第三章 伝えるということ
「美由紀さんって、他人に隠し事、苦手そう」
そう言った日向の言葉は、冗談まじりの声色だったけれど、美由紀の胸に小さな棘を残した。
その日も、ふたりはカフェ・オルフェで向かい合っていた。
新しいメニューの紅茶をすすめてくる日向は相変わらず飾らなくて、心地よく、そして――怖かった。
(私は、彼に嘘をついている……)
それは意図的な「嘘」ではない。
けれど「美由紀」として向き合っている今の自分は、“ある部分”をあえて隠している。
彼はきっと、私のことを“女性”として見ている。
服や仕草、声、雰囲気、そのすべてが彼のなかの「女性像」と一致しているのだろう。
でも、私の身体は“そうではない”。
(このままじゃ、いずれ限界がくる)
真実を伝えなければ、私たちはどこにも進めない。
けれど――伝えた瞬間に、すべてが壊れてしまうのではないかという恐れが、
足首に絡みついた鎖のように、彼女を引き留めていた。
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その夜、美由紀は鏡の前に立った。
メイクを落とし、ウィッグを外し、鏡に映った「てつ」の面影を見つめる。
(私は、どこからどこまでが“わたし”なんだろう?)
「男の身体を持って生まれたけど、女の子の服を着ていたい」
「恋をするのは、相手の性別じゃなくて、その人自身に」
「でも、社会の中では“男”として見られることも、“女”としても、どこかズレてる」
そんな断片を抱えたまま、美由紀はずっと歩いてきた。
自分を形づくるものすべてが、誰かの枠組みから少しずつはみ出している。
(だけど私は、私を選び続けてきた)
そして今、誰かに“ちゃんと見てほしい”と願っている。
――だからこそ、伝えなければならない。
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次に会う約束は、週末の夕方だった。
場所はあえてカフェではなく、公園にした。
風が少し冷たくなり始めた秋の入り口。
オレンジ色の光が差し込むベンチで、美由紀は震える声で切り出した。
「日向くん、話したいことがあるの」
日向は驚いたように彼女を見つめた。
美由紀は視線を落としながら、言葉を選ぶように続ける。
「私、ね……いま、美由紀として生きてる。でも、戸籍は男性で、生まれたときも……身体も、そうなの」
その一言に、風が止まったような静寂が訪れた。
日向は何も言わなかった。ただ、じっと美由紀を見ていた。
「怖かった。言ったら、もう会ってくれないんじゃないかって……でも、もう隠していたくなかったの」
言い終えた瞬間、美由紀の視界はぼやけていた。
涙だった。抑えていたものが、ついに溢れ出したのだ。
けれど日向は――何も言わず、そのままそっと、彼女の隣に腰を下ろした。
言葉よりも先に、その沈黙が、何かを伝えようとしている気がした。
そして、彼は小さく呟いた。
「……言ってくれて、ありがとう」
それが、始まりだった。