第二章 揺れる距離感
美由紀は、その日からしばらくのあいだ、日向のことを考えていた。
名前だけでなく、声の調子や、目を伏せる仕草までも。
そのどれもが、まだ何も知らないまっさらな好奇心でこちらに向けられていた。
日向から連絡先を聞かれたとき、美由紀はほんの少し躊躇して、それでも交換に応じた。
彼はどこまでも礼儀正しく、それ以上を求めるそぶりはなかった。
二人は何度かメッセージを交わし、ごく自然な流れで次の土曜、またあのカフェで会う約束をした。
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「今日の服、かわいいですね」
二度目のカフェで、開口一番にそう言った日向の言葉に、美由紀は思わず目を逸らした。
ワンピース。白のカーディガン。
頑張りすぎない、けれど女の子として“見られる”ことを意識したコーディネート。
鏡の前で何度も迷った末の姿だった。
「……ありがとう。でも、ちょっと恥ずかしいな」
「どうして? とっても似合ってますよ」
その声に、なぜか心がざわついた。
「似合ってる」という言葉にこめられた意味を、美由紀は測りかねていた。
(私の“見た目”が? “女の子らしさ”が? それとも、“美由紀”として……?)
日向は、自分が“男”であることを知らない。
戸籍も、身体も、生まれたときに与えられた性も。
美由紀はそれを隠している。否、語る準備がまだできていない。
けれど同時に、彼との距離が縮まることを望んでいる自分がいる。
(もし、全部を話したら、彼はどう思うんだろう……?)
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数日後、メッセージのやりとりの中で、日向が唐突にこう尋ねてきた。
「美由紀さんって、“自分らしさ”ってどうやって見つけましたか?」
画面の文字を見つめながら、美由紀の指は一瞬止まった。
その問いはまるで、自分の核心を刺すようで。
(“自分らしさ”……それを探して、私はここまで来たんだ)
「探してる途中かな。でも、“演じる”ことと、“わたしである”ことが、必ずしも矛盾しないんだって、少し前に気づいたの」
送信ボタンを押すと、日向からすぐに返事がきた。
「すごく、わかる気がします。美由紀さんって、そういう言葉を自然に持ってるんですね」
その返信を見つめながら、美由紀は息をひとつ、ゆっくり吐いた。
このままでいていいのか。
それとも――。
胸の奥で、遠く微かな揺れが、波紋のように広がっていた。