第9章 そして春はめぐる
「あと一週間で卒業かあ」
友美子が両手を組んで前へ伸ばした。
春はまだ浅いといっても午後の光は暖かく、空気にものどけさがにじんでいる。
学校からの帰り道。
慧は友美子と並んで歩いていた。
クラスは違うが、今日はたまたま昇降口で出会ったのだ。
毎朝一緒の班で登校しているが、班長の友美子は最前、副班長の慧はしんがりと明確な住み分けがなされているので、隣同士になって話すのは意外に珍しい。
一九八八年、三月。
あの彗星の騒ぎから丸一年が経ち、慧は小学六年生になっていた。
それももう、終わろうとしている。
「静香ちゃんの家、新しい人引っ越してくるんだっけ?」
「うん。……とうとう売れちゃったみたい」
「小学生の子供とかいるのかな。私たちとは入れ違いになるから、次の班長さんに引き継いでおかなくちゃ」
いつでもどこでもしっかり者の友美子である。
一方、相槌を打ってはいたが、慧は本当は気が乗らなかった。
いつか静香たちが帰ってくるかもしれない。
あの家が空き家であるうちなら、そんな期待も抱いていられるのに、別の人が引っ越してきて暮らしている様子を見るのは、厳しい現実というものだった。
「――元気出しなさいって」
友美子が慧の肩をぽんと叩いた。
心の声が聞こえたみたいなタイミングに、一瞬ぎくりとし、まさかね、と思う。
慧の力は、あの日をピークにほとんど失われてしまった。
生理前に勘が鋭くなることはあるけれど、念動力系は全滅だ。紙くず一つ動かない。瞬間移動は夢のまた夢。
それでも、今でもたまに自分の心が漏れてしまっているのではないかという疑念が湧くときがある。一度思いついてしまうと落ち着かない。とんだ後遺症だった。
だが力はなくても友美子の励ましが本心からであるということはわかるので、
「ありがとう、ユミちゃん」
ぎこちなく微笑んで礼を言う。
前髪をかき上げて額を風にさらし、慧はもやもやを振り払った。
家に帰りつくやいなや、おやつを抱えて自室に引きこもる。
何か言いたげな母には「今日は宿題がいっぱいあるの」と決め台詞をお見舞いする。
実際のところは、卒業を間近に控えてそう沢山の宿題が出るはずもないのだが、とりあえずそう言っておけば角は立たない。
進んで宿題をやるなんて、勉強部屋を与えて正解だったわ、とでも思わせておけばいいのだ。
四畳半のスペースは、かつては物置として使っていたものだ。
庭の物置に荷物を無理やり押し込めて、この部屋を確保した。
ひとりになれる場所がほしかったからだ。
あの日、あのあと。
燐たちの一族の系列の病院へ連れて行かれて、入院させられ、色々検査を受けた。
どういう手が回されたものか、両親はそれについて疑問をさしはさむことなく、数日経ってから家に帰っても「おかえり」と温かく迎えてくれた。
【一族】の能力者の中には、人の記憶や感情を操れるものもいるようで、その辺りの手回しのよさはさすがという他はない。
病院には例の暴走族の一団も運び込まれてきていた。
驚いたことに、あれほどの惨状だったにもかかわらず死亡者はいなかった。
重傷者はいたが、ひどい障害が残ることもなく、短期間で回復していった。
恐らくは無意識のうちに力で防御をしていたのだろう、というのが医療チームの推論だった。
――そして、無意識のうちに晴海が手心を加えたのではないか、というのが慧の推論だ。
あの面々も、慧と同様に、定期的にあの病院に通っているはずだった。
表向きは念のための検査。本当の理由は、実験と経過観察。
血を取られるのは少し痛いが、電極を刺して力の発現を強要されたり、切り刻まれて解剖されるほどの荒事があるわけではないので、そこは本当に助かったと思っている。
一度だけ、あの少年に会った。晴海と同じクラスの、あの少年に。
以前は茶色い頭だったが、怪我の治療に剃ってしまって以来染髪をやめたらしく、さらさらの短い黒髪をしていた。
よく観察すると傷跡が禿げていたのに少し心が痛んだが、本人はそこまで気にはしていないように見えた。
真面目に学校に通って、何とか卒業も出来るらしい。看護婦さんと話していた。
晴海に教えてあげたいと思った。
彼が元気でいること。
晴海は殺人者にはならずに済んだこと。
だが、慧は伝える術を持たなかった。
退院して家に戻ったときにはもう、晴海たち一家は引っ越してしまっていたからだ。
急な転勤だそうで、ろくにご挨拶も出来なかったわ、という母は、晴海と静香には会っていないらしい。
不安な日々を過ごしていた慧に、手紙が届いた。
静香からだった。
謝罪と、お礼。
晴海は無事であるという報告。
それから自分の過去について。
静香は弱いながらも力を持っていたのだという。
それで、少しの間だけ燐とともに修行の真似事をしたことがあった。
でもあまり真面目でなかった上に(この場合の真面目とは、普段の生活を捨ててまで取り組むことを言うのだろう)、やがて力をなくしてしまったので、それ以上の段階には進まなかった。
力のことや修行のことは秘密だったので、慧たちに警告ができなくてごめんなさい、と綴ってあった。
そういえば、と慧は思い出す。
すごろくやトランプで、静香が異常に強い時期があった。
狙った目は出せるし、神経衰弱は何回も続けて取ってしまう。
それが修行をしていたという時期だったのかもしれない。
静香があの日あの神社に駆けつけたのは、あらかじめ燐たちから事情を教えられていたから。
それでも、燐たちが頼んだのは「家人をうまく引きつけておくこと」と、「事が済むまで絶対にその場所に近寄らないこと」だったのに、静香はむしろ反対のことをした訳だ。
――それが、結果的に吉と出た。
静香の必死の様子を思いながら、数度読み返した。
真っ白い便せんに綴られた手紙の文章はとてもしっかりとしていて、字も綺麗だった。
静香に抱いていたイメージと少し違う。
甘ったれでわがまま、勝ち気でおしゃべり、兄に対して高圧的な――女の子。
あるいは彼女も、何かを隠すために別の仮面を被っていたのかもしれない。
ふわふわの髪の毛が二の腕を掠める、毎朝の感触が思い出された。
それが懐かしくて、慧は短かった髪を伸ばし始めた。今は肩を越す長さになっている。
静香の手紙にはしかし、連絡先の類は書かれていなかった。消印すら押していない。
ただ、元気だから安心してほしいとだけ、記されていた。
いつか、また改めて連絡するから、と――。
その言葉を信じて、もう一年が経ったのだ。
ふと、誰かに呼ばれた気がした。
気のせいかと思ったが、どうにも違う。知っている感覚だった。
部屋を出、玄関で突っ掛けを履いて、ふらりと外へ。
家の裏手の、雑木林がまだ残っている一角へ導かれるように歩いていく。
一番大きなナラの木の下に、燐と仄の二人が並んで立っているのが、ごく自然なことのように思えた。
「こんにちは。お呼びだてしてごめんなさいね」
仄は相変わらず綺麗だった。いや、少し大人びて、美人度が増している気がする。
「こんにちは」
変化といえばちょっぴり髪が伸びただけの自分と比べてつい卑屈な気持ちになりそうにもなるが、そこはスマイル、スマイルだ。
「――てめえ、何で来るんだよ」
燐も相変わらず綺麗だった。つまり女装。デニムのタイトミニからすらりと伸びる足がまぶしい。
そして憎まれ口も相変わらず。
「え、て、呼ばれた気がしたから……来ちゃいけなかった?」
「おかげで負けた」
「気にしないでください。賭けた時点で負けてたんです、この人」
仄は澄ましたものだ。
どうもテレパシー(という横文字は仄の力には似あわない気がするが)での呼び出しを慧が受け止められるか、そしてやってくるかで勝負していたらしい。
「――あ、てめ、もしかして『わかって』て」
「当たり前です。修行が足りないこと」
「相変わらず仲がいいですね」
にこやかに見守ってしまう。
こんなやりとりをしながら仄が幸せを感じているのが、わかってしまう。
別に超能力の残滓ではなくて――敢えて言うなら「女の勘」だ。
こほん、と仄が咳払いをした。
「さ、燐さん、渡すものがあるんでしょう」
「言われなくても」
ジージャンの胸ポケットから二つ折りにした紙片が出てきた。仄が眉をしかめる。
「折ったんですか」
「最初から折ってあったんだよ! 大体開いたまんまじゃ中身が見えちまうだろ」
ぶっきらぼうに差し出したのは、一枚の葉書だった。
赤く「年賀」と印刷してある。お年玉くじ付きの。
高畑慧様、と宛名が書いてある。
「――晴海から」
燐が、ほれ、と促す。
受け取る手が、いざとなると震えてしまった。
落ち着けようと右手で左手を包み込む。
「さっさと読め。こちとら反応を報告しなくちゃなんねえん――だほっ」
仄が燐の脇腹を肘でつついた。というかそれは肘鉄だ。
漫才みたいなやりとりに少し気持ちがほぐれて、ようやく葉書を広げる。
明けましておめでとう、というごく普通の賀詞が書いてある。今はもう三月だけれど。
「出しそびれたんだと。相変わらず鈍くさ――って、痛えよてめえは」
懐かしい晴海の字だった。
少しよじれて、頭でっかち。
丁寧すぎてバランスが悪い。
賀詞より少し小さい字で、昨年は本当にお世話になりました、と続く。
そして、恐らくは次を書くまでにしばらく間があったに違いない。筆跡が微妙に変わっている。
今年もよろしくお願いします。
「――晴海兄ちゃんは、今、秩父にいるんですか?」
慧が尋ねると、燐は頭をかいた。
「……ま、な。お祖父さん家より、もうちょっと奥地だけど」
「うちの道場入って修行してるんですよ、晴海さん。もうこの人が喜んじゃって喜んじゃって」
「誰がいつ喜んだよ! くどいよてめえは!」
「――もしかしたら、一緒に『仕事』が出来るようになるかもしれないから」
「仕事?」
「例の彗星絡みなんですけどね、まあ目覚めた能力者が悪さをしたらとっちめにいく、そんな役どころです」
にっこりと仄が笑う。
「多分あと数週間もすると忙しくなるから、今のうちに伺ったんです」
「忙しく、って――」
彗星の一件は、もう終わったのではないのだろうか。
あの後、各地で原因不明の不可解な事件がいくつか起こった。
慧にはぴんと来た。「同類」の仕業だと。
でもそれらはあまり大事になることもなく、新聞の地方記事レベルで沈静化したように思う。
「おとめ座に流星群が出来たかもしれねえんだよ」
燐が説明した。
彗星から噴出したダストが宇宙空間に残っていて、地球が公転軌道の同じ位置を通過するときに、地上に降り注ぐことがある。
「しし座とかペルセウス座とか、なんとか流星群てあるだろ? あれもそう」
「それが、おとめ座に?」
燐と仄が同時にうなずく。
「彗星直撃のときほどではないにせよ、用心に越したことはありませんから」
「……そう」
じり、と喉が焼ける気がした。
もう終わったと思っていたのに、亡霊が現れたみたいだった。
くす、と笑い声がした。燐だった。
「へこむなよ。晴海を見習え」
「え?」
「あいつ、流星群発生の予想聞いて、躍り上がって喜んでたぜ。本物の天文バカだ」
一瞬、呆気に取られる。
そんな馬鹿な。あれだけの目に会っておいて。
「静香さんも呆れてましたね。馬鹿は死ななきゃ治らないのかって」
「――いいんだよ。治るようなことがあったら困る」
燐が優しく笑うので、つられて慧も笑ってしまった。
ひとしきり笑った後、燐が葉書を指差す。
「なあ、そんで、その天文バカの書いた文章、最後まで読んだのか?」
慌ててもう一度目を落とした。
今年もよろしく、の下に、パンダのような白黒の動物が描いてある。どうやら干支の牛らしい。
その更に下に、文章が続いていた。
読んだ。
もう一度読んだ。
頬が勝手に熱くなってしまうのを押さえようとしながらも、思わずもう一回読んだ。
その反応を見届けて、燐が手を上げた。
「ま、長居もなんだし、行くか」
「そうですね。またいずれ」
仄が優雅に会釈する。
きびすを返すのを、慌てて呼び止めた。
「あ、あの! ありがとうございました!」
そうだ、きちんとしたお礼をまだ言っていなかったのだ。
「燐さんと仄さんは、わたしの――わたしたちの恩人です。本当に――」
「リン、でいい」
「それじゃあ私は、ほのか、で」
燐も仄も、私たちの本質――真名だから。
真名を預けたくないわけじゃない。
ただ、あなたには、人としての認識で呼んでほしい。
「――ありがとう、ございます。元気でね、リンも、ほのかも」
満足げに二人はうなずく。
背中を向けて、指を立てた右手を上げ、リンは立ち去っていった。ほのかがその傍らを歩く。
ずっと見送ろうと思っていたのに、角を曲がりかけた瞬間、大気が陽炎のように揺らめいて、二人の姿は消えてしまった。
単にそのまま角を曲がったのかもしれないが、追いかけて確かめることはせず、慧もまた家に向かう。
夕飯の匂いがする。
どうもまた、カレーかシチューのどちらかになりそうだ。
最近、ブラウンシチューというレパートリーは増えたが、似たり寄ったりであることには違いがない。
中学に入ったら、少し料理の勉強などしてみようかと思う。
パンダのような牛の下には、こんな文章が続いていた。
思いのほか長くなったのか、スペースが足りなくてだんだん小さくなっていく字で。
宿題をまだやっていませんでした。慧を星にたとえたら何になるか。
宛名を書いていて気がついたんだけど、
彗星の彗に、「心」を加えると慧の名前になるんだね。
僕は昔から、彗星に憧れていました。それは今も変わらない。
慧が嫌じゃなかったら、「彗星」ってことにしてもいいかな。
もちろん、と慧は思う。
自分もたいがい懲りないな、と苦笑いをこぼしながら。
それでも、もう一度、いいや何度でも、晴海の横で星空を眺めたいと、真実心の底から願うのだ。
そしてその願いは、遠からず叶う――。
そんな気がしてならないのだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
本編はこれにて終了です。
あとがきは、少し長くなりそうなので、画面のバランスを考えてここには書きません。
もう1話「あとがき」として投稿しますので、よかったら次の話に進んでください。
本当にありがとうございました。
楽しんでいただけたなら、幸いです。