第十三章 春の余白に
四月の風は、どこか他人行儀だ。
あたたかくなった陽気に誘われて、街の風景は一気に色づく。
それでも美由紀の中には、ふとした静けさが訪れる瞬間があった。
仕事の帰り道、公園のベンチに腰かけていると、ふいに誰かの声が耳に届いた。
「……美由紀さん?」
声の主は、大学時代の友人だった。
まだ“てつ”だった頃、互いに言葉を選びながら付き合っていた、あの時間の名残を引きずっている人。
「久しぶり……だね」
美由紀は、ゆっくりと立ち上がり、微笑んだ。
「変わったね。綺麗になった、って言っていいのかな」
「ありがとう。でも、いまは“変わった”より、“戻った”って感じてるの」
その答えに、彼は戸惑いながらも頷いた。
「……正直、戸惑ってる自分がいる。でも、美由紀さんがちゃんと笑ってるなら、それだけでいいのかもしれない」
そう言って彼は、手を振って去っていった。
春の空はやわらかく、すべてを包むように広がっていた。
**
その夜、日向の隣で横たわりながら、美由紀は黙っていた。
目を閉じているわけでも、眠っているわけでもない。
ただ、少しだけ時間を止めてみたかった。
日向は彼女の指先にそっと触れ、囁くように言った。
「……今日、何かあった?」
「うん、ちょっとだけ、昔の自分に会った気がしたの」
「怖かった?」
「ううん。むしろ、ちゃんと距離をとって話せたことが、嬉しかった。
たぶんあの頃の“てつ”が、ようやく、わたしの中で安らいでくれた気がする」
彼の指が、そっと彼女の髪を撫でた。
「そうか……じゃあ今夜は、ちゃんと眠れるね」
「うん、たぶん」
ふたりの間に灯る、小さな沈黙。
その静けさのなかに、互いの鼓動がやわらかく混ざっていく。
**
春の余白は、不安と希望のあいだにある。
けれどその「空白」を、どんな言葉で埋めるかは、誰のものでもなく、美由紀のものだった。
翌朝。
鏡の前に立った美由紀は、自分の表情が以前よりもずっと穏やかになっていることに気づいた。
心のどこかにずっとあった「名前を持つことの重さ」が、いまは羽のように軽くなっていた。
「わたしは、わたしになれたんだな……」
その呟きは、やさしく春の光に溶けていった。