〈5〉 追憶
「行きたくない」
俺は正直にそう答えた。
「一人でそんなところ、行きたくない」
沢山の孤児院の子供たちに囲まれて育った俺が、何故貴族の目に留まり、養子に望まれたのかはわからない。けれど、俺は微塵も嬉しくなかった。
貧しいなりにも仲良くやって来た仲間たちと別れてまで、そんなところに行きたくなかった。
だから、行きたいやつが行けばいいと思った。少なくとも、俺は嫌だから。
けれど、いつも疲れた顔をしている孤児院の院長は、顔を隠すように俺の小さな体を抱き締めただけだった。
「先方は、あなたを望まれているの」
「でも、行きたくない」
子供だった俺は、聞き分けがなかった。だから、院長は言葉を重ねるしかなかったのだろう。
「この孤児院はね、今、とても苦しいの。一人でも食い扶持が減れば、それだけみんなが助かるのよ。あなたは頭のいい子だから、わかるでしょう」
今になっても、たかが七歳の子供に残酷な現実を突き付けたものだと思う。それだけ追い込まれていたのは事実で、貴族とつながりを持てば援助も見込めるのだから、機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだろう。
「……はい」
俺はその一言で、他人になった。
わかってる。恨んではない。院長は、優しい人だった。
行きたくないとごねた俺に、一言、行かなくていいと言ってあげられなかったつらさは、どれほどのものだっただろう。それがわからないほどに、俺は子供でもなかった。
引き取られてからも、孤児院には時々遊びに行かせてもらえた。
けれど、行けば行くほどに、俺は追いつめられた。
『いらっしゃい』という言葉に、言いようのない疎外感を覚えてしまう。
『ただいま』も『おかえり』も、もう適切ではない、他人なのだと。
それなのに、男爵夫妻が家族と思えるほど、俺は単純じゃなかった。
間違いなく、いい人たちだ。俺が抱いていた貴族の傲慢さはなく、懐かない野良犬のような俺に、辛抱強く接してくれた。ただ、あの場所を離れる原因となった二人を、俺はどこかで恨めしく思っていたのかも知れない。
人は、生まれてから死ぬまで孤独なものなんだな、と俺はこの歳で感じるようになっていた。
それなのに、その孤独を邪魔するやつがいた。
男爵夫妻はその家族が屋敷に訪れた時、いつもの朗らかさは影もないくらいに張り詰めた顔をしていた。それだけ、気を遣わねばならない相手なのだと、俺にだってわかった。だから、この日だけは夫妻に逆らうことはしなかった。でき得る限り、従順を装う。
その明らかに格上の家族には、子供が三人いた。兄二人に妹一人だ。
兄二人、特に下の方は俺と同い年らしい。けれど、どちらもまったく好意的ではない。侮蔑に満ちた視線を送られる。侯爵家と男爵家では、身分がまるで違うのだから、身の程を知れとでも言いたかったのだろう。この二人、俺が孤児だと知ったなら、虫けらのような扱いをしたかも知れない。
ただ、それに噛み付くほど、俺は馬鹿じゃなかった。相手にしていられない。
けれど、一番下のユーリという妹は、兄とは違って妙に俺にまとわり付いて来た。まだ幼いのに、見るからに貴族令嬢といった外見。中身は愛玩動物のように人懐っこい。
この子の顔は、俺の養母の男爵夫人によく似ていた。夫人は、輝くような美人だから、この子も大きくなったら美人に育つだろう。
歳の割には口が達者で、それが災いのもとなのか、よく兄たちに苛められては俺に泣き付いて来た。
手を出してよければ負けなかったが、立場上逆らえないので、俺は代わりに殴られてやる。
ユーリは更に泣くけれど、俺はそれにすっかり慣れてしまっていた。
この子は、誰よりも俺のことを必要としてくれている。
少なくとも、この時はそう思っていた。
尻尾を振る勢いで、笑顔を振り撒いて駆け寄って来る。
大事な大事な存在だった。
俺はこの子のために、ここにいるんだと思えるほどに。
ただそれは、俺が何も知らない子供だったというだけのことだ。
知れば知るほどに、その関係は終わらせなければならないと気付いてしまう。
ずっとそばにいることなんて、できない。
だから俺は、十五を境にユーリを避けた。
忙しいと、それだけを理由にした。けれど、俺が時間を空けるつもりがないと、あいつもそのうちに気付いたようで、しばらくしたら便りも減って行った。
顔を合わす回数が極端に減り、どれくらいか経った頃、ユーリが質素なローブ姿で城にやって来た。
軍師になるのだと言う。
あんなに顔を合わせないようにしたのに、なんにもわかってない。
けれど、俺を見るユーリの瞳には、昔のような甘えはなかった。独りで立とうとする意思があるだけだった。
俺たちの関係はもう、昔とは違う。それを痛感した。
なのに、今度の旅。今度の事件だ。
もう、冗談じゃない。
窓際でイライラと海を眺める俺に、船長のクラムスはぼそりと言った。
「女は変わるぞ。次に会えたとしても、それはもう、お前の知るその娘とは別人かもな」
俺は殺意を込めてクラムスを見たが、仮にも海賊の親玉だ。俺の視線を受け流す。代わりに、遠巻きにしていた手下たちが半歩下がった。
「どんなになろうと、あいつはあいつだ」
そう言ったのは、俺の願望だろうか。




