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第3章 星降る夜

「アキラ」

 呼ばれて、目が覚めた。

 冷たい夜気が鼻をかすめる。

 後部座席のドアを開けて、晴海が覗き込んでいた。

「起きられる? 彗星、見えるよ」

「ほんと!?」

 慌てて天井に頭をぶつけそうになりながら跳ね起きて、靴を履く。

 外はすっかり真っ暗で、一瞬方向感覚がおかしくなる。

 晴海が、赤セロファンで減光した懐中電灯で足元を照らしてくれた。

「わ……」

 空を見て、驚いた。

 星だ。

 見たこともないようなたくさんの星が、空いっぱい瞬いている。目線の高さから、首をめぐらせて頭の真上まで、いっぱいに。

 闇は遠くに、星は近くに、見える。

 いや、やっぱり闇が近くて、星はその奥からきらきらと光を放っているのだろうか。

 明るい星は近く、小さい星も近く、そして遠く、ずっと遠く。

 圧倒的な情報量に――それとも逆に星と闇以外の情報がないせいか――距離感が狂う。

 耳が、聞こえなくなったような気がした。

 目も、本当に見えているのかわからなくなる。

 星だ。これが星なんだ。

「大丈夫?」

「……うん」

 晴海が手をとってくれた。握り返す。

 手袋越しに伝わる、晴海のぬくもり。しっかりとした力が、慧を支えた。

「すごいね。こんなの見たのぼく初めてだ」

 晴海はうなずいたようだった。

「スピカはわかる? その横に彗星がある」

 目の高さの空を差す指の先。

 スピカの見つけ方は、今までにも何度か教えてもらったことがあった。

 北斗七星を見つけ、そのひしゃくのカーブをずっと伸ばすと、うしかい座アークトゥルス、そしておとめ座のスピカにぶつかる。

 春の大曲線――。

 けれど今、そんな探し方をしなくても、見覚えの無い大きくて明るい光はすぐに目に飛び込んできた。

「あれ!」

「うん」

 その姿は本当に、写真で見て思い描いていた彗星の形そのものだった。

 でも実物は、ずっとずっとすごかった。

 大きい。

 頭の部分が、隣のスピカの五倍くらい大きく見える。

 周辺部分は少し光が淡く、わずかに青緑がかっているようにも見える。

 その部分まで含めたら、大きさは満月の半分ほどもありそうだった。

 そして、ほうき星と呼ばれる所以の尾が、右斜め上に向かって、長く伸びていた。

 見た目に十センチくらい、だろうか。 

「うん、十度はあるね。立派な尾だよ」

 晴海が握りこぶしの腕を前に突き出して、彗星と見比べている。

 尾は、スプレー噴射みたいに、少しずつ広がってだんだん薄くなっていく。

 薄くなったところでは、尾の向こう側に、夜の黒と、いくつかの小さい星が透けていた。

 じっと目を凝らすと、尾はどんどん薄くなりながらも、ずっと先まで消え残っているみたいに見えて、果てがわからなくなってくる。

「すごいね……」

 それ以外の言葉が出てこなかった。

「うん。来てよかった。予想より尾も伸びたし、明るくなったね」

 晴海もじっと空を見ている。

「あと一時間もしたら、もっと高いところまで上るから、もっと見やすくなるよ」

「上る? ……下に向かってるんじゃないの?」

 尾の形や方向は、地平線へ落ちていくみたいに見える。

「え? ああ。彗星は流れ星と違うからね。そういう風には動かない。尾の伸びる方向は変わらないまま、星の動きと同じように上ってくると思うよ」

「変なの」

 何だか想像がつかなくて、慧は首を傾げる。

「見てればわかるさ。ああ、でも、スピードが速いから、移動もするかもしれない。スピカのほうへ近づいて、それから通り過ぎていく……と思うよ」

「フクザツ」

 慧はさらに首を傾げる。

「だから、見てればわかるって。百聞は一見に如かず、っていうだろう。そのための天体観測なんだから」

 晴海は笑って、地面に敷いた青いシートを指し示した。クッションがいくつか積んである。

「ずっと立っててもいいけど首が疲れるよ。楽にしたら」

 慧は喜んで履いたばかりの靴を脱ぎ、ほとんど寝転がるようにクッションにもたれて、改めて空を仰いだ。



 一九八七年三月二十八日、二十二時を回った頃。



「すごいなあ、スピカにぶつかっちゃいそうだ」

 彗星は確かに晴海の予測通り、ぐんぐんと移動していた。

 少し目を離すとさっきと位置が違う。「だるまさん転んだ」みたいだな、と慧は思う。

「ね、ハルミ兄ちゃん」

 並んで腰を下ろしている晴海に話しかけた。

 が、返事がない。

 寝ちゃったのかな、と様子を伺うと、目は開いているようだった。

 ただどこか遠くを見ている。彗星とは違う方向を。

「――ああ、ごめん。何か言った?」

 慧の視線に気づき、晴海は顔を向けた。

「うん、スピカにぶつかっちゃいそうだねって。ハルミ兄ちゃんは何を見てたの?」

「……アルファードをね」

 指差す方向にぽつんとひとつ、赤っぽい星が見えた。

 彗星よりももっと右、西の方向。

「うみへび座のアルファ星――その星座の中で一番明るい星だよ」

 確かに見つけやすい。でも。

 ふと黙った慧の言わんとすることを汲み取って、晴海が続ける。

「うん、明るいっていっても二等星さ。スピカやアークトゥルス、レグルスと比べちゃうとちょっと暗い。ただ、周りはもっと暗い星ばかりだから、目立つんだ」

 静かな語り口だった。いつもの、星について話すときのテンションとは違う。

「だからアルファードってつけられたんだよ。アラビア語で『孤独なもの』って意味」

「……さびしいね」

「――さびしいかな」

 さびしいと思わせたのは、多分晴海の話し方だったのだと思う。

 自覚があるのかないのか、晴海はくすりと笑った。

「僕なんかは、かっこいいな、って思うけどね。何でかな、あれを見るとリンちゃんを連想するんだよ。でも前に一回そう言ったら、怒られちゃった」

「何で?」

「んー、ヒントは……あの星の色」

 言われてもう一度目を凝らす。

 赤、橙、暖色系。――あ、そうか。

「もしかして、お年寄りの星だから?」

「ピンポーン。アキラくんに二十ポイントが加算されます」

 クイズ番組の司会者のように晴海はおどけた。

「あとやっぱり、地味だって。『どうせならシリウスくらい言ってくれてもいいのに』ってさ」

 確かに彼女のきりりとした美しさは、冴えた冬空に輝くあの星にたとえても罰は当たらないかもしれない。

 むしろ、そう、確かにそちらの方が似合いそうだ。

「――リン……さん、も、星好きなの? 詳しいよね」

 ふと浮かんだ疑問をぶつける。

 晴海と話しているとうっかり忘れてしまうが、星の年齢が色でわかるとか、赤い星は年を取った巨星であるなどという知識は、クラスの子と話していてすぐに通じるようなことではない。

 シリウスという名前すら、すぐに出てくるかはあやしいものだ。

「好き、じゃないみたいだよ。詳しいけどね。まあリンちゃんは頭もいいから、何でもよく知ってるし」

 美人で運動も出来て頭もいい、しかも性格まで社交的で優しそうとは、漫画の主人公みたいだ。

「だから確かに、リンちゃんがアルファードは地味すぎるんだけどね」

 晴海はうつむき、こめかみをかく。

 そんな様子を見ていると、慧は湧き出てきた質問をぶつけずにはいられなくなった。

「――ね、ぼくは?」

「ん?」

「ぼくを星にたとえたら? 何だと思う?」

 晴海はちょっと目をしばたかせ、それから「うーん」と腕を組んだ。

「そうだなあ……やっぱりどっちかといえば青白い星のほうが……」

 そのとき、晴海のお父さんが晴海を呼んだ。

「おーい。ちょっとお茶入れてくれえ」

「あ、はーい。――ごめんねアキラ、後でゆっくり考える。春休みの宿題ってことで」

 言い置いて、晴海は手をついて立ち上がった。



「どう? 写真の調子は」

 水筒の蓋にお茶を注ぎながら、おじさんに声をかける晴海。

「それなりには……多分」

 三脚に固定したカメラを覗いたり、レンズの前を布で覆ったり取り払ったり、おじさんは空の撮影に余念が無い。

 シャッターは、学校行事に来る写真屋さんが使うようなコードの先についたやつだった。

「こればっかりは現像してみなきゃわからないからね」

「はい、お茶。一息入れて、あったまりなよ」

 テーブルに置いた蓋から立ち上る湯気が白い。

 闇に慣れた目ににじむ温かさだ。

「はい、アキラも」

「ありがとう」

 受け取って、ちょっと口をつける。

 魔法瓶水筒はすごい性能で、まだ淹れたてみたいに熱い。

 指先にじんわりと熱が広がり、凍えた鼻の先が温まる。

「……あれ」

 そのとき、晴海が小さくつぶやいた。

 同時に、周囲の人たちからもざわめきが上がる。

 何事だろう、と視線の先を追う。

 そこには、安里・堀田彗星があった。けれどそれは。

「……さっきより、明るい……?」

 明るさも大きさも、目に見えて増している。

「アウトバースト!」

「アウトバーストだ!」

 晴海とおじさんが同時に叫んだ。

 双眼鏡とカメラにそれぞれ飛びついて、追跡を始める。

「核が分裂したんだ! ひとつ……ううん、ふたつ……小さいのが見える」

「うわあ、うまく写れ、写ってくれえっ!」

 恐らくは興奮で、震える声。

 周りのざわめきは、もはやどよめきになっている。

「ほら、アキラ! アキラも見な!」

 引き寄せられ、双眼鏡を押し付けられた。

「すごいよ、こんな瞬間を見られるなんて滅多に無い」

 くっついた胸から、早鐘のような鼓動が伝わってくる。

 ――彗星の核は、汚れた雪玉みたいなものだ。

 だから、太陽からの風に吹かれた刺激など何かの拍子に分裂することがある。

 分裂したところから新しい水分や塵が噴き出して、太陽光を反射して光度が一気に増す。

 それがアウトバースト。

 早口でまくし立てられる説明をどこか遠くに聞きながら、慧は双眼鏡を覗く。

 円形の視野の中では、確かに、明るくなった彗星から噴き出すジェットのような光の流れと、まだ本体のそばにある比較的小さなかけらが一つだけ、見えた。


 死兆星。


 そんな言葉が不意によみがえってきて、背筋がぞくりとした。

 以前クラスで流行っていた漫画の中の設定だ。

 北斗七星のうちのひとつ、ひしゃくの柄の部分――確かミザール――には、寄り添うように輝く連星がある。

 アルコル。

 見えた者は死期が近い。言い伝えをなぞるように登場人物たちは死の運命から逃れられない。

 ――実際、この星が見えたら死ぬとか、見えなくなったら死ぬとか、そういう言い伝えは多いんだ。

 晴海が話してくれたことがある。天体写真に囲まれたあの六畳の半分の部屋で、回転する勉強椅子に腰かけ、揺らしながら。

 ――この連星は、古代には軍隊の視力検査に使われたんだって。二つ並んでいるのが見分けられたら目がいい証拠。目がいい人間は兵士として戦場へ行くわけだから、死ぬ確率は高かったかもしれない。

 ――だから、この設定もアリかもしれないね。

 何だかめまいがして、慧は双眼鏡を押しやって顔を背けた。

 気持ち悪い。

 本当のアルコルとミザールは、もちろん見たことがある。同じようにこの双眼鏡で。

 でもそのときにはこんな気分にはならなかった。ただ面白いと思っただけで、不吉な感じはしなかった。

 不吉。そう、これは不吉なものだ。

 ふらふらと晴海から離れたが、晴海はそんな慧の様子には気づかず、自分の番とばかりに双眼鏡を覗き込み、何かにとり憑かれたのように見入っている。

 魅入られている。

 肉眼で見る彗星は、いよいよ明るく大きく、尾も太く、空を覆うように伸びて、まるで夜の支配者だった。

 よく見ると、分かれて剥がれた小さな核の欠片から、尾がもう一本伸びている。

 二つ見える。いや、もう一本増えた……?

 かげろうみたいに揺らぐ。オーロラみたいに波打つ。

 九尾の狐の尻尾みたい。

 怖いのに、目がそらせない。

 焦点をどこに合わせたらいいかわからず、ただ呆然と慧は見上げている。

 その視界の縁、空の端っこで何かが動いた。

「流れ星だ」

 誰かが声を上げる。

「あ、また!」

「流星雨――」

「彗星の塵の影響か?」

 ざわめきに呼応するように、光の筋は次々に生まれ、地上に降り注ぐ。

 あるものは明るく光って瞬く間に消え、あるものは長く光の線を引いて、地上近くまで流れていく。

 彗星の尾の中から生まれるものもあれば、まったく外れた闇を横切るものもある。

 花火大会。

 慧はしびれた頭でぼんやりと思う。

 花火大会で、しだれ柳を初めて見た時。

 思ったんだ、何だか、でっかいシャンデリアみたいって。

 いつかテレビで見た海外の高級ホテルの、ロビーにある豪華な豪華なシャンデリアみたいって。

 でもこの流れ星はそれ以上だ。

 昔の王宮にならそんな灯りがあっただろうか。未来の都市にはこんな照明もあるのだろうか。

 否。

 これは、人の手になるものじゃない。

 人の世界のものじゃない。

 天国か、極楽か、とにかくまばゆい光の流れ。

 彗星の明るさは、いまや満月をしのぐほどで、狂喜して空を見上げる人々の表情までが見て取れた。

 すっぽりと天を覆う薄い青白いベール。

 地上に、人や車や望遠鏡の蒼い影が落ちている。

 幻想的な絵本の一頁、たとえば森の動物たちのお祭り。あるいは夢の中の景色。

 痺れた頭の奥に焼きついたように、その絵はいつまでもいつまでも慧の心に残った。

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