〈2〉微笑みの姫君
青い青い、海の向こうに世界が広がっている。
私たちはこれからそこへ向かう。
会議の後、私は震えるくらいに嬉しくて、ほとんど眠れなかった。準備期間として与えられた五日間がどれだけもどかしかったことだろう。
遊覧船以外の船に乗ったのは初めてだけれど、この船が私を外の世界へ運んでくれると思ったら、この痛んだ風合いもすべてが愛しくさえある。
「じゃあ、そろそろ出しますよ。夜は風が冷たいですから、中に入ったらどうですか?」
船の操縦士の方がそう言ってくれた。彼は、鎖国が始まる前から漁師をしているというベテランだ。日に焼けた肌としわの深さが、それを裏付けている。補佐に息子さんを連れていた。
私たちを降ろした後は一度国に戻り、後は取り決めた日に迎えに来てくれるという手はずになっている。
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ見ていたいんです」
勿体なくて、中になんか入りたくなかった。この冷たさの残る風さえ、今は心地よい。
どれくらいそうしていただろうか。
空の色が茜に変わり、それから紫になり、藍色を越えた頃だった。
髪をばっさりと切り落とした私は、妙に首筋が寒くなってしまった。こんなにも違うものなのかと思ったけれど、実を言うと、軽くて楽だ。案外気に入ってしまったなどと言ったら、多分、父上たちには怒られる。
ぶるりとひとつ震えると、背後から微かな重みがかかった。すごくあたたかい。
そのあたたかいものの正体は、リトラの上着だった。
「ここで風邪でもひいたら、そのまま船に押し込んで戻すからな」
「う……。それは嫌だ」
私は、リトラのように気の張らない人と話す時、つい言葉遣いが少年のようになってしまうくせがあった。それは、幼少期にリトラの後を付いて回って、真似ばかりいたせいだ。よく父上たちに顔をしかめられたので、なるべく出さないようにはしているけれど、こんな時くらいはいいだろう。
「嫌なら、早く中に入って休め」
リトラは目付きが悪いし、口も悪い。それに、本気で信頼する人にしか心を許さない。
私が知るところで、気を許しているのは殿下だけだと思う。
けれど、本当は優しい。少なくとも、私はそれを知っているつもりだ。
「わかったよ。ありがとう、リトラ」
私は操舵室の他にはひとつしかない甲板室の扉を開いた。けれど、そこでふと気になったことがある。私はリトラを振り返った。
「ねえ、リトラ。セスト様はどこ?」
「は? 中で寝てるだろ?」
私は扉を開け放ち、中の様子をリトラが見えるようにした。丸めた毛布が三枚、きれいに並んでいるだけだった。ちなみに、甲板にいた私たちに気付かれず、操舵室に入れるとは思えない。つまり――
「…………」
「…………」
「逃げたな、あいつ」
多少のアクシデントは、旅には付きものだと思うけれど、これは多少なのだろうか。
「でも、もう引き返せないよ」
リトラは小さく、クソ、と毒付く。真剣に苛立っているように見えた。これは仕方がない。
「調査は私とリトラで進めるしかないね。がんばろう?」
「……冗談じゃない」
そう、リトラは吐き捨てた。私と二人では無理だと、そう思う気持ちは責められない。
これは、今後の国にとって大切な役目なのだから。
でも、がんばるから。一緒にがんばると言ってほしかった。
この先に待つもののために、私はなんだって耐えてみせるから。
接岸予定地、アリュルージの南西、スードの浜辺にたどり着いたのは、その昼のことだった。
気候はアリュルージよりも少し暖かい。
明るいうちに入国するのは危険だというのが、操縦士さんとリトラの意見だった。
けれど、私はその心配が無用だと知っている。
先生も、最初にこの国にしなさいと言った。
だって、この国は、書物で知り得た情報によると、少しばかり特殊な国なのだ。
皇族に、特殊な能力が備わっている、と。
この国に来るつもりなら、後に回しても先に訪れても同じことだ。隠しごとなどできないのだから。
最初に選んだのは間違いではないけれど、この後に待つ交渉次第で事態は大きく変わるだろう。間違えてはいけない。
「このまま浜に着けて下さい。ここから上陸します」
私がそう言うと、操縦士さんとリトラは、何を馬鹿なことをとかぶりを振る。
「なるべくアリュルージの名は出したくない。もっと慎重になれ」
顔をしかめたリトラに、私は笑ってみせた。
「もう遅いよ。見付かってるし、さっきからお待ちのようだね」
舳先から、遠方の浜を指差す。
そこには三つの人影があった。真ん中のひとつはとても小さい。その影に、後の二人が控えているのだとわかる。
「どういうことだ……?」
リトラが厳しい面持ちで、前方と私とを見比べる。
「この国の皇族には、神の声を聴く能力があるんだって。その神託によって、物事を見通す。だからね、私たちが今日、ここへ来ることもお見通しだったんだよ」
「はぁ? そんな馬鹿な話があるか!」
「あるよ。話してみたらそれもはっきりする。……じゃあ、行こうか」
私の言葉に、リトラは憮然とした。
けれど、私はこの時、どうしようもなくわくわくしていた。
その不思議な現象を体感する時、どのような感覚なのだろう。
今まで知り得たことはどれくらいあるのだろう。
私たちが来るという信託は、正確にはどのようなものだったのだろう。
産まれの順ではなく、この能力の高い者が後継者となるというのは本当なのだろうか。
訊きたいことが山ほどある。
「では、無事をお祈りしていますよ」
操縦士さんは私たちにぺこりと頭を下げる。私も頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたもお気を付けて」
その間も、リトラは険しい目付きで浜辺を睨んでいた。話す前から関係が悪化するから、止めてほしいけれど、もともと目付きが悪いのは仕方がないのだろうか。
備え付けてあった小さなボートを降ろし、縄梯子を伝ってリトラが先に船を降りる。私もそれに続き、長さの足りない縄梯子からボートに飛び移る。
ちゃんと着地できるつもりだったのに、リトラは私の運動神経を信用していないらしく、私を下で受け止めた。
リトラは私を下ろすと、オールを使ってボートをこぎ始めた。手伝えることはなさそうなので、私は座ってそれを応援する。
浜が近付く。
この国の浜は、アリュルージよりも白く感じられた。キラキラと細かく、とてもきれいだ。ところどころに流れ着いた流木の残骸や、貝殻が落ちているのは変わらない。
私は、ボートが接岸した時、リトラよりも先になって降りた。踏み締めた砂の柔らかさに、胸がいっぱいになる。ついに、ここまで来たのだと。
あんなにも焦がれた外の世界に、今、自分はやって来たのだと。
そうして、あの人影は私たちの間近に迫っていた。
金の髪に銀の瞳。神秘の象徴のような少女だった。
けれど、その少女は神域から私たちのところに、微笑みひとつで下りて来た。
その愛らしい笑みで、急に血の通った人間となる。
「ようこそ、アリュルージからのお客様」