第六章 ふたつの現実
「……でも、美由紀さんって、“ずっとこのまま”でいたいと思ったりする?」
夕暮れどきの公園。
紅く染まる空の下、ベンチに並んで座る美由紀と日向。
どちらからともなく始まった会話は、気がつけば少し深い場所へと進んでいた。
「“このまま”って、どういう意味?」
「たとえば、美由紀として生きることとか……“てつ”としての生活に戻ることは、ないのかなって」
その問いに、美由紀は一瞬だけ視線を落とした。
目の前の夕陽が、まるでその答えを急かしているようにも感じた。
「……“戻る”って言葉、すこし違和感があるの。たしかに私は“てつ”だった。でも、“てつ”がいなければ、“美由紀”にもなれなかったから」
「どっちが“本当”ってことじゃなくて、どちらも私の中にあるの。今は、美由紀として在る時間が心地いい。それだけ」
その答えを聞いて、日向は小さく息をついた。
そして、自分の手のひらをじっと見つめながら口を開いた。
「僕ね、たぶん、どこかで“男としての過去”に抵抗を感じてた。だけど、それは勝手だったんだって、最近やっと思えるようになってきた」
「美由紀さんがどんな姿であっても、そこにある“思い”は変わらない。たぶん、僕が知りたいのは、どんなふうに生きてきたかよりも――どんなふうに“今”を感じてるのかってこと」
美由紀はその言葉に、心の奥底がじんわりと温まるのを感じていた。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれる人が、私のそばにいること。すごく、嬉しい」
ふたりは目を合わせて、ゆっくりと笑った。
その瞬間、名前ではない“呼び声”が、たしかにふたりのあいだに流れていた。
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けれど、ふたつの現実は、日常のなかで少しずつ重さを増してくる。
「それ、本名ですか?」
新しい職場での面接官の一言に、美由紀の心は微かに揺れた。
保険証の名前、通帳の名前、過去の学歴、そして履歴書。
日常のあらゆる場面に、「てつ」はまだ残っている。
「美由紀」としての生活は、心を整えてくれるけれど――
「てつ」としての社会の足跡が、彼女の背後から離れてくれない。
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その夜、カフェ・オルフェで恵梨香とふたりきりになると、美由紀は小さく吐息をついた。
「……なんか、現実って二重にあるみたい。外では“てつ”のままのことも多くて、でも私は“美由紀”でいたくて」
恵梨香は静かに紅茶を差し出しながら、ぽつりと言った。
「二重じゃなくて、重なってるんじゃない? どっちかを否定しなくていいのよ。ふたつの現実のあいだで、自分らしく居られる場所を見つけていくことが、“本当の現実”になるんだから」
その言葉は、少しだけ重くて、でも芯があった。
美由紀はカップを両手で包みながら、少し目を閉じた。
このぬくもりのように、自分の中にあるふたつの現実を、少しずつ抱きしめていこうと、思った。