〈14〉 さよなら
俺の忠誠は常に殿下にあって、穏やかで事なかれ主義の陛下に、特別な思い入れはなかった。
かといって、嫌いだったわけじゃない。お優しい方だから、救われた民もいると思う。
殿下も個人的なお気持ちだけで生きられるなら、大切なお父上には生きてほしいはず。そんなのは当たり前だ。
けれど、それだけじゃ駄目なんだ。
頂点に立つ王の、強く、貫き通す意志がなければ、この国はこれから飲まれて行く。
先を見据え、どうにもならない苦しさを抱えた殿下のために、俺は俺の意志でブレゼの提案を受け入れた。俺が殿下のためにできることは、それくらいだから。
こういう命の使い方も、役に立てたと思えばいいかと思う。
ただ、ユーリにはすべて片が付くまで知られたくなかった。
顔を見れば、決心が揺らぐから。
誰が誰を殺すと。
できもしないことを言うなと思っただろう。
勝手なことを怒るかも知れないけれど、どうか幸せにと願う。
「大丈夫か?」
殿下のお声に、俺はうなずく。
「決意は変わりません。ただ、いくら養子とはいっても、男爵家に対する風当たりは強くなると思います。それが気がかりなので、後のことを頼んでもよろしいですか?」
殿下が一瞬、小さく息を飲まれた。
「……もちろんだ。それから、お前の言っていた孤児院のことも忘れない」
孤児院のことも心配だった。だから、殿下にそう言って頂けて、俺の心は少し解れた。
けれど、最大の心配事は、どうしてもユーリのことだ。
だから俺は、やっぱり殿下に頼むしかなかった。
「殿下、ユーリのこともお願いできますか?」
「リトラ……」
いつもは強気な殿下の顔が痛々しくて、けれどそんなお顔をさせているのは俺なんだとも思う。
「守って頂けますか?」
俺がどんな思いでそう言ったのか、殿下は誰よりもわかって下さる。だから、断られることはない。
「……わかった」
そうして、俺はもう、考えることを止めた。
その晩、俺は宿舎の自室にいた。
身辺の整理を始める。特別、私物が多いわけじゃないから、そんなものはすぐに終わるだろう。
ブラッシュはどうしようか。
あれは駿馬だから、頼めば引き取ってくれるやつは多いだろう。けれど、多分、誰にも懐かない。
結局、あいつは俺と似ているんだ。俺の運命に付き合わせてしまうことになって、すまないと思う。
そんなことをあれこれ考えていると、扉をノックする音がした。
今の俺は必要以上に敏感に、それに反応する。一瞬、ユーリかと思ったけれど、そんなわけがない。
こんな時間に、男だらけの宿舎の中に来るはずがない。
多分、ブレゼだろう。俺の決意を確認しに来たのかも知れない。もう、殿下にもお会いしないと決めていた。今更だというのに、しつこい。
それでも俺は、扉を開かないわけにはいかなかった。警戒しながらそれを開くと、俺と同じ目線の高さをしているブレゼではなく、ユーリが下から俺を見上げていた。
「……ここがどこだか、わかってるよな?」
俺が低く言うと、ユーリは表情のない顔で言った。
「リトラの部屋。人に聴かれたくない話だから、入るよ」
ユーリは、あっさりと俺の部屋に踏み入った。
他の目的なわけがない。ユーリは俺を止めに来た。
話し声をもらすわけにはいかなかったし、ユーリがここにいることも知られたくなかったから、俺は扉を閉めた。
「馬鹿なことは止めるんだ」
ユーリは、やっぱりそう言った。
俺は、俺をにらみ付ける、その強い光を眺めた。
陛下を手にかければ、俺は間違いなく処刑されることになる。だから、死んでしまっても、その光を覚えていたいと思った。それを表には出せなかったけれど。
薄く笑う。
「馬鹿なこと? でも、必要なことだ。陛下はもう、殿下のお声にも耳を傾けない。根気よく待つだけの時間がこの国に残されてないのは、お前にだってわかるはずだ。……国を開くには、他に方法はない」
それでも、ユーリは諦めなかった。かぶりを振って、もう一度俺を見据える。
「私も一緒に陛下に嘆願するよ。……私もがんばるから、思い直して。お願いだから」
その悲痛な声を聴きながら、どうしたらユーリが諦めてくれるのか考えたけれど、俺にはわからなかった。だから、結局、最低なことを言って遠ざけるしかない。
「俺の想いに応えようとしなかったくせに、一方的に要求だけはするんだな」
ユーリは途端にぎくりとする。けれど、すぐにそれを振り払う。
「……じゃあ、私のことは、リトラの気の済むようにすればいいよ。それでリトラが思い止まってくれるなら、私はそれで構わない」
ここへ来た時点で、覚悟を決めて来たのかも知れない。
でもそれは、余計に心が離れて行くのを確かめるだけだ。
結局、ユーリは犠牲になるつもりなだけで、それが逆に相手を傷付けるとか、そういったことはわからないんだ。
俺は、馬鹿馬鹿しくなって笑っていた。
「これはもう、俺とお前の私情でどうこうなる問題じゃない。俺がやらなくても、他のやつに代わるだけだ。何もかも遅いんだ。……帰れよ」
ユーリは、震えているのがわかるのに、泣かない。本当に、強くなったと思う。
ただ、強くなったからといって、傷付かないわけじゃない。
俺は、死んだらユーリを見守って行きたいと思うけど、多分ユーリには迷惑なことだろう。
そして、ユーリはうつむいたまま、俺の部屋を出た。ぱたぱたと走り去る音だけが耳に残る。
俺は、そのまま崩れ落ち、長い間動けずにいた。
そして、決行は明日にしようと思う。
陛下のような高貴な方に剣を向けるのは、正直に言って心苦しくはあるけれど、毒を混入するような場に俺は居合わせられないから、仕方がない。
人は、生まれてから死ぬまで孤独なものだと、子供の時に思った。
やっぱり、死ぬ時は孤独だ。
俺は孤独な断頭台の上で死ぬか、その場で斬り殺されるかのどちらかだろう。
ただ、俺が死んだら、ユーリは泣いてくれるだろうか。
そんな情けないことを考えてしまう。もう、関係なんてぐちゃぐちゃで、これ以上ないほどにこじれてしまったのに、未練がましいと思う。
けれど、俺がユーリに対して何もわかっていないと思うように、ユーリも俺は何もわかっていないと思っていたのだろう。本当に、俺は何もわかっていなかった。
俺がどれだけあいつを追いつめていたのか、自分が死ぬのが恐ろしくて、考えられていなかった。
だから、俺がブラッシュに最後の別れをしていた夜、馬小屋から出て来る俺を待ち伏せていたユーリに、冷たい言葉を吐いた。
「……お前には止められないって、言ったはずだ」
まだ諦めないのかと思う。
もう、明日だ。後には引けないんだ。
けれど、月明かりの下のユーリの顔は、何故か凪いだ海のように落ち着いている。それが逆に不穏だった。
「そうだね。もう、他には思い付かなかったよ」
ローブの袖口から、装飾のされた短剣を取り出す。旅に出る前に髪を切り落としたものだ。
その短剣を抜き、鞘を地面に落とした。短い刀身が、微かな光を放つ。
けれど、俺はそれを見て、穏やかな心境になった。
確かに、陛下のお命と、男爵家と俺の名誉を守る術はこれだけだ。
ユーリに刺されるのなら、それでもいいかと思う。ユーリが俺の命を抱えて生きてくれるなら。
俺がそう思ってしまうのも計算のうちなんだろう。
そうじゃなかったら、あんな華奢な刀身と細腕で、俺を仕留めることなんてできないから。
ずるいと思うけど、ユーリらしいのかも知れない。
ただ、それは俺の勝手な思い込みで、ユーリが選んだ方法は、そんなに優しいものではなかった。
俺が何よりも嫌がることを、探し出して選んでいるとしか思えない。
ひらりと手を動かし、その刀身を、自分の首の根元にあてがった。
俺は一気に、体から体温が失せて、血の一滴までもが凍るような感覚を味わった。
「何……してる……」
声が震えてしまう。そんな俺を、ユーリは笑った。
「私だって、君が陛下を手にかけるところも、処刑されるところも見たくないんだよ。こうでもしないと、君はそれをわかろうともしない。……これはね、君を止められない私への罰で、思い止まろうとしない君への罰だ」
罰だったら、俺だけで十分のはずだ。
どうして、と声が出ない。
ユーリは一度、くしゃりと表情を崩した。
「でも、君が私を好きだと言ってくれた気持ちが、今、君を止めるためだけに存在していたのだとしたら、悲しいね」
どこまで残酷なんだ。
本気かどうか。脅しかも知れないと確かめようとするけれど、頭がうまく働かない。
ユーリは、こんな悪質な脅しをするやつじゃない。だから、本気なんだと気付くのに、時間はかからなかった。
「もういい! わかった! わかったから……」
けれど、ユーリは短剣を構えたままだった。俺の言葉を信じてくれなかったのか。
「言ってたよね。自分が止めても他の誰かに代わるだけだって。だったら、その他の誰かのことはリトラが止めて。殿下のこともお諌めして。……私は、ちゃんと見てるから」
どくんどくんと、自分の心音が痛いほどに早く強く打つ。
この距離では間に合わないことを、ユーリはちゃんと計算して立っている。
「止めてくれ!!」
ユーリは俺の悲痛な叫びに対し、最後にぞっとするほどきれいに微笑んだ。
「さよなら、リトラ」
細い指に力がこもる。その瞬間に俺は弾かれたように動いた。
それと同時に、何かが視界の端を飛んだ気がしたけれど、俺には赤い血の色しか見えなかった。
崩れ落ちるユーリの体を抱き止める。ユーリの手からするりと短剣が落ちて硬質な音を立てた。
ぐったりとしたその体を抱き締め、俺は噛み合わない歯を鳴らしながらつぶやいていた。
「なんで……どうして、お前が……っ」
淡い黄緑色のローブが、暗がりの中で血に染まって行く。俺はすでに、正気ではなかったのだと思う。
ただ、後悔だけが心に突き刺さる。
叶わないから諦める。
距離を置く。
そんなことを考えた自分が、ユーリを殺した。
誰になんと言われようとそばにいて、俺がいなきゃ何もできないユーリになっていれば、笑ってこんなことはしなかった。こんな間違った強さを持ったりしなかった。
お前がいないのに、どうして俺が存在しなきゃならない。
あんな言葉、知らない。どうだっていい。嫌だ。
そんな俺の頬を殴ったのは、殿下だった。いつの間にそこにいたのか、まるで気付かなかった。
「しっかりしろ! 早く医務室に運べ! ちゃんと生きてるだろう!」
「あ……」
俺は、ユーリの傷のない反対側の首筋に手を当てる。とくとくと、鼓動が伝わった。
「私がとっさに投げた石が当たったからな。少しそれたはずだ」
その言葉に、俺はようやく生きた心地がした。ユーリを抱き上げ、殿下に一礼すると、俺は軍医のところへ走った。
ユーリの傷に驚きながらも、軍医はテキパキと動く。女の子だからと、俺は医務室の外へ出されてしまった。服に付いた血をなんとかして来なさいと指摘される。確かに、尋ねられても事情の説明はできない。俺はその言葉に従うしかなかった。
俺は急いで着替えると、医務室に戻った。その扉にしなだれかかるようにしていると、軍医がドアを開く。そして、ようやく中に入れてくれた。
白い顔をして眠るユーリは、薄い色の付いたシャツを着てベッドに横たわっていた。そのシャツの襟元から、白い包帯が覗く。けれど、生きている。それ以上に望むことなんてない。
そのチェリーブロンドの髪をすくって、額を指でなぞる。そして、冷たい手を握り締めて、あの鮮やかな瞳が開くのを待った。
どれくらいの時間が経ったのか、すでにわからなかった。
意識が曖昧だ。もしかして、俺は眠ってしまったのかと、頭のどこかで思う。
極限状態が続いて、限界だったんだろう。こんな時なのに、意識を保っていられなかった。
それでも、俺はつないだ手の感触を確かめる。あたたかい手は、俺が力を込めると、握り返して来た。
たったそれだけのことに、幸せを感じる。
それでようやく、俺は目を覚ました。
「ユ……」
ベッドに伏せていた顔を上げると、いるはずの場所にユーリの姿はなかった。
じゃあ、この手は何だ、と俺は手元に視線を落とす。ごつい。なんだこれ。
腕を伝うと、俺の顔を覗き込む、いかついおっさんの顔にぶち当たり、俺はその手をベッドに叩き付けるように放り投げた。
「ふざけんな!」
思わず叫んでしまった。マイス軍医は、うふふ、と嫌な笑い方をする。
「かわいそうだから、代わりに手を握っててあげたのに、あんまりよね。でも、安心しなさい。アタシ、あなたの顔と体にしか興味ないから」
軍医はピンクのシャツに白衣というイカれた格好で、くねくね動く。いかついから、心底気持ち悪い。ぞわ、と背筋が寒くなった。
「顔と体にも興味持つな!」
「後、声も」
「増やすな!!」
俺はぜぇぜぇと肩で息をする。駄目だ、オカマの相手をするには疲れすぎている。
「……ユーリは?」
すると、軍医はまた不気味に笑う。
「部屋に戻ったわよ。リトラちゃんがあんまりにも強く手を握ってるから、すごくもがいて抜け出してたわ」
ほんとにひどい。
「大丈夫……なんだな?」
不安が声に出た。軍医は意外そうに眉を跳ね上げる。
「命に別状はないわ。……傷痕は残るかも知れないけど」
そんなの、構わない。ドレスなんか似合わなくたっていい。
すると、軍医は俺に向かって微笑んだ。
「あなた、ユーリが絡むとそういう顔するのね」
俺は、うるさいと言って、医務室を出た。
会いたい。
顔が見たい。
ただそれだけを強く願った。
物語中、間違いなく一番暗い話です。
独占欲の強いリトラのために、軍医はオカマ設定になりました(笑)。
でも、暗かったので、軍医の存在が書いていて救いになった気がします。




