十話 祈り
家々の屋根から屋根へと跳躍しながら、テレスは探知の結界からティアの位置を常に追っていた。
悪魔は相変わらず探知に掛からないが、ティアの位置は確認出来る。狭い路地を吹きぬける風のような速度で移動しているのは、逃げる悪魔に振り切られずに追っているからだろう。だが移動し続けているということは、まだ追付いてはいないという事でもある。
飛ぶ事は出来なくとも悪魔の身体能力ならば、今のテレスと同じように屋根を渡るくらいは造作も無い。だが、ティアもそれを可能とする身体能力を持っている。
視認しやすい屋根の上ではティアの追撃を振り切るのは難しく、死角の多い路地を抜けていけば撒くことも出来るかも知れない。ティアが振り切られてしまえばテレスの探知では見つけられず、悪魔はまた潜伏する事になる。或いはそれを狙って、再び奇襲を掛けるつもりなのか。
悪魔の位置が特定出来ない以上、下手に攻撃魔術を放つ事は出来ない。村に被害を出す事も避けたいが、それ以上に魔術を放った位置がもし悪魔の後ろだった場合、追撃するティアの邪魔をしてしまう事になるからだ。
「先ずは、この眼で悪魔の姿を捉えなければ……」
するべき事を確認するように、小さく声に出してみる。
追い着くべきか先回りすべきかを僅かな時間考え、テレスは後者を選択した。
路地をじくざぐに曲がりながら移動しているらしいティアの動きを考えれば、屋根の上を突っ切って行けるテレスが追いつく機会は十分ある。だが後を追って行くよりは、先回りしてティアと挟撃した方が良いだろう。
テレスはティアの移動する方向と速度から見当をつけ、先回り出来る位置を探しながら屋根を渡る。その間にも幾度か軌道を修正し、やがてティア達が来るであろう路地に降り立った。
降り立つと同時に天使時代から愛用の武器を召還。
真直ぐ横に伸ばした左手に闇が集まり、濃い影が長柄の武器を形造る。
昔日は黄金色に輝き、幾多の悪魔を滅してきた己の分身。
今は漆黒に染まった槍斧をその手に掲げ、悪魔が目の前に現れる時を待った。
(魔術を無効化する手段があるのならば、直接攻撃するまでの事。敵は魔術士型のようですし、接近戦に持ち込めば勝機はあるはず)
出来れば余り使いたい手では無かった。
テレスもそれなり以上に近接戦闘は出来るが、自分では得意な物ではないと思っている。一二人の最上位天使の中でも、テレスは後衛役が多かった。魔術であれば姉妹の中では長姉に次いでの使い手であり、逆に武器を用いての戦闘では一番弱かったからだ。今でも魔術抜きの戦闘訓練では、ティアにもグレイにもまったく歯が立たない。テレスは、武器を用いての近接戦闘には少し劣等感を持っていた。
(エネスリーア姉様は、どちらも最強でしたね)
久しぶりに武器を手にしたからか、先に降りたはずの姉を思い出してしまった。
テレスは戦闘中には余分な思い出を振り切るように激しく頭を振る。
どうも今回の戦闘では集中に掛けている事を自覚する。自分でも気付かぬうちに、逃げ切れたはずの世界からの追手に動揺しているのかも知れない。
テレスは武器を持っていない右手で、自らの頬をぴしゃぴしゃと叩いて気を入れなおした。探知に感じるティアの反応は、もう間近に迫っている。悪魔が目の前に姿を見せるまで、そう待たされる事も無いだろう。
格闘に秀でた男悪魔が横槍を入れてくる可能性はあるが、その時はそちらをティアに任せれば良い。
先程ティアに使った蒼い炎を纏う事はしない。一度発動してしまえば魔力で支えながらも実体を伴う炎だからこそ、術を突き抜けるあの矢を防げた。
テレスが身に纏う防護術式は普段は実体が無い。設定した範囲内に護る対象を傷付ける恐れのある物が進入した時に、自動的に感知して防護機能が働く。
あの矢は術を無効化する為、術の感知に掛からないので防護を抜けて来るのだろう。だが、ティアが自らの手で弾き返した事からも、物理的な手段であれば普通に遮ることが出来る。
しかし、リリア達の目の前でディンガを燃やし尽くした炎と違って、あの蒼い炎は対象を絞ることが出来ない。術を掛けられた対象者以外を、無差別にその炎で焼き尽くしてしまうのだ。ここで使えば周りの家々は大惨事になるであろう。ましてや、ティアと共に格闘戦に突入したならば、身体能力に秀でた戦闘精霊であろうとも巻き込んでしまう可能性が高い。
矢を防ぐだけならば他にも候補となる術はあるが、敵には弓以外にも攻撃手段がある。敵の物理攻撃も魔術攻撃も、身に纏う防御術式だけで防げないのは判っているのだから、その都度対抗策を練らなければならない。
そして共に戦うティアの援護も考える必要がある。ティアも、精霊でありながら人に作られた為か、その身に豊富な魔力を有している。全ての魔力を自身の身体強化に向けている為、術は使えないのだが強い魔力を持っているが故に、魔術への耐性もかなり高い。しかしながら、さすがに天使や悪魔に比べれば劣るので、悪魔の魔術に対抗する手段をテレスが担当する必要があるだろう。
結局は戦況次第の出たとこ勝負と、堕天使は腹を決めた。
探知によって位置を見失う心配は無い。ティアはこちらに駆けて来ているし、少女の追いかける先に悪魔が居る事は間違いない。ティアが悪魔を見失う失態を犯すなど、テレスは欠片程も考えていなかった。
堕天使の信頼を裏切る事なく路地の角から悪魔が飛び出し、テレスに気付くとニヤリと口元に嫌らしい笑みを浮かべて足を止めた。
両脇は家が並び立ち、後ろからは戦闘精霊が追撃してくる。跳躍して逃げるかとも思われたが、悪魔はその場で弓を構えた。
テレスはその場から動かない。悪魔との距離約十メートル。この位置ならば飛来する矢に対する手段はあるが、これ以上近づいてはさすがに防げない。ティア程の身体能力を持っている訳では無く、至近距離で放たれる十本の矢を全てかわせる自信など無い。
悪魔にもそれが判っているのか攻撃はしてこなかった。構えた弓は、槍斧を持つテレスへの牽制のつもりなのだろう。事実、弓に狙われているが故にテレスは迂闊に近付けない。
ティアが追いついて接近戦に持ち込んでくれれば、悪魔にも弓を撃つ暇などなくなるだろう。その時こそが、加勢する好機と考えていた。少女は、それ程離されてはいない。
だが、悪魔の先程の笑みが気になる。追い詰められた状況で、なぜあんな風に笑うのか。
テレスが答えを見つける間も無く、追いついたティアが悪魔に飛び掛った。
ティアの蹴りを、またも弓で受けた悪魔は距離を取る事を諦めたのか、弓を振り回す変則的な棒術めいたものでティアに対抗し始めた。
魔術を使い弓を撃つスタイルから後衛寄りと思われた女悪魔は、驚くべき事に接近戦に長けた戦闘精霊と互角に戦っている。
狭い路地で目まぐるしく位置を入れ替えながら、激しい攻防を繰り広げる悪魔と少女。
その光景にテレスは絶句した。暴風のような二人に近づくことすら出来ない。
魔術抜きの近接戦闘ならば、ティアとまともに張り合える者など多くは無い。そもそも持てる能力が桁違いの、堕天使に打ち勝てる少女なのだ。
しかも、ティアにはテレスが身体能力を強化する術を掛けている。あの状態の戦闘精霊と戦えるのならば、女悪魔の脅威はかなりの上方修正が必要だ。
二人の攻防に割って入る事も出来ず、テレスは歯噛みしながらも魔術の構成を練る。
「テレスリーア・シンクレットが命じる!」
敵に対魔術防御があろうと関係無い。一瞬でも気を逸らせば、ティアの攻撃は避けられまい。
「光よ! 矢となりて我が敵を撃ち抜け!」
先の戦闘では、対魔術防御の指輪により無効化された攻撃。今回も同じく、悪魔の周囲に瞬時に展開した闇に触れると、なんの効果も残さず霧散した。
女悪魔はテレスの魔術に対して、何一つ反応を見せなかった。
まったく遅滞なく、一瞬の隙すら作らず悪魔はティアとの戦闘を続けている。
その悪魔の行動を、テレスは訝しく思った。
(発動呪文を使わなかった……?)
全ての術式付与道具が発動呪文を必要とする訳では無いが、確か前回は指輪の力を引き出す為に、なにか囁きかけていたはずだ。発動呪文そのものは聞き取れなかったが、間違いなくその場面をテレスは見ている。
思考は刹那、テレスはある事に気付いた。
指輪が発動呪文の無いまま、その効力を発揮しているのは今回が初めてではない。
(私が放った最初の魔術! あの時、すでに発動していたはず!)
テレスが放った光の矢を食らい、土煙の中に消えた悪魔達。だが、その中から無傷で現れたではないか。発動呪文を唱えてはいなかったはずなのに、結界は展開された。
そうして思い返せば、二度目の魔術攻撃で指輪の効力が発動される瞬間まで、あの指輪が術式付与道具だと気付けなかった。それは指輪そのものの魔力が殆ど無いも同然だったからだ。
テレスの魔術を無効化する程の強力な結界を展開するには、もっと魔力が込められていなければならないはずだ。だが、指輪にはそんな魔力は無い。
ならば、どこから魔力供給されているのか?
答えは明白。使用者以外に有り得ない。
事前に発動呪文を唱えてから、そのまま維持されていた結界に一度目の魔術は阻まれた。では二度目の攻撃を防ぐ為に発動呪文が必要だったのは、その時は効力が切れていたことになる。
(単発の攻撃で効力が失われる? いいえ、たぶん……)
己の考えを確認するべく、テレスは魔術による攻撃を試みた。
「テレスリーア・シンクレットが命じる! 光よ! 矢となりて我が敵を撃ち抜け!」
まず同じ術を放ち、間を置かず無詠唱で雷を撃ち込む。
それで終わらせず、続けて無詠唱……すらする事なく、治癒術式を悪魔に飛ばす。
蘇生以外の治癒術ならば、詠唱どころか術の構成すら必要とはしない。天使が元々持っている能力だからだ。天から堕ちた今も、その力は失われていない。
悪魔に治癒術を掛けるなど、ひとつ間違えれば敵に利する行為である。賭けではあったのだが、テレスの読みは当たった。
光の矢、そして同時に放たれた雷は先程と同じく闇に阻まれ霧散し、続けて掛けた治癒の術すらも無効化された。
一回毎に効力が切れるのでは無く、敵が指輪の効力を維持している間は何度でも防がれる。これはすぐに察しが付く事だ。魔術一発で結界が消えるのなら、二十を超える光の矢の一発目は無力化されても、後に続く矢は当たるはずなのだから。使用者の魔力供給が途絶えるまで、効力は維持され続けるのだろう。そして、無効化されるのは指輪の持ち主に害ある物だけでなく、全ての術が対象のようだ。
(指輪に魔力供給している間は術が使えない? 術の構成を始めれば、そちらに魔力を流さなければなりませんから、指輪への供給が途絶えて力が失われる可能性は高そうですね。もしくは、結界を展開していると使用者の術すらも無効化してしまうのかも知れません)
推測の域は出ないが、大きく外れてもいないだろうとテレスは思う。
敵には堕天使の魔術防御を貫ける程の攻撃魔術がある。それだけ強力な遠距離攻撃能力がありながら、屋根の上のテレスに奇襲を掛けた時に、弓を使ったのは術が使えない状態だったと考えられる。
魔術を使わなかったのは、指輪の効力を維持して探知を無効化していたからだろう。術を使う為に結界を解けば、その瞬間に探知に掛かったはずだ。それだけでティアの感覚すら誤魔化せるのかは判らないが、悪魔自身にも隠蔽の技術があるのかも知れない。
そして今結界を維持しているのは、当然テレスの魔術による援護を警戒しての事。
(……けれど、なぜ?)
ティアと並ぶ程の格闘能力と、テレスの魔術を無効化する道具。それだけ揃っていれば、初手から強行な手段にも出るのも判るが、なればこそ何故もう一人の悪魔はここに居ないのか。
なにせ格闘戦ならば、男悪魔はティアとグレイを一度に相手取って引けは取らなかったのだ。ここに男悪魔が加われば、テレス達は一気に窮地に陥っていた可能性は決して低くない。
テレスにしてみれば、女悪魔がティアと格闘戦で渡り合えるのは誤算だった。
女悪魔が予想もしていなかった近接戦闘能力を持っていた事によって、テレスとティアの二人が女悪魔一人に釘付けになっている。男悪魔の出方次第で、戦況は一気に決まりかねない。
ティアが女悪魔を引き付けている間に主の援護に廻ることも考えたが、姿の見えない男悪魔がこちらに現れれば少女だけでは手に余る。万が一にも女悪魔を自由にしてしまえば、堕天使の防護術式すら貫く弓と魔術は、戦況を決める脅威と成り得る。
対魔術防御の指輪を持っているのは女悪魔。ここに男悪魔が居ないと言う事は、少なくとも探知範囲内には居ないはず。いや、男悪魔の方にも何か似たような物があるのかも知れないのだから油断は出来ない。
先の戦闘では男悪魔が格闘戦を担当し、女悪魔が後ろから魔術を使っていたので、すっかり騙されていた。
よくよく思い返せば、女悪魔は主が反応出来ない速さで肉薄し、その爪を振り下ろした。テレスが割り込めたのは、永い時を悪魔達と争っていた天使時代の経験の賜物。
そして炎の中からの主の奇襲を、間一髪とは言え悪魔はかわしている。直後に腹を蹴り飛ばされたが、奇襲をかわした不利な体制では避け切れなかっただけだろう。蹴り飛ばされながらも、さしてダメージが無かったように立ち上がっている事から、自ら跳んで威力を軽減していたのかも知れない。
それだけの身体能力は、今目の前で見せ付けられている。
戦闘能力を見事隠し切り、役割分担していると思い込ませた。その為に戦況はテレス達にとってまずい方向へ転がり始めていた。最初から悪魔の策に嵌りこんでいた気すらする。
---思い込み?
堕天使は、浮んだ己の考えに戦慄する。
(……男の方も魔術が?!)
魔術だけでは無い。女悪魔のような厄介な武器を所持していたとしたら。
女悪魔がテレス達の戦力を分断する為の囮だとすれば、当然男悪魔は主達を狙うだろう。
その場合、男悪魔が魔術を使えるか使えないかで、戦況は大きく変わる。
魔術が使えないとするならば、主が男悪魔を抑える事が出来る。主はティアを凌ぐ程の身体能力を持っている。かつては魔剣無しでティアの暴走を止めたのだから。
今のティアとは比較になら無い、闘争本能を剥き出しにして己の体が壊れるのも構わずに、全能力を解放していた狂った戦闘精霊と互角に戦い勝利したのだ。
主が例え全力を出せずとも、倒す事に執着せず張り付いて、リリア達が襲われる事を阻むだけならば問題無くこなすだろう。両悪魔を抑えてしまえば、今のリリア達ならば魔物共の殲滅も、時間は掛かるだろうが可能だ。
だがしかし、男悪魔に魔術と言う切り札があったとしたら。
女悪魔のように、強力な術式を付与された武器を持っていたとしたら。
主は魔術を物ともしないが、それは主個人だけの話だ。
女悪魔がテレスを奇襲したように男悪魔が離れた位置から魔術で奇襲したとしたならば、主は無事であってもリリア達も避難所に篭っている村人達も、とても助かる術は無いだろう。
いや、護る手段はある。しかし、主にその選択が出来るかは未だ判らない。
リリア達を護りきれなかった場合、主の受ける心の傷はどれ程深く大きいものとなるのだろうか。
それが怖い。
主を護るなど当然の事。それは心を護る事も含まれる。
主の頬を伝った、一筋の涙が思い出される。
あの時、もう二度と涙は流させないと誓った。だと言うのに、その誓いを守れないかも知れない。
ティアが悪魔に張り付いているが為に、ティアへの支援魔術すら悪魔の対魔術防御に巻き込まれて無効化してしまう。
悪魔と戦うティアに加勢する事も出来ず、考えうる最悪の展開にテレスは蒼褪めていた。そんな堕天使にアンナベリアはティアとの戦闘を止める事無く笑い掛ける。
「どうしたのぉ? 堕天使さぁん。マクレフトがどこに居るのか気付いたのかしらぁ?」
くっと唇を噛むテレスに、アンナベリアは愉快そうに笑みを深めた。笑いながらもティアの攻撃を捌き、弾き返している。このままでは埒が開かず、今この瞬間にも主が危機に陥っているかも知れない。
テレスは決断した。
「ティア! 主様の下へ戻ります!」
テレスの声を聞いたティアは、なんの未練も見せずアンナベリアから離れ、一直線に堕天使へ向け駆け出した。
アンナベリアはティアが離れた瞬間、弓を構えテレス目掛けて矢を放つ。射線上にはテレスの下へと向うティアの背中があったが、ティアを護るように蒼い炎が燃えがり、少女の背後から追撃してきた矢を全て燃やし尽くした。炎はそれだけに留まらず、周囲の家に次々と燃え移っていく。
「あらあら、いいのかしらぁ? 村を護る事は止めたのぉ?」
アンナベリアの嘲笑交じりの挑発にもテレスは怯まない。
「ええ、諦めました。村よりも護るべきものがあるのですから」
テレスは答えながら、矢継ぎ早に無詠唱で魔術をアンナベリアへと向け放つ。
炎、雷、氷、光、土、闇、等など、幾多の魔術の矢が飛び、色様々な光が悪魔に撃ち込まれた。
全て無効化され肝心の敵には届かず、無詠唱故に狙いの甘い魔術は周囲の建物を巻き込んだ。家々は瞬く間に全壊して瓦礫となり、その瓦礫すら炎に包まれているが、テレスは構わない。
最悪を回避する為、誓いを護る為、村を護る等と温い考えは捨てていた。
建物の被害は諦めろと言っていた主の言葉が思い出される。
この状況を読んでいた訳では無いだろうが、主に従って最初から悪魔を倒す事だけに集中していればと、後悔が湧き上がるのを止められない。
撃ち込んだ魔術は、唯の目くらまし。もとより悪魔に通るとは思っていない。指輪の効力が無くとも、無詠唱の魔術など悪魔にさして効くものでも無い。主の下へ撤退する自分達に狙いを付け難くする為だけの物だ。
テレスはティアと共に駆け出した。跳躍して炎の上に出てしまっては、弓の格好の的だ。だから炎の中を走りだす。
しかし、すぐに追ってくるだろうと思われた悪魔は動かず。アンナベリアはその場に佇み、だらりと下げた左手に弓を持ったまま。
「いってらっしゃい、がんばってねぇ……でも、そっちじゃ無いわよぉ?」
燃え盛る炎の中でくすくす笑いながら、嘲るような調子で言葉を投げてきた。
その言葉にテレスは足を止めなかった。
あんな言葉は唯のはったりだ。今更迷う事など無く主の居る避難所を目指す。
だが、続く言葉になにかが引っかかった。
「睨めっこだけでも良かったのだけど、遊んでくれて楽しかったわよぉ。あははははははははっ!」
えっ?と言う感じでテレスの足が止まり、アンナベリアへと振り向いた。
悪魔はただ笑う。
炎の中で笑い続ける。
右往左往する堕天使を嘲笑っていた。
そうだ、確か悪魔に仕掛ける気になった時にも言っていた。
このまま睨めっこでも良かったと。
「時間稼ぎ?!」
主の居る場所に男悪魔は来ない。あのまま屋根の上で膠着した状態が続いていたとしたら、そこに男悪魔が現われても時間を稼いでいた意味は無い。今ここに女悪魔が居るのは、テレスを誘き出す為でも無く、ましてや戦力の分断でも無い。ただテレス達が仕掛けたから、より時間が稼ぎやすいように逃げ回っただけの事。
(しかし、だとしたら一体何のために?! いえ、さっきの言葉だってブラフの可能性が?!)
テレスは混乱の中にあった。悪魔達の戦略が読めない。
ただ判るのは、女悪魔がああして悠然と佇んでいるからには、悪魔達の準備が整ったという事だけ。
それを裏付けるように、アンナベリアは哄笑を止め、テレスに向け残忍な笑みを形作って言い放つ。
「さぁ、そろそろ楽しいショーが始まるわよぉ」
悪魔共はテレスが考えていたよりも、狡猾で残忍で用意周到だった。
堕天使の疑念に応えるように、探知の範囲から外れた場所で、膨大な魔力を込めた強力な術式の構成が湧き上がった。
テレスはすぐ膨れ上がる魔力に気付き、そちらの方角を見て眼を見開いた。
テレスには読める。今湧き上がり、そしてまだ大きくなっていく魔力が編む術の構成。
「広域……無差別…………極大規模の……攻撃儀式魔術……」
テレスは全身の血が凍りつくような思いで呆然と呟いた。
あれ程の魔力を編みこむには、テレスでも最短で一日は掛かるだろう。
男悪魔がテレス達との戦闘後に術式を構成したのならば、脅威的な早さと正確さで術を組んだ事になる。しかも、ただ早いだけではなく、今のテレスでは扱えるかどうかと言った強力な儀式魔術。
落ちてくる雷の数は万を超える。一撃一撃がテレスの放てる最大級の雷すら凌ぐ威力。それが、嵐が襲ってきたよりも激しい勢いで降り注ぐ。
神の一撃にすら匹敵する程の強力な術の行使。
テレス達は耐えられる。悪魔達との戦闘に備えて、すでに最大限の防御術式を掛けてある。その上、それぞれの魔術防御は元々高い値にある。おそらく、主とテレスはその後の戦闘すら支障は無いだろう。
だがリリア達は、村人達は……助かる可能性など無い。骨どころか消し炭一つ残さず、この世から消え去るだろう。
茫然自失と言った有様のテレスを、アンナベリアは三日月の笑みで楽しそうに眺めている。
元より悪魔達に堕天使を殺す気は無い。きちんと耐えられるであろう想定で儀式魔術を用意している。
だからこそ、隙だらけのテレスに攻撃を仕掛けない。今、堕天使を捕らえるよりも、存分に打ちのめしてからの方が楽しいから。無力化してから大事な者達を失うところを見せ付けるより、自由にさせて置いて、尚なにも出来ない方が悔しいだろうから。
あれは唯の嫌がらせ。護りたいものを護れなかった堕天使達を嘲笑う為のもの。もしも、戦闘不能にでも出来れば儲け物程度にしか考えていない。
それだけの為に、ただ悲しみに押し潰され泣き叫ぶ姿が見たいが為に、わざわざ手間の掛かる儀式魔術を用意し策略を練る辺り、やはり悪魔の心は歪んだものなのだろう。
そんな悪魔共の狙いに、今更ながらに気付いたテレス。時既に遅く、悪魔の儀式魔術は発動寸前まで来ている。
あれは止められない。もはや術の発動まで然程の時間は無い。今からあの場所に向っても、間に合わない事は明白だ。
あのまま、避難所の屋根に留まっていれば良かったとテレスは思う。
悪魔達は知らぬだろうが、主が傍に居てくれたならば、テレスにはあれを防げる手段があった。
「テレス、消せない?」
ティアが小首を傾げて訊ねてくる。テレスは被りを振って答えた。
「今の私では無理です。主様から離れすぎました。間に合いません」
「そう」
テレスの答えを聞いたティアは、いつもの無表情、抑揚の少ない声、けれど、
「マスターが、なんとかしてくれるよね」
揺るがない信頼を宿した瞳の強い光は輝きを失わない。
ティアはその瞳のまま、今にも弾けそうな儀式魔術を見上げた。
テレスは、ティアのように楽観は出来なかった。主があの魔術を防ぐには、剣の力を借りなければならない。
テレスは主が居るであろう避難所の方へ眼を向ける。剣を抜くにしろ抜かぬにしろ、どう転んでも主の心は傷付くだろう。
ならばせめて、今生きている者達を助けたい。
自分を捨てた神では無く、己の主に縋る思いで祈る。
堕天使の祈りに応える力は、すでに主がその手に掴んでいるとも知らずに。