第五章 名前を呼ぶ声
美術館の白いロビーは、まるで音が吸い込まれていくような静けさに包まれていた。
照明はやわらかく、ガラス越しに差し込む冬の光が二人の足元に淡い影を落としている。
美由紀は、日向と正面から向き合っていた。
ほんの一瞬、かつてカフェで初めて会ったときのことが頭をよぎる。
でも、もうあのときとは違う。
自分も、彼も、いくつかの沈黙と痛みを越えてここにいる。
「ありがとう、来てくれて」
その一言に、日向はかすかに頷いた。
「美由紀さんって、すごくちゃんとしてる人なんですね」
唐突な言葉に、美由紀は少し驚いた。
「ちゃんとしてる……? 私が?」
「うん。逃げないし、自分の言葉を持ってる。でも……無理してるように見えるときもある」
その言葉は、不思議と痛くなかった。
どこかやさしい温度で、心の中にすっと染みこんでくる。
「美由紀って、呼んでもいいですか?」
一瞬、言葉がつまった。
それは、まぎれもなく“名前”だった。
彼女が自分で選び、幾度となく迷いながらも、大切に抱いてきた名前。
「……うん。呼んでほしい」
日向はふっと笑った。
その表情は、どこか照れくさそうで、それでいて真っ直ぐだった。
「美由紀」
その響きは、誰よりも自然で、誰よりもやさしく、そして――
“美由紀”としての存在をまるごと肯定してくれるような重みがあった。
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それから、ふたりは少しずつまた会うようになった。
特別な関係ではない。でも、特別でないとも言えない。
恋人という言葉にはまだ遠い。
けれど、“ともに過ごしたい”という気持ちは、たしかにそこにあった。
ある日、美由紀は思い切って日向に尋ねた。
「私のこと、好きになれるって……思う?」
沈黙。数秒。
でも、すぐに返事を期待していたわけじゃなかった。
「わからない。でも――好きになりたいって、思ってる自分がいるのは、ほんとです」
その言葉で、胸がぎゅっと締めつけられるようになった。
痛みと、喜びと、そしてほのかな希望。
答えはすぐには出なくていい。
揺れながら、迷いながら、でも目をそらさずに――
今はただ、名前を呼ばれたときのあの感触を、美由紀は心に刻んでいた。