表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/14

第六章 ふたつの現実

「……でも、美由紀さんって、“ずっとこのまま”でいたいと思ったりする?」


夕暮れどきの公園。

紅く染まる空の下、ベンチに並んで座る美由紀と日向。

どちらからともなく始まった会話は、気がつけば少し深い場所へと進んでいた。


「“このまま”って、どういう意味?」


「たとえば、美由紀として生きることとか……“てつ”としての生活に戻ることは、ないのかなって」


その問いに、美由紀は一瞬だけ視線を落とした。

目の前の夕陽が、まるでその答えを急かしているようにも感じた。


「……“戻る”って言葉、すこし違和感があるの。たしかに私は“てつ”だった。でも、“てつ”がいなければ、“美由紀”にもなれなかったから」


「どっちが“本当”ってことじゃなくて、どちらも私の中にあるの。今は、美由紀として在る時間が心地いい。それだけ」


その答えを聞いて、日向は小さく息をついた。

そして、自分の手のひらをじっと見つめながら口を開いた。


「僕ね、たぶん、どこかで“男としての過去”に抵抗を感じてた。だけど、それは勝手だったんだって、最近やっと思えるようになってきた」


「美由紀さんがどんな姿であっても、そこにある“思い”は変わらない。たぶん、僕が知りたいのは、どんなふうに生きてきたかよりも――どんなふうに“今”を感じてるのかってこと」


美由紀はその言葉に、心の奥底がじんわりと温まるのを感じていた。


「……ありがとう。そんなふうに思ってくれる人が、私のそばにいること。すごく、嬉しい」


ふたりは目を合わせて、ゆっくりと笑った。

その瞬間、名前ではない“呼び声”が、たしかにふたりのあいだに流れていた。


**


けれど、ふたつの現実は、日常のなかで少しずつ重さを増してくる。


「それ、本名ですか?」

新しい職場での面接官の一言に、美由紀の心は微かに揺れた。


保険証の名前、通帳の名前、過去の学歴、そして履歴書。

日常のあらゆる場面に、「てつ」はまだ残っている。


「美由紀」としての生活は、心を整えてくれるけれど――

「てつ」としての社会の足跡が、彼女の背後から離れてくれない。


**


その夜、カフェ・オルフェで恵梨香とふたりきりになると、美由紀は小さく吐息をついた。


「……なんか、現実って二重にあるみたい。外では“てつ”のままのことも多くて、でも私は“美由紀”でいたくて」


恵梨香は静かに紅茶を差し出しながら、ぽつりと言った。


「二重じゃなくて、重なってるんじゃない? どっちかを否定しなくていいのよ。ふたつの現実のあいだで、自分らしく居られる場所を見つけていくことが、“本当の現実”になるんだから」


その言葉は、少しだけ重くて、でも芯があった。


美由紀はカップを両手で包みながら、少し目を閉じた。

このぬくもりのように、自分の中にあるふたつの現実を、少しずつ抱きしめていこうと、思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ