〈1〉 社交界の花
嫌な予感がしていた。
俺がユーリをにらみ付けると、ユーリは一度、あからさまに俺から目をそらした。
あれは、俺に黙って試験を受け、軍師見習いなんてものになったことを報告した時と同じ反応だ。それくらい、やましいのだろう。
わかってるなら、諦めろと威圧する。けれど、意外なことに、この時ユーリは俺に顔を向け直した。紅玉のような瞳に意志を秘めて、こちらを見る。
どんなに願っても、駄目なものは駄目だ。
お前は女で、しかも侯爵令嬢だ。
そんなところへ行かせてもらえるわけがない。
一人で町を歩いたことすらないくせに。
腰まで届く、絹のように滑らかなチェリーブロンドの髪。高貴な人間だと相手に知らしめる美貌。軍師見習いとなってからは、シンプルなローブばかり着ているが、それでも均整の取れた体付きがわかる。
いかにもなくらい、血統書付きなのだ。
そんなのが、危険な場所へ自ら足を踏み入れてどうする。
けれど、ユーリは外見に似合わず頑固だ。
「行かせてあげたいが、危険すぎる。お前に何かあったら、侯爵に申し訳が立たない」
陛下の言葉にも、ユーリはうなずかなかった。
「危険は承知です。それでも、行きたいのです。……こんなことで覚悟を示せるかはわかりませんが」
嫌な予感はこれだったのかと、後になって思う。
「ユ――!」
思わず叫んでしまった。
無駄に長くて広い机の向いだ。手を伸ばしても、乗り越えても、どうせ間に合わなかった。
懐から装飾のされたナイフを取り出し、髪留めで束ねてあった髪を根元からばっさりと切り落とす。
周囲の人間は唖然とするばかりだった。
「私は、真剣です。どうか、お願いいたします」
そう言って、下げた頭を上げる。あれでは髪も結えない。侯爵令嬢が、町娘でもあるまいし、髪を短く切り落としたなんて知ったら、侯爵は卒倒するだろう。
俺は、ユーリの不ぞろいな髪を見て、ため息をもらした。
あの髪が、どれだけ社交場の噂の的だったと思ってるんだろう。
けれど、そんなものはユーリにはどうだっていいんだ。
あいつは、知識欲の塊で、好奇心に打ち勝てるものなどないのだから。
そのために差し出せるものなら、なんだって惜しくないのだろう。
「……ワシは国を閉ざす前の世界を知っている。だが、歳若いこの子はまだ知らない。危険だという理由で、知りたいと思う気持ちを否定するのはかわいそうだ。どうか、ワシからも頼む。連れて行ってあげてくれ」
あのじじい、と俺は心の中で毒付く。ユーリに対して甘すぎる。若い娘が愛弟子で、単にかわいくて仕方がないのだ。
とにかく、俺は断固阻止する腹積もりだった。
「恐れながら申し上げます。この者を連れて行かれては、セスト様の足を引っ張りかねません。これは遊びではないのですから、興味本位で志願するような者は必要ありません」
目に見えて傷付いた顔をする。でも、駄目だ。そんなものでほだされない。
逆ににらんでやった。
そんな俺の様子を、隣の殿下は面白そうに眺め、そして笑われた。
殿下は、人の心の動きにとても敏感な方で、俺は誰よりも尊敬している。けれど、こんな時は殿下に見透かされてしまう自分の浅さが嫌になった。
「リトラ、ユーリがどうしても行くと言うのなら、お前が同行するしかないな」
「は?」
「どの道、セストにも護衛は必要だ。一人は武官に同行させる。ユーリが行くなら、後はお前でいいだろう」
俺が返事もできずにいると、ラスタール軍師がじっとりと俺をにらんでいた。どうも、ユーリに近い俺のことが気に食わないらしい。
「待って下さい。どうして、ユーリが参加する方向で話を進めるのですか。殿下が私に行けと命じられるのなら、いくらだって行きます。けれど、ユーリは……」
ようやくそう言った俺の言葉を、クラセネフ宰相が神経質な口調で遮った。
「ああ、うっとうしい! いつまでもぐだぐだと! そんなことを申している暇があるのなら、さっさと行って、さっさと戻って参れ!」
せっかちなこいつの一言のせいで、陛下はあっさりとうなずいてしまった。
「ユーリ、くれぐれも気を付けるのだよ。セスト、リトラ、頼んだよ」
ユーリは白い頬を薔薇色に染め上げ、キラキラと輝く瞳で陛下に礼を言った。
「陛下、ありがとうございます! 私、お役に立てるようにがんばります!」
うんうん、と陛下はうなずいている。どうしてこう、みんなユーリに甘いんだ……。
そんなわけで、俺とユーリとセストは、この国の外へ旅に出ることになってしまった。
この時点ではそう思っていた。
ユーリは髪を切ったことも、旅のことも家にはしばらく内緒のままにするらしい。そりゃあそうだろう。
まず、最初の問題は、船を接岸する地点だ。身元を示すものは、極力出したくない。
行き先はスード皇国。
俺たちの情報は、三十年前のものだが、この国は宗教色の強い、非好戦的な国だったはずだ。
ここに落ち着く。ラスタール軍師の助言により、ユーリがそう決めた。
海域で目立たないように、質素な造りの漁船に乗り込む。魚臭い。
少し暴れたら、板が抜けそうな気がする。
それなのに、ユーリは嬉々として甲板から海を見つめている。そんなにも嬉しいのかと思う。
それを眺めていた俺に、セストが声をかけて来た。
「リトラ君、リトラ君」
俺は、こいつが嫌いだった。切れ者というが、疑わしい。どう見てもボンクラだ。
存在感も薄くて、いるのかいないのか、わからない。
「なんですか?」
「うん、実は僕、船酔いするんだ」
「そうですか。それで?」
どうでもよかったので、声が冷ややかになってしまう。途端にセストはショックを受けた風だった。
「君、船酔いのつらさをわかってないね」
「わかりません」
即答すると、セストはいいんだ、どうせ、といじけた。このイラッとするやつと旅をするのかと思うと、すでに気が滅入る。
けれど、こいつがいるのが、ある意味せめてもの救いではある。ユーリと二人きりなんて、絶対に無理だ。
何故無理かを語ることはない。ただ、殿下だけは気付かれているのだろう。
「僕は中で休ませてもらうよ。船酔いは、寝てしまうのが唯一の回避策だから」
好きにしろよ、と思う。
そうして、船は秘密裏に出港した。見送りもなく、ひっそりと。