前編
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
図書室の幽霊
産まれた時から決まっていた婚約。両家の約束の婚約者。年齢の合う子供が産まれたらと先祖が残した盟約なのに。
放課後の図書室。閉館を告げるベルが鳴っても、キャサリンは一人、窓際の席で動けずにいました。
今日は、婚約者であるアーサーと、彼がずっと欲しがっていた万年筆を買いに行く約束の日。キャサリンは一ヶ月もお小遣いを貯め、今日という日を指折り数えて待っていたのです。
しかし、約束の三十分が過ぎ、一時間が過ぎ……。
ようやく扉を開けて入ってきたアーサーの制服は乱れ、その首筋には薄紅色のチョークの粉がついていました。美術室で、幼馴染の少女・リリーの手伝いをしていたのは明白でした。
「悪い、キャサリン。リリーがコンクールの準備でパニックになっていて。あいつ、俺がいないと何もできないからさ」
アーサーは悪びれる様子もなく、キャサリンの向かいに座ると、机に置かれたプレゼントの包みを無造作に指で弾きました。
「なんだ、これ。……ああ、プレゼント? 誰に?まぁ、今度でいいだろ、そんなの。それより腹減ったな。食堂に行こうぜ」
幼馴染という聖域
「……アーサー。リリーさんのところへ行くのは、これで今週四回目よ」
キャサリンが静かに告げると、アーサーは露骨に嫌な顔をしました。
「またそれかよ。キャサリン、君は侯爵家の令嬢なんだろ? 勉強もできるし、家柄もいい。リリーみたいな頼りない子を助けてやるくらいの余裕を持てよ。たかが三十分遅れたくらいで、いちいち嫉妬するなんて格好悪いぞ」
彼にとって、キャサリンの「忍耐」は、持てる者の義務であり、当然のサービスだと思い込んでいるようでした。彼がリリーに注ぐ優しさは、キャサリンが彼を信じて待ち続けるという「土台」があって初めて成り立つ、甘えきった特権だったのです。
「君は強いから、一人でも大丈夫だろ。でもリリーは違うんだ」
アーサーの口から出たその言葉は、十六歳のキャサリンの心を、鋭い彫刻刀で削り取るのに十分な鋭利さを持っていました。
偽物の王冠を捨てる
「……そう。そうね、アーサー」
キャサリンは、丁寧にリボンをかけたプレゼントの包みを、自分の鞄へと仕舞い込みました。
そして、学校の指定である婚約の証――左胸に着けた子爵家の家紋入りブローチを、ゆっくりと外しました。
「どうしたんだよ。食堂、行かないのか?」
「ええ。貴方とは行かないわ。……今、この瞬間を以て、貴方との婚約を白紙に戻します」
アーサーは一瞬、何を言われたのか理解できないように瞬きをしました。
「は? ……おい、本気か? お前の家(侯爵家)が、うちの父さんの事業を支援してるんだぞ。そんな勝手なこと……」
「父には、今朝既に手紙を出しました。『私の価値を理解せず、他人の時間を奪うことに痛みを感じない方に、我が家の資産を投じる価値はありません』と。父も、私の意見に賛成してくれるはずよ。だって、私は父の大事な、自慢の娘なんですもの」
誰もいない放課後
キャサリンは立ち上がり、椅子を音も立てずに引きました。
「アーサー。貴方はリリーさんが『自分がいなきゃダメだ』と言ってくれることで、自分のプライドを満たしているだけ。私を待たせて、彼女を優先する優越感に浸っていただけなのよ」
「待てよ、キャサリン! 悪かった、謝るから! 今から買い物に行こう、な?」
焦って手を伸ばすアーサーを、キャサリンは今まで見せたこともないような冷ややかな、蔑みの視線で射抜きました。
「遅いわ。……貴方の三十分は、私の十六年間の信頼を壊すのに十分な時間だった。これからは、貴方のことが大好きなリリーさんと、二人で破滅していく子爵家を守っていけばいいんじゃないかしら」
キャサリンは一度も振り返ることなく、図書室を後にしました。
夕暮れの廊下を歩く彼女の足取りは、驚くほど軽く、自由でした。
後ろでアーサーが叫ぶ声が聞こえましたが、それはもう、遠い異国の言葉のように、彼女の耳には届きませんでした。
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