〈15〉喪失ではなく
私は、自室で窓辺の椅子に腰をかけて本を開いた。
私は軍事関係者だが、宿舎は男性ばかりなので、陛下のご配慮で城内の一室を与えられている。立場的には過ぎた部屋だけれど、仕方がない。
少し身じろぎすると、それだけのことに左肩がうずく。
ただ、それは生きているからこそだ。
目が覚めて、生きていることに私自身が戸惑った。
そして、左手のぬくもりに気付く。
私の指先の色が変わってしまうくらいに、リトラが私の手を握り締めていた。ベッドに伏せって、意識はないのに、手を放してくれる気配がない。
ひどいことをしたと思う。
それでも、思い止まってくれたということだろう。
私だって、リトラには生きていてほしかった。
そうしていると、ドアがノックされた。リトラだったらノックなんかしないと思う。
「……どうぞ」
私が答えると、殿下は私が知るどんな時よりも疲れた面持ちを見せられた。
座ったままというわけには行かず、私は立ち上がったけれど、殿下は私のけがを気遣って下さったのか、椅子に座るように命じられた。そして、一言、
「すまない……」
と、もらされた。
「お前がそこまでのことをしたのに、私は安易な道を選んだ。私こそが、父上の前でのどに刃を向けてでも、諦めるべきではなかった。もう二度と、リトラにあんな決意はさせない。……悪かった」
その言葉を聞いて、体中の力が抜けるくらいに安堵した。
ただ、安易な道を選んだのは私の方だ。あれは、誰のための行為だったのか。
心のどこかに、色々なことから逃げ出したい気持ちがあって、私を駆り立てたのかも知れない。
リトラが選んだことだったとしても、それに対しての責任を感じてしまった部分もある。
本当に、馬鹿だった。
だとしても、こうして生きている以上、それが運命なのだろう。
一度死んだと思い、これから起こることを受け入れるしかない。
「陛下はきっとわかって下さいますよ。ですから、しっかりなさって下さい。これからが大変なのですから」
生意気なことを言った私に、殿下は微笑まれた。ほんの少し、目の下にある隈が、悩み抜かれた証なんだろう。
「リトラにはつらい思いをさせてしまった。なるべく優しくしてやってくれ」
「はい……」
そう答えた。
そして、殿下が去った後、リトラはやっぱりノックもせずに私の部屋の扉を開いた。
バン、とけたたましい音がして、ドアが開け放たれる。ドアに傷が付くから、あまり乱暴にしないでほしい。
けれど、今のリトラにそんなことを考える余裕がないのは、見ればわかる。そんなに息を切らせて走って来なくても、私はもう大丈夫なのに。
「ユーリ……」
いつも、すぐ人をにらむし、目付きが悪いのに、今はまるで捨て犬のように見えた。
「大丈夫だよ。もう、あんなことしないから」
安心させようと思って、私はそう言った。
ただ、口調や態度がそっけなくなってしまうのは、あんなことをした後でどう接したらいいのか、私自身わからなくなってしまったせいだ。リトラのせいではない。
リトラは扉を開け放ったまま、私に向かって駆け出し、傷口を避けるようにして私を抱き締めた。
やっぱりこうなる。
だから、リトラが目が覚める前に医務室を抜け出したのに。手を放そうとしなかったことだって、マイス軍医にすごくからかわれた。
極力、優しくしてあげてと殿下に頼まれたからという理由だけでなく、私はリトラの広い背中をさするように手を伸ばした。
「……これって、私が泣かせたことになるの?」
「他に誰だよ……」
リトラの涙が、私の首筋に落ちる。
どうして、こんなにも強い気持ちを私に持ち続けるのだろう。
それは、リトラ自身にもわからないことなのかも知れない。
「うん、ごめんね」
と、私は素直に謝った。
そんな騒動から、三ヶ月が過ぎた。
そのひと月前、暑い夏の日に、ラスタール先生は旅立たれた。
教えたいことは沢山あったのに、ろくに伝えられなかったと、私に詫びて逝かれた。
それでも、私は先生のお言葉を守って泣かなかった。
ちゃんと、葬儀の席でも毅然として振舞ったつもりだ。
悲しくなかったわけではなく、身を切られるように苦しかったけれど、先生の弟子として、みっともない真似はできなかった。
モルド教徒の言うような、死が喪失ではないと思えたなら、少しは救いにもなったけれど、やっぱり先生を喪ったことは、私個人にとっても、国にとっても大きな痛手だった。
結局、私は軍師としての知識を、この空っぽの器の底にうっすらと敷きつめる程度にしか持たない。それでも、先生がいなくなり、私は見習いから否応なしに軍師代理という立場になる。
時間が惜しかった。
もっともっと勉強をして、身に付けなければならないことが沢山ある。
ただ、考えれば考えるほどに、浮かび上がる疑惑があり、私は軍事責任者の殿下にそれを話す決意をした。
ラスタール先生は、過去にペルシ軍の侵略を守り抜いた、伝説の軍師だ。国内外でも、その名は有名であり、その死を国民は不安に思っている。
そして、この訃報は、きっと国の外へもれている。私はそう考えた。
「……鎖国を解いていない今でも、このアリュルージの内情を探り、情報を得ている国はあると思います。ですから、船が接岸できる地点の警備の強化を提案いたします」
私がそう言うと、殿下はうなずかれた。多分、同じ心配はされていたはずだ。
「そうだな。いかに不干渉条約があっても、他国の援護を待っていては、間に合わないかも知れない。少なくとも、持ちこたえるだけの軍事力は必要だ。……ユーリ、どうするべきだと思う?」
「はい。まず、海戦は我が国は不得手です。それは今更、どうにもできないことです。ですから、上陸させないことを前提とした戦いが求められるでしょう。ですから、投石器や大型弩などの数がそろえられることが理想ですが、あまり公に製造すると、民はますます不安になります」
「そうだな、現時点で可能な分の整備をしておく。数は後から知らせるから、配置を考えてもらえるか?」
「かしこまりました」
一礼して去ろうとした私に、殿下はお声をかけられた。
「調査の旅の功績を評価して、リトラの階級を上げたのを知ってるな?」
私だって、軍事関係者なのだから、知らないわけがない。リトラは今、中隊を任される立場にある。あの年齢では早い昇進だ。
「はい」
「祝ってやったか?」
「いえ、まだ祝っておりません」
正直に答えた。
殿下は苦笑された。
「忙しいだろうが、そのうちに祝ってやってくれ」
「かしこまりました」
私は自分でも事務的だな、と思う返事をして退出した。
最近、あまりリトラと顔を合わせていない。理由は、私が忙しくなったからだ。
もちろん、リトラも忙しい。お互いに余裕がない。
お祝いは、考えなかったわけじゃないけれど、何がほしいと尋ねたら、恐ろしいことを言われそうだから、勝手に考えることにした。ただ、リトラには申し訳ないけれど、本当に、今の私にはゆとりがない。後回しになってしまっているのは、申し訳ないとは思う。
けれど、今日もやることは沢山あって、やっぱり会いに行けそうもない。




