第5章 春の湖、晴れの海
「どうしたの、アキラ!?」
声が窓の向こうに聞こえた。
そのときには慧はすでにベランダにいた。
物音を聞きつけて母が来る、と悟った瞬間に、体が勝手に移動していた。
距離も窓も一瞬ですり抜けて。
その勢いのまま手すりに手をかけ、ふわりと飛び越える。
向かいの家の屋根まで跳ぶ。足は瓦に触れる前に空を蹴り、さらに大きく跳ぶ。
跳んでいる途中で、ふっ、ふっと景色が途切れる。繋がらない。
細かい瞬間移動を繰り返しているのだ。
本当に、どこをどう走っているのか、わからなくなる。
道路まで降りたかと思えば、また塀に上り、屋根を越える。
ドブ川を飛び越えた。
知らない公園のジャングルジムも踏んだ気がする。
ただもう闇雲に逃げた。
逃げられないとわかっていても、逃げずにいられなかった。
昔よく見た夢を思い出す。
階段を五段飛ばしに駆け下りたり、校舎のベランダを伝って猿のように移動したり。
いつもいつも自分は何かから逃げていた。
根っこのところで怖がりな子供だった。
謎の組織や、幽霊や宇宙人や怪獣や、昼間興味津津で読みふけった話が、夜の隙間やふとした空想の中で思いがけぬ反撃を仕掛けてくるのだ。
電車に乗っていて突然大声で泣き出したことがある。
驚いた母がなだめすかし、ようやく聞き出した理由は、窓から見える月が怖い、だった。
いつまでもいつまでも同じ位置にいることに不意に気づいた、自分を追いかけてくるのだと。
お前はおかしな子だと言われた。
おかしな子だと、おかしな子だと、おかしな子だと。
また言われるのだろうか。
人間以外のものになってしまった自分は――。
やがてようやく息が切れて、慧は立ち止まった。
酸素の足りなくなった脳は程よくぼんやりと痛み、ループする思考も停止させてくれる。
ああ、肉体にはまだ限界があるのだ、とどこか嬉しく思う一方で、やはりこれは夢ではないのだと思い知らされもする。
腰から下の力が抜け、地べたに座り込んでしまった。
ひんやりと湿った土の感触。
しばらくは犬のようにはあはあと息を整える。
体の奥が重苦しかった。
下腹辺りが漬物石でも呑んだように鈍く痛む。
ちょっと、いきなり無理をしすぎただろうか。しばらく寝込んでいたものを。
ふう、と長く息を吐く。
――ここはいったいどこだろう。
やっと辺りを見回す余裕が出てきた。
舗装はされておらず、春の草が萌え出している。
落葉樹があちこちに生えているが、雑木林というにはまばらだ。
見覚えのある景色だった。
記憶を確かめるように、立って、歩き出す。
裸足でも寒くない。
土や草と接している感触は安らぎを与えてくれた。
いくらも行かないうちにフェンスにぶつかった。
笹や潅木が生えた斜面の奥に水面が見えた。
狭山湖だ。
特にここの遊歩道近辺は、遠足や写生会、お花見で何回か来たことがある。
ちらちらと伺える夜の湖は美しかった。
誘われるように、フェンスに沿って歩き出す。
もう少し行くと堤防の上の歩道に続く。そこからなら湖一面が見渡せるはずだ。
街灯もほとんどない遊歩道は暗かったけれど、今の慧には何の障害にもならなかった。
暗い、ということはわかる。
陽光の下で見える映像と違う、ということもわかる。
だが、見える。
暗視カメラのざらついた映像ではなく、不自然に照明が当たっているわけでもなく、また暗さに慣れたとか夜目が利くとかいう次元でもなくて、そのものをそのままに捉える識別能力だけが上がっている。
木がなくなり、空が開ける。
堤防に出た。
一迅の風が湖面を小さく波立たせ、慧の髪を揺らした。
春の夜のどこか埃っぽい匂いが、水の匂い、林の匂いと交じり合う。
堤防は長く長く、一キロほども続いている。
白いコンクリの道とその両端にでこぼこに埋まった石のシルエットが真っ直ぐに伸びていた。
歩きづらいそのでこぼこを踏み越えて、手すりに寄り、置いた手にやや体重をかけて湖上を見渡す。
三日月が沈むところだった。
丘陵に近づいた月の輪郭は、どこかにじんでいて、いつもの冴え冴えとした感じがなかった。
赤に近い濃い黄色がまるで傷口みたいだ。
薄雲が流れている。
その少し斜め上に、明るく光る星がある。
火星かな、とぼんやり思う。あまり瞬かないし、赤みがかっている。
意識を集中すると、火星だ、と「わかった」。
静かだと感じていたが、遠くに爆音が聞こえていた。
バイクが集団で走っている。
必要以上に響く排気音、クラクション。
この辺りは暴走族が多い。
いつもは布団の中で眠る直前に聞く音に、距離は遠くても遮るものなく接している。
同じ夜に在る。
慧は堤防を渡り始めた。
はっきりとした目的があったわけではない。
現実感も希薄だった。
先刻の疾走で何かが振り切れてしまったかのようだ。
その足がふと止まる。
気配を感じた次の瞬間、真正面に忽然と現れた姿。
晴海だった。
外灯が作る光の輪の中にたたずんでいる。
慧と同じようにパジャマに裸足という姿。
眼鏡はかけていない。必要がないからだろう。
二メートルほど離れて、対峙する。
慧の体に緊張が走る。
遠視で見た冷たい銀の眼光が否応なく思い出されて。
だが、直接見る晴海の瞳は、いつもと変わらぬ色だった。
落ち着いて暖かい鳶色だ。
焦茶の髪が、天使の輪のように光を反射する。
薄明るく縁取られる輪郭。
――よかった。
思考が流れ込んでくる。ボリュームを絞っても、堰き止められない心の動き。
――見つかった、心配した、怪我は無いみたい――。
泣きそうになった。
追いかけてくる月が怖いと泣いて、母に呆れられて、一人傷ついていた慧を慰めてくれたのは他ならぬ晴海だった。
彼の部屋で遊んでいても、壁に張られた月の写真を直視することが出来なくなってしまって、不自然に目をそむけていた。
どうしたの、と晴海が聞いた。
慧は迷った。またおかしな子だと言われたらどうしよう。
でも、打ち明けた。
晴海は笑わなかった。いいところに気がついたね、と言った。
広告の裏に絵まで描いて説明してくれた。
月がうんと遠くにあるから、人間の目にはずっと追いかけてくるように見えるのだと教えてくれた。
お日様だってずっと同じ場所にいるだろ? でも追いかけてくるなんて思わないだろ。
慧は首を振る。
確かに追いかけてくるなんて思わない、という意味でもあり、でも、という反論の意思表示でもあった。
でも、お日様は動くよ。夜になって沈むよ。月は――ずっとそこにあるのがこわい。
月だって動くんだよ。太陽と同じように、東から昇って西へ沈む。
慧はまだ小さいから、そんな風に月を見たことがないんだね。今度一緒に見てみよう。満月や三日月や半月や、みんな違ってて、それぞれに面白いんだから。
そして晴海は、月の写真の一点を指で指し示した。
この暗いところは「晴れの海」。繋がってるこっちは「静かの海」。
僕たちの名前はここからつけたんだって。
今度月が怖いと思ったら、それを思い出して。
月には僕と静香がいるんだから、きっと何にも怖いことなんて無いんだよ。
突然の轟音が回想をかき消す。
背後から当てられた鋭く強い光に、皮膚が縮んだ感触。
やっちまえ。
確かにそう聞こえた。
やっちまえ。撥ねちまえ。轢いちまえ。
暗い愉悦の囁きが低くうねっている。
蚊柱のように、ぶぅん、ぶぅん、とまとわりついて離れない。
思念の網に絡められて動けなくなる慧の腕が、誰かに強く引っぱられた。
晴海がつかんで、「跳んだ」のだ。
道の端に避けた二人のすぐ横を、数台のバイクがものすごいスピードで通り過ぎた。
一拍遅れて心臓が暴れた。冷や汗が噴き出す。
晴海が助けてくれなかったら轢かれていた。
バイクは少し先で急ブレーキをかけた。
車体をくねらせるように方向を変え、戻ってくる。
後からも数台のバイクがやってきた。
幅の狭い堤防の上で、挟まれる形になる。
誰一人ヘルメットなどかぶっていない。
脱色した茶色や金の髪、あるいは整髪料で立てた髪が並んでいる。
みな一様に目つきが悪かった。
その目が銀色に滲んで見える。
まさか、と冷水を浴びせられたように身が震えた。
この人たち、みんな――。
慧の予感を裏付けるように、ざわめきが明確な思念波となって叩き付けられてくる。
――なんだこいつらパジャマだぜ。――変なガキ。――頭おかしいんじゃねえか。――あそこの病院から抜け出してきたのかも。
だったら。
やっちまえよ。やっちまおうぜ。
轢くか。引きずり回すか。
いや、せっかくだ。
試してみよう。
持ち上げて、叩き付けて、へし折って、引き千切って。
オレたちが手に入れたこの力を――。
『――に、逃げよう、ハルミ兄ちゃん』
晴海のパジャマの袖をつかんだ自分の手が、小刻みに震えている。
思わず心で話してしまってから、相手にも聞かれる可能性に気がつき、ボリュームと指向性を絞った。
怖かった。
目の前にいる異質な生き物。
「異質」は、例の力のことではない。それを言うなら――不本意だが慧も晴海も似たようなものだ。
違うのは、精神の在り方。
たまたま出くわしただけの人間に、ここまで残虐な気持ちになれるものなのだろうか。
慧の方にはもちろんそれを向けられねばならない理由などない。
相手にだって向けるに十分な理由などないはずだ。
けれど彼らの想像の中で、慧たちは殴られ、蹴られ、ひき潰されて破壊されて、ぼろぼろになっている。
悲鳴を上げ、泣き喚いて、か細い声で許しを乞うても、どうしてやれば更なる絶望に叩き落せるのか、その算段に脳がくつくつと沸き立っている。
慧にはわからない。わかりたくもない。
逃げなくては。
だが晴海は動かない。
『なんでさ』
受けた言葉は軽く、しかしその思念の本質はずっしりと重たい。
『……こっちは轢かれかけたんだよ? わざとね。おぞましい想像だ、向けられてるだけで不愉快だ。慰謝料分ぐらいは思い知らせてやらなくちゃ』
噛んで含めるように紡ぐ言葉の奥に、またあの冷たい光がちろちろと揺らいでいる。
体温計の中の水銀のような、不思議な存在感。
『だいたい、毎晩うるさいんだよこいつら。こいつらのせいでここに観測に来られない。いい機会じゃないか、タイヤ全部パンクさせてやっても罰は当たらないよ』
しかし、晴海が頭の中でその力を使って傷つけているのは、バイクのタイヤなどではなかった。
引き裂いてぐちゃぐちゃに中身をさらけ出す、その対象は、明らかに人間に向けられていた。
「だめ! 駄目だよ!」
思わず声に出していた。それではこいつらとおんなじだ。
「――何が駄目だってぇ?」
バイクをふかす音の合間から、いやにだらしない発音の言葉が聞こえる。
――甲高い声。――女みてえだ。――まだガキだから? ――ガキだけど。――ガキだから。――いい声で鳴くんじゃねえか?
口々に声を張り上げ、意味のわからない笑いにどよめく。
ひたすらに不快だった。皮膚が粟立つ。同じ空気を吸っていると思うだけで死にたくなる。
いや、いっそ殺して――。
勝手に湧き出た言葉に身震いする。
違う。やっつけてやろうだなんて、そんな関わりすら持ちたくない。
逃げよう。瞬間移動で、晴海を無理やり引きずってでも――。
晴海の二の腕をつかんだ。
その手を弾くように、晴海の中から力が放たれた。
しゅ。狭い管を圧縮された空気が通り抜ける、そんな感触。
先頭にいた男がバイクの上から吹っ飛んだ。
後に重なっていた数人を薙ぎ払い、ともに地面に落ちる。
走り出そうとしたバイクは不自然に横に倒れ、ぎゅる……と鳴いた後止まった。
衝撃が集団の中に走る。
――なんだ? ――あれなのか? ――俺たちと同じ。
先ほどまでの余裕はどこかへ、全員が一斉にこちらを睨み付ける。
銀に光る瞳の群れ。
だが、何も起こらない。
『――何だ全然――』
晴海が笑った。
すっと立ち上がる。自らの姿を見せ付けるように。
「大したことないね」
傲然と言い放つ。まるで別人の物言い。
暴走族の連中は、確かにこちらへ力を向けている。
捩れろ、潰れろ、引き千切れろと。
それを晴海はたやすく封じている。
圧倒的な力の差があった。
晴海の体が、銀色の靄をまとって薄く光る。
暴走族たちが気圧される。
そのとき。
『――ヤギハラ!?』
バイクの後ろに乗っていた一人の少年が心の中で晴海の名を叫んだ。
八木原。確か下の名前はハルミ。女みたいな名前。
眼鏡をかけてて――今はかけてないけど――ひょろりと痩せている。猫背。生っちろい。茶髪は生まれつきだって。そうだよな、染める度胸なんてあるはずない。暗いやつ。友達のひとりもいない。
いじめられてる。
大して頭もよくない。テストの答案がさらされてた。英語二十点だって。『ハルミチャンお勉強しなくちゃねえ』ノートに落書き。『パルミチャン鍛えてやるよ』プロレスごっこでいつもやられ役。首を絞められてもチョップくらっても文句も言えない。やってるほうが下手くそで、相当苦しいはず。『オレたちが遊んでやらないとハルミチャン淋しいもんな』蹴り入れられて。なのにいつもへらへら笑っててバカみてえ。『オレたち友達だよな』パシリ。『ハルミチャンも彼女ほしいでしょ、ほら話しかけてこいよ』女子の集団の中へ突き飛ばされる。悲鳴。『ヤダァ』『汚イ』『気持チ悪イ』……。
イジメてるやつらは俺らから見たらてんで弱っちいのに、その更に下――下の下。
慧の脳裏にはっきりと、行ったことのない中学校の風景が浮かんだ。
教室の後ろの席で、やけに馴れ馴れしい数人の男子生徒に取り囲まれて、小突かれながら馬鹿にされている晴海の姿があった。
馬鹿にされてるのに、困ったように笑うだけで、何も言えない晴海の姿があった。
「――――――――ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
どんっ、という衝撃は、耳から入ったのか、それとも波動を体で感じたのか。
あまりの勢いに慧ですら認識が追いつかなかった。
ただ一瞬遅れて、人体が宙に吹っ飛ばされるのを視認した。
晴海をヤギハラと呼んだ少年。
だが、それだけでは済まなかった。
見えない凶器が暴れた。
バイクごと人間が薙ぎ倒される。重い物音。鈍い物音。空転する車輪。がりがりとコンクリの地面を引っかく音。何かが潰される音。悲鳴。うめき声。悲鳴。
何人かの人間と、バイク数台が宙に浮かび上がった。慧の頭よりも高いところで止まり、次の瞬間、地面に叩きつけられる!
ぐちゃ、と鈍い音が地面を伝わってきた。
別の人間――別の塊――が同じ目に合わされた。
あるいは同じ人間が、続けて数度、持ち上げられては落とされ、持ち上げられては落とされた。
「――――――――あああああああああああ――あああああああああ――――――!!」
悲鳴や破壊音の底で、ずっと響いている声があった。
晴海が泣いていた。
人間を破壊しながら、晴海が泣いていた。
「――――――――あああああああああああ――あああああああああ――――――!!」
慧の腕を振り切ったきり、もはやこちらを顧みることもなく。
虚空に吼える獣のように哭いていた。
慧の意識がふと遠くなる。物音が、離れていく。まるで水底にいるようだ。
もういやだ。もう何にも見たくない。聞きたくない。感じたくない。
水の中、で、このまま肺腑まで液体に満たされて、眠ってしまえたらどんなに楽だろう。
慧は目を閉じ、息を止めた。