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第8章 月の裏側

 戦う二人の向こう側に、静香がいた。

 慧と同じように地面にへたり込んで、同じように精一杯のまなざしを晴海に注いでいる。

 あの一瞬。燐が晴海の力から逃れて攻撃を仕掛けたとき。

 晴海は静香を脇へ突き飛ばした。

 そうしておいて、自分はあえて一歩を踏み出したのだ。

 静香が邪魔だからの行動ではない。逆だ。

 ぎりぎりで庇おうとした。巻き添えをくわすまいとした。

 慧にはそれがわかった。静香にもわかった。仄にも、そして燐にも、わかった。

 だから燐は笑っている。

 殴り合いは、燐の言った通り互角で、ともすれば、顎に晴海の鋭い一打が入る。

 それを受けながら、燐はどこか嬉しそうに笑っている。

 そして泣いている。


 ――初めて会ったときのことを覚えている。


 幻燈のように、燐の想いが結界の光に浮かび上がっては薄れる。


 ――自分はその頃にはもう、「女」で通っていた。家人は宗家の言いなりで、名誉なことだとありがたがりはすれども、誰一人としてその育て方に異を唱えるものはいなかった。


 晴海の蹴りが顔面を狙う。

 燐はそれを腕で受け、円の動きで力を逃し、同時に晴海の軸足を払う。

 が、晴海はバランスを崩されながらもかろうじてとんぼを切り、逃れる。


 ――【一族】の道場に預けられ、修行に明け暮れる。

 ――末端の薄い血筋が、たまたま生まれた鬼子が、と陰口を叩かれることもあった。


 着地する晴海の足元を狙って、素早くしゃがみながら足払いを食らわせる燐。


 ――もちろん自分は負けなかった。己の実力立場その他を考慮しつつ、ひとりひとり実に丁寧に、逆らう気を喪失させる程度に片をつけてきた。

 ――が、そんな経験を重ねれば重ねるだけ、心は荒んでいった。

 

 とっさに晴海が足を縮めて引き上げ、タイミングを遅らせる。

 燐の足払いはぎりぎりで当たらない。

 その燐の膝のすぐ下に晴海が真上から降りた。

 曲がらない方向に力がかけられ、燐が顔をしかめる。

 それでもひるまず勢いよく振りぬいた。

 結果晴海のバランスは崩れる。

 尻から地面に落ちる。

 跳ね起きようとするその足に、燐が飛びついた。

 膝が痛んで、飛びつくというよりすがりつくような格好だったが、それでも晴海を捕まえ、地面に引きずり倒す。

 素早く馬乗りになる。

 顔面を殴りつけた。

 

 ――晴海の第一印象は、「どんくさい」だった。そして、「へんなやつ」だった。

 口が重く、思ってることを表現出来ない。母親やませた妹にぺらぺらまくし立てられて、黙って困っている。何ともいえない半端な笑みを浮かべながら。

 抱えている図鑑が唯一の友達だった。星空の写真が表紙だ。

 げ、と思った。

 燐にとって星空は、鬼門だ。

 彗星をもたらすもの。

 それから、暦を読むとか力場を読むとか運勢を読むとか、修行で散々やらされて、めんどくさくてうんざりなもの。

 それでも、「女の子のリンちゃん」としては、優しく愛想よく振舞わなくてはならない。

 ――ハルミちゃんは、星が好きなの?

 ちょっと図鑑を覗き込んでやる。

 すると晴海は、ぱっと顔を輝かせた。予想以上の反応。

 ――うん、大好き。

 花がほころぶような、笑顔。


 がつ、がつ、と硬い音がする。

 かつて幸せな薔薇色に染まっていた頬を、拳で潰している。

 血に染めている。

 唇も口の中も切れて腫れ上がり、歯もぐらぐらかもしれない。

 まぶたが切れて、だらりと血が流れる。まるで涙のように。

 それでも燐は殴る。そうしなければならないから。

 押さえつけるほうの腕は、力を込めすぎてぎりぎりとわなないている。

 その上腕を晴海がつかんだ。爪を筋繊維の隙間に食い込ませる。

 殴ることに集中しすぎていたために一瞬ひるんだ燐のおとがいを、晴海の拳が掠めるように殴りあげる。

 ぐらりと振れたところへ、さらに裏拳で逆方向へ揺さぶる。

 そのまま手は蛇のように燐の襟奥をつかんだ。

 巻き込んで締め上げながら、引きずり倒す。

 体勢は逆転し、今度は晴海が燐を押さえこんだ。

 襟から手を抜かず、引き寄せてから後頭部を地面に打ち付ける。

 力が抜けたところを殴りつける。


 ――大好き。

 もしかして自分は、そのとき生まれて初めてその言葉を聞いたのではないかと思った。

 なんて甘く優しい響きなんだろう。

 自分に向けられたものではなかったけれど。

 でも自分の周りでは他の誰にも、どんなものに対しても、こんな言葉を使う人はいなかったのだ。

 それはきっかけだった。

 修行にも、使命にも、何の意味も見出せなかった自分が変わるための。

 普通の人生から外れてしまった自分が、普通の人生を送る人を羨むのではなく守りたいと思うようになるまでの。

 小さな一歩。

 大きな一歩。

 自分で踏み出した一歩。



『じゃあどうして、あの時止めてくれなかったの?』


 慧に言われるまでもなく、ここ数日の間ずっとずっと後悔していた。

 止めていれば、せめて直撃は避けられたかもしれないのに。晴海にこんな重荷を背負わせることはなかったかもしれないのに。

 でも止められなかった。

 彗星を見に行く、と言った表情があまりにもきらきらしていて。

 一生にそう何度も巡り会えるわけではない希有な天体観測を、どんなに彼が楽しみにしているかわかり過ぎてしまって。

 彗星を避けるべき理由は言えなかったから、理由も無しに反対して変に思われるのは嫌だったから、そんなきっかけで嫌われたくはなかったから。

 今までの大きい彗星――言い伝えに残るほどの大彗星だって、「例のもの」ではなかったのだし、今度のだって大丈夫なのではないかと思ったから。思いたかったから。

 誘ってくれたのが嬉しかったから。

 それがたとえ、ついでの思いつきであっても。一緒に彗星を見る人は――何の屈託もなくそれを美しいと思える、燐ではない誰かが傍らにいるのだとわかっていても。

 ――結局、あのとき止めなかったのは、自分の判断の甘さ。

 ただのエゴ。


 殴り続ける晴海の息も上がっている。基礎体力の違いが出てきている。

 押さえ込みを外そうと燐がもがく、その気配を察して、晴海はつかんだままの襟首を更に締めた。

 殴っていた利き手も添えて、喉を締める。

 それがとても苦しいことだとわかっているから、相手にもそれをやる。

 ひぅ、と笛のような音がした。


 ――僕ね、

 いつだったか晴海は夜空を指差した。あれは確か祭りの帰り道、まだ十になるやならずやの頃。

 ――あの星を見るとリンちゃんを思い出すんだよね。

 橙に鈍く光る星。うみへび座α星アルファード。

 二十八宿南方朱雀七宿の第四宿。星宿、ほとほりぼし。

 内心少しひやりとする。

 火の性を持つ自分には、なるほどある意味似つかわしい星かもしれない。

 晴海の前では猫をかぶり通しているはずなのだが、時折彼は無邪気に鋭い指摘をする。

 ――どうして? あんな赤い星。お年寄りだって言いたいの、失礼ね。

 こちらも無邪気を装って、ぷうと頬など膨らませてやる。

 すると晴海はすぐに謝るのだ。

 ――ごめんね、そんなつもりじゃないんだ……ほんとに何となくなんだ。何となく……。

 語尾が消える。ぐす、と洟をすする音。

 ――あ、やだ、泣かないでよ。別に怒ったわけじゃないんだから、ね?

 慌ててしまう。

 晴海は弱そうに見えるし実際弱いけれど、滅多に泣かない。

 静香に理不尽にぶたれても母親にがみがみ言われても、困ったように笑うだけで泣きもしないし怒りもしない。

 それがこのときは、ぽろぽろと涙腺が壊れたみたいにむせんでいた。

 ――……リンちゃんは、さびしくない?

 その言葉に、と胸を突かれた。

 晴海は、アルファードの色だけではなく、その孤独に燐の姿を重ねていたのだ。

 祭りの賑やかさにどこか溶け込めずにいたときに感じた視線は気のせいではなくて、晴海には気づかれていたのだろう。

 ――……さびしくないよ。

 燐は言った。

 ――たまにお月様が来てくれるから。

 二十八という宿の数は月の運行に由来している。少し外れた場所にあるアルファードと月は、重なるほど近くに並べるわけではないけれど。

 ――帰ろ。

 差し出した手におずおずと重ねられた晴海の手は、涙でべちゃべちゃで、それが冷えていて、汚くて、でも温かかった。


 視界が赤く染まる。端のほうが黒に侵食されている。脳が酸素を求めている。

 晴海と燐をずっと見守っている慧は、息苦しさにあえいだ。腹の底で心臓が暴れている気がする。

 もう限界に来ていた。

 燐も、それから結界を張っている仄も。無理に力場を形成した代償に、生命力が削られている。

 いつの間にか静香が側に来て、仄を支えていた。

 少しずつ生命力を注いでいるものの、うまく流れていかない。

 零れてしまう分のほうが多い。

 それでも静香は必死だった。

 それが今自分に出来る唯一のことと信じて、静香なりに戦っている。

 慧も、何かをしなくてはと思うのだが、ひどい疲労と脱力感があった。

 今にも気を失ってしまいそうだ。

 まだ早かったんだ、という思いが頭に渦巻いている。

 まだ、こんなにいきなり力を使ってはいけなかった。

 体がついていけていない。

 でも、じゃあ、――晴海兄ちゃんは。

 慧以上に力を使ってしまったその副作用は、どれほどのものになるのだろう。

 ぞっとする。足元が崩れ落ちたかのような喪失感。

 身じろぎした拍子に、また熱い液体がごぽりと零れ落ちる。


 いやだこんなの、どうせ流れるなら、全部一時に綺麗さっぱり流れ出てしまってくれたらいいのに。いっそ内臓をひっくり返して搾り出してしまいたい――。


 鈍痛と絶望に支配されかける。

 くすり、と笑い声が聞こえた。

 見ると、仄の口角がほんの少し上がっていた。

『私もそう思うことがあります』

 青白い頬に冷や汗をにじませ、それでも思念の波は穏やかに凪いだ状態を保っている。

『力は使えなくなるし、ひどいときは寝込んでしまう。何でこんな面倒なことがあるのかしらと嫌になるけれど――私たちはそうやって、命を繋いでいくのね』

 真摯に前を見つめている、その先には燐の姿があった。

 もがいている。

 首を締め上げる晴海の手に爪を立て、引っかいている。いや、抉っている。

 赤黒い肉が見えている。

 それでも晴海は、痛みなど感じていないかのように、ぐいぐいと締め続けている。


「――やめてよ」


 自分のものではないような、低く嗄れた声。

 それでも慧は、振り絞った。

 伝えようと決めた。

 「わたし」の気持ち、「わたし」の言葉。

「もう、やめて」

 そう、晴海が自分でやめなければ意味がない。

 自分で気がついて、思い出さなくては。

 燐の孤独を救っていたこと。

 慧の恐怖を拭っていたこと。

 月が怖かったら晴れの海を思えと、言ってくれたこと。

「信じてるから」

 月はいつも地球に同じ面を向けている。

 月の裏側のことは誰も知らない。知られたくないこともあるだろう。見てしまったらいけないこともあるのだろう。

 それでも――。

「信じてる」

 たとえ満ち欠けの具合で姿が望めなくても。たとえ月がひっくり返ることがあってその裏側をさらしても。

 穏やかにたゆたう晴れの海は確かにそこにある。

 あの時、今度一緒に月を見ようと言ってくれた晴海の優しさは、変わらずそこにあるのだと。

 信じているから。

「帰ろうよ。帰ってまた天体観測に行こうよ」

 どんなに綺麗な星空だって、一人ぼっちで見るのはつまらないんだから――。


「大好きだよ、晴海お兄ちゃん」

 

 

 ふ、と晴海の腕が緩み、燐の喉が解放された。

 久しぶりの酸素と血流が入ってくる。

 だが貪りたい本能を無理やり抑えて、むしろ無呼吸のまま、燐は身をひねった。

 足を絡め、晴海を巻き添えにひっくり返す。

 晴海の右腕を右腕で、左腕を左腕で押さえつけ、にらんだ視線で射すくめながら、ひゅ、ひゅ、と少しずつ呼吸を戻していく。

 血流がごうごうと耳元で鳴ってうるさかった。頭が痛い。赤く染まった視界は元に戻らない。

 それでも。

 のろのろと腕を上げる。

 晴海の抵抗は無い。

 それでも殴らなくては。殴らなくては。殴らなくては。

 晴海を取り戻さなくては。正気に戻さなくては。

 俺が、落とし前をつけられなかったら、【一族】が総出で、晴海を――殺す。

 それでも、あっさりと殺されるなら、まだ、ましで。

 自由を奪われて、サンプルとか、実験台とか、生かされたまま、切り刻まれて、そんなことも、十分に、ありうる。

 だから、俺なのか。

 暗い閃き。

 俺だったら、晴海を殺せないと思ったから。

 必ず生かして連れ帰らせるための、人選。

 冗談じゃねえ。

 だったら、だったらいっそ。この頭を砕いて――全部、終わりに――。 

 視界がにじむ。

「……おんなじとか、言うなよ……」

 掠れた喉が、切れた唇が、ようよう紡いだ言葉。

 振り上げたものの、もう拳が動かない。振り下ろせない。

『……寄ってたかって』

『おんなじだ』

『あいつらと同じ』

 殴るたびに、拳からがんがん響く、先刻の晴海の言葉。

 おんなじとか、言うな。

 お前をいじめてるやつと、笑いながらお前を殴るやつと、お前を同じ人間と思わないやつと、おんなじだなんて、言うな。

 やってることはおんなじかもしれないけど。

 でも言うな。

 言い訳かもしれないけど。

 でも。

「――殴る方だって、痛えんだぞ……」

 唇を噛むと、血の味が広がった。飲み下す。

 そんな燐の顔を、晴海が見つめている。

 赤紫に腫れ上がったまぶたの奥で、静かな茶色い瞳がまっすぐに光っている。

「……ずるいや、リンちゃん」

 燐以上にぼろぼろの唇が、微かに動いた。

「かっこよすぎるよ、そんなの」

 目が笑むように細められ、そのまま閉じる。

 傍目にはっきりわかるほど晴海の体からは力が失なわれて、かくん、と首が横を向いた。

「――! 晴海兄ちゃん!」

「お兄ちゃん!」

 慧と静香が同時に叫び、よろけながら晴海へと走りよる。

 晴海の肩をつかみ揺さぶる燐の叫びが、神社の境内に響いた。

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