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七話 迎撃Ⅱ

 

主様あるじさま、そろそろ魔物が見える位置まできます」

 避難所の屋根の上、周囲を良く見渡せる位置にテレスは立っている。

 探知の結界は周囲に張り巡らされており、村に侵入した魔物達の動きを伝えてくる。テレスは脳裏に描いた村の地図に魔物の反応を重ね、その位置と速度を確認すると、落ち着いた声で主に報告をした。

 すぐに避難所の前、時には(いち)も立つ村の広場に居るグレイから返事があった。

「わかった。攻撃のタイミングは任せる」

「心得ました」

「村人を護る事が優先だ。建物の被害は諦めろ」

「……はい」

 テレスは、耳元で聞こえる主の声にやや硬い声で答えた。

 二人共、離れた位置にいるのに声を張り上げて会話しているわけではない。風にお互いの言葉を届けてもらっている。

 これはマナが掛けた精霊術で、「風の囁き」と呼ばれている。

 風の精霊術としては、最初に習得する程に基本的な物である。屋外でしか使えず、距離も百メートル程度まで。術を掛ける対象者に触れる必要があるので、盗み聞き等には使いづらい。細かな制約があるとは言え、無線機や携帯電話等の通信手段が無いこちらの世界では、実に便利かつ有用な術である。

 この術により、グレイ達八人は相互に連絡が取り合える状態であった。今の会話も、他の者達に聞こえていたはずだ。だが、下位の精霊術故に効果時間が短い。この術もそろそろ効力を失う頃だ。

 上位の精霊であれば幾つかの制約が外れ、効果時間の長い物になる。だが残念な事に、冒険者達に風の上位精霊と契約している者は居らず、テレスの契約精霊は問題が在り過ぎて使えない。

 グレイは先程、土の上位精霊を呼び出したばかりだ。精霊を召還した場合、召還した精霊と同系統以外の精霊術がしばらく使えなくなる。召還した精霊の影響を術者自身が強く受ける為だ。つまり今のグレイは再び土の精霊、もしくは土の系統に属する岩や石等の精霊は召還出来るが、風を含む他の系統の精霊は召還出来ない。

 「風の囁き」は連続使用が出来ないばかりか、術を施された者にも暫くは掛け直す事が出来ない。戦闘中に使うには効果時間が短すぎるので、戦闘前の指示や連絡用に使用していた。

 迎撃の準備の為に忙しなく動き回りながら、指示を出す主の声を聞き逃さなくて済んだので、それで良しとする。

 テレスはこの術の効果時間が短い事に、リリア達に気付かれないように心の内だけで安堵していた。長時間会話が筒抜けになっては、テレス達にとっては少々都合が悪い。冒険者達には聞かせられない事情が多すぎる。

 村の中央に位置する避難所目指し、遺跡の方角から魔物の群れが押し寄せてくる。

 家々の間に見え隠れしている魔物の姿を、テレスは自分の目で確認した。一筋の光すら無くとも闇を見通せる堕天使の眼を持ってすれば、深夜とは言え月明かりまであるのだから、明るいとすら言っていいくらいだ。

 ティアも暗闇など障害にならないが、グレイはそうもいかない。人を超えた視力を持っているグレイでも、暗闇を見通せるわけでは無いのだ。もっとも、主は人としては規格外の鋭敏な感覚を持っている。例え真の闇の中であろうと、普段と変わらず動けるのではないかとテレスは考えていた。

 冒険者達の中では、獣人二人は暗視と言う程ではないものの夜目が効く。だが残りの人間達にとって、やはり闇は大きな障害である。

 テレスが魔術で作りだした光球が十個、ゆったりと避難所の周囲を旋回しながら、眩い光で辺りの夜闇を退けている。避難所の周りで戦うのならば、闇に視界を塞がれる心配は無い。

 探知の結界で確認した魔物共の歩みは、やけに遅いものだった。おそらくは、主が召還した精霊の仕業なのだろう。おかげで時間が稼げたし、まだ暫しの猶予がありそうだ。

 テレスは遠くに見える敵を照準する。しかし、舌に乗せた詠唱を唇で紡ぐ前に飲みこんだ。

 建物の間から見える魔物の姿は、すぐに障害物に隠れてしまう。一匹程度なら兎も角として、複数を狙うには条件が悪い。ちまちまと倒しては魔物の敵愾心を煽るだけ。敵の意気を砕く意味でも、最初の一撃は可能な限り多くを狙いたい。

 マナが掛けた風の精霊術の効果が切れたのを確認してから、テレスは(かたわ)らに立っている少女に声を潜めて尋ねた。冒険者達には出来れば聞かせたくない。

「ティア、『アクマ』の気配はありますか?」

 索敵や探知等の結界は幾重にも周囲に展開しているが、敵には魔術を無効化する手段があるので油断は出来ない。無効化されればされたで何か反応があるかも知れないが、確実にそうとは言い切れない。あの指輪の力を、全て知っているわけでは無いのだ。

 だからティアに訊ねた。この少女の感覚は当てに出来る。視覚や聴覚、嗅覚などはテレスよりも優れているのだし、なにより彼女は気配を捉えることに長けている。ティアがテレスより早く危険を察知し、難を逃れた事は数え切れない程にある。その経験から堕天使は、戦闘精霊に大きな信頼を寄せていた。

「……気配はする。でも、どこか判らない」

 テレスの問いに少しの間、眼を閉じて索敵に集中していたらしいティアはそう答えた。

 その答えにテレスは眉根を寄せた。気配が感じ取れると言う事は、敵はすでに魔術の索敵圏内に居る可能性が高い。だが、テレスの探知には何も反応が無いのだ。探知の結界を強化するべきか悩んだが、ティアが判らないと断言する以上、術を重ねたところで無駄になるだろうと判断し諦めた。

 敵を見つける事は大事ではあるが、魔力を使い過ぎるわけにもいかない。主の協力で随分回復しているが、全快しているわけではないのだから、ここで無駄使いをしては戦闘に支障が出かねない。

 リリア達に、今の会話を伝える気は無い。

 魔物の群れを前にして、すでに彼等は過度に緊張している。百の魔物と数人だけで対峙するなど、通常では有り得ない状況なのだから無理もない。そんな彼等に、厄介な敵が所在不明のまま、すぐ近くに居るかも知れないなど、とても言えるものではない。最悪、恐慌にでも陥って取り乱されでもしたら、それこそ護ることすら難しくなってしまう。

 だが、主には伝えねばならない。

 グレイは屋根の上ではなく、冒険者達と共に避難所の前に居る。もし悪魔がリリア達を狙ったとしたら、彼等では勝ち目が無い。彼等が戦うのが魔物達だけであったとしても不安が残るので、グレイはベルクドと共に陣頭指揮を執りながら、彼等の護衛も兼ねている。

 大声を出して伝えるなど論外。聴覚も人並み外れた主ならば、普通に話しかけてもこの距離なら届くであろうが、下にはメイとマナも居る。純血の獣人と獣人ハーフである彼女達も耳が良いので、聞こえてしまう可能性は高い。

 日本語で伝えようかとも考えたが、すぐにそれを却下する。

 戦闘前に、冒険者達の目の前で理解できない言葉を交わすなど、彼等に不審を抱かせるかも知れない。ただでさえ、自分達がいろいろ怪しい者だというのは自覚しているのだ。これから共に戦う者達との、無用な摩擦は避けたい。

 テレスは下に視線を移した。避難所の前に居る己の主の姿が眼に入る。周囲を警戒しているが、特に緊張しているようには見えない。

 主もティアと並ぶ程に感覚が鋭いが、それが最大効果を発揮する範囲が狭い。悪魔の気配に気付いてはいないだろう。その気になれば自身を中心に周囲五メートル位の範囲で、降りしきる土砂降りの雨粒一つ一つまで知覚できるらしいのだが、範囲外となるとテレスやティアには遠く及ばないのだ。しかも、

(主様は、結構気を抜いている事が多いですしね……)

 小さく溜め息ひとつ。テレスが傍に居なければ、なにかと手を抜きたがるのは彼女の主の悪癖だ。幾度となく小言……進言をしているのだが治らない。普段から気を張っているのは、面倒くさくて疲れるから嫌なのだそうだ。

 挙句に「お前達がなんでもかんでも出来るから、俺はなにもしなくても大丈夫さ」と、公言して憚らない主を思い、さらに憂鬱な気分が増してしまった。

 それでも主は、やるべき事はきちんとやり遂げる。今は真剣であると信じたい。

 そんな想いを浮かべていた堕天使が見下ろす視線の先、彼女の主は大きな欠伸をしていた。

 テレスはがっくりと項垂(うなだ)れた。

 主は本当に分かっているのだろうか。今やこの村は壊滅の危機であり、知り合った冒険者達の命の瀬戸際でもあり、そして、

(あなたの従者にとって、最大の危難かも知れないんですよ? 主様ぁ……)

 なんだか泣きたくなってきた。ティアが無言のまま、ぽんぽんと軽くテレスの背中を叩く。慰めてくれているのだろうが、更に惨めな気分になってしまう。

 テレスは涙目のまま顔を上げ、そっと静かに口笛を吹いた。音はしないが、失敗したわけでも吹けないわけでもない。人間には聞こえない口笛に、ティアがぴくりと耳を動かして反応した。そして、もう一つ反応があった。テレスの呼び掛けに応えて、風の下位精霊が(あらわ)れる。

 仄かに光を放つ小さい、とても小さい旋風(つむじかぜ)

 小さく、か弱いこの精霊は、テレスと契約を交わしているわけでは無い。ただ珍しい気配の呼び掛けに気を引かれただけ。全ての精霊が応えてくれるわけでは無く、下位精霊ですら気が向かなければ無視されたりもするが、今回は幸いな事に気の良い精霊が近くに居てくれたようだ。

 契約している訳では無いので、この精霊を介して精霊術の行使は出来ないのだが、魔力をほんの少し分け与えてあげれば伝言くらいは頼めるだろう。

 魔力を他人に譲渡する事は出来ないのだが、精霊達は他の者から魔力を汲み上げる事が出来る。精霊全てが人に友好的と言うわけでは無く、中には勝手に人から魔力を奪っていく精霊も居るのだが、殆どの精霊はそんな真似はしない。

 人と契約を交わした精霊は、己の力を貸し与える代わりに代価を求める。多くは魔力であるのだが、物や貨幣で融通が利く場合もあるし、血で代用されたりもする。そして、ちょっとした頼み事程度ならば、契約無しでも代価を支払えば聞いてくれる。燭台に火を灯すのに火の精霊にお願いしたり、井戸から水を汲み上げるのを水の精霊に手伝ってもらったりするのは、珍しい光景では無い。

 この世界では、強力な精霊術を行使する術士だけではなく、日々の生活の中でも精霊達は人と共に在る。

 テレスは、くるくると楽しそうに踊りながら彼女の髪と戯れている精霊に、主を指で指し示しながら囁きを託し運んでくれるよう頼んだ。頼まれた精霊は、頷くようにテレスの目の前で数回上下に動くと、彼女の指し示した方向へ飛んで行き、グレイの顔近くにふわりと浮ぶ。

 精霊が運んでくれた囁きに耳を傾けたグレイが頷き、屋根の上のテレスを見上げて軽く手を挙げた。テレスは自分の言葉がきちんと主に伝わった事に、少しだけ安堵する。難敵が既に付近に居るかも知れないとなれば、主も気を引き締めなおしてくれるだろう。

 ……シテクレマスヨネ?

 信じてはいる。いるのだが、ついジト目で睨んでしまったテレスから、主は何事もなかったように視線を逸らした。

「……むぅ」

 少しだけ拗ねたテレスが洩らす唸り声に、ティアが何時も通りの抑揚の無い声を重ねた。

「来たよ」

 気を引き締めなおさねばならないのは、テレスも同じ事。

 ティアの声に、テレスは魔物共へ視線を戻した。ゆっくりと覚束ない足取りで進軍していた魔物達は、今や広場のすぐ近くまで接近している。地を踏みしめるその足も、先程よりしっかりしているようだ。

 少女の警告を聞くまでも無く、魔物の接近には当然気付いていた。探知の結界はテレス自身を中心として、半径壱キロメートル程を覆っている。魔物達がどこにどれだけ居るかなど、手に取るようにテレスは把握していた。悪魔の潜む場所が不明なのが不安ではあるが、今は手の出しようが無い。まずは、対処出来る事から確実にやっていくべきだろう。

 屋根の上にはテレス達二人しか居ない。

 見通しの良い屋根の上からならば魔術での援護もしやすい。また、悪魔共をリリア達から引き離す目論見もある。悪魔達の目標である堕天使は、目立つ屋根の上で背筋を伸ばし胸を張った。

 強敵の存在を冒険者達にも知らせはしたが、彼等に悪魔と戦わせる気は毛程も無い。悪魔の相手は自分達の仕事と心得ている。

 ティアはテレスの護衛だ。テレスも並以上に格闘戦をこなせるが、悪魔二人相手ではさすがに分が悪い。接近戦に長けた者が側に居る必要があった。

 屋根の上に陣取る予定だったメイ達は下に降りてもらった。ただでさえ彼等では悪魔に太刀打ちできない。そのうえ逃げ場の無い屋根の上で、空を飛べる悪魔に襲われては彼等に成す術は無く、テレスもティアも狭い足場で彼等を庇いながら戦うことは不利に過ぎる。まだ魔物の群れを相手して貰った方が対処のしようもある。主も共に居るのだから、魔物達ならばどうとでも出来るはずだ。

 共に戦う仲間達に開戦を知らせる為、テレスは良く通る透き通った声を張り、高らかに詠唱を開始した。

「テレスリーア・シンクレットが命じる!」

 詠唱途中のまま術の構成を維持して、敵の姿が障害物に邪魔されずに、確実に視認できる位置に来るまで待つ。探知の結界で位置は把握しているが、術の行使には視覚による識別が必要だ。そうしなければ、村の建物に余計な被害を与えるかも知れない。見えない所に術が放てない訳では無いのだが、視覚による対象の選別をしていなければ、術の範囲内の物全てに影響が出るし、正確に狙うことも難しい。

 主は、人的被害さえ抑えられれば建物は吹き飛ばしてもいいと言っていたが、テレスはその言葉には賛成しかねる。人間を……特定個人では無く、人間そのものを愛し肩入れしすぎたが為に堕とされた天使。そんな彼女だからこそ、人々の生活の場は可能な限り荒したくないと思っていた。

 寂れた村とは言え、中央付近は避難所を筆頭に村長の家や宿屋等、村の中でも比較的大きい建物が集まり、その周りにも都市程では無いものの家々が密集していた。無差別に大規模な魔術など行使したのならば、村の機能を司るこれらの建物に甚大な被害が出るだろう。

 魔物の動きが速くなった。建物の間を縫うように駆けてくる。視界を遮る家々の隙間から魔物が飛び出してきた瞬間。

「大地よ! 槍となりて我が敵を穿て!」

 テレスは力ある声に魔力を乗せ解き放つ。

 間を置かず魔物の足元の地面が鋭い錐のように隆起して、テレスの視界に入った十匹程の魔物共は残さず串刺しとなった。魔物達が飛び出してきた場所のみならず、そこかしこに土の槍が無数に突き出し、敵の動きを止める……はずだった。串刺しとなった仲間の凄惨な死を目の当たりにしたはずの後続の魔物達は、なんら怯む事無く突き刺さった仲間の死体を足掛かりとして、土が作り出した槍衾を乗り越え突撃してきた。

 魔物共の目に尋常では無い狂気の光を見て取ったテレスは、即座に次の詠唱に入った。

「テレスリーア・シンクレッ……」

「何度もやらせるわけないでしょぉ!」

 テレスの詠唱を遮って放たれた声と共に、一本の矢が雷光の速度で飛来した。

 詠唱を即座に中断、術の構成を破棄したテレスは、上半身を捻って顔面目掛けて飛んできた矢を回避しようとするが間に合わない。

 矢は真直ぐにテレスの美しい顔に突き刺さるかに見えたが、その直前で弾かれたように軌道を変えて彼女の頬を掠めていった。

 テレスの鼻先、僅か数ミリの位置に鈍い銀色の篭手を嵌めた右手が下から伸びている。テレスが視線を下げると、目の前に紅の髪が風に踊っていた。

「ありがとう、ティア。助かりました」

 テレスが強張った体から力を抜きつつ礼を言えば、

「……ん」

 ティアは前方を睨み据え、テレスに背を見せたまま上に突き出した右手を下ろし、こくりと頷き短く答えた。

「あらぁ残念。惜しかったわねぇ」

 くすくすと笑いながらの声に、テレスは眼を向ける。

 何時の間にそこに居たのか、テレスの視線の先には女悪魔アンナベリア。三十メートルも離れていない距離。想定外に接近されていたことに、まったく気付けなかった。テレスは内心驚愕していたが努めて顔には出さない。

 もっとも、悪魔がテレスの前に現れた事自体は目論見通りなので、同時に安堵もしていた。ただ男悪魔の姿が見えないのは気がかりである。

 悪魔は悠然と笑みを浮かべ、蝙蝠のような黒い翼を大きく広げて空中に佇んでいる。悪魔や天使が飛ぶ為に、羽ばたきは必要な物では無い。飛び立つ時や方向転換する時などに、翼で空気を打ったりもするが無意識にやっているだけで、それが無ければ出来ないと言うものでも無いのだ。物理的に風を捕らえる事無く、空を自在に駆け宙に留まる事が出来る。

 魔術ともまた違うのだが、実のところ当の本人達にも理屈は良く判っていない。世に生じた瞬間からそうなのだから深く考える事も無く、手足を動かすのと感覚的には大差ない。

 悪魔の手には歪な形の黒い弓。かなり大振りなそれを水平に構え、堕天使へ向けている。構えた弓に矢がつがえられていないが、弓自体が発する魔力からして間違いなく術式付与道具(マジックアイテム)の類なのだとテレスには判る。

 構えから狙っている方向は分かっても、矢が無いのでどこを狙っているかまでは、正確には判らない。女悪魔の視線は真直ぐにテレスの視線を跳ね返しているが、馬鹿正直にその先を狙っているとも思えない。

 そして、放たれる矢が一本だけとも限らないのが厄介だ。術式付与された武器ならば、複数の矢を同時に撃ってきてもおかしくは無い。ただ、先程の攻撃では確かに矢は実体化していた。魔術攻撃と違い実体の在る物ならば、少なくとも正面から向かってくる物はティアが確実に迎撃してくれる。外れた矢が目標を追尾してこないのも救いではある。

 しかし、安易には動けない。次に放たれる矢が実体を持った一本だけとは限らず、絶対に追尾しないとも言い切れない。もしも実体の無い魔術の矢が複数、執拗に追尾してきたとしたならば、威力によってはテレス達でも危うい事になりかねない。

 なにより、先程頬を掠めた矢の傷がまだ治らない。この程度の掠り傷は堕天使の回復能力ならば、もう完治していてもおかしくないはずなのにだ。

 実体を持っていたとは言っても、それが魔術で生成されているのは明白だ。堕天使の肌に傷を付けられ、尚且つ回復を阻害していることから、なにがしかの術が矢自体に込められているのだろう。矢の威力そのものよりも、術が解析出来ていない事がテレスの動きを縛っている。

(せめて放つ瞬間を視る事が出来ていれば……!)

 視たからと言って、それで全て明らかになるものでも無いが、その時の魔力の動きから弓に付与された術式を読めた可能性はある。

 避難所の前、屋根の上に居るテレス達の足元の方から喧騒が沸きあがる。避難所前で待ち構えていたグレイ達が戦闘に突入したのだろう。だが、テレスもティアもそちらに眼を向けることが出来ない。目の前の女悪魔から視線を外すのは危険すぎる。

 悪魔の姿にも、皆気付いているはずだ。堂々と避難所前の空中に居るのだから。

 冒険者達の動揺が気に掛かるが、今は己の主が上手く凌いでくれている事を願うしかない。

(ティアが居てくれて助かりましたね。私一人では先程の攻撃で終わっていました……)

 テレスは矢が掠めた頬に滲んだ血を拭いながら、自分を護ってくれているティアと、彼女にテレスの護衛を命じた己の主に、そっと心の中で感謝した。

 己の周囲に常に展開している防護術を、少し過信していた事も反省する。今の矢は、それらを苦も無く突き抜けて来た。

 普通の矢であれば、テレスは額を射抜かれてすら絶命することは無い。もっとも、普通の矢では堕天使に傷を付けることなど出来ないのだが。相手の目的がテレスを生かして捕らえる事にあるのだから、余程の事が無ければ殺される事は無いだろう。しかし、捕縛の為に手足を切り落とすくらいの事は、平気でやるだろうとも思えた。事実、先程なんの躊躇も無く顔目掛けて矢を射ってきたのだし、当たっていたならば即死はせずとも戦闘は不可能だった。悪魔達は、こちらの最大戦力が堕天使であると睨んで、まず最初に無力化するつもりなのだろう。

 「このまま睨めっこでもするのぉ? ぼんやりしてると大事な大事な御主人様が、こわ~い魔物に食べられちゃうわよぉ? 」

 女悪魔の挑発にテレスは唇を噛んだ。悪魔から眼を離すことは出来ず、このままでは下で戦う者達の援護が出来ない。

 しかし、テレスの目の前に居る少女は挑発に動じなかった。

「マスターは負けない」

 悪魔を睨みながら言い切ったティアの声には、絶対の信頼を感じさせる力強さがあった。

 三十メートルの距離を物ともせずに、ティアの声を耳に捕らえたらしい女悪魔は、感心したような呆れたような顔をした。不思議な事でも無い。テレスもティアも、さして大きな声量で話して居る訳でも無い悪魔の言葉が聞こえている。敵味方共に、人間を超えた者達なのだから。

「どこから、そんな自信が来るのかしらねぇ。さっきは互角程度だったけれど、今はこちらも武装しているし魔物共も居るのよぉ? いくら魔力が強くても、所詮は人間でしょうに。私達相手に貴女達抜きでどうにかなるとでも思っているのぉ?」

 先程の戦闘では悪魔の魔術を弾き、蹴り飛ばすという事までしたグレイ。しかし、テレスの魔術の護りがあり、ティアの援護があった。彼女達二人を欠いた今、その戦闘力は大幅に落ち込んでいる。

 だが、それらの事実の前にも女悪魔の言葉にも、

「マスターは、誰にも負けない」

 紅の少女の信頼は、まったく揺さぶられることは無かった。

 少女の言葉を女悪魔は詰まらなさそうに鼻で笑って受け流す。

「そう? ならそこで大好きなマスターが死ぬまで、大人しくしていればいいわ」

 ティアは悪魔に声を返すことはせず、視線に力を込めて睨む。その後ろでテレスはティアの言葉を、少女が主に向ける信頼を羨ましく思っていた。

 自分も素直にそう信じたい……と。

 テレスとて主を信頼しているが、気掛かりなことがある。それは、主が全力を出すことを躊躇するのではないかという懸念。

 過去、主が持てる魔力を全開にして、身体能力を全て出し切った全力戦闘は僅かに三回。


 狂気に捕らわれ自分を見失った、人造精霊の少女を助ける為に。

 万を超える年を経た精霊を宿す、神殺しの剣を鎮める為に。

 そして……愛した女性の願いに応え、自らの手で滅ぼす為に。


 過去に思いを馳せたテレスの胸に痛みが走る。

 出会って七年。その間に、ただ一度だけ流された主の涙を思い出し、対峙している悪魔の事も忘れてしまいそうな程に心が千々に乱れた。

(主様は、自分の力を呪っていらっしゃる……)

 元々、主は自身の力を忌避している節があった。人を遥かに超えた能力を恐れているような言動が幾度かあったのだが、あの事件が決定打となったようにテレスには思える。

 あれ以来、主は他人との交流を可能な限り避け流浪生活を送っている。定住出来ない理由は他にもあるのだし、流浪生活自体はこの世界に来てからずっと続いているが、以前にも増して一所(ひとところ)に留まる時間は短くなっていた。

 そして全力の戦闘は、あの時から三年も経つのに一度も見ていない。それ程の切羽詰った事態になっていないと言えばそれまでなのだが、主はあの事件以降は剣を抜いていないのだ。

 今、腰に吊るしている安物では無い、本当の自分の剣を。

 主にとって最も相性の良い、使い勝手の良い魔剣まで封印して、全力を出す事を拒んでいるように思えてならない。それはきっと……


 その剣で……自らの手で斬り捨てた、あの女性(ひと)の事を思い出してしまうから。


 テレスは痛む胸を強く押さえた。

 いつからだろう、こんなにも主の事で思い悩むようになったのは……。

 元の世界から逃走する時に巻き込んでしまった。生まれ育った場所に帰れなくしてしまった事に悔恨の念を覚え、護ると約束した。今のような主従契約では無い、唯の約束。

 そう。最初は自己満足でしかなかった。自身の罪を償いたかっただけのこと。まだなんの力も持っていなかったひ弱な少年を護りたいという想いに嘘は無かったが、それすらも彼の為ではなかったはずだった。


 けれど、今はなによりも、自分の事よりもあの人を護りたいと強く想っている。


「テレス?」

 目の前のティアが呼ぶ声に、テレスは思いに沈んでいた心を引き戻された。

「……ごめんなさい、ティア。大丈夫」

「ん」

 答えるテレスに、悪魔への警戒を怠らぬまま頷くティア。テレスの気が逸れている間も、ずっと護っていてくれた。その華奢な背中を見ながら、テレスは気を引き締めなおした。

 今は目の前の悪魔を倒す事が、なによりも優先するべき事だ。

「ティア、翼を狙ってください。傷付けるだけでも、しばらくは飛べなくなります」

「わかった」 

 テレスの耳打ちにティアも囁くように答える。

 できる限り速やかに女悪魔を退ける。可能ならば滅ぼし、最低でも無力化して主の下へ駆けつける。テレスは今するべき事を認識し、悪魔に強い視線を向ける。

「あらあら、やる気になったのかしらぁ? このまま睨めっこでもよかったのだけれどぉ」

「参ります!」

 テレスが発した、自らを鼓舞する為の宣言と同時にティアが動いた。軽く身を屈めただけの姿勢からは想像出来ない跳躍で、一気に女悪魔目掛けて飛び出していく。

 ティアが動いたのを見た女悪魔はすかさず、

「穿て!」

 短い号令と共に矢を放つ。弓につがえられている時には見えなかった矢が、放たれたと同時に十本実体化してティアに襲い掛かる。

 あの矢は防御術では防げない、ならば

(潰します!)

 テレスは間を空けずに、無詠唱で魔術を発動。

 テレスの援護を受けたティアを取り囲むように蒼い炎が燃え上がる。飛来した矢は、行く手を遮る炎に触れると瞬時に灰も残さず燃え尽きた。全ての矢を防ぎきった炎も散り散りになり、空中で燃え尽きていく。

 本来は術を掛けられた者の動きに追随し、近寄る物を焼き払う攻防一体の術なのだが、今回はそれを護りとした。無詠唱故に短時間で効力を失ったが、役目は十分に果たしている。

 ティアはテレスが防いでくれると確信していたのか、自身目掛けて襲い掛かった矢など、最初から無かったかのように一切を無視。体勢を崩すことなく消え行く蒼い炎の乱舞を潜り抜け、女悪魔に砲弾の如く襲い掛かった。

 弓の迎撃を無力化された悪魔は、回避の間も同時に潰された。ティアの拳を弓で受けるも、勢いを殺しきれず縺れるように落下。組み合いながら落ちた二人は、地に激突する寸前で御互いを突き飛ばすように離れた。ティアは身の軽い獣の如く、四肢を柔らかく使って着地の衝撃を殺す。悪魔は翼を拡げ優雅に地に降り立ったが、左の翼の皮膜が裂けていた。翼に風を受け止めて飛翔している訳では無いとは言え、翼の傷が再生されるまでは飛ぶ事が出来ない。

「……やってくれたわねぇ、お嬢ちゃん?」

 翼を折りたたみながら、悪魔がティアを睨む。落下中の短い時間で、テレスの助言通りに厄介な飛翔能力を潰す辺り、戦闘精霊の近接戦闘能力の高さを伺わせる。

 ティアが駆け出し、悪魔は後退して距離を取りつつ弓を構えた。それを許さずと速度を上げたティアの紅の髪が、真直ぐ後ろに流れる。

 近距離で真正面から放たれた矢を、ティアは体を振りながら避け、幾本かは手刀で弾いた。確かな足場が在るのならば、正面からの攻撃など易々と()てさせるティアでは無い。だが、さすがに回避の為に僅かに速度が鈍った。その間に女悪魔は、さらに後ろに下がり狭い路地へと逃げ込んでいく。

 弓を得物としながらも狭い場所に逃げ込む悪魔の行動は、間違いなくテレス達を誘いこむためのもの。こちらの戦力分断を狙っているのか、罠でも仕掛けてあるのか。なんにせよ放置は出来ず追いかけるしかない。

 避難所の屋根の上から、その動きを見ていたテレス。追撃に移ろうとしたところで、下に居るグレイ達の姿が視界の端に入った。気を取られそうになったが懸命にそれを振り払い、悪魔とティアが駆け込んだ路地近くの屋根目掛け跳んだ。今はティアを援護しなければならない。

 空から援護出来ればいいのだが、翼を使う事は出来ない。悪魔が居ないのと同様に、この世界に天使も居ない。翼を広げた自分の姿は、きっとこちらの人々には、

(……魔物の類にしか見えないでしょうね)

 獣人族の中には翼を持つ者も居るのだが、そういう者達は人間の容貌からは離れている。全体としては人型なのだが、顔が猛禽類のそれだったりするのだ。逆に魔物の中には、人間に近い容貌を持ちながら翼を持つ者達が居る。そしてどちらも、その背の翼を隠せたりはしない。天使や悪魔だって、そんな便利な翼を持ってはいない。

 必要に応じて顕れる光の翼など、十二人しか居ない最上位天使だけの物だ。

(私が堕ちて、十人になってしまいましたね……)

 刹那、永い時を共に過ごした姉妹達の姿が浮び。

 今更、詮無き事と思考の奥に沈めた。

 

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