〈7〉私にできること
それからしばらくの間、リトラは機嫌が悪かったのかも知れない。
確証はないけれど、そう思った。
そりゃあ、旅は横道にそれたし、客船に置き去りになっていた荷物を探し出すのに苦労したから、仕方がないけれど。
キャルマール王国の王都で、私たちは賑やかな市場にいた。それは港の中にあり、新鮮な海産物や輸入品が多く並び、活気に満ち溢れている。おこぼれを期待しているのか、猫や鳥の姿が多く見られた。
売り込みの声がぶつかり合う中、行き交う人々を私はなんとなく目で追った。
このキャルマールは赤毛の人が多いように思う。それを見るたび、私は少し落ち着かない気分になった。まさか、リニキッドにあんなことをされると思わなかった。
からかわれただけなのに、あそこで平常心を保てなかったのは、正直に言って不覚だった。まだまだ、修行が足りない。
軍師として、揺るがない冷静な心と、相手に読み取られない表情が必要なのに。
私がため息をつくと、隣のリトラが何か冷ややかな目線を向けて来る。けれど、何かを言うわけではない。だから、単に機嫌が悪いのだと思う。
けれど、私が造船の専門書を手に取り、急いで立ち読みしようとすると、よほどものほしそうに見えたのか、買ってくれた。私はそれが嬉しくて、リトラの機嫌が悪いのも忘れて思わず飛び付きたくなったほどだ。さすがにそこまではしないけれど、心を込めて礼を言う。
「ありがとう、リトラ」
リトラはほんの少し表情を柔らかくしたように思う。それからしばらくして、リトラは急にある店の一角で立ち止まった。何か、気になるものでも並んでいたのだろうか。
「どうしたの?」
リトラは店先をじっと眺めている。腕を組んで、真剣な表情で悩んでいる風に見えた。
ただ、その眺めているものがとても意外だった。こういった場所に並ぶようなものだから、そんなにも高価なものではないけれど、貴金属の類だ。リトラは、そういうものを付けるタイプじゃない。
そこで、店の店主は私とリトラを見比べ、そして言った。
「贈り物ですね」
「ん……」
曖昧に返事をしている。
誰か、そういったものを送りたい相手がいるのだろうか。私は気付かなかったけれど、いてもおかしくない。
いつか私が嫁ぐように、リトラだって誰かと結婚するのだろうし。
私がぼんやりと考えていると、リトラは買い求めたそれをポケットにしまった。私は少し興味がわいて問いただそうとした。けれど、その時、荒々しい足音がして、私たちは急に周りを取り囲まれた。
「!」
とっさに、リトラは私を背後に庇った。その広い背中から覗き見ると、私たちを囲んでいるのは、衛兵のようだった。赤と白の制服に、黒く丸い帽子。細く長い棒をリトラに向かって突き付けた。
そして、背後の男性に向かって言う。
「この男で間違いありませんか?」
「ええ」
ゆったりとした足取りで近付いて来る中年男性は、ひと目で裕福だとわかる。黒々と光った頭髪と口ひげ。上下がそろいの生地のスーツに革靴。目は一見穏やかそうだ。
リトラは多分、威圧するような視線を向けたのだろう。男性と衛兵は少し後ろに下がった。
事情もわからないのに、印象を悪くしてどうするんだ。
「リトラ、駄目だよ」
私はその背を叩いておいた。
男性と衛兵は、気を取り直して会話を再開する。
「私の家で盗みを働いたのは、間違いなく彼です」
私は唖然とした。ここへは来たばかりだっていうのに。
けれど、衛兵はなるほど、とうなずいた。
「確かに、凶悪な顔付きですね」
誤解なのに、そんなことを言われた。誰か、似た人と間違われてしまったのだろうか。
私はリトラの陰からそっと表に出た。
「あの、きっとそれは何かの間違いだと思います。私たちはここへ着たばかりですから、あなたのご自宅がどこにあるのかも存じ上げませんし」
すると、男性は何故かにやりと笑って衛兵に耳打ちをした。衛兵も笑ってうなずく。
「話は後で聴こう。……連れて行け」
「ええ!」
正直、探られてまずいことが沢山ある。ここをどうやってやり過ごすべきかと思案する。
リトラは、ここで暴れるのは得策ではないと判断したのか、剣を取り上げられてもおとなしくしていた。
「ユーリ」
名前を呼ばれ、私が振り返ると、リトラは私の服のポケットに何かを滑り込ませた。本物の身分証明など、見られたくないものだろう。
「大丈夫だ、すぐ戻る」
考えがあるのかないのか、リトラはそう言って私に背を向けた。
けれど、何かが変だ。それくらい、すぐにわかる。明らかに連れである私は取り残され、リトラだけが連れ去られる。周囲の人々の視線が、リトラと私と交互に向けられた。
「君はこちらで事情を聴こう」
背後から私の肩に手を乗せ、その男性は言った。
「事情、ですか。むしろ、お聴かせ願いたいのはこちらの方ですね」
私はそのままの姿勢で、声を落ち着けてそう言った。それから、ゆっくりと振り返り、まっすぐにその男性の黒い眼を見据えた。男性は、満足そうにうなずく。
「私はアルジャン=シズレ。ユーリというのが君の名だね?」
「ええ」
「では、ユーリ。こちらへ」
とにかく、付いて行くしかない。
今はただ、リトラが暴れないか、それだけが心配だった。
私が連れて行かれたのは、まあ上流家庭の屋敷だった。けれど、シズレに爵位はないような気がした。多分、商人だろう。
青い屋根と白い壁の屋敷の前に、広くはないけれど、行き届いた庭園がある。季節の花々は美しいけれど、私の目に留まったのは、飾り気のない木だった。深い緑の茂るその常緑樹の姿に、私は胸の奥から込み上げて来る感情をどうにかして飲み込んだ。
中に通された私を待ち構えていたのは、シズレの奥方だった。ドレスの裾を持ち上げ、パタパタと足音を響かせて廊下を走って来る。婦人が廊下を走ってはいけないと、誰もたしなめなかった。
それくらい、夫人は取り乱していた。そして、私の姿を認めるなり、眉根を寄せた。
「この娘? 確かに、姿はいいけど、髪が短すぎるわ」
そんな夫人を納得させようと、シズレは声を落ち着けた。
「そんなもの、どうとでもなる。気品もあるし、これ以上の娘はなかなか探せないぞ」
「そう、だけれど……」
私をそっちのけにして、夫婦で会話を進める。私は冷ややかに言った。
「事情を説明して頂けるのでは?」
シズレと奥方は、私の声に棘を感じたのだろう。一瞬体を強張らせ、それからうなずいた。
「ああ、君に頼みがある」
さすがに立ち話はないだろうと思っていたのに、シズレはそのまま言った。
「頼み?」
「そう。『彼』がどうなるかは、君次第ということだ」
なるほど。
よくわかりました。




