第九章 名前のない絆
春の風が街をなでるように吹いていた。
日向と美由紀は、週末の午後に喫茶店で待ち合わせていた。窓際の席に座ると、薄いカーテンがゆらりと揺れ、彼女の髪を軽く撫でた。
「最近、少し落ち着いた表情になったね」と日向が言った。
「そうかな」と美由紀は笑った。「自分の名前を口に出すようになったら、少し楽になったの」
それは冗談ではなく、本音だった。
“てつ”という名前を他人に呼ばれるとき、彼女の心はどこかざわついた。
けれど、“美由紀”という名前を、自分の声で、鏡に向かって発した夜から――
そのざわめきは、少しだけ遠ざかっていったのだ。
日向はその言葉を、黙って受け止めていた。
「僕ね、最近ずっと考えてた。名前とか、役割とか、そういうものに頼らずに、ただ君のそばにいたいって。
……でも、それってとても難しいことでもあるんだなって、思い知らされたよ」
「うん、難しい。でも、わたしも同じ。
自分の見せ方とか、期待に応えようとする気持ちに引っ張られると、すぐ不安になるの。
でも……それでも、やっぱり、日向くんの隣にいる“私”でいたいと思う」
言葉の端々には、まだ震えがあった。
けれど、それでも伝えたいと願う気持ちが、ふたりのあいだにひと筋の光を通す。
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その夜、美由紀は日向の部屋で過ごしていた。
テレビの音は小さく、ソファの上には彼女の膝掛けと、二人分のマグカップ。
肩を寄せ合うように座ったふたりの間に、ふと沈黙が生まれた。
日向はゆっくりと口を開いた。
「……美由紀さん。君の過去のこと、もっと知りたいと思ってる。無理にじゃない。
でも、たとえば“てつ”だった頃のこと、悲しかったことも、嬉しかったことも、ちゃんと聞いておきたい」
美由紀は一瞬だけまばたきをし、そして、小さく笑った。
「そうだね……そろそろ、話してもいいのかもしれない」
彼女は、肩をすくめるようにして目を閉じた。
それは過去に戻るためではなく、いまの自分を守るためだった。
「“てつ”だった頃の私は……ずっと、“いないふり”をして生きてた気がする。
家族の前でも、職場でも、恋愛でも、“こうあるべき”を演じてばかりだった。
でも、たった一人で鏡の前に立ったとき、私は初めて、“美由紀”に会えた気がしたの」
その語りに、日向は深く頷いた。
「その人に、俺は出会えてよかったよ。今も、これからも」
彼女の目元に、ふっとにじんだ涙が光る。
「ありがとう……そう言ってくれて」
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名前は、呼ばれることで形を持つ。
でも、ほんとうの絆は、名前のないところに宿るのかもしれない。
手を取り合ったふたりは、名前ではなく、互いの存在そのものを抱きしめるように、静かに夜を迎えていった。