第七章 いま、ふたりの距離
年末が近づくと街の色はざわめきで満ち、誰もがなにかを締めくくろうとするように、足早に歩いていた。
日向と美由紀も、何度目かの食事を終えた帰り道。
駅までの坂道を並んで歩きながら、どちらともなく沈黙が続いていた。
ときおり吹く風が、マフラーの端を揺らし、美由紀の頬に当たる。
寒さは確かに身にしみるはずなのに、今はそれよりも胸の内のほうが落ち着かない。
「……あのね」
先に口を開いたのは日向だった。
けれど、そのあとの言葉がなかなか出てこない。
美由紀は足を止めて、そっと彼の横顔を見つめた。
「……言って。大丈夫だから」
日向は小さく頷いたあと、静かに言った。
「……もしも、俺が“普通の恋愛”を期待してたとしたら、それって、美由紀さんを傷つける?」
美由紀の心臓が一拍、強く跳ねた。
「“普通”って、たぶん、人それぞれ違うよね。
でも、もし……女の子としての私を“演じてるだけ”って見られるとしたら、たぶん、私はその人とはもう関われない」
そう言いながら、自分の声が震えているのがわかった。
期待していなかったわけではない。
でも――怖かった。
日向はポケットの中で手をぎゅっと握りしめたまま、ふっと目を伏せた。
「違うんだ。俺は……“女性だから好きになる”んじゃなくて、“美由紀さんだから好きになってる”って、今は思ってる」
その一言に、美由紀はようやく呼吸を吐き出した。
喉の奥に引っかかっていた不安が、少しだけほどけていく。
「……ありがとう」
そう答えた声は、風の音に消えてしまいそうなほど小さかったけれど、ちゃんと届いていた。
**
年が明けてからのある晩、美由紀は久しぶりに“てつ”の名義で参加する仕事の会合に出席した。
スーツを着て、髪を後ろにまとめて、何もかも“男性のふり”をして過ごす数時間。
同僚たちは何も気づかない。
あるいは、気づいていても何も言わない。
どちらにせよ、その場に“美由紀”はいなかった。
帰宅して、コートを脱いだ瞬間――
美由紀は大きく呼吸をした。
鏡の前でゆっくりとウィッグをかぶり直し、紅を引く。
ふたつの現実は、まだ交差している。
でも、それでも彼女は、“いまのわたし”を選び続けていた。
それは、誰かの期待に応えるためではなく、
そして、“愛されるための努力”でもなく、
ただ、自分が生きたい姿で在ることを許すためだった。
そして、その隣に、日向がいてくれたら――
少しずつ、それだけでいいのだと、思えるようになっていた。