第6章 燐光仄かに
『そっちへ行ってはだめ!』
頭に警告が響いた。
はっと気がつく。
慧はいつの間にか、堤防の手すりに腰掛けていた。
後に体重を預けて、湖へ身を投げ出そうとしていたのだ。
あわてて起き上がる。
ぐるりと回る空にめまいがした。ぎゅっと目をつむる。
『――飛べますか?』
声は続けて語りかけてきた。
『救急車は呼びました。そこにはいないほうがいいです』
確かにサイレンの音がする。
まだ遠いが、こちらを目指している。
ふっと息を吐いた、その反動で吸ってしまい、臭気に喉の焼け付きを覚える。
濃密に立ち込めている、血の匂い。
恐る恐る薄目を開ける。
涙ににじみ、焦点をぼかしているのに、それでも視界に飛び込んでくるのは累々と積み上がった赤黒い物体たちだった。
晴海の姿はすでにない。
惨劇の残骸だけが、死の気配を漂わせてそこにあった。
ぐっ、と喉が嫌な音を立てた。
胃からせりあがってきた物が口から零れ出た。
夕飯に食べたツナ缶の味がする。
油分が気持ち悪くて、また吐く。
いけない、と囁きの主が慌てる気配。
ちっ、と舌打ちする別の気配が重なった。
『これだから都会っ子は!』
苛立った声。
『いいから飛べよ、引っ張るから! そこにいたら邪魔だ』
怒号が脳髄を直接張り倒したようだった。
反射的に体が動く。どことも決めず、飛んだ。
確かに引っ張られる。
三回跳躍して、たどり着いたのは石畳の上。
どこかの境内だった。
神社、ではなく寺のようだ。
夜の闇に磨かれた木造りのお堂が不気味だった。
視覚は惑わされずに形そのものを捉えているだけなのに、やはりイメージというものは拭いきれない。
ひっくり返りそうになる胃の腑を無理やり落ち着けながら、袖で口元を拭う。
心の触手を伸ばして、辺りをそっと探ってみた。
物陰に誰かが、いる。ぴっと全身の毛が逆立つ。
慧が身構えるのを待っていたかのように人影が現れた。
すらりとした引き締まった脚をジーンズで包み、ポニーテールの黒髪、闇に光る猫科の瞳――。
「あ……」
小さく呻いてしまう。
「お久しぶり。私のこと覚えてる? アキラちゃん」
声は初対面のときの記憶そのままだが、微妙な棘がある。
不機嫌な顔で、口の端にだけ皮肉な笑いを浮かべている。
印象の違いに戸惑う。
が、そこにいるのは晴海たちのはとこ、門平リンに間違いがなかった。
どうしてここに。先ほどの声は。でも何で。
混乱して、何も訊くことが出来ない。
と、リンは腕を組んでふんぞり返った。
あごを上げ、慧を見下す。
「まーあ、ちょっと会わねえ間にずいぶんとやらかしてくれたよな。この落とし前どうつけてくれるんだよ」
がらりと変わる口調。静かだが凄みがある。
本当にこれはリンだろうか、と思う一方で、これが本当のリンなのだ、という確信もあった。
だって、何だかずっと自然なのだ。おじいさんの家で会ったときよりも。
あのとき嗅いだのと同じお香の匂いがしている。
血の匂いに汚された鼻腔が洗われるようだった。
「慧さんのせいじゃないでしょう」
「がっ」
急にリンが後ろへのけぞった。
気配なく現れた別の人物が、穏やかな物言いにそぐわぬ素早さで「ヒザかっくん」を食らわせたのだ。
リンの体をうまく避け、陰からするりと姿を見せる。
上体をちょっと横に傾げてこちらに声をかけてくる。
「ごめんなさい、連れが失礼なことを言いました」
あ、この声。最初に話しかけてきた人だ。
という直感に答えるように、にっこりと微笑んでくれた。
美人だった。リンとの血の繋がりが一目でわかる。
真っ直ぐで長い黒髪と、大きな黒目勝ちの目が印象的な、人形のような女の子。
白いワンピースがよく似合う。
背はリンの肩に届くくらい、年は慧と同じくらいに見えた。
どこからどう見ても、上品なお嬢様である。
しかし、「ヒザかっくん」をしたのも紛れもなくこの子だった。
そのギャップに少なからず面食らう。
「はじめまして。相馬ほのかです」
仄、という字が声に重なる。
「ゆっくりご挨拶したいけど、時間が無いんです。読んでください」
手紙でも用意されているのかと思ったら、ほのかは握手を求めるように手を差し出してきた。
恐る恐る触れる。
触れたところから流れ込んでくる、イメージ。
リンたち――燐と仄、そしてその【一族】――はいわゆる「妖怪」と呼ばれる種族だ。
妖怪、鬼、化物、祟り神――まあこの際呼び方は何でもよい。
つまりは異能力者の集団で、ずっとずっと昔から恐れられたり敬われたり、迫害されたり畏れられたり、孤立してみたり交わってみたり、立場を変えながら人の中で暮らしてきた。
起源はよくわかっていない。
しかしわからないながらも伝わっていることには、昔々人間が人間として生まれた頃のこと、空に大きな光が走り、以来この血が「目覚めた」のだという。
科学畑の【一族】は、それは大きな彗星だったのではないかと推測している。
彗星の核の中には地球に無いウィルスや微生物、遺伝子要素が封じ込められているという説がある。
それが地上に降り注ぎ、何らかの影響を与えたのではないかと。
――再び同じことは起こるかもしれない。
同じ彗星が長い長い時を経て回帰するか、あるいはまったく別の彗星が別の遺伝子要素をもたらすか。
予測は、しかし科学的な裏づけのある推測というよりは、むしろ予言や予感に近かった。
ずっとずっと一族の中で囁かれている、不安な未来予想図。
太古、人類がまだ生物の一種でしかなかった頃ならば、力の使い道はずっとシンプルだった。
「食うに困らぬだけの糧を得たい」「暑さ寒さに脅かされずに暮らしたい」「子供を生んで命を伝えたい」――。
しかしたとえそれだけであっても、力の行使は力なき者を押しのける結果となる。
【一族】の先祖は、必要以上に【一族】以外を押しのけることをよしとしなかった。
共存を望み自制をした。
――こちらがマイノリティであったから、逆に狩られて駆逐されかねないというリスクを鑑みてのことでもあったが。
それでも、バランスは、何とか保たれてきた。
しかし、もしも現代の世の中に力の源が降り注いだら――一体どうなるのか。
人類は、増えすぎた。多様になりすぎた。欲を持ちすぎた。
身に余る大きな力を急激に手にしたとき、往々にして人間というものは身を持ち崩す。
多くの人が崩れれば世もまた崩れ、世が崩れれば自分たちも生きてはいけない。
何より、そうして生まれた新人類は、旧人類をどう扱おうとするであろうか。
ヒエラルキーの頂点に立って、支配しようとするか。それとも滅ぼそうとするか。
衝突の危険性は高かった。
そしてそのとき、【一族】は「旧人類」の側なのだ。
多少不思議な力があるといっても、人の世に馴染み、暮らしてきた。
そして、引き替えに、純血の力は薄まっている。
備え無しには戦いきれない。
だから、ゆめゆめ、油断をするな。
力を鍛えろ。財を蓄えろ。世の仕組みの中枢を握れ。
親から子、子から孫へと、伝え伝えて――。
理解は出来たものの、大量の情報に処理が追いつかず頭が痛んだ。
ずきん、ずきんずきんと拍動に合わせて目の裏が赤く染まる。
それを察して、仄は手を離してくれた。
「……わかりましたか?」
しばらくの沈黙の後、慧はゆるゆると首を振った。
話はわかった。けれど、納得できない思いがあった。
「……どうして」
ようやく絞り出す声がかすれる。
「じゃあどうして、あの時止めてくれなかったの?」
リン――燐がおじいさんの家に来たとき、晴海はちゃんと言ったはずだ、「彗星を見に行く」と。
――ああそうか、「あんまり好きじゃない」は彗星にかかる言葉なのか、と唐突に腑に落ちる。
そんなに危険なものだと知っていたなら、もっとちゃんと止めてくれたら、こんなことにはならなかったのに。
いや、晴海だって燐の親戚であるなら、【一族】、なのではないのだろうか。それを。
「何で……ハルミ兄ちゃんは、……彗星を見るって……あんなに喜んで……」
「――あいつは知らなかったのさ。血が薄いから」
燐が答えた。はっきりとしゃべっているのにどこか歯切れが悪い。
「いや、薄さで言えば俺もどっこいだけど。門平がそもそも末端だから、本家分家で大した違いがある訳じゃない」
「……普通の人生を送ってる人たちもいるんです。【一族】と言ってもね。交わっていった先すべてを把握しているわけではないから」
仄が補足する。
「それでも、門平はそこそこ系図がわかる。力が強かったり、見所があるガキが生まれたら、呼び寄せて色々教え込むんだ。俺みたいにな」
ふう、と燐は息をつく。
「晴海は、なーんにもなかった。頭の出来もそこそこだし、体使わせてもトロくさい。星についてだけはハカセだったけど、その結果がこのザマだ」
おかげでとんだ貧乏くじだよ、と舌打ちをする。
そんな言い方って、ない。
慧はぎゅっとパジャマの裾をつかんだ。脳裏に、クラスでいじめられていた晴海の姿が浮かぶ。
そんな、そんなこと、親戚にまで言われたら、ハルミ兄ちゃんが可哀想すぎる――。
「愚痴るんじゃありません」
仄がぴしゃりとたしなめて慧の思いを代弁してくれた。
「慧さんの言う通り、止めなかったあなたが悪い。責任取らされてるだけでしょう。好んで引いた貧乏籤です」
ぐ、と燐がうめく。
「まあ仕方ないですか。昔からあなたは晴海さんに甘い。はしゃぐ様子に棹さすなんて出来ませんよね。大好きなんですものね」
「ば、バカ言ってんじゃねえ、気持ち悪い。俺は――」
「『男だぞ?』 だったらしゃきっと切り替えなさい。みっともない」
叱責は、細い鞭で叩くようだ。鋭い。
燐が声を荒げる。
「スカート穿かせて育てておいて、こういうときだけ男扱いすんじゃねえよ!」
「こういうときに冷静であるように異性装で鍛えてきたんでしょう。修行が足りないわ」
あしらう仄は、ごく落ち着いていた。どちらが年上かわからない。
――ん?
遅ればせながら、慧は会話の内容を咀嚼した。
「……おとこ?」
思わずまじまじと見つめてしまう。
と、すぐに「わかる」。
確かに男性だ。
細身だけれど、骨格や筋肉の発達が違う。
襟で隠されてはいるが、喉仏もある。
何故一目でわからなかったんだろうと不思議なくらいだ。
そう言えばさっきから、一人称が「俺」だ。そういう人もいるのかと聞き流していたけれど。
「――お前、今見たろ」
睨まれた。
「うん。――あ! ううん、違う、違うよ!」
そういう意味じゃない。慌てて手を振る。
「大事なところは見てないそうです。安心しなさい」
仄は冷静だった。
じっと慧を見るが、目線の焦点は慧よりも少し後ろにあった。
「なるほど。そういう感じなんですね」
「――何が、どういう感じだって?」
「慧さんたちの力。デジタル、というか、とても性能のいい機械を人間が使っている状態、といえばよいのかしら。今のところはまだ、人間として暮らしてきた常識の枠をなかなか超えられないし、世界と超感覚だけで繋がることはできない。受け皿のキャパシティを越えてますから。必要に応じて分析をしているんです」
その通りだった。
自分でもぼんやりとしか認識していないことを簡潔に指摘されて驚く。
仄がものを見る力、伝える力は、深く広くより細やかで、慧たちの付け焼刃とは異質なものであるようだった。
「まだ人間、ってとこか」
「そうです。――でも慣れてきたらどうなってしまうかはわからない」
仄には決して怖がらせるつもりなどないのだろう。
けれど、慧は冷たい水を浴びせられたように身震いした。
哭きながら、暴走族を何度も何度も地面に叩きつける晴海の姿が甦る。
あのまま晴海は――そしていつか自分も――。
身をすくめ肩を抱いた。
夜気に冷えているかと思ったが、熱かった。
微熱がまだ下がっていないのだ。体の奥で、また鈍痛がする。
変わっているのだろうか。
こうしている間にも、自分の細胞の一つ一つが変わり続けているのだろうか。
「……大丈夫です、よ」
仄が慧の傍らに立ち、肩にそっと手を置いた。
温かい。
冷たくなく、熱すぎもせず、やわらかく、あたたかい。
人間だ。人間の体温だ。
それだけで、ぽろぽろと涙がこぼれた。張り詰めていたものが緩んでいく。
「大丈夫。私たちがあなたを助けます。だから、私たちのことも助けて。あなたの力が必要なんです」
慎重に区切って、伝えられるその言葉たち。
安易に心を読んでしまうよりも、伝わってくる気持ち。
すべてを伝えるのではないからこそ、伝わるものがある。
「……はい……はい……」
ただ繰り返し、繰り返し、慧はうなずいていた。
うなずくたびにぽたぽたと零れ落ちる涙が、地面に染みを作った。




