3
四時限目の休み時間は、昼食休憩を兼ねている為、五〇分間と長い。
保健室で眠っていた誠次も、学園の食堂で用意された身体に良さそうなメニューのランチを終えた所だ。喉の痛みは無いので、うどんではない。
「しかし……参ったな……」
薬を飲んだ誠次は腕を組んで悩んでいた。原因は、一時間前の休み時間にて林の置き土産である。土産と言うよりかは、ほぼ嫌がらせに近いそれは今、誠次が腕を組んでいるベッドとシーツの間に、挟んである。
このまま保健室からの退院を待ち、誰にもばれずに持って行ければと思ったが、食事前のダニエルの言葉により、その考えは潰えた。
――汗をかいただろうから、昼休み時間中に布団とシーツの取り換えを行う。
ダニエルからその言葉を聞いて以降、食事が喉を通らない思いとなっていた。しかも、百歩譲って発見されてしまった場合を想定しても、相手はダニエル・オカザキである。きっと本当の愛とはなにか、などの説法を説いてくるはずだ。
今のうちに保健室のどこかに隠しておこうかとも思ったが、ダニエルがカーテンの向こう側で筋トレをしている最中だ。保険室でやる事じゃないと言うツッコみは、普段から自前のダンベルを片手で上げ下げしている彼には無意味だろう。
「ム!? よく来たなッ!」
誰かが来たらしい。ダニエルの大声の先で、保健室のドアが開かれる音が聞こえた。
「君も天瀬誠次クンのお見舞いか!?」
「はい」
しとりと、この冷たい雪を思わせる静かな声音は、香月詩音のものだ。来てくれたのは嬉しいが、今だけは非常にマズイ。
「天瀬くんは、どこのベッドに?」
「すぐそこである!」
「ありがとうございます」
香月が来てしまう。誠次は慌てて、しかしなぜか咄嗟には行動できず、びしっと気を付けの姿勢で、カーテンが開かれるまで待ってしまっていた。
「天瀬くん」
軽い足音を立てる香月がカーテンをゆっくりと開き、こちらの姿を確認し、安心したようにほっとしていた。
「こ、香月。き、来てくれて、嬉しいよ」
布団をぎゅっと握る誠次の返事に、香月は紫色の目を細める。
「……。その挙動不審な反応……。北海道と同じ、なにかやましいことがある時ね」
鋭い洞察力と記憶力である。
「!? な、なにも! でも来てくれたことは本当に嬉しいんだ」
「そうかしら。そう言ってくれるのは、私も嬉しいけど」
そして香月はスカートを正しながら、志藤や林と同じように、丸椅子に座る。女子と言う事もあるだろうが、背筋を伸ばしたお上品な座り方だ。男性が続きすぎたせいもあるだろう。
「正直に言うと、お見舞いってどうすれば良いか分からなくて……」
「俺は来てくれるだけで良いんだ。暇が潰せる」
そう言う誠次の中で、今は尻の下にある硬い雑誌の感触が、薄れていく。
香月は「そう……」と微笑みながら、普段使用しているバックから、何か筒状のものを取り出していた。
「なんだそれ?」
「紅茶よ。淹れて来てあげたの」
「あ……」
香月は器用に魔法で水筒を宙に浮かし、それを分解し、コップに温かそうな湯気が出ている紅茶を注ぐ。魔法で浮かせたコップを、誠次は受け取っていた。
「こうちゃんの紅茶、か」
美味しそうな褐色の飲み物に視線を落した誠次がぼそりと言うと、香月は再び微笑む。
「桜庭さんが、紅茶を用意したらどう? って言ってくれたの」
香月は言いながら、こちらに身体を寄せるように傾けて来る。どうやら、飲んだ感想を聞いてみたいようだ。
誠次は紅茶を香ってから一口、口に含んだ。
「んっ。やっぱり甘くて美味いな。俺が淹れてもこうはならないよ」
「その反応……ありがとう」
香月は何かが可笑しいようで、微笑んでいた。
「具合は大丈夫?」
「ああ。寝てれば治るよ。みんなに伝えてくれて、ありがとうな」
「ううん。急に倒れた時はびっくりしたけど、心配なさそうでよかったわ」
「丁度いい香月詩音クン! 天瀬誠次クンの寝ている布団とシーツを交換してくれないか?」
「えっ」
カーテンの向こうから、ダニエルが声を掛けて来て、誠次がぴくりと反応する。
「交換?」
「い、いい香月! 大丈夫だ!」
首を傾げる香月に、誠次が慌てて両手を振るが、
「無理だ! 風邪菌をなんだと思っているんだ君はッ! 治るのが遅くなるぞ!」
ダニエルがカーテンを勢いよく開けて、憤怒の表情で怒鳴りつけて来る。
「治るのが、遅くなる……」
香月が復唱し、おもむろに立ち上がる。
「こ、香月!?」
誠次はぎょっとする。
「やりますダニエル先生」
香月は決心したように、深く頷いていた。
「ウム。吾輩は用があるので職員室に行く! 代えの布団とシーツはそこに用意しておいたからな!」
ダニエルはそれにしても、と突然がははと豪快に笑いだす。
「吾輩はようやくわかったぞ天瀬誠次クン!」
「?」
大きすぎる笑い声に誠次が首を傾げていると、ダニエルが香月を見つめていた。
「愛する者の加護を受けたかったのだなッ!? 吾輩はそれを知らずに、一方的に布団とシーツを変えようとして……なんたる無礼ッ!」
「愛する者、って……」
香月が少し照れくさそうに、視線を落とす。
「いや、今は――」
「吾輩の配慮不足もとい……ミステイクだった天瀬誠次クンッ! このままでは皆に愛されるべき養護教諭失格であるな! 吾輩は空気を読んで、退散する!」
なにもこれは嫌味ではない。心から悔しそうに分厚い胸板に右手を押し付けているダニエルは、申し訳なさそうに頭を下げて来ていた。どうやら、本当にこちらが香月からの看護を心待ちにしていたと思われたようだ。
「何かあれば、職員室まで来るのだ! それではッ!」
ダニエルは満足な表情でグッドサインをしてくる。
わかりました、と香月が冷静に頷く中、誠次は涙を呑んでダニエルにグッドサインを返していた。
「だ、ダニエル先生……」
こうなってしまったら、ダニエルに見られた方がまだマシだったのかもしれない悟ったにはもう遅く、ダニエルが退室するとすぐに香月は椅子から立ち上がり、こちらの布団に手をかけていた。
「ほ、本当にやる気なのか香月?」
「変な言い回しね。あなたこそ、いつまでも子供みたいに駄々こねてないで覚悟を決めなさい」
「う……」
そんな事を同い年の香月に言われてしまい、誠次は布団から手を離す。
香月は物体浮遊の汎用魔法を巧みに扱い、呆然とする誠次の目の前で、布団を交換していた。問題の物は、まだ誠次の座るシーツの下に挟まっている。
「服は、さすがに自分で着替えて欲しいのだけど……」
用意されていた男子制服のワイシャツを広げ、香月は少しだけ困惑した表情で告げて来る。
「その、どうしてもと言うのなら、私が着替えさせてあげるけど……」
「じ、自分で着替えるっ!」
ただでさえ風邪のせいで身体が熱いのに、さらに火照ってしまう。それに反してシーツ下の雑誌のせいで心臓はひんやりと冷たく、それでいてバクバクと音を立てて鳴っているのだから、人の身体とは不思議なものだ。
「て言うより……もう俺が自分で全部取り換えるぞ?」
着ていたワイシャツのボタンを外しながら、誠次が香月に言う。
「さっきまでは断っていたのに、今になって急に素直に換えると言い出すなんてやっぱり変ね。いいわ。服も私が着替えさせる」
「結構でございますっ!」
結局、どうしてもお世話をしたい様子の香月に観念した誠次は布団から降りていた。
「……っ」
誠次は、淡々とシーツを剥がしていく香月を直視出来ず、顔を横に背けていた。さすがに女子と二人っきりの場で上半身を裸にすることは躊躇ったが、隠していた本の言い訳は必要だ。
すると、香月が作業する手をピタリと止めて、こちらの上半身裸な姿をまじまじと見つめている事に気づく。
「な、なんだよ……」
「い、いえ……特になにも……」
銀髪に包まれた顔をほんのりと赤くして、香月は誠次の上半身を見つめていた。
「恥ずかしいからあまりまじまじと見るな……」
「え、ええ……」
誠次は新しいワイシャツを羽織りながら、そっぽを向いたまま答えた。顔は赤いままだったが。
そんな香月の予期せぬ不意打ちにより、ほんの一瞬だけシーツ下のブツの存在を忘れたところであった。
「? なにかあるみたい」
香月が、シーツの下に挟まっていた何かをとうとう発見してしまう。
「あっ」
誠次が思わず、ボタンを閉じる手を止め、香月に向け手を伸ばしていた。そして、取り出してしまう。
「お見舞いに来た女の子と保健室でエ――っ!?」
「……っ!」
復唱する口を途中で止め、本を両手に持って戦慄している香月と、茶色の髪をくしゃと押し付け、気まずく目をじっと瞑っていた。
「まだ、たくさんある……。しかも、敷き詰めてる……」
そう呟きながら銀色の髪を前に垂らし、香月はベッドの上に本を次々と置いていく。志藤が述べていたが、ベッドの下に隠しておいたその手の本が全て母親にバレたと言っていた状況がこういう事なのだろう。
「……」
「あの、香月。理由が、その、ありまして……」
「男の子がこう言うものに興味があることぐらいは、知っているわ。でも、普通は場を考えるものよね、こういうの」
とんとんと表紙を人差し指でつつき、香月は誠次に告げる。まったくもって正論であり、ある程度こちらが健全な男子としての事情も、理解してはくれているようだ。しかし、わざとか意図せずか、香月がつついている表紙に映っている女の子が、銀髪の少女であり、誠次はかっと顔を赤くしていた。
「林先生がさっき持って来たんだ。それで、押し付けられて」
「そう。押し付けられたと言うのなら、内容は一切見ていないのね?」
ギクリ、と痛い所を突かれた誠次は、観念して頭を下げる。
「……見ま、した……。その、ほんの少しだけ……」
「そう。信じていたけど、最低限の自制心はあるようで、よかったわ」
香月は無表情と一定の声のトーンで言い放ったあと、誠次のシーツを再び換え始めていた。物体浮遊の汎用魔法を扱い、本とシーツを浮かせて、代えのシーツを滑りこませる。
誠次としては、早く本を片付けたいところであったが、香月が粛々と作業をしている間にも、本は香月によって操られ、宙に浮かんだままであった。
「あの、香月。その、本は……」
香月はわざとらしく気が付いたように、誠次をジト目で見つめ、
「あら、どうしたいの?」
「はぁっ!?」
新しいワイシャツのボタンを全て締め終えたところで、変な声を出してしまった。ここを深く追求してくるパターンなのだろうか。
とにかく、慎重に答えなければと思い、誠次はごくりと息を呑んだ。
一応は、貰い物だ。びりびりに破り捨てるのは、失礼にあたるだろうと思うと同時に、担任に対する恨みが募り続けていく一方だ。
「……し、処分します」
「本当に?」
香月は面白くなさそうに、本を積み上げるようにして纏めていた。
「でも残念ね。この本はとりあえず、私が証拠として押収しておくわ」
「証拠? どう言うことだ!?」
「私、桜庭さん、篠上さん、本城さんによる会議で提出するの」
「会議って一体何の会議なんですか!?」
映画で見るようなお堅い重鎮たちが集まる、軍法会議でもするような物言いである。
「貴方が変な気を起こさないように、私たちでしっかりと話し合わないとね」
「俺、管理されているのか……?」
「大丈夫。貴方の悪いようにはしないから」
香月はふっと微笑んでから、大量の本を両手に持ち《インビジブル》を発動する。これにて、香月の姿は誠次以外には見えなくなった。
(私が隠しておいてあげるわ)
「すまない。その、上手く処分しておいてくれると助かる」
再び熱が出てきたようで、誠次は香月によって取り換えられたベッドの上に座る。
(ええ。だから貴方は、早く風邪を治して)
香月は誠次の上半身に片手を添えるように這わせ、軽く押してくる。その手に身体の熱と力を吸い取られるように、誠次はベッドの上に仰向けで寝た。
(最初からあるのなら、そう言えばよかったのに。変に隠すからよ)
「そう簡単に白状するのも、それはそれでな。……でも、布団とシーツ、換えてくれてありがとう」
寝る誠次の上に、香月がそっと布団をかぶせていた。そして、白肌の手を胸から這わせ、最終的に誠次の左手で止まる。
左手を香月にぎゅっと掴まれた誠次は、熱が吸い取られていくような不思議な錯覚を感じていた。
「香月……」
黒い瞳を大きくしてから、やがてゆっくりと目を瞑っていく。
(……温かい。おやすみなさい。天瀬くん)
「なあ香月、昨日の夜の事は――」
開きかけた誠次の口を、香月の人差し指がしっと押さえつける。
(よく分かってるわ。大丈夫)
「……ん」
香月のお陰で、今度は気持ちよく寝ることが出来そうだ。
回復を待ってくれている香月の為にも、誠次は早く風邪を治そうと、安心して眠りについていた。
だいぶ寝れたようだ。掛け布団に包まっていた誠次は、ぱっちりと目を覚ました。手元の時計は午後三時を指していた。時間割で言うと、大体六時限目の授業が終わった頃だろう。放課後だ。
「だいぶ楽になったかな」
上半身を起こしてみると、身体の倦怠感はだいぶ薄れている。
しかし、目覚めからあくびをしながら背を伸ばすのと同時に、誠次は首を傾げていた。
「俺、こんな寝相悪かったけ……?」
寝る前は第二から掛けていた上半身のワイシャツのボタンがなぜか全開になっており、下半身のズボンのベルトに至っては、留め具を外されて解かれている。風邪とは言え服を脱ぐまで寝相が悪かった覚えはなく、それでいて布団はきちんと掛かってあったため、誰かが服を脱がしていたことは間違いない。
ダニエルがちょうどカーテンを開けてやって来て、体温のチェックをしてくれていた。
「フム。まだ熱は下がってはいない。このまま安静にするように!」
「わかりましたから大声止めてください……」
安静、安静と大袈裟なほど口酸っぱく言われ、誠次は困った表情で応じていた。取り敢えず全開だったワイシャツのボタンを締め直し、ベルトもしっかり締める。
「君が寝ている間の五時間目の休み時間、篠上綾奈クンと桜庭莉緒クンがやって来たぞ」
「篠上さんと桜庭さんが!?」
二人の姿が頭に浮かび、まさかと思う。
「ウム。大量の汗をかいていたから、二人に身体を拭いてもらうように頼んだのだが……しばらくしたらなぜか二人とも顔を真っ赤にして出て行ってしまったんだ……」
「……」
顔を真っ赤にした誠次は片手を持ち上げ、仰け反っていた。
二人に服を脱がされる寸でのところで、二人は思いとどまってくれたようだが。
ボタンとベルトは外れっぱなしであったが、布団は掛けてくれていたので、ダニエルにも状況が分からなかったのだろうし、風邪も悪化していないのだろう。
「来る時は廊下でばったり鉢合わせしていたようだが、二人はこれを持ってきてくれたぞ! 感謝して受け取るのだ!」
ダニエルは誠次の枕元に置いてあった複数のノートを取り出して見せる。
「今日の授業のノートのようであるな」
「持ってきてくれていたんですか」
誠次はダニエルからノートを受け取り、手元で広げてみた。モデル雑誌で゛りおりー文字゛とでも呼ばれそうな、桜庭が書いたであろう相変わらずの丸っこい文字で、今日の授業の範囲が映されている。
勉強でもしようか、と誠次はベッド備え付けの可動式のテーブルを動かす。勉強ができないほど身体は重くもなくなったし、さきほどやって来た香月がどうやら間違えて、普通に読んでいた持参した本も持って行ってしまったようだからだ。
「テストの成績かなり悪かったんで、これから勉強します。頭もすっきりしましたし」
「ウム! 勉強は良い事だ! 今は他に患者もいないし吾輩も可能な限り手伝おう! 吾輩、英語は常に満点であったからな!」
グワハハッ、と豪快に笑うダニエルに、内心で怯えながらも「よろしくお願いします」と誠次は、ご教示賜っていた。
しばし、ダニエルと勉強を進めていると、保健室にまたしても来客の雰囲気があった。
「失礼します。本城千尋です」
扉をゆっくりと開く音と、小さな声が静かな保健室に響き渡る。
「君は本当に人気者だな。重体ならともかく、風邪でここまで来客があるのは珍しいぞ」
ダニエルが感心するように誠次を見ながら、仕切りカーテンを開ける。
立っていたのはやはり、金色の髪に前髪を揃えてぱっつりと切った少女、本城千尋だった。気にっているのか、今日もツインテールだ。
「千尋、部活じゃなかったのか?」
「早く切り上げてきました。今日は顧問の先生もちょうど会議でいなかったので、よろしいかと思いまして。水泳部のみなさんも、行ってあげなさいとのことで……」
少し恥ずかしそうに頬に手を添えながら、千尋は言う。
水泳部終わりににシャワーを浴びて来たのだろうか、千尋からは少し離れていても石鹼の心地いい香りが漂っている。
「風邪なのに、勉強なさっていたのですね」
「テストの成績、圧倒的に下から数えた方が早かったし………」
誠次が悩まし気な表情を浮かべていると、千尋はダニエルが先ほどまで座っていた椅子に座る。ダニエルと比べてぎしぎしと椅子が音を立てないのは、千尋のスリムな体型を象徴している証だろう。
「丁度いい本城千尋クン。天瀬誠次クンに勉強を教えてはくれないだろうか? 吾輩、国語が苦手なのだ」
口調こそ口調だが、ダニエルの教える国語や古典は、滅茶苦茶もいいところであった。例を挙げるとすれば、小説の登場人物の心情を当てる問題で、選択問題なのに独自の解釈を記入させられる、という具合である。
「かしこまりました。夏休みの最終日の夜を思い出しますね」
右手の自由が利かなかった時、終わりそうになかった宿題を手伝ってもらっていた。
「吾輩もまだまだ勉強不足。これでは癒しの養護教諭失格であるな……ッ!」
一方、ダニエルは心なしか残念そうにむすぅと鼻を鳴らしながら、カーテンの外に行ってしまった。
「確かに。千尋はずっと成績良くて、尊敬するよ」
「嬉しいです」
にこりと微笑んだ千尋は、持ってきた自分の学生鞄を持ち上げ、中から教材を取り出していた。
「小さい頃から、お父様とお母様には、勉強をする環境を整えてもらっていました」
「環境?」
誠次が訊き返すように千尋を見つめると、目と目が合う。千尋は少し恥ずかしそうに目線を逸らしながら、口を開く。
「両親は二人とも優しいんです。他の人のご両親のお話はよく聞きますけど、勉強しなさいとかはうるさく言われる事はなくて、それでも勉強の大切さを丁寧に教えて下さるんです。ですから、私も自分のペースでゆっくりと勉強することが出来たんです」
「優しいご両親なんだな」
「あ……ごめんなさい、私、誠次くんの前で……」
千尋があっと口元を抑えているが、誠次は首を横に振る。
「構わない。出来れば、もっと話してほしいんだ。千尋の事が知りたい」
「はい……」
緑色の目を輝かせ、千尋は嬉しそうに微笑む。
「綾奈ちゃんとは小さい頃、テストの成績でよく競い合っていました。そのたびに綾奈ちゃんは負けて、悔しがっていたんです」
「すぐ想像できるな……」
「綾奈ちゃんは負けず嫌いですからね。テレビゲームでは、私がいつも負けていましたけれど……」
「やっぱり篠上……ゲーム好きなんだな……」
「あと、牛乳の早飲み対決も。今思えばそれで綾奈ちゃんのバストはあんなに大きく……」
困り顔でくすくす苦笑する千尋は、誠次の熱っぽい右手に手をそっと添えながら、左手で教科書のページをめくっていた。
「あら。誠次くん、ワイシャツのボタンが解れていますよ?」
「え」
誠次は改めてボタンを見てみる。千尋の指摘通り、ワイシャツの第二ボタンの糸がだらしなく伸びてしまっていた。
「ああ、直さないと……」
「よろしければ、私が修繕いたしますよ?」
千尋はそう言うと、鞄に手を入れていた。
「裁縫できるのか?」
「ボタンの修繕ぐらいなら、お手のものです。水泳部の皆さんや、綾奈ちゃんのお気に入りのお洋服も、前に直したことがあったんですよ?」
千尋は小さな裁縫ケースを取り出すと、正確なコントロールの汎用魔法を使って、針に糸を通していた。そのまま左膝を誠次の寝ているベッドの端に乗せ、身体を寄せて来る。
白い二―ソックスと眩しい太ももをちらりと見てから、誠次は慌てて上を向く。
「私の事、もっと知ってください……。身体をもう少し近づけて」
「ああ……」
千尋は誠次のワイシャツを触り、ボタンをじっと見つめ、慎重に針を通していく。千尋の手先はとても器用で細かく動き、それでいて大胆且つ、繊細だった。
「――はい、出来ました! どうですか?」
「ああ完璧だ。俺がやると絶対ぎっちぎちになるんだよな」
ただ糸を通して縛り付けているのとは違う。裁縫の教科書にも載せられそうな見事な出来栄えに、誠次は感心する。
「ありがとう千尋」
「こう見えて裁縫は昔から得意だったんです。小さい頃は、よく指に針を刺してしまって怪我ばっかりしてましたけど」
千尋は誠次の顔を見上げ、にこりと微笑んでいた。
「「――失礼します」」
またしても、保健室のドアをノックする音がした。
千尋が慌てて誠次の元から身体を離している間に、ダニエルが来客者を迎えていた。
「よく来た――君たちはッ!?」
「この節はどうも――」
来客はどうやら、男性と女性の二人組のようだ。聞き覚えのある声ではあった。
驚いているダニエルとその男女は、何やら小声で話している。
その間誠次と千尋は、外の会話に耳を澄ませていた。
「――ウム。ならばカーテンの奥にいるぞ!」
「わかりましたっつー」
「ユエさん。今その言葉遣いは禁止です」
「おっと、ついうっかり」
特徴的な喋り方と名前。特殊魔法治安維持組織第五分隊の、ユエと澄佳のようだ。
「日本語の言葉遣いも色々あって面白いな! 今度学ばせてもらう!」
「いや貴方のも大概ですよ……」
そんなやり取りをしながら、カーテンが開けられる。
立っていたのはやはり、私服姿の南雲ユエと沼田澄佳であった。ユエは温かそうな毛皮のコートを羽織り、澄佳は薄手のカーディガンと言う姿だった。澄佳の右目には、白い眼帯が巻かている。
「その、久しぶりだな、天瀬誠次……」
ユエは白い髪をかきながら、ぎこちなく挨拶をしてくる。
「お久しぶりです。風邪を引いていると聞きまして、これ、喉に効くお茶です」
澄佳が両手に持っていた紙袋を、千尋に手渡していた。
千尋は椅子から慌てて立ち上がり、ぺこりと一礼してから、紙袋を両手で受け取る。
「あっ、私は誠次くんのクラスメイトの本城千尋と申します」
慣れた様子で、千尋は二人に自己紹介をしていた。
二人も自分たちが何者なのかを千尋に説明し、誠次へ先日の件をちゃんと謝罪していた。
「そういう事だったのですね……」
千尋がブレザーの胸に手を添え、俯いていた。
「あの日は変な話、斬ったの右腕だけにしてくれてサンキューな。本当助かった」
「……私、お茶用意しますね」
「目を怪我されておりますし、私もお手伝いします」
澄佳と千尋がダニエルを含めて五人分のお茶を用意している間、ユエと誠次は世間話をしていた。
「澄佳さんの右目、あれは……」
「ああ。あれはこの間……ちょっと任務あって、二人してやられちまったんだ。あの目は、ただの怪我じゃない……」
ユエは少し悔しそうだった。
「そんな……」
誠次は俯いていた。
ユエはそんな誠次を見ると、気にすんなよ、と肩をぽんと叩いてくる。
「特殊魔法治安維持組織に入った時から、覚悟してましただってさ」
「怪我は南雲さんも、ですか?」
「ああ俺はまだマシだったけどな。……まあなんだ、あと俺の呼び方ははユエでいいぜ? 二人とも南雲だし、ややこしいからな」
「二人とも南雲? それって――」
カーテンの外では、お湯を沸かす澄佳と千尋が会話をしている。
「看病していたみたいですけれど彼女さんですか? その、ベッドの上にいたようで――」
澄佳がどこか楽し気に、横に立つ千尋に訊く。
「い、いえっ。ま、まだ正式にそのような関係には至っておりません!」
「うふふ。お嬢様みたいな言い方ですね」
顔を真っ赤に染め、きゃっきゃっと、澄佳は同い年の女子高生のようにはしゃぐ。
「澄佳さんは、あの男の方とはどんな関係なんでしょうか?」
「か、彼の名前は南雲ユエです! 私の……旦那さんです。まだ婚約と言う形だけで、これから籍を入れる予定なんですけど……」
ぽっと頬を赤く染め、南雲澄佳は恥ずかしそうに言う。
「まあっ。婚約……素敵ですっ」
千尋は両手を合わせて、目を輝かせていた。女子としての憧れが、あるのだろう。
「まさか二一歳で結婚するなんて、自分でもびっくりしています。こう言っちゃなんですけど、もっとふらふらしてると思ってました」
それでも澄佳は心の底から嬉しいようで、微笑んでいた。
「ユエさんとは、学生の頃からずっと一緒にいたんです。変な名前で、面白かったんですよ」
「学生の頃から、ですか。それで思いが結ばれるのは、本当に素敵な事だと思います」
千尋はお上品に口元に手を添え、感動しているようだ。
「そう言う千尋さんは、天瀬くんとはどうなんですか? 私が言うのもなんですけど彼、とても女性の事を大切に思ってくれていますよ」
何かあったのかだろうか、澄佳は自信を持って言っていた。
「誠次さんがお優しいのは、知っております。でもお優しすぎて、心配なところがあるんです……」
なるほど、と澄佳は頷く。
「ユエさんも、無茶をして心配なところはたくさんあります。だから、傍で支えられたら良いなと思っています。今は、迷惑かけちゃってるんですけどね……。片目も一生見えなくなって、でも、ユエさんはそれでも支えてくれるって言ってくれましたし」
「……」
千尋は澄佳の言葉を、じっと聞いていた。
やがて、お茶の用意が出来上がり、千尋と澄佳は誠次とユエの元へカーテンを開けて戻って来ていた。
ユエと澄佳が隣同士に座り、千尋は相変わらずお淑やかに、ユエたちとは反対側の方で両手を合わせて立っていた。
「すっげーっ。女子四人に同時告白とか、マジでやべーっつーの!」
「ユエさん、デリカシーなさすぎです……。でも、漫画みたいなお話ですね」
こちらの周りに次々と違う女子がいたことに興味を持ったユエが、どういう事だと何気なく尋ねて来ていたので、誠次が答えていたところ、当然の反応を返されていた。
「影塚がぼやかして言ってたけど、マジだったのか……。ゲームみたいな話だわ」
「でも、すごいです……。女性からの付加魔法で力が解放される剣。不思議ですね」
眼帯をしていない片目を下に向け、あごに手を添えて考える素振を澄佳は見せる。
「最初は付加魔法がその名の通り力を与えているのかと思っていましたが、レヴァテインに元から力が封印されていたようなんです。それが付加魔法によって、鍵が外れるようなんです」
「なるほどね……」
「ユエさん、本当に理解できてるんですか?」
澄佳がジト目でユエを見るが、ユエは肩を竦めながら得意げな表情で、
「さっぱり」
「もう……」
ユエはスタイルの良い長い足を組んで肩を竦め、澄佳が澄まし顔でお茶を啜る。
「レヴァテインつったっけ? 頼む天瀬! 一回だけ触らせてくんねーか?」
ユエが両手を合わせて頼んでくる。澄佳がやれやれと肩を竦めているが、男たるもの、やはり剣に対する興味があるのだろうか。
「いいですよ」
誠次はレヴァテインがあったはずの、千尋が立っている方へ振り向く。
千尋も誠次の視線を感じ、立ち位置を変えていたが、壁に立てかけてあったレヴァテインが忽然と姿を消している。
「あれ? レヴァテインが、ない」
誠次が千尋を見るが、千尋も困惑した表情で「私も知りません」と首を横に振っている。
「ないって、剣を失くしたんですか!?」
澄佳も驚いて、お茶を溢しそうになっている。
「あれ、おかしいな……。確かにそこに立てかけておいたんだけど」
誠次は首を傾げて、辺りを見渡していた。綺麗に掃除が行き届いた保健室に、漆黒の剣の姿はどこにもない。ちなみに保健室の掃除は、毎朝エプロン姿のダニエルが手帚を片手に行っている姿が発見されている。
「ダニエル先生。すみません、レヴァテインを知りませんか?」
カーテンの向こうで椅子に座ってなにやら書類のチェックをしていたダニエルは、何事かねと振り向いてくる。
「吾輩は知らぬぞ? 職員室と保健室を行ったり来たりしていたからな」
「え……本当にないっつーのか?」
ユエが椅子から姿勢を落とし、ベッドの下などを覗いてみるが、どうやらないようだ。
「まさか、レヴァテインが独りでに動いて逃げて行ったのか? 剣の精霊がいて――」
「いくらなんでもそれはないでしょう……」
真剣にそう考える誠次に、千尋がツッコむ。
「誰かが勝手に持って行ったと考えるのが妥当ではないでしょうか?」
澄佳の言葉に、一同は無言となる。
「マズイな。仮に盗まれたなんてことになったら、誰かに悪用されるかもしれない……」
先ほどの小野寺との会話が脳裏に浮かび、誠次は身体から布団を退ける。急いで探さないと、最悪の事態に陥りそうだ。
「誠次くん!? 風邪を引いているんですから、無理です!」
起き上がろうとした誠次を、慌てて千尋が抑える。
「本城千尋クンの言う通りだ天瀬誠次クン! 吾輩がさがしておくから、安静にしているのだ!」
「あのレヴァテインは、大切なモノなんです。ないと分かった以上、ゆっくり眠る事なんできません……!」
それに、十分すぎるほどに寝てしまって、目は冴えている。
「しかし、吾輩にも養護教諭としての立場がある! みすみす病気の身の生徒を出歩かせるわけにはいかんのだ!」
「お願いしますダニエル先生……! せめて、学園の中だけでも……」
「学園の中だけでどれほどの広さがあると思っているのだ!? 絶対にいかん!」
誠次が懇願するが、ダニエルが良しとしない。
その問答の最中、千尋があわあわとし、一方二人が気づかぬところで、ユエと澄佳が何やら小声で話し合っている。
「無理だッ! 安静に――」
「《ナイトメア》」
素早い構築動作の澄佳が放った幻影魔法が、ダニエルの巨体を紫色の光で包み込む。ダニエルは顔を顰め、しかしその目は次第に閉ざされていく。
「なん……ッ!? スリー、プッ――!」
やがて完全に意識を失ったダニエルの巨体を支えたのは、立ち上がっていたユエだった。
「見かけ通り重っ! 一応俺、今日退院できた身だったんだけどな……」
ユエは苦笑しながら、ダニエルを座っていた椅子に腰かけさせてやる。
「これでまた始末書ですね……」
「あー澄佳が法律違反したー」
「ユエさんがしきりにやれって言って来たんでしょう!?」
「ま、これでお互い借りを返せたとは思ってはないが、もって三時間だ。探しに行ってこい。俺たちはもうそろそろ帰らないとな」
「ユエさん滅茶苦茶ですもう!」
澄佳が頭を軽く下げながら、ユエと一緒にダニエルを支える。
「あ、ありがとうございますユエさん、澄佳さん」
ワイシャツ姿の誠次がベッドから立ち上がると、千尋が前に立ち塞がる。
「待ってください誠次くんっ。せめて私もお供させて下さい。レヴァテインは、私たちにとっても大事なものです。そして何よりも、風邪の身の誠次くんを放っておけません。一緒に探させてください」
誠次は戸惑ったが、千尋の目を見ると、頷いていた。
「すまない頼む。手伝ってくれ、千尋」
「誠次くんの大事なものは、私たちにとっても大事なものですから!」
誠次は千尋と共にレヴァテインを探す為、保健室を出て行った。
「学生時代を思い出しますねユエさん」
「あ? 突然なんだよ」
保健室に残されながらも、帰り支度を進めている澄佳とユエは、微笑みながら会話をする。
「アルゲイル魔法学園のミシェル先生の根性注入ですよ。授業サボろうと保健室に行ったら、まとも診察されなくても仮病だって言われて、よく蹴り飛ばされて教室まで返されてましたよね?」
「あれはマジであの小さい身体に馬鹿力眠ってるっつーやつだぜ……。軽く狼一頭は仕留められる」
「だからその例え、いまいち分かりづらいですってば……」




