最終章 わたしであること
春が満ちていた。
通りの桜はすっかり葉桜になり、新緑が町に若さと生命力を運び込んでいる。
新しい暮らしが始まるこの季節に、美由紀はまた、ひとつ小さな決意をした。
「これで、いいんだよね」
日向と手をつなぎながら、小さなアパートの階段を上がっていく。
二人で暮らす新しい部屋。まだ段ボールだらけで、家具も揃っていない。
でもその空間には、確かな温もりがあった。
引っ越し祝いのティーカップを出して、ふたりで並んで座る。
日向がぽつりと言った。
「不思議だよね。君と初めて出会ったとき、まさかこんな未来が待ってるなんて思わなかった」
「うん……私も、自分がこんなふうに“ちゃんとわたし”として愛される日が来るなんて、信じられなかった」
ふたりはそっと見つめ合い、微笑んだ。
**
夜、ひとりで鏡の前に座る。
光を落とした部屋のなかで、美由紀はじっと自分を見つめた。
何度もそうしてきた。
“てつ”の頃から、女の子のふりをしていた時期も、
名前を探して彷徨っていた時期も、
この鏡の前だけは、自分に嘘をつけなかった。
でも、今は違う。
この鏡のなかにいるのは、誰かの期待に応えるためでも、社会の「ふつう」に当てはまるためでもない。
――ただ、美由紀という“わたし”。
過去も傷も全部、自分の中にあるままで、
それでも今、確かに生きている“わたし”。
彼女は小さく、けれどしっかりとうなずいた。
「わたしは、わたしであることを、選び続けていきたい」
そう声に出して、自分自身に伝えた。
それは宣言ではなく、静かな祈りのようだった。
**
朝。
光のなかで、美由紀は目を覚ました。
胸元のネックレスが、やわらかく肌に触れている。
そばには、日向。
まだ眠っている彼の寝息に、彼女はそっと微笑んだ。
過去の自分と、今の自分が、やっとひとつになった気がする。
傷ついても、迷っても、それでも“自分”を肯定し続けるということ。
それは決して簡単なことじゃない。
けれど彼女はもう、自分を「許せる」人間になれていた。
春の光のなか、美由紀は静かに目を閉じた。
その顔には、何ひとつ飾らない穏やかな安らぎがあった。
⸻
〈完〉