお願いします。ルーナのサイズに合うかどうか、サイズを色々と揃えておりますから」
「……む、胸を見て言うな!」
「ふふ。今夜はビーフストロガノフです」
にやりと笑ったクリシュティナに背を向け、ぷんと怒ったルーナは全身鏡の前に立つ。
「武器を振るう時には邪魔だし、こんなもの……」
鏡に映る自分の姿を見つめ、ぶつぶつと言いながらも、ルーナは私服のネクタイを解いていた。
クリシュティナの作る料理は絶品であり、いつも楽しみなのだ。おそらく同年代に彼女ほど料理の得意な女性はいないであろう。
「さて、私は日本語の勉強をしないとな」
その途端、親切にしてくれた日本人たちの顔が脳裏をよぎる。
「……」
ルーナはそれら全てを消し去るように、首を横に振っていた。
相変わらずクリシュティナは寡黙に、キッチンで料理を作る。六畳間に越してきた極北の亡国の姫の家に、ビーフストロガノフのワインの香ばしい匂いが漂っていた。




