〈16〉防衛戦
私は、殿下のお部屋でリトラと顔を合わせたけれど、会話という会話はできなかった。
つい、目をそらしてしまう。悪かったとは思うけれど、なんとなく、顔を直視できなかった。
私が一人で恥ずかしいと思っただけで、リトラが悪いわけではないのに。
このところ、机に突っ伏してうたた寝するくせが付いてしまい、いけないと思いながらもそれを繰り返していた。なのに時々、気付けばベッドの中にいる。
ついに無意識のうちにベッドに潜り込めるようになったのかと思ったけれど、そんなわけはない。
そうして、そんなことが何度かあった後、一度だけ体が浮くような感覚がして意識が戻った。それでも、私はまぶたを閉じたまま、その成り行きに任せてみる。
見なくても、誰だかすぐにわかった。すでに懐かしいと感じる匂いがする。
私をベッドに寝かせ、髪を撫で、頬に軽く触れて去る。
ドアが閉まり、足音が遠ざかると、私はあれだけ苦労して組み立てた計算式が頭から抜け落ちて行くような感覚を覚えた。シーツを被り直し、頭の中からリトラを追い出そうとする。
今、甘やかされたくない。
助けを求めたら、どんなことをしても守ってくれる。
そんな風に思うから、逃げ道にしてしまう。
そうしたらもう、私は独りでは立てなくなる。
それが何より怖かった。
けれど、本当にすごいなと、どこかで思った。
「私には、真似できないよ……」
あんなにもひた向きな気持ちを持ち続けるリトラが、素直にすごいと思う。
最初は戸惑いの方が強かったし、今でもそうだけれど、迷惑なわけじゃない。
多分、他の誰かにリトラの気持ちが移ったら、私はひどく寂しい気持ちになるだろう。
勝手なことばかりだけれど、今は少しずつそう思い始めた。
見守ってくれる人がいる。
そんな小さなことが、口には出せないけれど、私の支えだったのかも知れない。
そうして、ペルシの軍船は、徐々にアリュルージに接近する。
アリュルージ北のデニアの丘の上から、私はその様子を見下ろしていた。
「軍船の数は三隻。そのうち前方に二隻。様子見でしょうね。けれど、明日には動くでしょう」
私は傍らで望遠鏡で船を観察している殿下にそう言った。
「明日、か。確かに、この距離でそれ以上長くあの場所に留まれば、レイヤーナの哨戒船辺りに嗅ぎ付けられる恐れがある。その見立ては正しい」
殿下は将軍を初めとする騎士団の隊長格の面々を集められ、説明をされた。私はその隣にたたずんでいる。場違いだという目線は、痛いほどに感じたけれど。
そして、殿下は一言仰られた。
「ラスタール軍師を失った今、団結力でそれを補いたい。オルファニデス軍師代理の言葉を私の言葉と同等のものとして受け取るように。決して、その策を疑わぬこと」
その言葉に、ざわめきが起こった。
私自身、驚いている。殿下が私に期待して下さってのことだとわかっていても、私に国を守ることができるのか、急に恐ろしくなる。
けれど、先生は仰った。
兵に不安を与えてはいけないと。
私がどんなに押し潰されそうでも、平気な顔をして、大将である殿下のおそばに控えていなければならない。それが、私の役割だ。
リトラの視線を感じたけれど、私はそちらに目を向けなかった。
まっすぐに顔を上げ、屈強な騎士たちの前に立つ。先生は、伝説だ、軍神だと持ち上げられながら、本当は逃げ出したい気持ちと戦い続けていたのかも知れない。今になってそう思うと、先生はようやく解放されたのだな、と思えた。
死は汝のためにある、か。
その日のうちに、私は投石器と大型弩の担当の兵士に、細かな指示を出す。本当に、これにすべてがかかっているので、あまりの指示の細かさに顔をしかめられた。私はそのすべてを書き起こし、明日の朝までにすべて頭に叩き込んでおいてほしいと頼んだ。
飛距離の限界地点も、タイミングも、風向きも、天候も、地形から推測される波の具合も、計算できるものはすべてしたつもりだ。高台に設置したことで、向こうの軍船に同様のものが搭載されていたとしても、地の利がある分、こちらが有利のはず。
後はもう、信じるしかない。
そうして、その時はやって来た。
ペルシの軍船が一隻、緊張の続くアリュルージの領海の中に接近する。話し合いの場を求めてのことと言われれば、それまでだ。まだ、何も仕掛けてはいけない。
明らかに武装しているアリュルージ軍をものともせずに接近してくるのは、三十年も鎖国を続け、安穏として来た国との侮りがあるからだろう。この地点を叩いて力の差をわからせ、こちらの士気を下げる。それが最初の狙いのはずだ。
こちらは、最初から後がない。
上陸を許してはいけない。まだ射程外ではあるけれど、並んだ大型弩隊が緊張するのを、隊長が抑えている。
ペルシの黒い軍船から、指揮官らしき男性が声を張り上げた。
「貴国アリュルージと、我がペルシとの同盟を締結させるため、我々は使わされた。貴国の意思をお聞かせ願おう」
殿下は、丘の上から、よく通るお声ですぐに返される。
「同盟と申されるのなら、何故軍船で来られたのですか? お断りするには十分な理由でしょう」
指揮官の男性は三十代後半くらいに見える、がっしりとした体格の持ち主だ。彼の表情の細やかなところまで見える距離ではなかったけれど、笑った気がした。
最初から、答えなんてどうでもいいのだと、そう笑っているのだろう。
「拒否は、それなりのお覚悟があってのことでしょうな?」
「そちらこそ。これ以上の接近は、戦意ありとみなして攻撃を開始します」
殿下のご忠告も空しく、ペルシの軍船に後退の意思はなかった。
そうして、指揮官は船員に指示を出し、船を旋回させる。それを合図に、残りの二隻も前進を始めた。
「……もう少し、引き付けて下さい」
私は、殿下の傍らでそう言った。殿下は無言でうなずかれる。
先頭の船に二隻の船が近付き、指揮官の乗る先頭の船が、ある地点に到達する。そこで私は指示を出した。
「今です!」
伝令の銅鑼がダン、と大きな音を立て、数体の投石器が始動する。ブゥン、と空を切る音と共に、大岩が軍船目がけて飛んだ。
このデニアの丘は、陸に上陸するためには一箇所狭まった地点を通過しなければならない。そこに一隻が差しかかった時が勝負だった。
投石器は、威力こそ大きいものの、命中率の低さという致命的な弱点がある。もともと、篭城する城を落とすために開発された兵器で、動かない城や門を相手取るなら十分だが、動く船に当てるのは至難の業だ。だからこそ、ペルシ軍は投石器を虚仮威しだと、ものともせずに近付いて来た。
けれど、この地の利を活かせば、当たらずともよい。
同時に海面に投じられた大岩に、軍船は大きく揺れる。
そして、丘の上から、前もって運び込んでおいた大量の砂袋を投下する。大岩と砂袋の衝撃が海面を荒らし、自然に逆らって出来上がった波は岸壁に跳ね返って大きくうねる。
わあわあと声が響き、私の場所からも船から転落する人々がいたことが見えた。そこで私は、二度目の指示を出す。
もう一度、銅鑼の音がダンダン、と轟いた。
そうして、大型弩隊が番えた大矢を放つ。
軍船の強固な側面に、大型弩の矢は脆弱すぎる。けれど、操作の利かない船体は断崖に衝突し、すでに傾いている。上部に打ち込まれれば、防ぎきることはできない。
そこへ、もう一度大岩を装着した投石器の追撃が降る。
横倒しになった味方の軍船に阻まれ、二隻の軍船は後退した。
ペルシの軍船は、攻撃設備に重点を置き、転覆を免れる工夫などの基礎が甘い。キャルマールの船だったら、こうは行かなかったはずだ。数を頼りに攻めるようなやり方ばかりだから、それがわからないのか。
私は、船の破片につかまって流されて来るペルシ兵と、漂流物と成り果てた亡骸を、丘の上から見下ろしていた。
これが、私の選んだ道なのだから、と。




