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魔法世界の剣術士 上  作者: 相會応
テストの色は紅葉色
110/211

7 ☆

「そろそろ時間じゃな。はよう帰るといい」

「なんだ、泊めてはくれないのか?」 

「冗談はよしてくれんか」


 八ノ夜はちのやなずなは、そうして同時に立ち上がる。

 薺は八ノ夜を見上げ、八ノ夜は薺を見下ろす。

 しばしの、無言が続く。


「先の話、考えを改めるのならば今のうちじゃぞ?」 


 今のは、旧友としての忠告だろうか。

 外からの風が室内に向けて吹き、色鮮やかな紅葉が二人の間を駆け抜ける。


「お前も国際魔法教会の幹部の一員なら、分かっているはずじゃ。この世界でどうすれば良いのか」

「お前は一つ勘違いをしている紗愛さえ


 八ノ夜は自信を持った笑みをこぼす。


「勘違いじゃと? 国際魔法教会の力で世界を守る事の何が間違っておるのかのぅ?」

「お前が国際魔法教会の力を使うのならば、私たちは私たちの力で戦うまで。ヴィザリウス魔法学園にいるのは、天瀬誠次あませせいじだけではない」

「面白い。さしずめ、ヴィザリウスの生徒はお前の兵士か」

「兵士ではない、生徒だ」

 

 八ノ夜は目を細め、薺を睨みつける。


「その強気。果たしていつまでも持つか、見物じゃのぅ」

「お前こそ、その強情。いつまでも続くと思うな」

「客人を丁重にお見送りするのじゃ」


 薺も自信気な表情を崩さぬまま、どこへでもなく言葉を発した。゛もしもの時゛の為に控えさせていたのだろう、薺の後ろのふすまが開き、黒いスーツを纏った特殊魔法治安維持組織シィスティムではないSPが、八ノ夜の前に立ち塞がる。


「紗愛。昔の主な革命には犠牲が必ずあった。それを忘れるな」


 薺はくすりと微笑む。


美里みさとよ。これはなにも野蛮なものではない。国際魔法教会が定めた、次の時代への駆け橋なのじゃ」  


 もう、何を言っても考えを変える気はないようだ。――そしてそれは、向こうから見たこちらとて同じこと。

 八ノ夜は悔しそうに唇を噛み締めたまま、SPに囲まれ、部屋を後にしていた。 


               ※


「ここが、本城ほんじょうさんの家……?」


 香月が(どこか残念そうに)呟く。

 本城千尋ほんじょうちひろの実家であり、魔法執行省大臣の自宅。それは極めて普通の都会に立つ、二階建ての一軒家だった。都会の住宅街の一等地であり、人が充分走り回れるほどの大きな庭が目を引く。充分高級な佇まいなのだが、女性陣の持つ゛お嬢様の家´と言う期待には今一歩届かなかったようで。


「思ってたのより、普通だね……」


 桜庭さくらばが分かりやすす過ぎるリアクションをとってしまっている。


「ですから、あまり期待はしないでくださいと言っていましたのに……」


 家の前で立ち止まり、千尋が口を尖らせて言っている。


「いいからいいから。早く天瀬あませの怪我から治さないと。ここに来るまでじろじろ見られちゃってたし……」

「悪いな……」


 千尋の家には来たことがあるのか、落ち着いている篠上しのかみと、その後ろを気まずく歩く誠次せいじ。服はボロボロ。顔に大きな青あざを作り、女子に介抱されて歩いている姿が目立たないはずがない。


「そうですね。お父様が家にいるはずです」

「その、凄腕の執事と言うのは……?」


 気になるのはそちらの存在だ。ヒリヒリする口のまま、誠次は尋ねる。どこからともなく、なんだか嫌な予感がしているのだ。


「私自身、会った事がありませんので詳しくは……。ですが、誠次くんと顔見知りの人だと仰ってました」


 家の入り口である、お金持ちの住宅にありがちな横に引くタイプのシャッターを押しながら、千尋は言っている。


「……覚えはないな」


 ダニエルでない事は確かだろうが、それも万が一という可能性がある。誠次はごくりと息を呑んでいた。口も切っていたため、血が滲んで痛い。


「どうぞお入りください」


 千尋の先導で、家の敷地へと入っていく誠次たち。そこでふと誠次は立ち止まり、千尋の家の二階を見てみる。二階の窓の奥、こちらを見つめる人影に気づいたのは、その時だった。誰かまでは、はっきりとは分からなかったが。

 日も暮れ、すっかり夕方となったこの時間。世間のニュースは、なずな総理大臣の演説に対する暴徒たちの報道でもちきりだ。――しかし暴徒も、夜になってしまえば静まり返る。゛捕食者イーター゛を相手にしては、どんな正当な理由があったとしても、その無慈悲な力の前に捻じ伏せられてしまうからだ。


(それも込みで、薺総理の思い通りなんてわけ、ないよな……)

 

 千尋の家にて、外国のホームパーティーの真似事が出来そうなほどの広さを誇る一階。リビングの椅子に座る誠次は、落ち着かない気分だった。


「久しぶりだな誠次君。怪我の具合はどうだね?」


 私服姿の本城直正ほんじょうなおまさが、昔ながらのコーヒーカップを片手に、机を挟んで誠次の前に立っている。私服姿でもかしこまった印象を与えてくるのは、さすがと言ったところだろうか。


「骨は折れてないみたいですが……。簡単に治せないのが辛いです」

「君にとってはとことん不便な世の中だな」


 本城は同調を誘うようにして笑いかけてくる。


「もっとも、私たちや魔術師にとっても決して今が便利な世の中と言うわけでもないがな」

「……」


 本城の言う゛魔術師゛である女性陣は、全員二階にいる。テレビの音量を落とし静かにしていると、お喋り声が聞こえたりもする。こちらの治療になにか手伝えることはないのかと詰め寄ってきたが、本城が頑なに拒んでいた。それほどまでに、一階に女性陣を来させたくない理由とはやはり、千尋が言っていた執事の存在なのだろう。


「……楽しい打ち上げのはずが、こうなってしまって残念です……」

「千尋たちの心配か。優しく勇敢な君のお陰で全員無事なのだし、私は君に感謝している」


 そこまで言うと、本城は何かを見つけたように、誠次の背後を見つめる。誠次がそれにつられて振り向くと、そこに立っていた人物を見て、思わず腰を浮かした。


「あ、朝霞あさか!?」


 細長い人差し指を縦に指し、しーっと言うジェスチャーを作る、黒髪のポニーテール姿の朝霞刃生あさかばしょう。幻覚ではない、゛彼゛はタオルや医療器具を抱え、本城家のリビングに立っていた。


「上の階のお嬢様方に知られてしまいますので、どうかお静かに。……お久しぶりです天瀬誠次あませせいじくん。そのリアクション、二度目ですよ?」


 相変わらず細身のしゅっとした身なりに、清潔感のある佇まい。何も言われなければ女性と思われてもおかしくはない姿で、さも当然の如く、誠次の前まで歩み寄って来る。


「ま、待て……。まさか執事って……」

「私の事ですよ。もっともこの姿では、執事かメイドか分からないところでしょうが」

 

 茶化すような笑みを見せる朝霞を、本城は睨んでいた。


「刃生。分かっているな?」


 ひんやりと凍てつくような、冷たい本城の言葉。

 すると朝霞は本城の方を向き、従順にぺこりと綺麗な一礼をしてみせる。


「ええ。さぁ天瀬くん、怪我を見せてください」

「ちょっと待ってください! これはどう言う事ですか!? 朝霞はメーデイアに収容されているはずでは……っ! ――ぐァっ!?」


 驚きのあまりに叫べば、誠次は再び胸の痛みを味わってしまい、悶絶もんぜつする。


「天瀬!」

「誠次くん!」


 誠次の叫び声を聞いてしまったのか、二階から大きな足音を立てて降りてくる、四人の女子たち。思えば四人とも、何らかの形で朝霞と関係がある。


「来るなと言っただろう……」


 本城がやれやれと机の上に手をついている。


「この人が執事さん……? 女の人みたいだけど……?」


 林間学校で朝霞と対面していたはずの篠上が、ぽかんとしている。まるで初対面のようだ。


「え?」


 予想とは違う篠上の反応に、誠次が戸惑う。

 対照的なのは香月で、女性姿の朝霞を見るなり身体を硬直させ、じっと睨んでいた。


(そうか! 篠上は女性の姿の時の朝霞を見た事がないからか!)

「あら、可愛らしいお嬢様方ですね」


 声帯を変えたのかと思うほどの女声で、朝霞は口元に手を添え、言う。やはり、それでも篠上は分からないようだった。

 朝霞はゆっくりと歩き、わざとかどうか、硬直している香月の前で立ち止まる。


「あなた方の騎士である天瀬誠次くんの治療をゆっくりしたいので、出来れば二階でお待ち下さると、助かります」

「安心したまえ千尋。綾奈あやなさんたちお友達を二階へお送りしなさい」


 本城が毅然とした態度で告げれば、千尋は少し迷いながらも「は、はい」と返事をして、篠上たちを誘導する。


「こうちゃん? どうしたの?」


 桜庭が動けないでいる香月のセーターのすそを掴んで、心配そうに尋ねる。

 代わりに答えたのは、朝霞だった。


「ご安心を。天瀬くんとは治療とお話を少々するだけですよ」

「……」

「……」


 香月も誠次も、何も言えなくなってしまう。


「さぁ千尋。早くしなさい」

「は、はい。詩音ちゃんも早く」

「……っ」


 香月は何か言いたげではあったが、渋々千尋の後について、階段を上がっていく。最終的には再び誠次、朝霞、本城の三人だけとなったリビング。


「騒がせてすまないな。しかしどうか安心してほしい。今の刃生は私の配下だ」


 本城の言葉を聞き流したまま、朝霞は誠次の前にしゃがむ。


「どう言うことですか?」


 誠次は椅子に座ったまま、身体を強張らせたままだった。


「囚人取引と言うやつですよ」


 誠次の怪我の手当てをしながら、朝霞が答える。


「囚人取引?」


 誠次は朝霞の手つきを注意深く見つめながら、訊き返す。


「私自身、牢屋の中でじっとしているのは性に合いませんしね」

「食えない男だよ。知っている情報を全て話す代わりに、ある程度の自由を要求して来た。そこで私の家に置くことにしたのだ」


 どうしてそうなった……。


「本城大臣、危険すぎます。この男はあなたの命を狙っていたのです! 弁論会の時の主犯格は、この男です!」


 まさか忘れたわけではあるまいと、誠次が本城に問い質す。


「大丈夫だ。この男はもう一切の魔法が使えない。それがメーデイアからの解放の条件の一つになっている」 

「……信用できるんですか?」

「そうだな。もし私が行方不明になったら、真っ先にこの男が疑われることだろうな」

「これはこれは。笑えないご冗談を」


 本城の視線の先、朝霞が苦笑する。いつの間にか、誠次の顔の傷の処置は終わっていた。それでも誠次は、朝霞から警戒心を解くことはなかった。


「桜庭たちに危害を加えるつもりか?」

「そんなつもりはございませんよ。私に得益などありませんから」


 朝霞は素早く処置を終えると、器具を片付け始めていた。医療の心得があったのか、誠次の怪我の痛みは随分と引いていた。暗殺者とその標的が同じ家で生活している。そう考えると奇妙な話だ。


「失礼でなければ、本城大臣の奥様は……?」


 誠次が恐る恐る尋ねると、なにかを悟ったような顔をした本城は豪快に笑いだした。その大きな笑い声は、二階にいる女性陣に安心感を与えた事だろう。


「今は寝室にいるから、安心してほしい」


 千尋に母親はちゃんといるようで、誠次は安心していた。

 やがて朝霞により、怪我の手当てをしてもらった誠次は、机を挟んで本城と向かい合っていた。朝霞に特に怪しい動きはなく、今はキッチンでお茶の準備をしている。


「君が心配に思う気持ちは分かる。だが、今の彼は実に忠実だよ。それに、気は抜いていない」

「絶対に気は抜けません」


 本城は気楽に微笑んでいるが、誠次は張り詰めた表情のままだった。

 朝霞が治療器具の片付けをする中、早速だがと本城は誠次に問いかける。

 

「さて、今日の薺総理の演説は聞いたな。そして、それが元凶で起こった暴徒の行き過ぎた抗議活動に君たちは巻き込まれた。この解釈で相違はないな」

「はい。薺総理は、なぜこのようなタイミングであんな演説を……」


 こちらと本城の前にお茶の入ったグラスを置き、自らは本城の後ろに静かに立った朝霞を見ながら、誠次は言う。


「私もあの人の腹の内は読めない。あの人の、ひいては魔法教会の腹の内はな。そこでこの男の存在だ。魔法教会幹部の、朝霞刃生?」

「はい」


 本城が背後へあごをくしゃれば、朝霞は軽く頭を下げ応じる。


「君はどう思う?」

「魔女の気持ちと言うのは、時に分かりづらいものです」


 夏の一件では八ノ夜はちのやの知力に敗れたと言ってもいい朝霞。どこか言い辛そうに、苦笑している。


「私の予想ではおそらく、薺は私たち国民がどう出るか試したのかと思います」

「試した? 試された側と言うのは、納得できないだろうな」

「ある者は最初からこの世に期待しておらず、傍観を決め込む。またある者は、政府に反対の意思を伝えるために、暴動を起こした」


 そして、


「ある者は、見事に薺の望む世界を守る為に戦った」


 誠次を愉快そうに見て、朝霞は言う。


「違う。俺はみんなを守る為に戦った! なにも薺総理の思い描く世界の為なんかじゃない!」

「フフ。やはり貴方の意思は揺るぎがないようですね。少し、安心しましたよ」

「貴方と戦ったその日から、変わるものか!」


 誠次はきっぱりと言い放つ。        

 朝霞はそんな誠次を満足気に見つめてから、一呼吸を置いていた。誠次は奇妙な気分だ。


「話を戻しますが、薺は国民がどうするかを見たかったのでしょう。時に彼女は子供の様に、我が儘だ」


 朝霞は冷静に分析しているようだ。

  

「薺総理の正体については、二人ともご存知だったのでしょうか?」


 真剣な表情で誠次は二人にく。それには二人とも頷いていた。知っていた、という事だろう。


「だが幼子の姿のままでは、総理大臣も務まらないだろう。一度傾きかけたこの国を立て直すには、彼女の力が必要だった。彼女の後ろ盾である、国際魔法教会の力が」


 本城は誠次を見つめて言う。辻川つじかわも知らなかったはずの薺の正体を知っているという事は、大臣の中でも重要な位置にいるのだろう。魔法執行省と言う役職を見るに、当然か。

 薺自身も、言っていたことだ。国際魔法教会の力がなければいけないほど、世間は危うい均衡きんこう状態なのだろう。

 誠次は朝霞に用意された服に着替えたところだ。


「国民を試したと言われても、その結果、危険な目にあったのは俺や千尋さんたちや国民なんですよ!?」


 誠次が語気を荒げる。不思議なもので、朝霞によって治療された胸の痛みは引いていた。


「歴史のお勉強です天瀬くん。革命は、いつだって犠牲の上に成り立つもの。欧州のフランス革命や、アジアの辛亥革命など――」


 そう納得しろ、と囁きかけてくるような朝霞の言葉に、誠次は素直に首を縦には振らない。


「薺総理は革命は必要だったと言っていました。だとしても、今までの革命が犠牲の上に成り立っているものだとするのならば、一切の犠牲がない革命をすることだって、出来るはずです」

「具体的にはどうすると? 全ての国民が納得でき、一切の反対の意見が出ないやり方があるとでも?」

「……っ。人をあやめようとしてまで急ぎ過ぎたお前の考えよりはマシだ!」

「落ち着きたまえ天瀬くん。刃生も揚げ足をとろうとするな」


 本城が立ち上がりかけていた誠次をなだめ、朝霞も「すみませんでした」と頭を下げて一歩ほど下がる。この光景を見れば、朝霞は本城の忠実な部下に見える。


「私が君を家に呼んだのは、何も言い争いをしてもらうためではない」


 本城が椅子から立ち上がりながら、話し出す。


「大阪、北海道と続いて今日のリニア車。これまで君の活躍は、充分に称賛されるべきだ。学生と言う身分に、関わらずにな」


「朝霞はなにを言ってたの?」

「……薺総理と同じような事を。二人に共通するのは、後ろに国際魔法教会があるというところか。とりあえず、何も手出しはして来ないとは思うけどな……」


 誠次と香月が、ソファに座って会話をしていた。

 ひとまずの治療がてらの会話を終え、女性陣が一階に降りて来ていた。男三人の時の殺伐とした空気はすっかり失せ、本来あるべき華やかな雰囲気へと本城宅は戻っていた。人数が多いせいで、軽いパーティ状態である。


「デンバコが使えないのはかなり不便だな」


 八ノ夜の意見も聞きたかったが、真っ二つに折れてしまっては出来そうにない。


(何だか、頭が痛いな……)


 誠次はふぅと、息をついていた。


「――クッキー、いかがです?」


 すると朝霞の声がし、誠次と香月の目と鼻の先に、プレートに盛られたきつね色のクッキーの山が差し出される。朝霞はソファの前にしゃがみ、こちらを見上げていた。


「朝霞……。俺はお前がやろうとしていたことを忘れたつもりはない」

「なにを企んでいるの? 朝霞刃生」

「手厳しいですね。ですが私自身、こちらの方が性に合ってるようでしてね。今は本城家に仕える執事であり、それ以上でもそれ以下でもありません」


 朝霞は微笑んでいた。


「それに私も、見てみたいのです」

「なにをだ?」


 誠次はソファに座ったまま背筋を伸ばし、朝霞に問う。


「貴方が言っていた、大切なものを守った先にある世界。果たしてそれが吉と出るのか凶と出るのか」

「もう貴方の言葉を、信じるつもりはない」

「それは残念です」


 朝霞の即答に、誠次の背筋は思わずぞくりとなる。


「フフ。さあ、どうか今宵は日々の疲れを癒してください。過去を忘れてとまでは、いきませんでしょうけど」


 朝霞は立ち上がると、キッチンにプレートを置いてから、二階へと上がっていく。誠次はその女性びた後姿を、じっと見つめているだけだった。


「――天瀬くん」


 隣の香月の心配そうな声に、誠次はハッとなる。


「大丈夫?」

「……あ、ああ。なんでもない」

 

 自分をそう納得させ、誠次は立ち上がっていた。最後まで信頼は出来ないが、朝霞が何かをするつもりでもない。身体の怪我を治療してくれたのも、素直に本城の命に従ったからなのだろう。


「……」

 

 無言でこちらを見つめる香月を置き、誠次は歩き出す。

 誠次は続いて、リビングに置いてある水槽の中を泳ぐ熱帯魚に餌をやっている本城直正を見た。魚を愛でる表情は、一見健やかそうには見えるが、水槽の青い光が射せば、どこか影があるようにも見える。


「ゆっくりは出来そうにないかね?」


 見ていた事に気づいたのか、本城の方から誠次と香月に話しかけてくる。


「……いえ。ですが……朝霞の事を、本当に信用しているんでしょうか?」


 誠次が慎重に訊くと、本城は水槽の熱帯魚を見つめたまま、


「君は心配し過ぎだな。少し肩の力を抜いたほうがいい」

「……ですけど――」

「信用はしていない。私も自分の命を狙おうとした相手を、素直に信じるほど愚かではない。それに、君が納得できないと思う気も充分に分かる」

「で、でしたら……」

「だが、我々には何よりも朝霞の持つ情報が必要だったのだ。この身の安全と引き換えにしてでも」

「情報?」


 誠次が首を傾げるが、本城は誠次と香月を見つめて顔を寄せて来た。そして、周囲には聞こえないような小声で話し出す。


「レ―ヴネメシスの事などな。明るみに出ていない情報を知り得る良い機会なのだ。詳しい事が分かり次第、君のところの理事長にも報告するつもりだ。だから今は、どうか目の前の現実を呑み込んでいてほしい」


 本城の言葉に、誠次は頷いた。


「分かりました。ですが、気を付けてください」

「ああ。君の事は信頼している。だから君も、どうか私を信頼してほしい」

「はい」

「私は執務があるので、部屋に戻っているよ。何かあったら知らせてほしい」

「夕食はご一緒しないんでしょうか?」

「実はすでに食べてしまっていてね。この年になると、腰回りの事も気にしなければ」


 茶化すように笑いかけてから、本城はこちらに背を向けていた。今は、本城直正の事を信じるしかない。

 誠次と香月はお辞儀をして、本城を見送っていた。


挿絵(By みてみん)

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