表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

第7章 闘い

 ――晴海兄ちゃん。


 夜空を見上げて、慧は呼んでいた。


 ――晴海兄ちゃん。

 ――晴海兄ちゃん。


 心のありったけを傾けて呼んでいた。

 先ほどとは場所を移し、違う神社の境内に立っている。

 広い敷地に、暗い明かりがひとつだけ。

 注連縄を巻いた神木も、社務所も本殿も、闇に溶けている。

 鬱蒼と茂った杜に囲まれて、周りの光も届かない。

 でも、と慧は思う。

 でもこの杜が自分たちをあの彗星から隠してくれる。

 まだ空のどこかにいるだろう、すべてのきっかけになったあの冷たい光から。

 先ほどからいくつもいくつもサイレンの音が交錯している。

 救急、消防、そしてパトカー。

 もしかして、あの堤防での惨劇と同じような事件が続発しているのだろうか。

 同じように「目覚めた」人々の手によって。

 あるいは――晴海の手によって。

 首を振り、嫌な想像を振り払う。

「……晴海兄ちゃん……」

 声に出して呼んでみた。

「帰ろうよ。一緒に帰ろうよ。――迎えに来てよ、ねえ」

 思わず感情が高ぶって広げた心の網の先に、何かが触れた。

 慌てて引っ込める。

 もう一度、と確かめたい気持ちを抑えて、アンテナをしまいこむ。

 ぎゅっと両の手を握り合わせた。祈るように。

 こっちから出て行っちゃいけない。

 待つんだ。

 信じて、待ち続けるんだ。


『――僕はもう帰れないよ――』


 「声」が頭上から降ってきた。

 杜の梢と同じ高さに浮かんだ晴海が、こちらを見下ろしていた。

 パジャマに赤黒い染みが点々と飛んでいる。返り血だ。

『アキラは帰れ。ひとりで。大丈夫、この力があれば何とでもなるさ』

 能面のような顔。まるで別人みたいだ。微かな明かりが作る陰影が微妙な表情を見せる。

 思わず「解析」しそうになるのを、抑える。

 もう、本当に必要なところ以外ではこの力は使わない。

「晴海兄ちゃん!」

 だから、あくまでも肉声で呼ぶ。

 心のどこまで届いているのか、確かめる術が無いけれど、それでもそれが《あるべき普通の姿》なのだから。

 対して晴海は、心の声が外へ漏れるのを止めようともしなくなっていた。

『帰りたくないよ、あんなところ……お前だって本当はもう』


 本当はもう、僕のことを軽蔑しているんだろ?


「そんなこと無い! そんなこと無いから!!」

『偽善だな』

 晴海は疲れたように嘲笑した。

 偽善だ。

 イジメ ハ ヤメマショウ。

 そんな道徳の授業、ひとつも役に立ちはしない。

 現場を目撃しても、遠巻きに眺めるだけで、誰一人止めてくれるわけではなかった。

 期待するほうが悪い。

 止めた人がいじめられてしまうから仕方ない、と言い聞かせた。

 ――でも本当は、あいつらも僕の姿を見てストレスを発散させてたんだ。

 見て見ぬ振りをする教師はまだましな類だ。

 数学の答案用紙を勝手に拾えとばらまかれた。

 無理やりつけられた嫌な仇名で授業中に指された。

 大声で笑う者、くすくすと笑う者、無視を決め込む者。

 求めるほうが悪い。

 それでも僕は思っていた。

 いじめる方にだってきっと、何かよんどころない理由がある。

 先生だって人間なんだ。

 僕にだって原因はあるんだから。 

 我慢して、大人になって、笑っていよう、笑っていよう。

 何て――なんて偽善的な。

『――みっともないよな』

 笑って、笑って、へらへらと笑って、なす術もなく虐げられているだけの僕。

 あんなどうしようもない、暴走族にくっついてるバカなクズにすら馬鹿にされる自分。

「思わない! みっともないなんてそんなこと――」

『嘘をついてもわかるんだよ』

 あの一瞬、慧の心に浮かんだ感情を、感じ取ってしまったから。

 汚いものを見るような戸惑いが手に取るようにわかったから。

「嘘じゃない! 嘘じゃない、嘘じゃない!」

 慧は両手を振り下ろし振り上げて、懸命に叫んだ。

『わかったわかった、アキラはいじめはいじめる方が悪いって言ってくれるんだね。いい子だからね』

 卑屈な笑い。

『だったら、僕のしたことは正しいと思わないか? あいつらの方が悪かったんだ。僕たちに危害を与える相手、虐げる相手、馬鹿にする相手、まとめて潰してしまったら、』

 すっとするよ。

 気分がいいよ。

 解放される。

「――嘘だ!! ハルミ兄ちゃんこそ嘘つきだ!」

 慧は喉に血がにじむほど叫んだ。

「すっきりなんかしてないくせに! 後悔してるくせに! 泣きたいのに! 本当はわかってるのに!」

 堤防で力を振るいながら、晴海の慟哭の底に流れていた微かな記憶の再生。

 あの、バイクの後ろに乗っていた少年。

 今はもう滅多に学校に来なくなっていた少年。

 一度だけ、言葉を交わしたことがある。まだクラスが変わって間もない頃。

 お前、染めてんの? 髪。

 言いがかりをつけられるのかとびくびくしながら、答えた。

 違うよ生まれつきで、いつも誤解されるけどほんとに、と。

 へえ。

 彼はあっさりと信じてくれた。小さくて意外に可愛らしい目をくるりと瞬かせて。

 いいなあ、綺麗な色じゃん。

『見たのか』

 晴海の心の声がコールタールのように重苦しい黒になる。

「わざとじゃない! 見えたんだ!!」

 だから晴海は泣いていたのだ。彼を反射的に吹き飛ばしてしまった後で思い出して。

 あのとき確かに彼と自分との間に温かいものが流れていたのに、そんなことも忘れていた。

 暴走族と付き合いがある、不良、というレッテルを貼って、無意識のうちに見下していた。

 自分はああはならないと、あれよりはましだと考えてバランスを保っていた。

 その相手に見下されていたと、わかったことで気がついた、自分の中にもある差別感情。

 ナンダ ケッキョク ジブンモ ホカノヤツラ ト オンナジ。

『見たのかよぉっ!!!』

 叫びとともに叩きつけられる念波。

 反射的に顔をかばった腕が、びりびりと震える。ざざっ、と玉砂利の上を体が横滑りした。さすがに裸足の足の裏がすれて痛い。

 その時、がさっ、と杜の下生えが音を立てた。

「――見えたが――」

 潜んでいた黒い影が飛び出し、信じられない跳躍を見せる。

「どぉしたあっ!!」

 燐の長い足がしなり、晴海の脇腹に吸い込まれる。

 ぱし、と鋭くむしろ軽い音の響き。

 浮かんでいる晴海のバランスが崩れる。燐はそのまま宙で身をひねり、今度は横面へかかと蹴りを食らわせた。叩き落すように振り抜く。

 ぐらりと傾ぎ、数メートルの高さから地面に激突する――そのぎりぎり手前で衝撃を緩和させる力が働いた。晴海の抵抗だ。

 だが。

「はっ!」

 後を追うように落下してきた燐が、晴海の背中に膝を当てる。

 体重と重力加速度を乗せて、浮かび上がろうとする晴海を押さえつけた。ぐしゃ、という嫌な音が聞こえた気がした。

 胸を膝と地面に挟まれて息も出来ぬような晴海の痛みを、力でつい共有してしまいそうになり、慧は慄く。

「だめ」

 脇からそっと抱きかかえられた。二の腕に手が回される。仄だ。

「中和させて、打ち合わせ通りに。気を抜かないで」

 つばを飲み込んだ。そうだ、やらなくては。同じ力を持った自分にしか出来ないこと。

 晴海の気配を探る。

 瞬間移動で逃げようとする、その力場を察知して、反対の波動をぶつける。音を音で打ち消すように、光を光でかき消すように。

 一人では難しかったが、仄がサポートをしてくれる。二手も三手も先を気配から読んで、触れ合ったところからどうしたらよいかの指示を注いでくる。

 能力が発動せず戸惑う晴海の胸元をつかみ、燐は拳骨で頬を殴った。

 もう一発。さらに一発。

 晴海が顔をかばうと、今度は空いた腹に一発。うめいて腹を押さえるその腕をとり、背中へねじりあげる。

 たまらず晴海はひざをつく。完全に燐が押さえ込んだ。

「……これだから、都会っ子は……」

 つぶやく燐の表情は、乱れた髪に隠されて見えない。

『騙したのか』

 耳に晴海の声が響いた。

『アキラが、僕を、こんな、罠に……』

「――違っ」

 集中を乱さないで、と仄が慧の腕をきつく掴む。

 けれど慧の心は揺れる。

 晴海の秘密を知ってしまった後ろめたさ、暴走を止められなかった後悔は消せるものではない。

 そして、晴海の辛い状況を知らず笑っていた自分を許せないと感じる気持ちも。

「……なんだよ、寄ってたかって。おんなじだ。あいつらと同じ……」

 晴海の肉声。かすれて、やつれて、この世への呪いに満ちて。

 ちがう。

 違う、やだ、おんなじなんて言わないで。

 つんと痛む鼻の奥、喉の奥の塊を飲み下そうとしたその時。

 ずきん、とこれまでになく下腹が痛んだ。息が止まる。

 次いで、腰が砕けるような、痺れるような、ふやけるような、不思議な感覚。

 どぷ、と音がした。

 何かが、零れた。何かが、流れ出た。

 失禁をしたのかと思った。

 じわりと下着の中にしみる、熱い感触。

 つうっと太ももを伝い、膝を回り、すねを撫で、地面に落ちる。

 黒い、液体。

 総毛立つ。

 なに、何、これは、何!?

 身じろぎした、その拍子にまた零れていくのがわかる。

 どぷ、ごぷ、熱い、濡れる。

 パジャマのズボンが染まっていく。

 赤かった。

 一瞬黒く見えたのは暗さのせいだ。

 しかし、赤でも黒でもこの場合に受ける衝撃は変わらない。

「なに、これ、やだ、なに……」

 仄の指が食い込むのを感じたけれど、集中なんてしていられなかった。

 襲ってくる未知の感覚。

 どぷ、とまた、音がした。

 地面に咲いていく紅い花を見て、絶望がひたひたと押し寄せる。

 初潮。月経。生理。

 特別授業の映画で見た文字がちかちかと脳内で瞬く。

 まだまだ先だと思っていたのに。自分だけにはそんなことが起こらないような気がしていたのに。

 変わっていく、変わってしまう。

 よりによってこんなときに。

 ぼくは――わたしに、なってしまった。


 

 慧の動揺から力場の均衡が崩れた。

 晴海が燐の腕から「抜け出る」。

 空を切った手に焦る燐を、晴海の思念波が襲う。吹っ飛ばされて、境内の大きなケヤキに叩きつけられる。かろうじて受身を取ったものの、背骨が折れるかと思うような衝撃。

 体勢を立て直す間もなく、見えない力が燐の細身の体を木に押し付ける。

「……へ、え」

 それでも燐の瞳は挑発的にきらめいて晴海をにらんだ。

「……逃げな……のか。俺を、やる気、か、よ……」

「おんなじだ、おんなじだ、だから、ぼくだって、おんなじことを……」

 ぶつぶつと晴海はつぶやき続けていた。

 ただ破壊を求める。

 先刻暴走族を壊した時の再現だ。

 慧の動揺が空間を震わせていても、それにすら気がつかない。

 腕が上がった。まるで糸で吊られた人形のように、すっと。

 それに合わせて、燐の首に圧力がかかるのが「見えた」。

 直接締めているのと同じにぎりぎりと首が絞まる。

 歯を食いしばる燐の顔が見る見る赤黒くなっていく。

 指の形に皮膚がへこむのがわかる。

 このままでは、燐が、死んでしまう。

 晴海が、殺してしまう。

 慧はその場にへたり込んだまま、涙を流していた。

 滲んだ視界に映し出されている光景の意味するものを理解していても、体に力が入らない。

 何も出来ない、無力感。

 とそのとき、ざっ、と音がした。

 誰かが境内に走りこんできた。

 一直線に晴海を目指し、近づいて、――背中を殴った。

「バカ! バカハルミ!!」

 それはあまりにも意外な人物――。

 静香だった。


 殴り続ける。

 いや、殴る、というより、ぶつ、というほうが正しい。

 小さい子供が駄々をこねるように、肩と言わず腕と言わず背中と言わず、力の入りきらない拳を降らせ続ける。

 ばし、ばし、どん、どん、という音が響く。

 それは、慧にとっては慣れ親しんだ日常の光景によく似ていて、およそそれまでの緊迫した空気にはそぐわないものだった。

 ただひとつ、静香が泣いていることを除いて。

 いつも勝気で、悔し涙を滲ませることはあってもわあわあ泣いたりはしない静香が、顔中をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

「バカ! バカ、バカ、バカ、バカ、バカ……」

 拳の方が痛くなるほどめちゃくちゃに振り回し、そして静香は晴海にしがみついた。

「返してよぉ! お兄ちゃんを返してよお!」


 隙が生まれた。

 仄が動いた。その間隙に素早くつま先をねじ込んだ。

 イメージだ。実際の隙は目に見えるものではないし、仄の体勢は慧の傍らで腕に触れているまま、変わらない。

 つま先をねじ込んでから、ぐり、と足をひねってこじ開ける。

 そのまま一歩前へ。

 歌舞伎や日本舞踊にも似た、静かで鋭い踏み込み。

 ぴしっ、と空間が鳴った。

 仄の華奢な体から何本もの金の光の帯がしゅるしゅると広がる。

 木が岩に根を張るように侵食していく。

 瞬く間に辺り一帯の地面と空間が不思議な紋様で埋め尽くされた。呼吸をするがごとき明滅を繰り返している。

『ようやく、この土地の力を借りられました』

 りん、と鈴のように怜悧な声が響く。

『急ごしらえの【場】ですが、慧さんと同様の中和力があるはずです』

 その言葉に違わず、晴海の力が遮られた。

 燐の首を絞めている見えない腕が押し戻される。

 燐の指がぴくりと動いた。肩を揺すって戒めから逃れ、木の幹を蹴って跳躍した。

 一直線に晴海を目指す。大きく後ろへ腕を引き勢いをつけた拳が、炸裂しようとするその刹那――。

 避けるかと思われた晴海が逆に、一歩、前へ踏み込んだ。

 障壁を張っているのが見えたが、仄の起した結界の中で効果はごく弱い。

 それでも、距離が詰まったことで、振り抜き切れなかった打撃は本来よりも威力を落としている。

 反作用で二人は互いに弾かれあった。

 晴海はもんどりうって倒れ、燐はかろうじて足から降りたものの、膝を折る。

 数瞬の間。

「……さすが、急ごしらえだぜ」

 苦しい呼吸をしながら、それでも燐は微かに笑った。

「逃げ場はかろうじて塞げてる。でも、力全部は殺し切れてねえってか。――なあ、おい」

 血の混じった唾を吐き捨て、よろよろと立ち上がる。

「どうする、晴海! やろうと思えばてめえは今、俺と殴り合える」

 力を身体能力に乗せろ。

 速度も、膂力も、互角以上に持っていけるはずだ。

 やり方がわからなけりゃ、俺の知識を、経験を、手を読め。

「――さっきみたいに、殺すつもりでかかって来い!!」

 びりびりと空気を震わせ、こだまする燐の咆哮。

 息をつめて慧たちは見守る。

 鼓膜がおかしくなってしまいそうな静寂。

 はあ、という音が聞こえた。

 晴海の呼吸だった。

 まるで、今生まれたばかりの赤子が、初めてこの世に刻んだ証のような、呼吸だった。

 ふらりと立ち上がった晴海は、二三度首を回した。

 す、とボクシング紛いのポーズをとる。

 慧の目で見てもぎこちなかったそれは、ある瞬間にぴしりと決まり、隙というものがなくなった。

 ぴん、と二人の間に不可視の糸が張られて――

 殴り合いが、始まった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ