第2章 祭りの準備
一九八七年三月二十八日、土曜日。
おじいさんの家に着いたのは、四時ちょっと過ぎだった。
庭が広いので、車が余裕で止められる。
物干し竿や奥にある小さな畑、木造の引き戸の玄関を見た瞬間、「ああ、確かにここに来たことがあるな」と慧は実感した。
「お彼岸も過ぎたからなあ。これからはどんどん日が長くなるね」
おじさん――晴海のお父さん――が車から降りて、まだまだ明るい西の空を見る。
「それにしても、晴れてよかった。本当によかった」
うんうん、と独りうなずいている。
これで何度目だろう。
晴海の同行動と合わせたら百は超えているに違いない。
何しろ前日までは曇り曇り雨と悪天候が続き、ベランダでの予行演習も実行出来なかったのだ。
「ほう、よう来た、よう来たな」
「あ、おじいちゃん!」
静香の声に目をやると、おじいさんが縁側に出てきていた。
前に見たときとあまり印象が変わっていなかったから、すぐにわかった。
「ただいま、おじいさん」
「ご無沙汰してます」
次々と交わされる挨拶に乗り遅れまいと、慧も一生懸命声を上げた。
「こんにちは、お邪魔します」
「こんにちは。はぁ、いつもうちの孫たちが世話になって」
おじいさんはごま塩頭をゆっくりと下げた。
慧も頭を下げながら答えに困って、ああ、とも、いえ、ともはっきりしない呟きを口にした。
こんなときは「こちらこそ」と言えばいいのではないか、と思い至ったのは、家の中に通されて、火の入っていない掘りごたつを囲んで座ってからだった。
「はいはい、まあお茶でも飲んで、お煎餅も、ほら」
おじいさんより一回り小さいおばあさんが出してくれた菓子鉢には、慧の好きな海苔煎餅が入っていた。
「あら、いいわよおばあちゃん。もうすぐに晩ご飯じゃない」
「でもこれ、頂きもんだから。ほらほら美味しいんだよぉ」
おばさん――晴海のお母さん――とおばあさんのやりとりの板ばさみになっていると、晴海がひょいと手を伸ばして、海苔煎餅を二つ取った。
一つを慧の前に置いてくれる。
「ほら食べな、育ち盛り」
「そうだよ、育ち盛りだもんねえ、アキラちゃん? まあま、前来たときよりも随分大きくなって、見違えちゃったねえ」
そんなところを大げさに驚かれても、返答に困る。
「晴海と静香がいつもお世話になってますねえ。これからもよろしくしてやってくださいね」
「あ、いえ、こちらこそ」
今度はちゃんと言えた。
「もー、おじいちゃんもおばあちゃんも。世話してるのはあたし! あたしのほう!」
「こぉれ、静香。お前はまったく」
おばあちゃんは「お前」を「おめぇ」と発音した。慧に向かって頭を下げる。
「すみませんねえ。こんだ跳ねっ返りだけんど、腹ん中は悪くないんで」
「静香、おめ、裏じゃあアキラちゃんアキラちゃんてあんだけ……」
「ちょ、おじいちゃんてば!」
賑やかなことこの上ない。
慧の家は父方も母方も田舎が遠かったので、祖父母というものにあまり馴染みが無かった。
だから正直なところ、少しは緊張してもいたのだが、おじいさんとおばあさんはとっても優しくて、ほっとした。
お煎餅がおいしかった。
文字盤がセピア色の古い掛け時計が、ぽーん、ぽーんと五回、音を立てた。
「あれ、しまった。もう五時か」
おじさんが膝を打って、立ち上がる。
「支度しなきゃ。日没前にはあっちに着きたいからね」
「ちょっとあなた、ご飯はどうするのよ」
「おにぎりにして持ってくよ」
おばさんが鼻白む。
「何それ、せっかく用意してるのに」
「ほいほい、もうすぐ出来るからね。あとは詰めれば終わりだよ」
台所からおばあさんが顔を出して、とりなしてくれた。
「隆さん、星見に行くって言ってたから、お弁当だと思ってたさ」
「うわ、すみません、お義母さん」
おばあさんは、おじさんの趣味に寛大であるようだ。少なくともおばさんよりは。
それがかえって面白くないようで、おばさんは口をへの字にしてしまった。
「見頃は夜中なんでしょう。まったく、何だってそんなに早くから行きたがるのかしら」
「かしら」に置いたアクセントが、忌々しいと言わんばかり。
「早く行って場所を確保したいんだよ」
即答したのは晴海だった。
「明かりのあるうちにテントも張りたいし。それに、あんまり遅くに行ったら他の人にも迷惑だもん。さあこれからってところで車のライトが乗り入れて来たら、せっかく慣らした目が……」
「はいはい。まあどうでもいいわ」
おばさんはひらひらと手を振った。しっしっと追い払っているようにも見える。
そんな風にされても、晴海にはちっとも堪えた様子は無い。
「さ、アキラ、下着はここから着込んで行こう。奥の部屋がいいよ」
着替えて戻ってきたときには、お弁当一式が並んでいた。
唐揚げのいい匂いがしてお腹が鳴りそうになる。
温かいうちに食べたいな、とちょっと思った。
「気ぃつけてえな。山は暗いし、寒いけんの。風邪でも引いたら事じゃ」
おばあさんが水筒に紅茶を淹れてくれた。
魔法瓶になってて冷めないやつだ。
「砂糖もたっぷり入れてあっからな。襟巻き、持ってくかね。手袋は」
「あ、持ってきました」
「股引もあるが」
「ううん、それも大丈夫だから」
晴海が断ってくれる。
「静香は行かんのか」
おじいさんが聞くと、静香は歯をむき出した。
「行ーかないっ。ひょうきん族見るんだもん!」
そう言って、まだ日本昔ばなしすら始まってもいないのにテレビに向きあっている。
慧たちに向けた背中はあてつけめいていた。
そのとき。
「こんばんは」
カラカラという音とともに、よく通る声がした。
振り返ると、土間に女の子が立っていた。
カラカラは引き戸の音。
こんな入り方をするくらいだから、知り合いなのだろうが。
年のころは慧より少し上、晴海と同じ中学生か。
ポニーテールの黒髪、引き締まった体は、運動神経のよさそうな感じだった。
短めのスカートから伸びる足がすらりとまぶしい。
「あれ、リン、どしたね」
おばあさんが覗き込むように出迎えると、
「回覧」
リン、は、慧たちの町内会と見た目はあまり変わらない回覧板を渡してから、奥の居間|(つまりこちら側)をひょいと覗き込んだ。
少し静香に似ている、と思った。
髪質はまったく違うし、静香みたいに甘ったれでわがままな雰囲気はないけれど、アーモンド型というのだろうか、猫を思わせる目が、印象的で。
つまり、かなり美人の部類に入るのだった。
「こんにちは、やっぱりおばさん家の車だったんだ」
落ち着いた声の響きも優しい。
「あらー、リンちゃん、大きくなってぇ」
おばさんの言葉は、この一時間くらいのうちにおじいさんたちの影響を受けている。普段よりもちょっと「田舎の言葉」だ。
一方、リンの話し方は妙にきれいで、テレビドラマみたいだった。
「ほら静香、覚えてるでしょ? リンちゃんよ、本家の。穣おじさん――おじいちゃんのお兄さんの、孫。あんた小さい頃に遊んでもらったでしょう」
「こんばんは、静香ちゃん」
リンの挨拶に、静香は微かにびくっとした。
「あ、こ、こん……ばんは」
ん?
微かに感じる違和感。
静香にしては珍しく、何だか歯切れが悪い。
ややうつむいて視線をそらしている――。
「あれ」
そのとき、トイレに行っていた晴海が戻ってきた。
「リンちゃん? うわぁ、久しぶりだねえ!」
明るい声で挨拶する。静香とは全然違う反応だ。
「久しぶり。去年のお祭りから一年ぶりかな、晴海ちゃん。もしかして、また星見に行くの?」
相変わらずなのねえ、と軽く微笑む。
いかにも昔馴染みの雰囲気だ。
「うん。彗星をね、見に来た。今日は友達も一緒なんだ。――アキラアキラ」
晴海が紹介をしてくれる。
「門平リンちゃん。俺たちのはとこだよ。高畑慧、うちの近所の子で、幼馴染」
「前に話してたね。はじめまして」
「あ、は、はじめまして」
リンが軽く会釈すると、ふわり、と不思議な香りがした。
香水、とか、化粧品、ではない、匂い。
――そうだ、お線香の匂いにちょっと似てる。こっちはもっといい匂いだけど……。
「大変でしょ、晴海ちゃんの趣味に引っ張り込まれて」
「ちょ、引っ張り込んだって何だよ、人聞きの悪い。な・か・ま!」
「じゃあ、お仲間にされちゃって」
「それも何か納得いかない。やましい団体みたいだ」
「お仲間じゃあないの、わざわざあの辺に登って星見てる人、全部」
くすくすとリンは笑う。
軽く折った指を唇に当てるのが、妙にわざとらしく、けれど妙に様になっている。
「困ったお兄ちゃんよね。アキラさん、よろしく面倒見てあげてね」
「え、あ、うん」
名前に「さん」付けだなんて、急に大人扱いされたみたいでこそばゆかった。
目を合わせられて、どぎまぎしてしまう。
瞳がとても黒い。まつげが長い。
「ほぉら、リンちゃんだってやっぱりそう言うでしょう!」
おばさんが外野でやいやい言い始めた。
「聞いてちょうだいよ、この人たちったら、まったく困った天文バカでね、この間のお彼岸だって……」
始まった、と晴海がため息をついた。
こっそりと慧の服をひっぱり、早く出かけようと促す。
「じゃ、リンちゃん、俺たちこれで」
「行くのね、山に。――気をつけて。新月だからね」
噛んで含めるような物言い。
新月だから、真っ暗だから気をつけろってこと?
違う、何かもっと別の……何か秘密めいた響きがある気がする。
しかし晴海は、まったく普通の対応をした。
「だからちょうどいいんじゃないか。月は綺麗だけど時々明るすぎるしさ。――そうだ、リンちゃんも来ない? 晴れてるし、綺麗な尾が見えると思うよ」
「ありがとう。でもせっかくだけどやめとくわ。あんまり好きじゃないのよ」
あんまり好きじゃない。そこだけ声の調子が落ちた。
むしろ嫌っているように。
自分が切り捨てられたみたいで、どきりとする。
しかしリンは
「――寒いのが」
けろりとそう続けて、ふふっ、と笑った。
『観測広場』には、もうけっこうな人数が集まっていた。
山道を三十分余り走って、着いたときにはすでに日没が近く、空も山の稜線も赤く染まっている。
開けた車のドアから半身を乗り出し、その風の冷たさに驚いた。慌てて冬の上着を羽織る。
「ほら、あれが」
と晴海が指差す先には、なるほどコンテナみたいな私製観測所がぽこぽこと並んでいた。
こちらもみんな夕日に照らされ、オレンジジュース漬けみたいな色をしている。
光を鋭く跳ね返しているのは望遠鏡だろうか。
おじさんは周りの人と挨拶を交わしながら、方位磁石で確認している。
あっちこっち指差しながら話をした後戻ってきて、いそいそとテントを張りはじめた。
慧も折りたたみのテーブルや椅子を並べて手伝う。キャンプみたいだ。
晴海は三脚を立てて双眼鏡を設置している。
慧たちよりも遅れて到着する人たちもいて、だんだん宵闇が増していく中、期待にざわめく雰囲気が濃くなっていく。
お祭りの晩。
十五分もかからずに観測道具の設置を終えることができた。
薄暗く点けたライトを囲んで、お弁当を広げる。
しかし、知り合いの人がかわるがわる声をかけてくるものだから、ついにおじさんはおにぎりを持ったまま、何とかさんが買ったという新しい望遠鏡を見に行ってしまった。
なるほど、鉄砲玉だ。
「アキラ、唐揚げまだあるよ」
「でも、おじさんの分……」
「一個か二個残しとけば上等だよ。玉子焼きも食べちゃえ食べちゃえ」
晴海はさっさと玉子焼きをつまんだ。
いいのかな、と思いながらも、慧も唐揚げをもう一つもらってしまった。
おばあさんの唐揚げは、生姜と醤油が効いていておいしかった。
「車の中で少し寝ておくといいよ。彗星が見えたら起こしてあげる」
「……ハルミ兄ちゃんは?」
一人きりで車に置いておかれるのかとちょっと心配になる。
「僕もまだ車にいるから」
「そっか、なら」
ちょっと安心して、慧は車の後部座席に乗り込んだ。
晴海が毛布をくれる。
ずっと車に積んであるらしく、少し埃くさい気はしたが、温かかった。
靴を脱ぎ、横になる。
膝を曲げると、なんとか納まることが出来た。
リアウィンドウ越しに見上げた空はもう真っ黒で、西の空に近い端っこの方だけが、かろうじて濃い紫を帯びていた。
食べたばかりだし、そわそわして、眠れそうにない。
そう思っていたのに、昨日の夜も眠れなかったせいか体が温まってきたせいか、ふ、と意識が落ちて、慧の意識はいつの間にか沈んでいた。
気をつけて。
とその少女は言った。
あんまり好きじゃないの。
彗星って。