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第九章 名前のない絆

春の風が街をなでるように吹いていた。


日向と美由紀は、週末の午後に喫茶店で待ち合わせていた。窓際の席に座ると、薄いカーテンがゆらりと揺れ、彼女の髪を軽く撫でた。


「最近、少し落ち着いた表情になったね」と日向が言った。


「そうかな」と美由紀は笑った。「自分の名前を口に出すようになったら、少し楽になったの」


それは冗談ではなく、本音だった。

“てつ”という名前を他人に呼ばれるとき、彼女の心はどこかざわついた。

けれど、“美由紀”という名前を、自分の声で、鏡に向かって発した夜から――

そのざわめきは、少しだけ遠ざかっていったのだ。


日向はその言葉を、黙って受け止めていた。


「僕ね、最近ずっと考えてた。名前とか、役割とか、そういうものに頼らずに、ただ君のそばにいたいって。

……でも、それってとても難しいことでもあるんだなって、思い知らされたよ」


「うん、難しい。でも、わたしも同じ。

自分の見せ方とか、期待に応えようとする気持ちに引っ張られると、すぐ不安になるの。

でも……それでも、やっぱり、日向くんの隣にいる“私”でいたいと思う」


言葉の端々には、まだ震えがあった。

けれど、それでも伝えたいと願う気持ちが、ふたりのあいだにひと筋の光を通す。


**


その夜、美由紀は日向の部屋で過ごしていた。


テレビの音は小さく、ソファの上には彼女の膝掛けと、二人分のマグカップ。

肩を寄せ合うように座ったふたりの間に、ふと沈黙が生まれた。


日向はゆっくりと口を開いた。


「……美由紀さん。君の過去のこと、もっと知りたいと思ってる。無理にじゃない。

でも、たとえば“てつ”だった頃のこと、悲しかったことも、嬉しかったことも、ちゃんと聞いておきたい」


美由紀は一瞬だけまばたきをし、そして、小さく笑った。


「そうだね……そろそろ、話してもいいのかもしれない」


彼女は、肩をすくめるようにして目を閉じた。

それは過去に戻るためではなく、いまの自分を守るためだった。


「“てつ”だった頃の私は……ずっと、“いないふり”をして生きてた気がする。

家族の前でも、職場でも、恋愛でも、“こうあるべき”を演じてばかりだった。

でも、たった一人で鏡の前に立ったとき、私は初めて、“美由紀”に会えた気がしたの」


その語りに、日向は深く頷いた。


「その人に、俺は出会えてよかったよ。今も、これからも」


彼女の目元に、ふっとにじんだ涙が光る。


「ありがとう……そう言ってくれて」


**


名前は、呼ばれることで形を持つ。

でも、ほんとうの絆は、名前のないところに宿るのかもしれない。


手を取り合ったふたりは、名前ではなく、互いの存在そのものを抱きしめるように、静かに夜を迎えていった。

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