〈13〉帰還
ここからアリュルージ編です。
私たちは、ジュセル王子のご厚意に甘えさせて頂くことにした。
キャルマールの、それも王子の船だ。かなりの速度を誇るのだろう。
アリュルージとスードの距離よりも、ここの距離は開いているけれど、どれくらい時間がかかるのか尋ねてみたところ、行きとほぼ同じくらいだった。
黒い船体に純白の帆が夥しく張られ、見る者を魅了する船。王家の船、バレーヌ号の甲板で、私は風に吹かれていた。
リトラとはあれから、あまり口を利いていない。それも仕方のないことだと思う。
だからといって、私にはどうすることもできない。
もう、リトラの笑顔を見ることはないのかも知れない。
そう思うと、少し寂しかった。
勝手だと怒るだろうけれど。
そうしていると、後ろから声がかかった。キャティだ。
「ユーリ、どうしたの?」
キャティは、キャルマール行きを嫌がらなかった。少し前なら、絶対に嫌だと言っただろうが。
薄紫のドレスに、白い手袋、白いレースのショールをしている。
「少し、考えごとを。これからが大変だなって」
キャティには、この段階になってようやく、私たちの素性を話した。
驚いてはいたけれど、黙っていたことを怒りはしなかった。
キャティは私の隣に並ぶ。長い髪が潮風に揺れていた。
「国のこと? それはそうよね。三十年も経って開国なんて、民は不安になるわ」
「でも、恐れていたら、何も得られないから」
そう言った私に、キャティは振り向く。
「ユーリは強いね。でも、そういうの、かえって危なっかしいわ」
「え?」
「突っ走りすぎないでね」
私は笑った。確かに、それは私の悪いところなのかも知れない。
「ところで、リトラの機嫌がすごく悪いのだけど、あれはどうにもならないの? 乗組員が怯えているわ」
「うん……」
私が曖昧に言うと、キャティはすっと目を細めた。
「リトラの機嫌なんて、ユーリ次第でしょ」
「私にだって、どうにもできないよ……」
すると、キャティはかわいらしく嘆息した。
「ユーリって、人を好きになったことないでしょ」
「な、何? 急に」
「リトラのつらさが、ユーリには全然わかってないってこと」
ジュセル王子に散々な態度を取っていたキャティがそれを言うのかと思ったけれど、口には出さなかった。それでも、キャティは続ける。
「誰かを好きになりたくないって、そう思ってない? 少なくとも、そう見えるわ」
私はすぐに切り返せなかった。多分、キャティの言うことが正しいと、どこかで認めたせいだ。
「まあ、なるようにしかならないし、これ以上何も言わないけど」
結局、私はどうしたいのだろう。
約束を守るということを逃げの口実にして、流されている。そう指摘されたら、否定できただろうか。
私は、何のために生きて、何を為そうとしているのだろう。
そんな一抹の迷いが、この時、私の中には確かにあった。
そして、バレーヌ号はアリュルージ近海へ差しかかる。
いきなり王都へ着けるのは、混乱を煽ることとなる。だから、私は一番目立たないと思われる、アリュルージ南東の入り江に着けるように頼んだ。
次第に、緑と丘が見えて来る。この国を出向する時は、あんなにもわくわくと勇んで向かったのに、見慣れた国の姿に、どうしてこんなにも泣きたいような、胸を締め付けられる思いがするのだろう。
私とリトラは、ジュセル王子とキャティと甲板で別れる。
「開国しないと、俺たちとは会う機会がそうそうないかもな。だから、再会を願って、ことがうまく運ぶように祈ってるよ」
王子のお言葉に、私は微笑んだ。
「ありがとうございます。できることなら、お二人の結婚式には出席したいものですね」
そう言うと、キャティは複雑な顔をした。けれど、それは嫌がっている顔ではなかったように思う。きっと、照れているだけだ。そんな女の子らしさが、私にはまぶしい。
乗組員の人たちが、私たちを岸まで運んでくれた。
地面に降り立つと、懐かしい風の匂いがした。
ここが、私の居場所。
そうして、私とリトラは近くの村を目指して歩いた。その後はすぐに馬車を雇い、王都まで向かう。その道中が、息苦しいまでに長く感じた。
たどり着いた王城は、今まで見たどの城よりもすばらしく思える。今まではそんな風に思ったこともなかったのに、離れてみて初めて、大きくもなく、慎ましいこの城をそう感じた。
リトラは馬車から先に降り、私に向かって無言で手を差し出した。私もその手を無言で取り、馬車を降りる。ただ、それだけだった。
私とリトラの旅の行き先を知る者は、ほんの一握りだ。その他の人たちには、国内調査と言ってある。
だから、私たちが帰還したとの報告を受けた時、陛下を初めとする、事情を知る方々は、謁見の間ではなく、会議室に私たちを通した。
「無事で何よりだ。迎えをやる前に帰還するから、少し驚いたが……」
陛下の瞳に、ほんの少し憂いを見た。あの、バレーヌ号を見た者もいただろう。報告を受けて、不安に思われたのかも知れない。心配はいらないと、後で説明しなければ。
「ところで、セストはどこだ?」
宰相のクラセネフ様が眉根を寄せ、私たちに目を向けられた。それに、リトラが答える。
「船に乗らなかったようです。出航してしばらく経ってから、それに気付いたのですが、戻るに戻れず、そのままになりました。こちらに戻られなかったのですか?」
「いや……。私たちは、お前たちと一緒だとばかり思っていたが」
殿下も一瞬、表情を曇らせた。
「何故だ?」
「私共にはわかりかねます」
それ以上、尋ねても仕方がないと思ったのか、クラセネフ様は一人思案するばかりだった。
「こちらに、調査したことをまとめておきました。お目通しをお願いいたします」
私は恭しく、船内で書いた調査書を提出する。それを陛下は受け取られたが、少しお言葉をためらわれたように思う。
「実は……いや、詳しい話は今度にしよう。二人とも、疲れているだろう? しばらくは、家にでも戻って体を休めるといい」
「ありがとうございます」
そう答えたけれど、その歯切れの悪いお言葉が、私は気になった。そして、もうひとつ気になることがある。
「あの、ラスタール先生は……」
私は、先生のお顔が見たかった。沢山話したいことがあった。なのに、この場にいない。
「お前たちが出た後、少し体調を崩してな。まあ、歳が歳だからな。あまり無理はさせないようにしている。後で、顔を見せてあげるといい」
陛下のお言葉に、私は心臓をつかまれたような衝撃を受けた。
あのお元気な先生が。
押さえた口元が震えてしまう。
私は早々に退出の許可をもらい、会議室を後にした。
「先生! ラスタール先生!」
私は先生のお部屋の扉を強く叩いた。途中、廊下も走ったけれど、今は慎みなんて知らない。
返事を待たずにお部屋に入った。
先生は、ベッドの上で窓の外を眺められていた。
「ユーリ、戻ったか」
にこりと私に微笑む先生は、少し痩せられたように思う。もともと細かったのだから、嫌な影が先生のお顔に落ちる。
「はい、ただいま戻りました。先生、前からお悪かったのですか? 何故、仰って下さらなかったのです? 私は、先生の弟子でしょう?」
先生の細く痩せた手を、私は取った。氷のように冷たい。その冷たさに、私は恐ろしくなった。自分の体温を移そうと、私は先生の手を両手で握り締める。
「別に、しばらくすれば治るよ。大げさな子だ」
と、先生は私を笑った。そうあってほしい。そうでなければ、私は――。
「外の世界はどうだった? 勉強になっただろう?」
「はい。色々な方に出会いました。それぞれ、国の暗部も抱えていて、それでも尚、優しい方たちでした。私は生涯、この旅のを忘れることはないでしょう」
すると、先生はぎこちない動きで、ベッドのそばにひざまずいている私の髪を撫でた。
「ユーリ、お前はこれから、色々な問題に直面するだろう。それでも、軍師としてあろうと思うなら、弱さを見せてはいけない。兵に不安を与えてはいけない。軍師とは、そういうものだ」
しばらくすれば治ると仰って下さったではないですか、と私は声を張り上げたくなった。
何があっても強くあれと。先生は、自分がいなくてもそう貫けというのだ。
「だから、泣くのはこれを最後にしなさい」
先生はそう言って、私の涙を拭った。




