第八章 揺らぎのなかで
春の気配が少しずつ街の色を変えはじめていた。
コートの重さに違和感を覚え、マフラーを外して歩く人が増え始めた頃、美由紀はふと、自分の内側にも似たような「変化」が起きていることに気づきはじめていた。
ある日の夜、美由紀は久しぶりにスマートフォンのフォルダを開いた。
そこには、まだ“てつ”だった頃の写真が少しだけ残されていた。
短髪で、ネクタイを締めて、真面目な顔をして写る自分。
その写真を見て、強い違和感があるわけではなかった。
けれど、もう“この姿に戻る”ことはないという確信も、そこにあった。
「あなたは、いま、どこにいるの?」
画面の中の“自分”に問いかける。
答えはない。
ただ、思い出のなかの何かが、確かに静かに遠ざかっていくのを感じていた。
**
「ねえ、美由紀さん……もし僕が、少しだけ不安になる日があったら、どうする?」
日向は、まっすぐに美由紀の目を見てそう言った。
「不安って、どういう?」
「……たとえば。君が他の誰かに名前を呼ばれて、嬉しそうに笑ってる姿を見たら。そんなとき、僕は……自分が“男として”じゃなく、“ただの理解者”に戻ってしまうような気がして」
美由紀は驚いたように目を見開いた。
「……そんなふうに思ってたの?」
「うん。勝手だよね。わかってる。でも、たまに自分が何者でいたいのか、わからなくなる」
その言葉は、美由紀にとっても他人事ではなかった。
彼女だって、“恋人”と呼ばれる自分と、“美由紀”として在る自分のあいだで揺れていた。
**
「ねえ、私もね……すごく怖いときがあるの」
「この関係が、“私が女の子らしい”から続いてるんじゃないかって思うことがある。
もし私が、“てつ”に少しでも戻ったように見えたら、日向くんが離れていくんじゃないかって――」
日向は静かに首を振った。
「そんなこと、ないよ。
俺が惹かれてるのは、美由紀さんの“生き方”であって、性別の記号じゃない。
……けど、その言葉を言い切るのにも、正直勇気がいるんだ。自分に嘘がないか、毎日自問してる」
ふたりはしばらく黙って、同じ方向を見つめていた。
揺らぎは、関係が深まるほどに大きくなる。
でも、それはきっと、誰もが乗り越えていくものなのだ。
その夜、美由紀は鏡の前に立ち、
自分の名前を、小さく口に出した。
「……美由紀」
その響きが、部屋の空気に溶けていく。
そして彼女は、ゆっくりと微笑んだ。
**
ひとりで自分を呼べるようになったとき、
人はようやく、誰かの隣にいることを選べるのかもしれない――。