〈17〉安らぎ
私は、少し首が痛くなって目を覚ました。
そうしてようやく、自分が眠っていた場所に気が付く。
壁際に座り込み、リトラは私の体を包み込むような形で眠っていた。私はその胸から顔を離し、ようやく昨日のことを思い出す。頭も痛かった。
泣き疲れて眠ってしまったのだろう。途中からの記憶がない。
その後も、リトラはずっとこうしてくれていた。自分だって疲れているんだから、戻ってくれてよかったのに。
首を傾けて眠るその姿に、私は言葉にできないような感情を覚えていた。
つらい思いばかりさせる私ではなくて、違う人を好きになれば、リトラはもっと幸せだったはず。
けれど私は、認めてしまうなら、リトラの存在に安らぎを感じてしまっている。
それは、昔からそうだったのだけれど、もしかすると意味が違っているのかも知れない。
レイヤーナで言い切った時のように、この気持ちの正体が断言できない。
だから、昨日、扉を素直に開けられなかった。
顔を見て、優しい言葉をかけられたら、色々なものが耐えられなくなる気がしたから。
そして、あの約束がリトラの口から再び聞けたことが、嬉しくて仕方がなかった。
今も昔も、あの一言が鍵になる。
向けられた想いをずっと拒絶していたくせに、と私は自分をなじったれど、今更なかったことにはできないから。
この変化を告げたら、リトラはどうするだろう。
ただ、今はまだ、私情に流されている時ではない。
援軍が到達するまで、持ちこたえなければならない。
もしかすると、私はまた、最悪の決断をしなくてはならないのだろうか。
そう考えると、体が芯から冷えて行くけれど、それでも私はきっと決断する。
そうして、私はもう一度戦地に立った。
三国に向けた使者が援軍を連れて戻って来るまでに、準備期間などを入れると、通常なら早くても三日はかかるだろう。
その間に、ペルシは進軍する。
不干渉条約の締結から、それが破られたのは初めてのことだけれど、いざそうなってみてわかったこともある。それに頼り切る形では、やはり国は守れないのだということ。
援軍の到達を待てるだけの防衛能力がなければ、間に合わない。
この部分も今後の課題だろう。
デニアの丘から投石器などを撤退するかどうか考えたけれど、やはり残すべきだろう。
そうすると、ペルシ軍は上陸先を変更する。ただ、その先が一点ではないこと。それが難点だ。
スード寄りの地点と、レイヤーナ寄りの地点。レイヤーナは常にペルシとの境を哨戒している。あまり動きを見せて哨戒船を寄せ付けてしまっては不利になる。だから、狙い目はスードに近い地点のはずだ。
ただ、絶対と言い切れるものではない。
だから、レイヤーナ側にもある程度の兵は集結させて牽制しておかなければならないし、もちろんデニアの丘にも必要だ。だから、兵は三等分するしかない。
そうすると、スード寄りの地点が最も危険だ。ペルシの出方次第だけれど、多分、このままでは後がなくなるのだから、なんとかして落とそうと躍起なはず。もしかすると、スード寄りの地点に全軍を投入する可能性だってある。
そうなった時、伝令を受けて兵を向かわせたとして、やっぱり持ちこたえるだけの力がなければならない。なるべく、戦闘力を重視して編成するけれど、国のために命を預けてほしいと言うしかない。
初めての死線に、どこまでの兵が耐えてくれるだろう。
この任命は、死ねと宣告するのと同義になってしまうかも知れない。
デニアの丘に一連隊を残し、残りの兵力は騎士団の鍛錬場に集結していた。
ペルシ軍の動向も見張らせているけれど、あまり大きくは動かない。そうなると、援軍を待っている可能性がある。
捕虜の使い道として、公開処刑をしてペルシの兵力を一点に集中させるという策を提案した者もいたけれど、それをしてしまえば、相手はどんなことをしてもアリュルージを滅ぼそうとするだろう。
情にほだされても、情を捨て去っても同じことだ。どちらに流されてもいけない。
人の心の流れを、間違いなく読み取ることが求められる。
私は、殿下だけにまず自分の策を提案した。殿下の許可が下りなければ、どうにもならない。
殿下は私の決断に、眉をしかめてかぶりを振られた。けれど、私の決断の意味をわかって下さったから、任せると仰って頂いた。
「これは、私の口から申します。私が受け止めるべきことなので」
大きなため息が殿下から吐き出された。苦しいのは、私だけではない。
今度の作戦の概要を、私は兵の前で伝えた。
当たり前だが、ざわざわと不安げな声が上がる。
スード側の地点に配属される部隊がどこなのか、それが生死を分かつと思うのだろう。
経験、実績、戦闘能力、統率力、すべての点から判断し、私は指揮官を任命する。
「ファルス平野の指揮官をクロヴィス=ウィグネット将軍に任命いたします」
私のことを快く思っていないクロヴィス将軍だけれど、やはり、国の最高位の武人だ。防ぎ切れるとしたらこの方だけだろうと、私は私情抜きに選んだつもりだ。選り抜きのを連隊を編成して、必ず乗り切ってもらえると信じている。
将軍は、冷えた目で私を一瞥すると、正面に進み出て私の前にひざまずく。
私の言葉は殿下の言葉だと、不本意ながらにも認識してくれたのか、兵の前で拒絶するようなことは矜持が許さなかったのか。
「御意のままに」
ざわざわと、兵がざわめく声が聞こえる。
私が私情を挟まずに選んだつもりでも、兵たちがどう見るのかはまた別の話だ。厄介払いと見た者もいるのかも知れない。
将軍がもとの場所に戻っても、ざわめきは収まらなかった。
けれど、私の次の言葉を聞いて、兵たちも黙り込む。
「クロヴィス将軍の補佐に、リトラ=マリアージュ第三中隊長を任命いたします」
一瞬の静寂が、その場に訪れた。
兵の視線がいっせいにリトラに向かう。
私が彼を任命することだけはないと、誰もが思っていたのだろう。
先ほどとは比べ物にならない喧騒が、一気に沸き起こった。
クロヴィス将軍は、能力でいえば間違いない。けれど、いざという局面で、私の策を信じ切っては下さらないだろう。
だからこそ、私は補佐に、誰よりも私を信じてくれるリトラを付けるしかない。
戦闘能力の面でいっても、リトラなら足手まといにはならない。この人選は、どうしても避けられるものではなかった。
私は、将軍のことも、リトラのことも、私情を挟まずに選んだのだから。
リトラは、私の方に向かってゆっくりと進み出て来る。その歩みを、兵たちのすべてが視線で追った。
背後で、殿下のため息が漏れる。
私の前に立ったリトラの表情は、まるで読み取れなかった。落ち着いている風に見える。けれど、内心のことまではわからない。私には、リトラの心だけはいつだって読めない。
もう、さすがに私に対する想いは冷めただろうか。
そうだとしても仕方がないと、ざわつく自分の心に言い聞かせる。
そうして、リトラは私に向かってひざまずくと、いつもの低くてよく通る声で答えた。
「謹んで、拝命いたします」
表に出すことは許されなかったけれど、私はその一言に、安堵とも悔恨ともいえるような感情を内に抱える。
その時、私は軍師を志したきっかけを思い出した。
色々なことを勉強をしたかった以上に、軍事関係者になれば、騎士になったリトラのそばに近付ける。そんな馬鹿な考えが始まりだった。いつまでも一緒にいられなくても、もう少しだけと、頼らないと決めたくせに未練がましく願っていた。
そんな私の愚かしさが、今となっては皮肉なものだ。
私が、リトラを死地に追いやるのだから。
安らぎを、自分の手で消してしまう。
恨んでもいいよと、私は心の中で伝えた。




